第13話 母の決意
館の奥まった客間で、イザベラは二日前に実家へ遣わしていた家臣と相対していた。
男は旅装束で、イザベラが実家から嫁ぐ際についてきた古参の家臣だった。イザベラと同じく北方系移民の末裔で、銅色の髪と厳つい顔立ちに、テュリンギ人の特徴が濃く残っている。明らかに長距離を急いできたらしく、埃と汗にまみれ、唇は渇いていた。
差し出された返書を受け取る彼女の指先は、期待と、それ以上に深い不安でかすかにこわばっていた。
イザベラは男に茶を勧めながら、静かに労った。
「大儀でありました。帝都からの道のりは大変だったでしょう。して、父上は、兄上は何と……?」
問いかけながらも、彼女は手元の書状に視線を落とした。実家、ニコメディア家の紋章が押された封蝋。それを解こうとした彼女の指が、ふと止まった。
封蝋には、すでに刃が入れられた跡があったのだ。
家臣は、その指先の動きで彼女が気づいたことを悟り、何から説明すべきか一瞬の迷いを見せた。だが、意を決したように言葉を選ぶような、硬い口調で語り始めた。
「……帝都を出る際、城壁門で警備隊の検閲に遭いました。ですがご安心ください。書状は奪われることなく、こうしてお手元へ届けております」
彼は差し出された茶を一息に飲み、渇いた喉を潤した。そして一息ついた後、最も言い難い報告を続けた。
「実は、御父上やご当主様への面会は……叶いませんでした」
イザベラはその返事を予期していなかったのだろう。ひと息ぶん、動揺がそのまま表情に出た。そして一呼吸分の沈黙の後、静かに頷いた。それを受け彼は言葉を続けた。
「家令のウォルフ殿より、ご両名への面会は叶わぬ旨を告げられ、一日、屋敷に留まるよう命じられました。そして翌朝、こちらの返書を承りました。お父上様からとのことでございます」
家令ウォルフ——父や兄の腹心といってよい人物だ。
イザベラは、すでに封を解かれたその手紙を取り出した。羊皮紙とは異なる、しなやかで白い|ダマスカス紙の感触が指先に伝わる。本来ならば実家の財力を誇示するはずのその贅沢な紙は、今や検閲の跡を隠そうともしない無残な姿で彼女の手元にあった。
イザベラは手紙を丁寧に開いた。指先は落ち着いていたが、心拍は早まっていた。
文面は、一見すれば何の変哲もない家族間の手紙だった。時候の挨拶に始まり、帝都の穏やかな日常、共通の知人の近況。検閲の目をごまかすには十分すぎるほど、たわいもない内容ばかりだ。
だが、父がこの非常時に、あえて検閲のリスクを冒してまで届けさせた手紙なのだ。どこかに真意が潜んでいるはずだ——。
イザベラは祈るような心地で、何度も文面に視線を往復させた。やがて、彼女の目は末文近くの一節で釘付けになった。思考が、そこで一拍遅れた。
『今年の冬は、北風が例年以上に厳しくなるとの予報だ。庭の薔薇は、早めに温室に移すべきだろう。大切なものを失わぬよう、手遅れになる前に手を打つのが賢明と私は思う』
イザベラはその一節をなぞるように読み返した。さらにもう一度、一語一語を噛みしめるように。
すでに、帝都の舞台裏で何らかの駆け引きが通じる段階は過ぎ去ったのだ。父がこの一文に込めたのは、もはや忠告ですらない。帝都の現状が示唆するのは、抗う術のない「終局」の宣告だった。
そう悟った途端、手紙を持つ指先が、自分の意志に反して激しく震え始めた。
彼女は奥歯を噛み締め、抗うようにその震えを抑え込んだ。抑えがたい恐怖を包み隠すように、ダマスカス紙をゆっくりと、三つ折りにたたんでいく。
いつもなら気にも留めないはずの紙の乾いた感触が、指先にいつまでも重く残っていた。
「……その他に、報告することはありますか」
「はい。ニコメディアの屋敷を辞す直前のことにございます」
家臣は声を潜め、言葉を選びながら続けた。
「家令のウォルフ殿が、あえて通常とは異なる順路で私を案内いたしました。中庭を見下ろす回廊を通りかかった際、他家の使者らしき人影が見えたのですが、ウォルフ殿は問わず語りにこう申したのです。『あれはハインリヒ卿の使者ですね』と……。あれは、明らかに私に見せるための差配であったかと」
