第10話 勝利と不安
「無事だったか」
輜重襲撃部隊を率いていた副隊長格の騎士――ディオニシウスが、息を弾ませながら駆け寄ってきた。彼の甲冑には煤がついており、髪にも焦げた臭いが漂っている。
無事帰還した部隊を前に、マティアス叔父は強張っていた肩の力を抜き、わずかに安堵の表情を浮かべた。
「味方の損害は? 敵の糧秣はどの程度減らせた」
「およそ三分の一は灰にできたかと。ですが、奥の馬糧に火を放とうとしたニコラスがやられました。他に、軽傷が二名ほど……」
ディオニシウスの報告を横で聞きながら、セバスティアーヌスは周囲を見渡した。輜重襲撃部隊三十名のうち、未帰還一名は、想定していた損害の中でも最小と言ってよかった。敵に与えた打撃の大きさを考えれば、これは文句なしの大成功と言える戦果だった。
「それで――」
ディオニシウスは手短にそこまでの報告を終えると、一呼吸置き、わずかに声を潜めて続けた。
「敵の追撃があります。目測で五十騎ほど。襲撃時に後手に回った焦りからか、隊列を乱しながら遮二無二追ってきているようです。まもなく、我らに追いつきます!」
叔父マティアスの迎撃指示は電光石火の速さだった。
セバスティアーヌスは一瞬、何を命じられたのか理解できなかった。
その肩を、グレゴリウスの手が軽く叩いた。
「こちらへ」
その声に従えばよいのだと、なぜかすぐに分かった。セバスティアーヌスは弾かれるように下馬する。
馬の温もりをあとに、草いきれのする小道の脇へ潜り込む。手にした槍の柄が、冷たい汗でじっとりと濡れた。
小道を挟んだ両側の草むらには、闇に溶けるようにして兵たちが伏せている。
グレゴリウスは初陣の彼の左側に身を寄せた。
前へ出すぎず、しかし一歩踏み込めばすぐに庇える位置だった。
「若君、穂先は低く。敵の馬腹ではなく、脚を見てください」
歴戦の猛者から発せられた、命を保つための簡潔な教え。それにセバスティアーヌスは素直に頷いた。
視線をやると、兄はヴィクトルと共に、歩兵列の最後尾――小道のさらに先で、退路を断つための縦隊を組み、沈黙して機を待っていた。夜の帳が、五十数名のアルトレウス領兵を完全に飲み込む。
やがて、地面を震わせる蹄の音が近づいてきた。それは瞬く間に地鳴りへと変わり、敵兵の荒い息遣いや、言葉にならぬ罵声、金具の擦れる音が、夜の静寂を引き裂いて耳をつんざく。
「まだだ……まだ堪えよ」
叔父の押し殺した声が、低い地這いの音となって兵たちの間に響いた。
それだけで、逸る心が鎮まる。
「我慢だ。我慢だぞ……!」
敵の先頭が、すぐ目の前を通り過ぎる。馬の蹴り上げる泥がセバスティアーヌスの頬に飛んだ。鼻を突く馬の獣臭。敵兵の鎧が月光を跳ね返す。あまりの近さに、普段は感じることのない心臓の鼓動が耳の奥で響いていた。
ついに、敵の先頭集団が伏兵の列をほぼ通り抜けた。
――その刹那。
「かかれ――ッ!」
静寂を引き裂いて、マティアスの咆哮が轟いた。
それと同時に、小道の両脇から無数の槍の穂先が、大蛇のごとく一斉に牙を剥いた。
歩兵たちの初撃は容赦がなかった。
暗闇から突き出された槍の穂先は、無防備な横腹を晒した馬たちを次々に貫き、巨体を固い地面へとなぎ倒してゆく。落馬した騎兵たちが身を立て直す隙など与えない。追撃の槍が、倒れ伏した彼らの胸板を無慈悲に貫いた。
グレゴリウスの槍もまた、すぐ傍らで敵を正確に貫き――そして迷いなく引き抜かれた。
べちゃり。
傷口から溢れた熱い飛沫がセバスティアーヌスの顔を濡らした。先ほどの泥とは違い、その液体は熱かった。
だが、身体は吐くことすら許さなかった。
悲鳴とも呻きともつかぬ音が夜の小道に重なり合い、十人近い敵兵が、わずか数瞬のうちに物言わぬ肉塊へと変わる。
その凄惨な光景に、後続の敵兵たちが恐怖で足を止める。その硬直を見逃すほど、マティアスは甘くはなかった。
「歩兵、左右へ退避! 騎兵、突貫!行けーーッ!」
張り詰め、震えるような叔父の号令が、戦場を支配した。その下知は、獲物を追い詰めた猛禽類のごとく冷徹にして的確だった。
歩兵と入れ替わるように、十数騎の騎兵が一塊となって突き入った。
最初の衝突で、数人の敵兵が軍馬の巨体に文字通り踏み抜かれた。肉と骨が砕ける鈍い音が、セバスティアーヌスの耳を劈く。小道は一瞬にして、血飛沫と泥にまみれ、それはまるで地獄絵図のように見えた。
だが、その蹂躙も長くは続かなかった。
あまりの衝撃に敵の士気は完全に粉砕され、もはや組織的な抵抗すら叶わない。彼らはもはや隊を成しておらず、個々に敗走し始めた。
