第12話 大人の判断
館までの道のりを、無我夢中で駆け抜けた。気づけば日は頭上まで昇り、真夏の陽射しがまぶしく照り付けている。どれほどの時間を走ったのか、もはや感覚さえ定かではなかった。
暑さと走り続けた馬の揺れで、汗が衣服を肌に張り付かせていた。束ねていた赤褐色の髪はすっかり乱れ、額に張りついた髪の隙間から、頬へ薄く土埃がついている。
それでも視線だけは落ちなかった。見てきたものを、一刻も早く父へ伝えなければならない。その思いだけが、フェリシアを前へ向かわせていた。
愛馬マクシムとひた走り、ようやく館の門が視界に入ったその時だった。
フェリシアは思わず手綱を引き、速度を落とした。
門の前に、見慣れぬ主従が佇んでいたからだ。馬上の騎士が一人と、その傍らに控える三人の従士。ちょうど正門の大扉が開かれようとしているところで、真上からの陽光が彼らの足元に濃い影を落としていた。
普段なら裏手の勝手門から厩舎へ戻るところだが、今は一刻を争う。こ幸い、正門は開きかけている。フェリシアは彼らに続いて入ろうと馬首を向けた。
馬の足並みを整え、大扉の前にいる一行へ追いつこうとした、その時だった。
主君と思しきその騎士が、馬上でおもむろに兜を脱ぎ、ゆっくりと背後を振り返った。
騎士の外套は青地だった。そこに映えるのは、帝国の象徴たる黄金の双頭の鷲。そして袖口の近くには、帝国の威光に遠慮するかのように、小さな野兎の紋章が添えられていた。
その意匠には、フェリシアも見覚えがあった。二十代後半ほどに見える馬上の主は、目を丸くしているフェリシアへ、親しみを込めてにこやかに微笑みかけた。
「おお、これはフェリシア様。私を覚えていらっしゃいますか。マロネイア村の領主、ルキウス・オ・ベラータにございます」
ここから徒歩で丸一日ほどの距離にある、小さな村を治める領主騎士――――フェリシアの記憶通りの人物であった。
見知った顔に、フェリシアの緊張がわずかに緩んだ。とはいえ、今は一刻を争う事態だ。挨拶もそこそこに父の元へ向かいたい――そう考えた矢先、ある可能性が脳裏をよぎり、彼女は思い直した。
——彼がここにいるのは、援軍の先触れだからではないのか?
——帝都からの軍が、間に合ったのでは……!
俄かに膨れ上がった期待に胸を躍らせ、事情を聞き出そうと口を開きかけた、その時だった。
「おお、ルキウス殿。よくぞ参られた!」
館の奥から、父エウスタティウスが残っていた騎士を引き連れ、中庭へと姿を現した。どうやらルキウスの到着を聞きつけ、自ら出迎えに出てきたようだった。
「お久しぶりです、エウスタティウス様。先年の豊穣祭以来ですな」
出迎えに来たエウスタティウスを前に、騎士ルキウスは美しい所作で下馬し、礼を尽くした。
一人馬上に残されたフェリシアは、場違いな自分の姿に急にバツが悪くなり、おずおずとマクシムから降りた。手綱を引き、汗と埃にまみれたまま父の方へと歩み寄る。
「フェリシア。このような時にお前は、どこに——」
父の低い声には、明らかな叱責の色が混じっていた。しかし、その言葉はフェリシアの切迫した叫びに遮られる。
「父上、神殿です! 神殿に敵がいます……いえ、正確には神殿へ向かって敵が……!」
矢継ぎ早に口をついたのは、感情のままのまとまりのない言葉だった。しかし、それだけで周囲の空気を一瞬にして凍りつかせるには十分すぎる報告だった。
父の眉が険しく寄せられ、ルキウスの微笑みが消える。
フェリシアは一度言葉を切り、深く息を吐いた。
落ち着け、と自分に言い聞かせる。逸る鼓動を抑え、状況を頭の中で組み替えながら、彼女は静かに口を開いた。
「神殿の方向へ向かっている、十人にも満たない一団を見つけました。行商人を装ってはいましたが、……ミハリおじさんやアスターナたちパンフィロス商会の人と、纏う空気がまるで違います。
