第9話 月光と炎
夜の帳が草原を覆い尽くし、月光だけを頼りに進んでいた。
セバスティアーヌス・オ・アルトレウスは、愛馬の手綱を握りしめ、兄と並んで駆けていた。十五騎からなる二列縦隊。その先頭を行く叔父マティアスからは、五列後方の位置にいる。
作戦の手筈は徹底されていた。愛用の馬上槍を短槍へ持ち替え、火を放つ者は、油布を巻いた松明を鞍脇に括りつけている。
狙うは指揮所の焼き討ち。あわよくば司令官の首級を挙げ、一撃を見舞ったのち、速やかに離脱する――それが直前に叔父から説明を受けた作戦内容だった。
敵陣の哨戒線まで、馬の脚であと十数完歩。
数を数えようとして、セバスティアーヌスは途中でそれをやめた。
一斉に穂先が持ち上がり、月光を受けて銀色に煌めく。
もう、蹄の音を隠す必要はなかった。
一点突破を期す十五騎の縦列に、躊躇はない。先頭を駆ける叔父の背を追い、速度を落とさぬまま、猛然と敵の防衛網へ突入し、一気呵成にそれを食い破る。
セバスティアーヌス自身も槍を水平に構え、馬の首筋に身を伏せながら前を駆ける味方に続いて駆け抜けた。
心臓が激しく鼓動し、血管に熱いものが流れているのを感じる。
地面を蹴る蹄の音が、雷鳴のように轟く。先頭を行くマティアスが敵の哨戒線を食い破った瞬間、彼と先団の騎兵たちが繰り出した槍の穂先は、同時に数人の敵兵の胸を貫いていた。
温かい飛沫が頬にかかった。血だと理解したのは、数拍遅れてからだった。
周囲を見渡せば、あちこちで凄絶な血飛沫が、敵陣の松明に照らされ、夜の闇に舞い散っている。
「止まるな! 駆け抜けろ!」
敵を突き伏せながら放たれたマティアスの怒号が、戦場に響き渡った。
セバスティアーヌスもまた、怒濤の勢いで敵哨戒線を突き抜ける。
刹那、側面にいた敵兵の一人が剣を振り上げようとしたが、それよりも早く、手にした槍でその剣を弾き飛ばした。
そしてそのまま、なだれ込むように先行する叔父たちに続いた。
そこでやっと隣に並走する兄を横目で確認する余裕ができた。
兄も興奮した様子で、それが馬にも伝わっているのか、兄は逸る愛馬の制御に手を焼いているようだった。だが見たところ特に怪我を負っている感じもなく、その姿に、セバスティアーヌスは密かに胸をなでおろした。
哨戒線を踏み破るまでに要した時間は、わずか数十の呼吸に過ぎなかった。
これからが本番だった。
前方に司令部と思しき二つの大天幕が迫る。セバスティアーヌスたちは迷わず、事前に偵察で確認していたセヴァリス王国の紋章を掲げた右の天幕へと馬首を向けた。
だが、そこに隙はなかった。
天幕の周囲には幾本もの松明が揺らめき、重装の警護兵たちが微動だにせず立ち塞がっている。
外縁の哨戒とは違う。初めから天幕を守るために置かれた兵だった。
足元の乱れもなく、盾が同じ角度で整然と並ぶ盾の列。突き出された槍の穂先。
それは夜襲の混乱を微塵も感じさせぬ、鉄壁の防陣であった。
これでは突破するどころか、投擲攻撃の射程圏内に近づくことすらおぼつかない。
――待っていたのか。
そう思った瞬間、セバスティアーヌスの背筋に冷たいものが走った。
もちろん、敵が本当にこちらの襲撃を読んでいたのかどうかなど、彼に分かるはずもない。
それでも、その盾の列は、偶然そこにいたようには見えなかった。
しかし、ここで馬の足を止めるわけにはいかない。叔父マティアスの判断は早かった。彼は先頭を走りながら槍を持つ手を上へ掲げ、ゆっくりと右側へ倒した。
転進の合図だ。
「転進!このまま駆け抜けろ!」
その声に呼応し、十五騎の夜襲部隊は一斉に進路を変え、弧を描きながら右へと切り裂くように走り抜けた。
「絶対に足を止めるな!」
叔父の鋭い指示に、セバスティアーヌスも歯を食いしばり、馬の手綱をさらに握り締めた。
立ち並ぶ天幕や荷馬車、山積みの物資の間を、混乱する敵兵を縫うようにして馬たちは突き進む。速度は一切緩めない。その最中、左手に他より大きめな天幕が現れた。
「投擲!」
叔父マティアスの裂帛の気合が飛ぶ。その瞬間を待ちわびていたように、セバスティアーヌスも、周囲の騎兵たちと呼吸を合わせ、手にした松明を一斉に放った。
放たれた火の玉は夜空に尾を引き、吸い込まれるように天幕へと突き刺さる。次の瞬間、乾いた布地が爆ぜる音とともに、炎が激しく噴き出した。
「退却だ! 合図を鳴らせ!」
叔父の鋭い下知に、一人の従士が腰の角笛をひっ掴み、肺腑の底から息を吹き込んだ。
「ヴォォ、ヴォォ、ヴォォーー……!」
短く二度、長く一度。特有の低く重厚な音色が夜の空気を震わせる。
それは自分たちへの合図ではない。
闇の外縁で息を潜める味方への呼び声だった。
しかし、この時すでに外縁の敵哨戒部隊は立て直しつつあった。退却路を断とうと、敵兵たちが素早く隊列を組み、槍の穂先を並べて立ちはだかる。
その時――
「放て――ッ!」
宿営地の外周で機をうかがっていたグレゴリウスら歩兵隊が、闇の中から一斉に火矢を放った。
描かれた光の弧が、騎兵を阻もうと隊列を組み直していた敵兵の前面へ降り注いだ。不意を突かれた敵兵たちが、降り注ぐ火の粉に悲鳴を上げ、慌てて身を屈めた。
その隙を突いて、十五騎が再び敵の防御線をすり抜けるように突破した。
セバスティアーヌスは最後尾近くを駆けながら、振り返った。敵の宿営地では、先ほどの攻撃で炎上した天幕の煙と炎が夜空を赤く染め上げているのが見えた。
やがて騎兵たちは草原の闇に紛れ、敵の追跡を振り切った。
突入から退却まで、実時間はほんの片時に過ぎなかった。
だが、初陣のセバスティアーヌスにとっては、これまでの生涯のどの刻よりも長く、濃密に感じる体験だった。
たとえそれが、叔父やその配下のもと、守られながら駆け抜けただけのものだとしても。
騎兵での夜襲は、結果として当初の目標に達することはできなかった。
あの天幕の奥に敵将がいる。
そこへ届けば、我が軍は――
だが、その距離は思っていたよりも遠かった。
しかしそれでも敵天幕の一つを焼き払い、一騎も失うことなく退却できたことは、戦場の洗礼としては僥倖といえた。
頬を撫でる夜風が、今はひどく冷たく感じられた。
ようやく一息つこうと馬上で深く息を吸い込んだはずが、なぜか肺に空気が入ってくる感覚がない。
「これが、戦場なのか……」
誰にともなくこぼれた呟きに、ふと我に返った。
汗で張り付いた手袋を脱ごうとしたが、指先が思うように動かず、うまくいかない。
その時になって初めて、自分の手がひどく震えていることに気づいた。
マティアス叔父が手を挙げて減速の合図を送る。前方に、かすかな松明の明かりが揺れているのが見えた。
約束の合流地点だった。




