第104話 監査院の最初の仕事
エルドランの帰還は、その日のうちに宮廷を駆け巡った。
翌朝の政務会議は、荒れた。
「防諜体制の全面強化を」
「漏洩の調査に、特別な権限を」
「非常時です。手続きを省く枠組みが要ります」
声は、どれも忠義から出ている。
あの男の危険を、皆が知っているからだ。
三つの都市が沈みかけたことを、忘れた者はいない。
「『非常時の特別権限』」
殿下が、書類を読み上げた。
令状なしの文書押収。
人事の一時凍結。
監査を経ない調査費。
「これがあれば、確かに早い」
殿下は言った。
そして、書類を置いた。
「早いだろうな」
その目が、私を見る。
私は、頷き返した。
欲しい。
正直に言えば、欲しい権限だ。
相手はあのエルドラン。
手続きを踏んでいる間に、紙は燃やされ、人は消える。
だが。
「一つ、思い出していただきたいことがあります」
私は立ち上がった。
「半年前、我が国はある方と約束をしました」
「対外の問題を理由に、内政の監視を緩めない」
「外交の危機を口実に、王権を広げない」
会議室が、静まる。
「あの方は今、この件をどう見ているでしょうか」
答えは、その日の午後に来た。
本人が、来た。
「お茶を一杯だけ、いただきに」
ドミニク・ヴァルトハイム侯爵。
彼は席に着くと、いつもの微笑みのまま言った。
「特別権限の草案が回っているそうですね」
「……お耳が早い」
「地方は、耳だけは肥えるのです」
彼は茶を一口含んだ。
「それで」
「条件を、忘れましたか」
忘れていません、と私は答えた。
「では、草案は」
「通しません」
「ほう」
侯爵の眉が、わずかに上がった。
「では、どう戦うのです。相手はあの男だ。手続きの隙間を知り尽くしている」
「手続きの中で、戦います」
私は、一枚の要請書を差し出した。
宛先は――制度監査院。
「監査院に、要請します」
「防諜と漏洩調査に関わる王権側の措置、その全てを」
「監査院の監視下で行う、と」
侯爵が、書面から顔を上げた。
「……王権を、縛る側に差し出すと?」
「はい」
「権限を求める代わりに、監視を求めます」
「調査は速く。ただし、その速さの全てを記録に残し、監査院がいつでも止められる形で」
沈黙。
長い、沈黙。
やがて侯爵は、声を出して笑った。
初めて聞く、笑い声だった。
「監査院の最初の仕事が、王権の監視ですか」
「作った時に、あなたが仰いました」
私は言った。
「『制度を疑う者が、国家を守る』と」
「言いましたな」
「その言葉どおりに、使うだけです」
侯爵は茶器を置き、立ち上がった。
「草案の撤回と、監査院への要請」
「連盟は、その両方を歓迎します」
そして扉の前で、いつものように振り返った。
「オルデン伯の件、片づきましたよ」
「連盟は昨日、正式に呼びかけを退けました。理由は付けずに」
「伯は今頃、気づいているでしょう」
「――担ぐ神輿も、担いでくれる肩も、もうないことに」
卓の上の茶器は、半分も減っていなかった。
それだけ急いで来てくれたのだと、気づいたのは後のことだ。
夕刻。
監査院から、要請受理の返答が届いた。
受理文の末尾に、一行。
『本件を、当院の最初の監査案件として記録する』
王権を縛る紙が、一枚増えた。
それを頼もしいと感じる国に、いつの間にか、なっていた。
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次話、怪文書が撒かれます。狙われたのは、三年前の「言質」。
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