それに、積み荷の幌の下には――大量の武器や防具が隠されていました。
少人数なのに、動きに一体感がありました。行商人の一団なら、あんなふうには歩きません。
あれは間違いなく、神殿を目指しています。
……もしかすると、少人数に分かれて動き、誰もいない今の神殿で合流するつもりなのかもしれません」
フェリシアの報告を受け、マロネイア村の騎士ルキウスはエウスタティウスへと向き直った。
「フェリシア様の報告から察するに、敵は北の《《セヴァリス王国軍》》だけではなさそうですね。他の援軍の状況は?周辺領主たちの兵はどうなっています?」
「ベルナルド殿、カスパル殿、ヨハネス殿ら北西部一帯の領主にはすべて派遣の打診をしたのだが……彼らも援軍は出すと言ってくれているのだが……帝都からの来る本隊に歩調を合わせる、とのことだ」
ルキウスからの質問にエウスタティウスは厳しい表情で答えた。
つまるところ、帝都からの援軍が来ない限り、彼らの兵も動かない、ということだ。
父たちの会話を聞きながら、フェリシアは内心で首をかしげた。自分が期待していた内容とは、まるで見当が違っていたからだ。
たった四人、などといえばルキウス殿に対して失礼極まりないのだが……それだけの人数での単独行動というのが理解できなかった。だからこそ彼女はルキウスたちの姿を見たとき、てっきり彼らは帝国軍の本隊から遣わされた先触れなのだと思ったのだ。
フェリシアは知る由もなかった。
どうして、帝国は一つの軍ではないのか。
帝国の軍制は、帝都周辺の直轄領が管轄する直轄軍と、アルトレウス家などの封建領主が抱える領軍とに分かれている。それらは同じ帝国の兵でありながら、完全に別の組織であり、指揮系統の接点すら持たない。
フェリシアが思い描いていたような、一つの命令で整然と動く帝国軍など、どこにも存在しないのだ。
いや、全世界の華と謳われ、強固な中央集権を確立していたかつての帝国であれば、軍は彼女の想像通りであったのかもしれない。
しかしそれは今や、帝国の歴史書にすら残っていない、忘れ去られた過去の遺物であった。
「女子であっても乗馬程度は嗜むべし」という家風のアルトレウス家であっても、軍事に女性が関わることは良しとされていない。フェリシアがこうした複雑で、歪な軍の仕組みに疎いのは、当然のことであった。
エウスタティウスは苦々しげに押し黙っていたが、やがて絞り出すように言った。
「……いや。それでも、そなたが来てくれたことはこの上なく心強いぞ」
「滅相もございません。我が父が早世した折、右も左もわからぬ私に援助の手を差し伸べ、領地経営の指南までくださったのはエウスタティウス様です。アルトレウス家の火急の事態に、私が馳せ参じる《はせさんじる》のは当然のこと」
二人はしばし言葉を交わし合い、互いの無事と来訪を労った。
その様子を見て、フェリシアにも一つだけ分かった。
騎士ルキウスは、帝都から遣わされた援軍の先触れではない。彼は、彼自身の恩義でここへ来たのだ。
――ああ、そうだった。今は、自分たちが動かなければならない時だった。
フェリシアの中で、絡まっていた思考がふっとほどけた。
彼女は大人たちの会話に、迷いなく割って入った。
「父上! すぐに神殿へ向かう敵を討ちましょう!」
その瞬間、父の左右に控える老臣たちが「何を言い出すのだ」と言わんばかりの驚愕の表情で、一斉にこちらを向いた。その視線を一身に浴び、フェリシアは自身の考えに自信を失いかけ、思わず怯む。だが――
その迷いを振り払うように、そして己を鼓舞するように、フェリシアは声を張り上げた。
「私が見た集団はごく少数でした。他にも同じような集団があるのかもしれません。ですが敵はまだ準備が整っていないのでは?
