第11話 忍び寄る敵の影
帝国歴467年7月24日 朝
朝の陽射しが食卓を暖かく照らしていた。
兄たちが出陣した今、残された家族三人だけのいつもより静かな朝食だった。焼きたてのパンの香り、蜂蜜の甘い匂い、そして淹れたばかりの茶の湯気が立ち上る。普段なら賑やかな食卓も、今は妙に静まり返っている。
フェリシアは愛馬での朝の遠乗りから戻ったばかりで、頬にはまだ外気の涼しさが残っていた。いつものように父と母に挨拶の言葉を交わし、席に着く。
向かいに座る母イザベラの鮮やかな金髪が、朝の陽射しを受けて淡く輝いていた。北方系のテュリンギ族に多く見られる、明るく澄んだ色合いの髪である。柔らかな物腰と相まって、その姿には貴婦人らしい気品があった。
それに比べると、フェリシアの容姿は父方の血を強く受け継いでいる。赤みを帯びた暗い髪色も、はっきりとした目元も、母よりはむしろ父エウスタティウスに近かった。もっとも、父の髪にはすでに白いものが混じり始めており、その落ち着いた佇まいは、娘のまだあどけなさの残る面差しとは大きく異なっていた。
「今朝の遠乗りはどうでした?」
母イザベラの問いかけは、いつもの穏やかなものだった。
帝国貴族において、女性の乗馬は必ずしも欠かせぬ嗜みというわけではない。だがアルトレウス家の家風は、女子であっても等しく馬を操るべし、というものだった。
乗馬をこよなく愛するフェリシアは、その家風も手伝って、兄たち以上に熱心に馬に親しんできた。毎朝の遠乗りが欠かせぬ日課となっているのも、彼女にとっては当然のことだった。
イザベラの上品な声音には、娘への慈しみが深く込められている。
「とても気持ちよかったです。マクシムの調子も良くて」
フェリシアがそう答えた瞬間、母の眉がわずかに上がった。
「マクシム、ですって?」
イザベラは持ち上げたカップを止めて、娘を見やった。その眼差しには呆れたような色が浮かんでいるが、同時に、どこか微笑ましげな慈愛も混じっている。
「ええ。私が付けた名前です」
フェリシアはどこか誇らしげに、ふふんと鼻を鳴らさんばかりの勢いで胸を張った。
「あの子は牝馬よ? マクシムなんて、随分と男性的な名前じゃありませんこと」
父エウスタティウスも、それまで手紙に目を通していた手を止めて、苦笑いを浮かべた。
「お前らしいな、フェリシア」
「だって、かっこいい名前の方がよいではありませんか」
フェリシアは少し頬を膨らませた。
「《《マクシム》》は強そうで、勇ましくて、素敵な名前だと思います」
「確かに立派な名前だけれど……」
イザベラは苦笑いを隠せずにいた。
「でも女の子に『《《偉大なる者》》』なんて、少し大仰すぎるのではないかしら」
「だからこそいいんです。あの子はそのぐらい特別なのですから」
フェリシアの言葉には、愛馬への愛着と、その能力を見抜いた者だけが持つ揺るぎない確信が込められていた。
兄たちが出陣し、それでもまだ、いつもの日常が残る朝だった。
だが、その直後のことである。
食堂の扉が控えめに叩かれる音が響いた。
「失礼いたします」
家令の落ち着いた声が聞こえ、エウスタティウスが顔を上げた。
「どうした?」
「奥方様のご指示でお遣わしした者が戻って参りました」
イザベラがわずかに身を乗り出した。
「構いません。ここへ通してください」
イザベラの命を受け、家令は一礼して退いた。
ほどなくして姿を現したのは、一人の従者だった。二日前、母と神殿を訪れたときに、そのまま現地へ残した者の一人。その強張った面持ちが、ただならぬ報せを予感させた。
「異変がありましたのは、軍の皆様がご出陣された直後のことでした。神殿長様がまず、神官を一人、帝都の方へ急ぎ向かわせたのでございます。」
男は一度息を整えてから、続けた。
