第15話 確信の揺らぎ
帝国歴467年7月25日 朝
執務室の窓から差し込む光は、夏の盛りとは思えぬほど弱々しく、頼りなかった。
エウスタティウス・オ・アルトレウスは机に向かったまま、しばし筆を置いていた。
机上には、すでに書き終えた何通もの書状が並んでいる。周辺領主への援軍要請、帝都の古い伝手への根回し、そして——読まれているのかすら怪しい、形式だけの帝都への報告文。
何度、同じ文面を繰り返しただろうか。
——援軍を。
——情報を。
——せめて、動きを。
延々と続く作業に、彼は無理やり区切りをつけた。
今朝、フェリシアが持ち帰った報告を思い出す。
神殿の方向へ向かう不審な一団。
統制の取れた動き。
商人を装った武装兵。
敵の一部がすでに領内へ浸透している可能性は高い。彼は直ちに館の守備配置を見直させ、見張りを増やし、神殿方面への警戒を命じた。戦えぬ者の避難も前倒しで出立させた。館に残る兵は、最小限となる。
——備えは、している。たとえ神殿が本命であろうとも。
だが、その備えがどれほど意味を成すのか、エウスタティウスにはもう分からなかった。
胸の奥では、小さな棘のような違和感だけが疼き続けていた。
指先に残るインクの汚れを眺めながら、ふと、書類の端に記した日付に視線が落ちる。
最初の早馬を放ってから、今日で三日目の朝だ。
どれほど遅くとも、この時刻までには帝都からの援軍、あるいはその先遣隊が姿を見せるはずだ。
そう見込み、そう信じようとしてきた。
だが、現実は静寂だけを返してくる。
窓の外、見渡す限りの街道に、動きはない。
救いの土埃も、翻る軍旗も、一報を告げる伝令の影すら、そこにはなかった。
——遅れている、だけなのか。
——それとも。
帝国の意思決定は、もはや機能していないのではないか。
今にして思えば、自分はずっと、その事実から目を背けていただけなのかもしれなかった。
帝国は今や、西大陸の端の半島に押し込められた小国に過ぎない。残されたのは帝都とその周囲のみ。
ただ、帝都が東大陸との海峡を抑える要衝であったがゆえに、
東西の中間貿易という細い糸で、かろうじて国家の体裁を繋ぎ止めてきたに過ぎない。
その危うい均衡の中で、彼は封土を持つ唯一の「七家」の当主として、国境の盾となり戦い続けてきた。それだけではない。帝国の生命線である交易を支える新たな指導者として、着実に実績を積み上げてきた自負もあった。その誇りは、誰よりも強かったはずだった。
現実主義者の弟・マティアスは、とうの昔に帝都を見限っていた。だがエウスタティウスは、どこかでこの国に期待し続けていたのだ。
——今にして思えば、あの時も、この時も。
希望という名の願望に、自らの目を曇らせていただけだったのかもしれない。
自嘲の念に駆られながらも、それでもなお、視線は磁石に引かれるように窓の外へと向かってしまう。
ふと、別の疑念が胸をよぎった。
——今回の敵兵の数だ。
あれは、もはやドロミア領とアルトレウス領の境で起きた小競り合いなどではない。
軍旗こそ掲げていなかったが、あの装備、あの統制――間違いなくセヴァリス王国の正規兵だった。
だが、それにしては兵力が中途半端すぎる。
帝国に刃を向け、帝都に圧をかけるつもりなら、千二百程度の兵で足りるはずがない。
セヴァリスは、必要とあらば一万、二万の兵を動員できる国だ。
にもかかわらず、投入された兵力は限定的だった。
まるで――
最初から、標的が帝国そのものではないかのように。
いや。
正確には――
――アルトレウス領“だけ”を、狙っているかのように。
考えがそこまで至り、エウスタティウスはわずかに眉をひそめた。脳裏に、妻イザベラの言葉がよみがえる。
「帝都の空気が、どこかおかしいのです」
実家からの書状を手に、彼女はそう告げていた。
検閲の痕跡、遠回しな言い回し、肝心なことが抜け落ちた不自然な平穏。イザベラは必死に警鐘を鳴らしていたが、その時の彼は、それをイザベラの過敏に過ぎぬと受け流してしまった。
今、その不作為の報いが、冷たい重りとなって胸に沈んでいる。
執務室の扉が、控えめに叩かれた。
「……入れ」
現れたのは、帝都へ使者として派遣したジュリアーヌスに付けていた従士の一人だった。
土埃にまみれた顔が、旅の過酷さを物語っている。彼は一通の分厚い報告書を差し出した。
