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アルトレウスの娘 ~アグニシア戦旗~  作者: 名も無きサルカズ
アルトレウスの娘

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第14話 帰る場所を失わぬために


 帝国歴467年7月24日 夕刻


 すでに西日が、軍陣に舞い上がる砂埃を赤く照らしていた。


 朝から始まった更迭こうてつ劇に端を発する陣中の騒ぎは、ようやく収まりつつあったが、それは秩序が戻ったからではない。混乱の種を、丸ごと外へ放り出した結果に過ぎなかった。


 ドロミア領主であるヴァルデリク・オ・ドロミアは馬上から、本国へと去りゆく元輜重隊しちょうたいを無言で見届けていた。


 更迭された指揮官に代わって、グリゴリ将軍旗下の騎士たちが部隊を掌握しようと試みたが、結局、最後まで部隊としての体裁を取り戻すことはなかった。


 それもそのはずだ。この部隊を構成しているのは、ロスティス公爵の家臣と、その領地でかき集められた領民たちである。


 急に現れた将軍の騎士が何を命じたところで、彼らがまともに従うはずもなかった。あからさまなサボタージュが続き、徴用された彼ら公爵領の農民たちも「誰が本当の主人か」をよく理解していた。


 ——結局、こうなる。


 ヴァルデリクはセヴァリス王国の内部事情に詳しいわけではない。それでも、今朝の将軍と公爵派のやり取りを見た時点で、こうなる予感はあった。目の前の光景は、その予想が的中したに過ぎない。


 グリゴリ将軍は、日が傾くまでこの醜態を黙って眺めていた。


 隣に馬を並べていたヴァルデリクにだけ聞こえるような低い声で、「まあ、こんなものだろう」と独り言のようにつぶやくと、将軍は決断を下した。


 公爵領軍、そのすべてを本国へ送還する。


「そなたらは元の指揮官の旗下に戻れ。半刻以内に陣を引き払い、帰国の途に就くがいい。——ただし、糧食や物資はすべてここに置いていけ」


 それは慈悲じひなどではなく、事実上の放逐ほうちくだった。


 ロスティス公爵配下の指揮官たちにとっては屈辱であったが、ともかくも兵権を取り戻したことで妥協したのだろうか。いそいそと帰国の途に就いた。


 グリゴリ将軍にとっても、この半日は、糧秣・物資と彼らの部隊とを引きはがす儀式に費やすべき時間であった。


 こうして残された糧秣と資材は、王国軍の精鋭たる将軍直属の兵から人員を抽出し、臨時の運搬部隊を編成して運ばせた。


 選ばれた兵たちは、ためらいもなく荷を担ぎ、。馬や荷車に積み込み、自ら荷車を引いて列を整える。

 重い荷車を引くその背に、精鋭としての矜持きょうじも、一個人としての不満も見て取れなかった。

 彼らにとって、これは単なる『命令の遂行』であり、そこに判断や感情が介在する余地はないのだ。


 ——兵の質とは、こういうものか。


 ヴァルデリクは、グリゴリ将軍旗下の兵たちの動きを目で追いながら、静かな感銘に打たれていた。


 無駄な怒声も、混乱もない。正確な規律で、陣の撤収と出発の準備が並行して進んでいく。日が落ちるのを待たず、「準備完了」の報告が将軍のもとへ届けられた。


 報告を受けた将軍は、沈みかけた太陽を背に、短く、鋭い号令を発した。


「これより前進する!」


 ヴァルデリクは息を呑み、思わず隣の将軍を直視した。

 この日はここで野営するものとばかり思っていた。


 輜重隊の混乱は収まったとはいえ、すでに日は大きく傾いている。日没までは、あと半刻ほど。通常なら、兵の疲労を考慮し、宿営の段取りを固める時間だ。今この瞬間から、全軍を動かす道理はどこにもない。


 だが、将軍の瞳には、一切の迷いもなかった。


 「予想される敵の防衛陣地の対岸の河畔まで移動する。日があるうちに、可能な限り距離を詰めよ」


 その言葉は、まるで退路を断つかのような響きを持っていた。


 ヴァルデリクは、将軍の背後に透けて見える意図を読み取ろうと、思考を巡らせた。


 敵は、こちらの前進速度を最大限に削ぐべく「遅滞戦術」を選択している。


 思い返せば、輜重隊の不備で身動きの取れぬ日中、アルトレウス領軍は我らの進路を阻むため、集積していた粗朶そだを燻して前方一帯に濃密な煙幕を張っていた。だが、それは結果として徒労に終わっている。