「それから夜の間……まだ夜の明ける前でしたが、正体の知れぬ者共が数名、神殿へ入っていくのが見えました」
「それで今朝になり、神殿長様たちはその者たちを連れ、残っていた神官も全員引き連れて、神殿を離れてしまわれたのです」
男はためらうように口をつぐんだが、やがて意を決したように言葉を続けた。
「……いえ、あれは『逃げ出した』と申し上げるのが、正しいのかもしれません。それほど、ひどく慌てた様子でございました」
男は一度言葉を切って、唾を飲み込んだ。
「ですが、いつも手伝いに通っている村の者たちには、何の話もなかったようです。今朝、いつも通りにやってきた者たちは、もぬけの殻になった神殿の前で、ただ呆然と立ち尽くしておりました……」
フェリシアは、母の顔からすっと血の気が引くのを見逃さなかった。
「まだもう一人が、向こうで様子を見ております。私はとにかく一刻も早くと思い、こちらへ駆け戻った次第です」
「よく知らせてくれました」
イザベラは静かに頷いた。
「引き続き、目を離さないように。少しでも動きがあれば、すぐに知らせなさい」
男が足早に退いていくと、食卓には冷え冷えとした沈黙がしばらく流れた。
「なぜ」という疑念と、「やはり」という予感が同時に胸を駆けよぎった。フェリシアは、いつかの帝都の大神殿で見かけた高慢な神官らとは違い、あの神殿長はアルトレウスの領民に寄り添い、共に歩む人物だと信じていた。彼こそが聖職者の理想を体現する、高潔な存在に見えていた。
しかし、二日前に神殿で見た彼は、その面影をかなぐり捨てたかのように、上っ面だけを取り繕う胡散臭さを漂わせていた。
「イザベラ……」
その沈黙を破り、呼びかけたエウスタティウスの声は低かった。
「残念ながら、神殿はすでに我らとは道を違えていたようです」
イザベラの声には、悲しみと諦めが混じっていた。
「神殿と敵方の関係がどのようなものかまでは分かりません。ですが、戦えぬ者たちを逃がす算段を早めましょう。支度を急がせます。すぐにでも出立できるように……」
エウスタティウスは重々しく頷いた。
「分かった。急ぎ手配をさせよう」
戦えぬ者たちを逃がすという話は、以前から聞いてはいた。
けれど、それはどこか遠い出来事のように思えていたのだ。
だが今、母の口から「今すぐ」という言葉が出た瞬間、それがはっきりと現実味を帯びて迫ってきた。
——自分も、一緒に逃がされるんだ
その確信がフェリシアを突き動かした。
それを黙って待っているわけにはいかない。
——何もしないうちから自分だけ逃げるなんて絶対に嫌だ
フェリシアは勢いよく椅子から立ち上がった。
「少し外の空気を吸ってきます」
と言うや否や、まっすぐ扉へと向かった。
「待ちなさい、フェリシア——!」
父の制止する声を背に受けながらも、フェリシアは足を止めずに食堂を飛び出した。
扉の外へ出ると、早足はそのまま駆け足に変わり、廊下を突き抜けて中庭へと躍り出る。
一直線に向かった厩舎では、自分の馬房でのんびりと朝の飼い葉を味わっていたマクシムが、主人の気配を察し、すっと顔を上げた。
「行きましょう、マクシム。確かめたいことがあるの」
手早く鞍を置き、手綱を握る。その背に身を躍らせると、マクシムは主人の急いた心を汲み取ったかのように、軽やかな足取りで歩み始めた。
* * *
後ろで厩番長が何か叫んでいたが、聞こえないふりをしてフェリシアは館の門を駆け抜けた。 向かう先は、やはり神殿だ。
今、あそこで何が起きているのか。 ――あの神殿長は私の生まれる前からあの神殿で神官を務めていた。その前は帝都の大神殿にいたこともあると聞いている。
フェリシアはマクシムを操り、神殿へと続く道に馬首を向けた。
朝の清涼な空気の中、緩やかな起伏の続く丘陵地帯を愛馬と共に駆けていく。夏の陽射しが心地よく、昨日までなら、この時間は純粋に楽しいものだったろう。
