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婚約破棄された公爵令嬢は、無能扱いの第二王子の政務を支えることになりました ~捨てた第一王子が後悔しても、もう遅いです~  作者: 藤宮レイ


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113/118

第113話 これからも、俺の隣に

 ペンを置くと、部屋が静かになった。


 夜の執務室。


 書類の山は、今日の分が終わっている。


 殿下は、窓辺に立っていた。


 こちらに背を向けたまま。


 珍しいことだった。


 この人は、話す時、必ず目を見る人だから。


「時間を、もらっていいか」


「はい」


「長くなる」


「……はい」


 彼は、窓の外を見たまま話し始めた。


「三年前。いや、もっと前だ」


「兄の名義の文書を読んでいて、気づいたことがある」


「筆跡は兄のものだ。だが、思考の並べ方が違う」


「数字の検め方。反論の潰し方。逃げ道の残し方」


「文書の中に、もう一人いた」


 あの頃の話だ。


 私がまだ、名前のない補佐だった頃の。


「顔も知らないその誰かを、俺は文書の癖だけで覚えた」


「大したものだと思った。それだけの、はずだった」


 彼は、ゆっくりと振り返った。


「あの夜会の夜。柱の陰で、君を見た」


「婚約破棄を、真っ直ぐ立って聞いている君を」


「最初に思ったのは――もったいない、だ」


「この国は今、一番良い頭脳を捨てようとしている、と」


「その夜のうちに、呼ぼうと決めた」


 知っている話と、知らない話が混ざっていた。


 胸の奥が、静かに熱くなる。


「呼んでから、決めていたことがある」


「君を、評価で遇すること。同情ではなく」


「机一つ分の距離を、守ること」


 机一つ分の距離。


 いつも、そうだった。


 あの人の机と、私の机。


 近すぎず、遠すぎず。


「守った理由は、二つある」


「君の実力が『寵愛』の二文字で語られることが、我慢ならなかった」


「そして、継承の争いの中で、君を的にしたくなかった」


「だから、言わなかった」


 彼は、一歩、近づいた。


「言わないまま、王妃にと頼んだ。あれは……ずるい言い方だった」


「国家の言葉で、君を隣に置いた」


「役割の言葉で、君の返事をもらった」


「ずるい、とは」


 私は、首を振った。


「思いませんでした。私は――」


「俺が、思ったんだ」


 遮る声は、静かだった。


「戴冠が決まった。婚儀の日取りも決まった。全部、国家の暦だ」


「だから、その前に」


「国家の言葉ではなく」


 彼は、私の前に立った。


 机一つ分の距離の、内側に。


「エリシア」


 名前だけを、呼ばれた。


 肩書きも、敬称もなしに。


「これからも、俺の隣にいてくれるか」


 王妃として、ではなく。


 補佐として、でもなく。


 ただ、隣に。


 私は、気づいた。


 この人は今、生まれて初めて。


 何の計算もない言葉を、口にしている。


 答えは、決まっていた。


 三年前から。


 いいえ――たぶん、もっと前から。


「はい」


 声が、少しだけ震えた。


 震えたままで、いいと思った。


「これからも、隣に」


「机は」


 彼が、少し笑った。


「もう、一つ分空けなくていい」


「……はい」


 窓の外で、夜の王都が灯っていた。


 誰も見ていない執務室で。


 国家の言葉のない時間が、静かに流れた。


 それは私たちの十年で、一番短くて。


 一番長い夜だった。


 夜が明ければ、婚儀まで二十日。


 その前に――帰るべき場所が、一つ残っていた。

本話もお読みいただき、ありがとうございました!

次話、婚儀の前に、帰る場所へ。父の書斎の扉を叩きます。

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