 そう考えると日中の停滞はむしろ僥倖ぎょうこうであった。いや、将軍は敵の工作を見越し、あえて動かなかったのではないか。事実、夕刻には敵の工作も種が尽きたか、あるいは夜間の進軍はないと断じたか、それらの妨害は霧散むさんしていた。


 敵の遅滞戦術をあざ笑うかのように、一刻の猶予も与えず、想定を上回る速度で距離を詰める。この黄昏時に軍を動かすという行為そのものが、敵に対する強烈な示威じいであった。


 ——この男、本気だ。


 ヴァルデリクは、将軍の冷えきった横顔を見つめながら、これから始まる戦いの苛烈かれつさを確信していた。


 改めてグリゴリ将軍へ視線を戻したが、その表情はすでに夕闇の底に沈み、仮面の下を窺い知ることはできなかった。



      * * *


 帝国歴467年7月25日 早朝


 夜明け前の空気は、夏にもかかわらず思いのほか冷たかった。


「……やはり、朝になったか」


 自分でも驚くほど、独り言は冷静だった。

 ルキウスは浅く息をつき、まだ薄闇に沈む街道を見渡していた。

 避難の一団は、結局、昨日のうちに出立することができなかった。

 荷駄の不足。これは仕方がない。

 だが、問題はその後の対応があまりに遅く、根本的な解決を見ぬまま今朝を迎えたことにある。


 ルキウスは昨日のあれからの顛末を思い起こしていた。


 どの積み荷を捨て、何を残すのか。それを決断できる責任者がこの一団にはいなかった。そもそもこの一団でここを離れる者たちは、戦えないから避難するのである。荷車を引いて帝都までの道のりを耐えられるような者はいないのだ。


「荷車を引く男手が足りぬなら、私が引こう」


 あまりに収拾のつかない状況に業を煮やしたルキウスは、自らの従士と共に一台を受け持つと志願した。


 ルキウスは大柄な騎士ではなかった。むしろ、武人たちの中に並べば小柄な部類に入る。短く整えられた暗い茶の髪。日に焼けた顔。肩や腕は見栄えのする太さこそなかったが、無駄なく締まっていた。

 日頃から村道を歩き、畑のあぜを越え、馬を曳き、時には自ら荷を担いできた者の身体だった。


 だが、その申し出は、避難の指揮を預かる騎士デメトリオスに一蹴された。曰く「騎士の仕事ではない」と。


 数時間に及ぶ不毛な議論の末、ようやく決まったのは「天幕用の資材を外す」という苦肉の策だけだった。


 だが、それでもなお、積み荷の量は荷馬車の許容量を超えていた。


 皮肉なことに、騎士が拒んだ荷車引きの役目は、見かねた数名の若い女たちが志願することでようやく決着を見た。それをデメトリオスがどう感じたのかはわからない。


 指揮系統は混乱し、隊列の編成は遅れに遅れた。日没後の移動は危険だという判断は正論だったが、その判断に至るまでの逡巡しゅんじゅんがあまりに長すぎたのだ。


 そしてルキウスの胸には、出発にあたって拭いきれぬ懸念けねんが残っていた。


 ——天幕を捨てたことだ。


 帝都までは、老人や子供の足でも二日はかからない。だが、それでも一晩は確実に野宿となる。


 日々訓練を積み、地べたで眠ることに慣れた我々ならまだよい。しかし、年端もいかぬ子供までいるこの旅慣れぬ一行に、屋根も壁もない場所で夜を越えさせるなど、あまりに酷ではないか……。


 そして何よりも確かなのは——

 この隊列を率いる騎士、デメトリオスに対する不安だった。


 デメトリオスの声は無駄に大きく、指示はいたずらに多い。


 だがその指示は、およそ的確とは言い難いものだった。そして刻一刻と変わる現場の状況にも対応できていない。


「……まずは馬を優先しろ。いや、やはり荷車が先だ! 待て、老人と子供を列の前に——違う、後ろだ!」


 支離滅裂しりめつれつな命令が飛ぶたびに、避難民たちの間には戸惑いと疲労が広がっていく。


 小さな村の領主であり、民との距離の近いルキウスは、民をなだめ、彼らと共に実務をこなしながら、その混乱をただ冷めた目で見つめていた。


 領主であるエウスタティウスが、領地に到着したばかりの自分をすぐにこの一団の補佐に付けた理由を、ルキウスは今になってようやく理解した。


 エウスタティウスとて、直臣であるデメトリオスにすべてを任せることの危うさを、あらかじめ察していたのだろう。自分のような「他家の人間」を混ぜることで、せめて最低限の歯止めにしようとした……それが、この惨状の正体だった。