ある者は来た道をなりふり構わず引き返し、またある者は刃を避けようとして、夜の森へ転げ込んでゆく。
「深追いは無用! 隊列を整えよ!」
敵が崩れた瞬間を見極め、マティアスは早々に戦闘の切り上げを命じた。
勝利に酔いしれる隙をも与えぬ迅速な指揮。しかし、その意図の理解が追いついていない若者もいた。
「なぜ敵を徹底的に叩かぬ? 好機ではないのか?」
アウレリウスは敗走する敵を振り返り、やや不満の色をにじませながら、呟くように周囲にいる自らの従士たちへ問いかけた。
その瞬間――
草木の揺れに驚いたのか、それとも闇の中から響いた何らかの音に反応したのか。アウレリウスの愛馬が、突如として横へ飛びのいた。不意を突かれた兄の身体は、重い甲冑とともに馬の背から大きく崩れ落ちそうになる。
「危のうございます」
慌てる様子のない、低く静かな声だった。
すぐ後ろに馬を寄せていた兄の従者、レオニウスが、崩れ落ちかけたアウレリウスの身体を腕だけで受け止めていた。彼に支えられ、アウレリウスはかろうじて鞍の上に踏みとどまる。
「特に東方の馬は馬体が大きく、落馬すればそれだけで大変ですから」
そんなことを呟くように言いながら、兄の体を受け止めているレオニウスの視線は、兄ではなく馬の方を見ていた。
「これ以上の深入りは、態勢を立て直した敵本隊に包囲される恐れがあります。そう、マティアス様はお考えなのではないでしょうか」
諭すようなレオニウスの言葉には、戦場の狂気を冷ますような説得力があった。セバスティアーヌスも、その判断自体には同意していた。しかし、それでもなお、レオニウスという存在そのものを信用できない彼は、一部始終を複雑な気分で眺めていた。
セバスティアーヌスにとって、レオニウスの「完璧すぎる振る舞い」は不気味でしかなく、その胸にざらりとした不快感を残すのだった。
「各自、負傷者を確認。速やかに撤収する。敵の本隊に追いつかれるな」
アルトレウス領兵達は隊列を立て直し、やがて自分たちの野営陣地へと帰路を急いだ。
* * *
帝国歴467年7月24日 朝
夜明けとともに目立ち始めた黒煙が、清澄であるはずの朝の空気を汚していた。
ドロミア領主ヴァルデリクは馬上から、惨憺たる光景を見下ろしていた。輜重部隊の宿営地は、まるで巨大な獣に食い荒らされたように無残な姿を晒している。焼け落ちた幌馬車の残骸が点々と散らばり、食料や武器の破片が泥まみれになって転がっていた。
昨夜、指揮所の天幕へ突入したアルトレウス軍の騎兵に対し、セヴァリス王国の将軍、グリゴリとその配下が示した対処は見事と言うほかなかった。アルトレウス軍の夜襲もまた、これ以上はないほど鮮烈なものであったが、将軍の隙のない防陣が、奴らの作戦目標達成を戦略レベルでは完全に防いでみせた。
アルトレウス軍の夜襲そのものは、これ以上はないほど鮮烈なものであった。
だが、少なくとも指揮所を狙った一撃に関しては、グリゴリ将軍の読みと備えが完全に勝っていた。夜間警戒、即応部隊の配置、追撃禁止――昨夜の軍議で命じられたそれらは、将軍直属の部隊ではほぼ理想通りに実行され、結果として指揮所の被害はごくわずかなものに留まっている。
将軍直下の本隊に限って言えば、アルトレウス軍は天幕を一つ焼いただけでほとんど人的な被害もなく、肩透かしを食わされたに等しい。
それに比べ、目前に広がっているこの光景は、あまりに無様と言わざるを得ない。
グリゴリ将軍は、その光景を無言で見つめていた。
年は五十に届く頃。短く刈った黒灰色の髪には、すでに白いものが混じっている。頬は削げ、顎には手入れされた短い髭があった。
大柄ではない。だが、彼の派手な装飾のない鎧の上からは、余分な肉のない体形であることが見て取れる。
将軍は戦場に華やかさを求める男ではない。だが、軍の規律に関しては他に例のないほど厳しい男だった。
表情は石のように硬い。だが、目には怒りの色が滲みでている。
「報告せよ」
低く抑えられていた。だが、声の底がわずかに震えていた。
輜重部隊の指揮官――いや、もはや元指揮官と言うべきか――が、感情をうかがわせない顔で答えた。
「はっ。敵の騎兵、およそ二十騎が夜半に宿営地の側面から突入。我らの護衛部隊は、その時点では応戦に手間取りまして……」
「手間取り?」
並みいる将兵が沈黙を守る中、将軍の表情はさらに硬くなり、その声は氷のように冷たく周囲へ響いた。
「昨夜の軍議で、儂が何と申し渡したか。覚えておるか」