今なら館に残る兵だけでも勝てます!」
誰もが、援軍が来ないという絶望的な状況に思考を縛られ、逃げ道ばかりを探していた。そこへ投げ込まれた、彼女のあまりにも真っすぐで、遠慮も計算もない言葉。
しかし老騎士たちはあからさまに難色を示した。
やがて、その中の一人が重い口を開く。
「フェリシア様。敵が少数に見えたとしても、それが罠である可能性は拭えませぬ」
それを皮切りに、別の騎士も続いた。
「斥候か、囮の可能性が高い。少人数で堂々と動くとは、むしろ我々が動くのを待っているのでは? いや、そもそも戦のことなど何もわからぬ女子の、しかも子供の目でどこまで正しく状況を見てとれたのかも疑問です」
彼はエウスタティウスへ視線を移し、諭すように言葉を重ねる。
「今ここで兵を動かせば、館は手薄となります。万一、本隊が後から来ていた場合、残された者たちはいかが相成りましょう。神殿を狙う敵が、実はこちらの館を本命としているやもしれませぬ。
……若いお嬢様の熱意は立派ですが、戦とは熱意だけで勝てるものではございません」
居並ぶ者たちが次々と否定的な意見を述べる中、ルキウスだけが黙ってフェリシアを見ていた。
十四歳の少女が口にするということに驚かされた。だが、間違ってはいない。
やがて彼は、静かに頷いた。
「皆々様方の意見はもっともです。しかし一方で……敵の集結が完了する前にその機先を制するのも、また戦場での定石ではないでしょうか。フェリシア様の仰る通り、今が好機かもしれません。いかがでしょう、エウスタティウス殿!」
ルキウスの言葉を受け、フェリシアの胸に熱い火が灯った。
――伝わった。私の言葉が、騎士様を動かした!
高鳴る鼓動を感じながら、彼女は期待に満ちた目で父を見つめる。自分の進言が、この行き詰まった状況を打ち破る一手になることを疑わなかった。
しかしエウスタティウスはしばらく言葉を発しなかった。
中庭を吹き抜ける風の音だけが、不自然なほどに大きく響く。
エウスタティウスは、娘の真っ直ぐな瞳をまともに受け止め、口を噤んでいた。
数拍分の、長く苦しい静寂。
やがてエウスタティウスは、断腸の思いを飲み込むようにして、ゆっくりと首を横に振った。
「いや、だめだ」
父の声は静かだったが、そこには動かしがたい拒絶の響きがあった。
「まずは戦えない者たちや家臣の家族を、安全な場所へ避難させることが先決だ。ルキウス殿には、その護衛をお願いしたい」
エウスタティウスはルキウスに向き直り、有無を言わせぬ口調で続けた。
「周辺の情勢も不安定だ。予定を繰り上げ、すぐに出発させる。一行の守り、引き受けてもらえるだろうか」
「……畏れ多いことです。アルトレウス様のお役に立てるならば、喜んで」
その若さゆえか積極策を好み、この中で唯一フェリシアの進言に同調したルキウスだったが、エウスタティウスの決定には心の内を表情に出すことなく、騎士の作法に則り、恭しく頭を下げ了承した。
——やはり、私は子供なのか。
二人の間で話がまとまっていくのを、フェリシアは耐えがたいもどかしさで見つめるしかなかった。その苛立ちは、隠しようもなく表情に溢れ出している。
――このままじゃ結局何もできないまま、誰の役にも立たないままだ。館に留まることすら…あの言葉が父から出る前に…
焦燥感が胸の中で駆け巡る中、次の言葉を懸命に探したがすぐには次の一手が思いつかない。
そんなフェリシアの様子をよそに、父は遂に毅然とした声でそれを命じた。
「フェリシア、お前も急いで避難の支度をしなさい」
朝からずっと逃れようとしていたその言葉が、遂にフェリシアをとらえてしまった瞬間だった。
フェリシアの胸の中で、朝から張り詰めていたものが、音もなく切れた。
「失礼します!」
叫ぶように言い捨てると、彼女は再びマクシムへと駆け寄った。
たとえ一時的にでも何もかも忘れて、このまま外へ飛び出したかった。しかし、無情にも正門はすでに閉じられ、重々しい二重の閂が下ろされた直後だった。
物理的に閉ざされた出口を前に、フェリシアは拳を握りしめる。もはや強行突破も叶わない。彼女はせめてもの抵抗を示すように荒々しく、「行くよ、マクシム」と言い捨てると、それでも手綱だけは優しく引き、厩の方へと肩を落として歩き出した。
そしてマクシムの首筋に額を押し当てた。馬の体温が、わずかに自分を落ち着かせる。
フェリシアは溢れんばかりの悔しさを飲み込むように、強く唇を噛んだ。
「フェリシア!」
背後から父の呼び声が追いかけてきた。その声に振り向きたい自分の気持ちを抑え、彼女はそのまま歩き続けた。