だが今は違う。
従者の報告が何を意味するのか、フェリシアにも理解できた。
――けれど、自分の目で今の状況を確かめずにはいられない。
それは、ただあの場から逃げ出したいという思いからだけではなかった。自分でもうまく説明できない衝動に突き動かされての行動でもあった。
神殿へと続く街道を見下ろせる丘に差し掛かったところで、フェリシアはにわかに馬を止めた。
遥か眼下の街道に、一団の人影を捉えたからだ。
それは行商人の一行のようだった。数台の荷馬車を従え、のろのろと神殿の方へ向かっている。数は十名に満たない程度だろう。
だが——
フェリシアは眉をひそめた。いつも見かけるような、あの見慣れた隊商の姿と、眼下の光景。その二つが、どうしても自分の中で一致しなかった。
荷物の積み方が、行商人のそれとは違う気がする。商品というよりも、何かもっと重たい、金属のようなずしりとしたものを積んでいるのではないか……。
この距離では音までは届かない。だが、荷馬車の沈み方や揺れ方は、今にも車輪が悲鳴を上げそうな重さを物語っていた。
商人と思しき人影も妙に統制が取れていて、常に周囲を警戒しているふうだ。見れば見るほど、彼らが本物の商人には見えなくなってくる。
抗えない好奇心と使命感に駆られ、フェリシアは下馬し、茂みの陰からさらに詳しく観察した。しかし朝とはいえ、夏の陽射しはすでに強い。陽炎に揺れる遠景では、肝心な細部までは判別できなかった。
「……ここで見ていても、埒が明かないわね」
やはり確証を掴むには、もっと近づく必要がある。
——でも、あの集団が行商人の隊商なんかではなかったら?もしも彼らが、そうであってほしくないと願う想像通りの存在だとしたら、これ以上近づくのは絶対に危険だ。
そう頭の中のもう一人の自分が警告する中、フェリシアは周囲を見回した。田園の向こうには民家の屋根が見え、畑で作業する農民の姿もちらほらある。
そこでフェリシアの脳裏に、ひとつの考えが浮かんだ。
——隊商が進む先へ回り込み、向こうからやって来る形で自然に行き違う。それなら、相手を直接確認できる距離まで近づけるはずだ。
もっとも、何事もなくやり過ごせる保証などどこにもない。手に馴染んだ剣はなく、今は丸腰だ。そもそも、剣術など形ばかりの護身術として習っただけ。
だが、ここには僅かながらも人の目がある。たとえ相手が敵対者であったとしても、白昼堂々、この場所でいきなり凶行に及ぶとは限らない——。
フェリシアは鋭く思考を巡らせた。
こうした時の彼女の決断は早い。脳裏に響く警告を振り切り、フェリシアは即座に駆け出した。
「マクシム、いくよ」
愛馬に再び跨ると、フェリシアは隊商の進路を避けるように迂回し、街道の先で待ち構えることにした。
* * *
街道の緩やかなカーブの手前まで隊商を先回りしたフェリシアとマクシムは、そこから隊商が向かってくる方向へと歩き出した。
やがて、荷馬車の軋む鈍い音が、荷駄特有の重々しい蹄の音とともに響き始め、それは一歩ずつ確実に近づいてくる。
心臓が激しく脈打っている。だが、そんな内心を悟られぬよう、平静を装わなければならない。自分は普通の領主の娘で、今はただ乗馬を楽しんでいるだけ——そう、自分自身に強く言い聞かせた。
やがて道なりの先から、例の一行が姿を現した。
フェリシアは何気ない様子を装い、そのまま隊商の脇をすり抜けようとマクシムの手綱を軽く操る。さりげなく視線を送り、荷馬車との距離を測った。
そして、一台目の荷馬車とすれ違うその瞬間——
荷馬車を覆う幌の掛け方は、素人目にも雑なものだった。折しも強めの風が吹き抜けたその時、幌の端が大きく翻り、隠されていた中身が一瞬だけ露わになる。
太陽を反射し、ぎらりと放たれた鈍い銀色の光。
——武器だ。それも、大量の……!