指揮官の顔は相変わらず能面のままだった。叱責を受けている者の顔にしては、わずかな怯えも浮かんでいない。ただ、目だけが一度、将軍の背後に控える副官たちの方へ流れた。
昨夜、ヴァルデリクの進言を受けて、将軍は明確に指示を出していた。輜重部隊だけでなく、全部隊に対し警戒を厳重にし、特に夜間の見張りの強化と兵の即応体制を維持せよ、と。
その命令は、グリゴリ将軍直下の精鋭部隊ともいえる本隊の将兵や、両翼に配置された子飼いの指揮官たちの間では、当然のものとして忠実に実行されていた。
だが、寄せ集めの輜重隊は違った。
輜重部隊の指揮官たちは、小領主の忠告など鼻で笑い、それどころか自国の将軍の指示ですら軽んじていたようだ。
「さらに報告があります」
将軍子飼いの騎士が駆け寄り、低く耳打ちした。
「輜重部隊直掩の護衛隊、約五十名が――退却する敵軍を追撃いたしました」
「追撃、だと?」
将軍の眉が、ぴくりと動いた。
「はい。敵が撤退を始めた際、遅まきながら護衛部隊が追撃を敢行。しかし、敵の伏兵に遭遇し……半数近くが討ち取られました」
その瞬間、周囲の空気が凍りついた。
グリゴリ将軍の右手が、無意識に剣の柄へと伸びる。ヴァルデリクは、その怒りが沸点に達したことを悟り、思わず身を強張らせた。
「……愚か者どもが」
将軍の声は、辛うじて抑制の内側に留まっていた。
「夜襲への警戒を怠り、発見が遅れる。宿営地の内側まで踏み込ませ、物資に火を放たせる。その上、易々と撤退まで許す」
そこで将軍の声が一段低くなり、そこから次第に荒々しくなっていった。
「まあ、そこまでならばまだ失態として処理もできよう。
だが儂は、あれほど申し渡したはずだ。敵襲時は防戦に徹し、追撃はするな、と。
その命令までも破り、敵の伏兵に突っ込んで半数近くを討ち取られ、這う這うの体で逃げ帰るなど――貴様ら、戦を何だと思っておる!」
その言葉と同時に、将軍はついに剣を抜き放った。
刃が朝日を受け、鈍く光を放つ。
「軍令に背いた以上、貴様らは――ここで首を刎ねられても《はねられても》、文句は言えぬよな」
その一言で、先ほどまで平然を装っていた指揮官たちの仮面が剥げ落ちた。一様に顔の血の気が引き、動揺を隠せていない。
しかし、その時――
「将軍閣下、お待ちを!」
副官の一人が、慌てて進み出た。
「彼らをここで処断すれば、軍全体の士気にも影響が出ます」
そこで一度言葉を切り、周囲を窺うように視線を走らせてから、さらに将軍へと近づく。そして、声を落として付け加えた。
「……彼らは、ロスティス公爵配下の者たちです」
グリゴリ将軍の腕が、一瞬、剣を振り上げかけた。だが次の瞬間、彼は深く息を吐き、ゆっくりと刃を鞘へと収めた。
「……そうだな」
その声には、怒りよりも深い失望が滲んでいた。
「貴様らは即刻更迭だ。今すぐ前線を離れ、本国へ叩き返されるものと思え」
指揮官たちは、命拾いした安堵を隠しきれず、互いに視線を交わした。 その中には、ほのかな嘲りを含んだ笑みを浮かべる者すらいた。
だが、将軍はすでに踵を返しており、彼らを一顧だにしていない。
彼らが足早に去っていった後、
「……ちっ、胸糞悪い連中めが」
グリゴリ将軍は吐き捨てると、近くにあった野営用の床几を蹴り飛ばした。乾いた音が響き、床几は無様に転がった。
将軍は、焼け落ちた宿営地を見据え、低くつぶやいた。
「ここで動かず、報告を待つだけで済むと思っていたが……この分では、我らも動かねばならんだろうな」
ヴァルデリクは将軍のそのつぶやきを聞き、何か引っかかるものを感じた。
そもそも、この侵攻作戦において彼は名目上の総大将に過ぎない。実態は、グリゴリ将軍らセヴァリス王国側が立案から指揮までを完全に掌握しており、ヴァルデリクは全容を知り得る立場になかった。
この侵攻作戦に自分の知らないところで、他にも動いている勢力があるというのだろうか。そして、これまでの消極的な姿勢を翻し、積極攻勢にでも出るかのようにも取れる発言――
ヴァルデリクはそれらを思い巡らし、一度大きなため息を吐いた後、やがて馬首をアルトレウス軍が布陣していると思われる方角へと向けた。
朝靄の向こうに、まだ影すら見えるはずのないアルトレウス家の館を思い描く。
――確かに、夜襲は見事だった。
だが、それによって――
……藪蛇となったかもしれぬな、エウスタティウス。
表立って口にすることはできない。
だが盟友として、かつて帝国諸侯の一角を成した家の当主として。
そして何より、一人の友として。
ヴァルデリクは、アルトレウス家の行く末に、重い予感を抱かずにはいられなかった。