 だが、その目論見もくろみすら、デメトリオスのプライドを刺激したようで、馬房前で自分に向けた彼の視線がそれを物語っていた。


 朝日が昇るにつれ、本来なら出発を喜ぶべき避難民たちの顔には、夜通しの混乱による色濃い影が落ちていた。

 それでも、陽が地平を離れる頃になって、隊列はようやく動き始めた。出立と呼ぶにはあまりに鈍く、整わぬ歩みだったが、それでも館を離れたという事実だけが、人々を前へ押し出していた。


 列の準備が遅々として進まぬ中、ルキウスは隊列の外縁を歩いていた。

 馬のいななきと、荷車の軋む音。

 不安と疲労が混じったざわめきが、朝靄の中に溶け込んでいる。


 その中で、ふと目に留まったのは、荷馬車にうずたかく積まれた荷の脇に腰を下ろす、一人の老女だった。


 荷台に座を許されているのは、基本的には年端もいかない子供か、あるいは騎士や従騎士の身内で、自力での行軍が困難な老人だけだ。それ以外の領民階級に高齢者の姿はほとんどない。


 帝都までの過酷な旅程を思えば、歩けぬ老人は本人も周囲も、初めから随行を諦めているからだ。彼らは住み慣れた村に残り、ただその時を無事にやり過ごせるよう祈るほかないのである。


 彼女は粗末な外套を羽織り、膝の上に小さな包みを抱えている。


 身なりは慎ましく、貴族の妻というよりは、長く働いてきた農家の女に近い。だが背筋は不思議とまっすぐで、視線に濁りがない。


 ルキウスは、無意識のうちに足を止めていた。


 老女は、彼の視線に気づいたのだろう。


 ちらりと顔を上げ、控えめに会釈した。


 「あなた様はアルトレウスの騎士様ではございませんね」


 声は低く、落ち着いていた。


「はい、エウスタティウス様からお役目をいただきまして、皆様をお守りいたします。マロネイア村のルキウスと申します」


 老女は一瞬きょとんとした表情を見せ、それから小さく笑った。


「それはそれは、他領からわざわざのご助力、ありがとうございます」


「……こちらへは、ご家族で避難を?」


 ルキウスは探るようにならぬよう、慎重に問いを選んだつもりだった。


 老女は、少し間を置いてから答えた。


「ええ。といっても……もう、私ひとりですが」


 言葉に、嘆きはなかった。


 事実をそのまま述べただけの、乾いた響き。


 彼女は騎士ヴィクトルの母であるという。ルキウスに彼との面識はなかったが、エウスタティウスの話に何度も登場する名だったので、記憶に深く刻まれていた。


 母一人子一人。奥方であるイザベラの勧めもあり、この一団に加わったのだという。


「騎士の母としては、情けない話かもしれませんが」


 そう前置きして、老女は穏やかに続けた。


「それでも、生きておらねばなりません。あの子が帰る場所を、失わぬために」


 その言葉は、ルキウスの胸を静かに、だが深く刺し貫いた。戦場で散る者の勇壮な覚悟なら、彼は知っている。

 だが、泥にまみれ、屈辱に耐えてでも「待ち続ける」という、戦場に立たぬ者の強靭な覚悟を、彼は知らなかった。


 しばらくの間、彼女との世間話に時を忘れて歩調を合わせていたルキウスだったが、不意に前方で起きた騒ぎに意識を引き戻された。いつの間にか隊列は停止し、遠くからあの騎士デメトリオスの怒鳴り声が響いてくる。


 どうやら最前列の馬車が荷崩れを起こしたらしい。


 ルキウスはヴィクトルの母君へ騎士の作法に則った一礼を捧げ、最後にもう一度だけその姿を視界に収めた。それから、喧噪けんそうの渦中にある荷馬車へと静かに駆け出した。


 ——どうか、この一団が目的地まで無事に辿り着けますように。


 ルキウスはそう願いながら、イグニズの神々に静かに祈りを捧げた。



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