侍従長ハインリヒ。ニコメディア家も所属する派閥と呼ぶには小さな、テュリンギ人同胞たちによる互助ネットワークの中心に立つ人物だ。彼がこの帝国内外の立場の不安定なテュリンギ人の事実上の代弁者であり、頼るべき寄る辺であった。
イザベラは、手紙の結びに記された最後の一節を反芻した。
——『草花に詳しいウォルフに聞くのがよかろう』。
父や兄が直接の接触を拒み、沈黙を貫いた理由を、彼女は冷ややかな心地で理解した。
すぐにでも動き出さねばならない。理屈では分かっていても、心がその決断の重さに追いつかない。イザベラは、ほんのひと時、椅子に身を預けたまま虚空を見つめていた。
報告を終えた家臣は、主君の沈黙に込められた苦渋を察したのだろう。音を立てず、静かに退いていった。
独りになったことに気づいたイザベラは、導かれるように窓際へと歩み寄った。
分厚い石壁を穿った窓には、板戸が外側に開かれている。そこから差し込む夏の強烈な陽射しが、床の石畳を白く焼き付けていた。
その中で、フェリシアが丹精込めて育てている季節外れの薔薇が、深紅に咲いている。盛夏の熱気に晒され、花びらは今にも萎れそうに反り返りながらも、辛うじて茎に繋ぎ止まっていた。
——大切なものを失わぬよう。
この炎天下で、父の言葉だけが冷たく胸に響いていた。
独りとなった客間に、静寂を破り扉を叩く音が響いた。
「……はいりなさい」
現れたのは、家令のルドルフだった。その表情はいつになく硬い。
「奥方様、少々お耳に入れたきことが」
「何かありましたか」
「フェリシアお嬢様が、まだお戻りになりません」
ルドルフの言葉に、イザベラは眉をひそめた。
「先ほど外から戻ったと聞いていたのですが?」
「はい。ですが正門前の広場にて、エウスタティウス様らと……その、少々ございましたようで。その後、厩舎へ向かわれたきり姿が見えぬとのことでした。避難させる一団の責任者からは、準備が整わぬと急かされておりまして……」
イザベラは小さく溜息をつき、もどかしげに首を横に振った。
「わかりました。私が向かいましょう」
父からの手紙をそっとテーブルへ置き、厩舎へと急いだ。
* * *
ルドルフの報告を受けるや否や、イザベラは迷わず厩舎へと足を向けた。
夏の陽光が差し込む厩舎内には、かつて並んでいたはずの馬たちの姿はほとんどない。戦場へと引き抜かれた後の、がらんとした空虚な沈黙がそこにはあった。
イザベラは、娘が誇らしげに何度も紹介したことで覚えていたマクシムの馬房まで一直線に向かう。
そこには、近隣の領主である若き騎士、ルキウスが独り立っていた。その横顔には、割り切れぬ重い思索の色が滲んでいる。
「ルキウス殿。到着されていたというのに挨拶が遅れ、失礼いたしました」
イザベラの声に、ルキウスは弾かれたように身を正した。
「いえ、過分なお言葉。私の方こそ、取り込み中にお邪魔を……」
「フェリシアはそこに?」
「いえ、それが……つい先ほどまで、ここにおられたのですが」
ルキウスは苦い記憶を反芻するように、言葉を継いだ。
「お嬢様は、自ら偵察に出て得た情報をエウスタティウス殿へ進言されました。ですが、一顧だにされず……。そのお姿があまりに不憫で、気になってこちらへ参ったのです。
お嬢様はここでマクシムの毛並みを整えながら、私に胸の内を吐露してくださいました。ですが、次第にうつむかれてしまい……」
イザベラは眩暈を覚える思いだった。女の身で独り偵察に出ていたなど、無鉄砲にも程がある。
「その後、急に走り去られました。おそらく、自室に戻られたのではないかと。
この場では私こそが年長者として慰めるべきであったのに、余計に感情を高ぶらせてしまったのかもしれません。申し訳ございません。ですが……」
ルキウスはそこで一度言葉を切り、熱を帯びた瞳でマクシムを見つめた。
「私個人としては、広場でのフェリシア様の凛とした姿、そして発せられた言葉に、不覚にも心を打たれました。……いや、これは、とんだ不調法を。お許しください」
イザベラは、はっと胸を突かれた。
娘の、貴族令嬢としては過ぎる活発さや言動を、これほど肯定的に捉える者がいること。対して、自分は母として一度でも、娘のその「輝き」を正しく見てやれただろうか。