さらにその武器の横には、甲冑の肩当てらしき金具も見える。
——これは絶対に、行商人なんかじゃない!
フェリシアは内心の感情が決して表に出ないよう、必死に「平静」という仮面をかぶった。何食わぬ顔で馬上より軽く会釈し、そのまま荷馬車の横を通り過ぎた。
隊商を装う者たちもまた、こちらを見上げ会釈を返してくる。だがもう、その顔つき、体つき、そして目つきすらも、フェリシアには行商人などというような風貌には見えなかった。
後続する二台の荷馬車の横も、通り抜けなければならない。御者台で手綱を握る者も、護衛のように並走する者たちも皆、すれ違うフェリシアを値踏みするような視線で見上げてくる。
心臓の鼓動が止まらない。普段とは比較にならないほど、胸を締め付けるような激しい拍動に耐えながらも、彼女は平然とした表情を保ち続けた。
——早く、通り抜けて。
わずか数呼吸ほどのその刻が、永遠に続くかのように長く、長く感じられた。
ようやくすべての荷馬車をやり過ごし、彼らを背に感じながらも、なお平常の速度を保って進む。丘を越え、一団の視界から完全に消える位置まで来て、ようやく——。
フェリシアは館へと続く道を、一目散に駆け抜けた。
「マクシム、急いで!」
神殿の状況もこの目で確かめたかった。だが、今の状況で引き返すことなど到底できない。素早くそう判断し、フェリシアが愛馬に呼びかけた——
だが、その声が終わるよりも早く、マクシムは一段も二段も速度を切り上げ、全速力で草原を駆け抜けた。それはまさに、主人の思いを先回りして感じ取ったかのようだった。
そうだ、急いで館に戻り、この情報を伝えなければ――。
風がフェリシアの頬を叩く。心臓の鼓動は館にたどり着くまで、なお激しく響き続けていた。
* * *
「あれは一目散に館へ駆け戻るでしょうなあ」
隊商に扮する男の一人が、貴族の令嬢が視界から消えるのを確認してから、隊長格らしき男に声をかけた。
「今は放っておけ。こちらはまだ集結が済んでいない。下手に動いて不測の事態を招いたら、それこそ目も当てられん。それに団長の到着も夕刻の予定らしいからな」
フード付きの長外套の下に鎖帷子を着込んだ男が答える。商人には似つかわしくない、傭兵然とした風貌だった。
「まあそうですね。それに、あのご令嬢が仮に我々の正体を見抜いて報告したとしても——」
最初の男が苦笑を浮かべる。
「あの歳の小娘の話を真に受けるほどの余裕が、連中にあるとも思えないですやね」
一団の間に、くぐもった笑い声が漏れた。
「まあ、今から何かしたところで、この状況はもう変えられんだろう。奴らにとってはむしろ無視したほうが賢明な判断といえるかもしれん」
隊長格の男だけは真面目な口調で、しかし今度は誰に聞かせるでもない独り言のようにつぶやいた。
先ほど遭遇した予定外の出来事を肴に束の間だけ気を緩めた男たちは、やがて再び戦場のような緊張を纏い直すと、互いの間隔を保ったまま、ゆっくり目的地へと歩を進めた。