その時だった。
厩舎の入口から、一人の騎士が荒々しい足取りで飛び込んできた。四十代後半、館に残ったアルトレウス家の騎士の中では最も若い男。名をデメトリオスという。今回の避難者たちの一団を取り仕切る役目を負わされた者だ。その表情は、焦燥と、剥き出しの苛立ちに染まっていた。
「奥方様、申し訳ありません」
「何か」
デメトリオスは、苦り切った顔で短く息を整え、言葉を続けた。
「荷駄馬が足りません。必要な数の六割にも届いていません。これでは必要な荷物、物資のすべてを運べません」
イザベラは、その言葉を聞いて、すぐに理解した。今、館に残っている騎士や従士は老齢の者が多い。その中で働き盛りの年齢である彼がここにいるという、その理由を。
イザベラは内心を表には出さないよう、さらなる報告を促すように彼へ鋭い視線を向けた。
デメトリオスは、傍らに立つルキウスに一瞬、「他家の小領主が何故ここに?」とでも言いたげな含みのある視線を投げた。
そしてその視線は、その先にあるマクシムの馬房へと移っていく。その瞳には、目の前の馬をただの運搬手段として値踏みする、剥き出しの実利の色があった。
その視線を浴びたマクシムが、不快げに鼻を鳴らして前足で床の藁を蹴った。
それから意を決したように、デメトリオスはイザベラへ向き直る。
「この馬を、荷駄隊に組み込むことをお許し願えませんか。これほどの体躯ですし、荷を曳かせても、他の馬とは比べものにならぬ働きをするはずです。ですが、厩番長に何度掛け合いましても『私の一存では決められぬ』の一点張りでして」
イザベラは、相手が言い終わるのを待たずに首を横に振った。
「許可することはできません」
「ですが奥方様、このままでは積み残しが出るばかりか、行軍の速度すら——」
「許可はできぬと言っているのです」
イザベラの声は、凪いだ水面のように静かだが、その奥には凍てつくような峻厳さが潜んでいた。
「そもそも、そなたは自分がマクシムを荷駄馬として御せるとでも思っているのですか?この馬がどういった血を継ぎ、いかなる気性であるかを理解して申しているのか」
その響きには、これ以上の抗弁を一切許さぬ圧倒的な拒絶があった。デメトリオスはなおも食い下がろうと唇を動かしたが、冷徹なまでの女主人の気迫に圧され、吐き捨てようとした言葉を飲み込んで押し黙った。
「積み荷の問題であるなら、内容を精査し、取捨選択をしなさい。それでもなお足りぬというのであれば……」
イザベラは、傲慢な騎士を冷たく射貫くように見据えた。
「避難させる者たちの一団には、周辺の農村から集まった者たちもいるはずです。
彼らから荷車を借り受けることなど、造作もないことでしょう?そなたら騎士が護衛として付くのです。よもや、その荷車を引く五体満足な男手が足りぬなどという、情けない話にはなるまいな」
——馬が足りぬなら、お前たちが引け。
暗にそう告げられたデメトリオスの顔が、屈辱に赤く染まった。完膚なきまでに論破された彼は、憎悪と怒りが混じった視線を向けた。しかしそれは長くは続かなかった。
やがてマクシムの接収を諦め、苛立ちを地面に叩きつけるような足取りで、中庭の作業場へと戻っていった。
その背が遠ざかるのを見届けてから、イザベラは再びルキウスへ視線を向けた。
ルキウスは彼女の真意を読み取ったかのように、深く頷いた。
「微力ながら、私も彼らと共に護衛に就きます。どうか、お任せください」
そう言い残すと、彼は足早にデメトリオスの背を追いかけていった。
厩舎に独り残されたその時、馬房の奥からマクシムが歩み寄ってきた。
普段ならフェリシア以外には決して触れさせぬあの鋭い気配も、今は消えていた。
——フェリシアは、おそらく彼らと共に避難することを拒むだろう。
だとすれば、いずれかの時点で、自分たちの手で彼女を逃がさねばならないかもしれない。そしてその時、フェリシアが生き延びるためには、このマクシムの足があれば頼もしいだろう。
——頼みますよ、マクシム
心の中でそう願いを託しながら、イザベラはその温かな首筋を一度だけ愛おしげに撫でた。それから、自らの戦場である館へと続く道を、力強い足取りで歩み始めた。