「ジュリアーヌス様より、お預かりいたしました」
エウスタティウスはその分厚い報告書を黙って受け取り、机に広げた。
帝都の噂、貴族たちの不審な動き、市場で囁かれる規制の話。無数の断片を追ううちに、ある項目で目が止まった。
——東方交易に対する急激な介入。
禁制品の追加、数量規制、東大陸商会への許可証発行差し止め。これらはすべて、東大陸から西大陸への大量流入に対する強い警戒と、それによる市場混乱を懸念した措置だ。
だが、それらを追っていくうちに、報告書内でも頻繁に出てくるある項目に目を止めた。
——アルトレウス家が深く関わる、あの事業についてだった。
東大陸系の複数の商会が、帝都の規制に反発し、我々と供に考案したもの——帝都の外に、国外交易専門の新市場を築く構想。
その予定地は、アルトレウス領だった。
ジュリアーヌスの報告には、この新市場に対する強い反発が繰り返し記されていた。
それは単なる商人同士の反目ではない。帝都主流派貴族による、組織的な抵抗だった。
エウスタティウスはその反発を承知していた。だが、これまで「既得権益にしがみつく者たちの、無益な足掻き」と一顧だにしていなかったのだ。
——陛下のご裁断は、すでに仰いでいる。
彼はこれを大義名分と掲げてこの事業を積極的に推進している。だからこそ疑いたくなかった。
その確信こそが彼の支えであり――同時に、彼を盲目にさせていた。
交易融和を唱え、西大陸諸国との関係維持を重視する派閥。
そして、イザベラとジュリアーヌスの二人から名が挙がった、警戒すべき人物——侍従長。
正直なところ、侍従長のことはよく分からない。
彼がこれまで交易に強い関心を示していた記憶は、エウスタティウスにはなかった。
そんな彼らが、裏で手を組み、ましてや外敵の侵攻という事態にまで絡んで、このような妨害をする——
そこまで考えるのは、さすがに穿ちすぎだろう。
だが、それでもなお、胸の奥に小さな引っかかりが残る。
何かが噛み合っていない。
ただの行き違いにしては、あまりにも不自然だった。
——まさか。
エウスタティウスは、無意識のうちに報告書を強く握りしめていた。
彼はまだ知らなかった。
この朝に抱いた違和感のすべてが、やがて一つの線として繋がることを。
しばらくして、彼は報告書から目を離した。
痛む目を休めるため、椅子にもたれ、執務室を見渡す。
壁に掛けられた、帝国内の地図。
その中の一角に、ふと視線が留まった。
地図の片隅に、小さく書き込まれた文字があった。
ノスタルギア牧場。
かつて軍馬と駄馬を供給していた牧場。今は、廃業を示す印が付されている。
その理由は分かっていた。輸入馬に太刀打ちできなかったのだ。
——交易で不利益を被る者。生活の糧を失った者たち。
今まで、そうした視点で交易を考えたことはほとんどなかった。
いや、正確には——考えないようにしてきたのだ。
彼らの生産馬は輸入馬に全く太刀打ちできなかった。
その牧場を経営していた家族は一家離散したらしい。
——交易で不利益を被る者。生活の糧を失った者たち。
良い品が、そうでないものを駆逐する。
それは世の理であり、必然だ。
情に流されて本質を見誤るべきではない。
そう自らに言い聞かせてきた。
だが、地図の片隅に記された、ほんの小さな書き込みを前にして、
エウスタティウスは、これまで覚えたことのない感覚にとらわれていた。
深く、息を吐く。
自分は、正しいことをしてきたはずだった。
帝国のために。
領地のために。
そして、より良い未来のために。
だが、その「正しさ」は、確かに誰かの生活を削っていた。
——そして、その者たちは……。
その先の結論を、彼は言葉にできなかった。
執務室には、朝の静けさだけが満ちている。
援軍は、まだ来ない。
エウスタティウスは、再び机上の書状へと視線を落とした。
だが、そこにはもはや、先ほどまでの確信はなかった。
その時、執務室の扉が、切迫した調子で叩かれた。
「閣下!」
控えめながら、抑えきれぬ緊張と――あるいは、微かな希望を孕んだ声だった。
「何事だ」
「帝都より使者が到着いたしました。……皇太子殿下のご名代にございます!」
一瞬、止まりかけていた時が、再び拍動を始めたように思えた。
この閉塞を打ち破る光か、あるいは最後通牒か。
「お通しせよ」
立ち上がる拍子に、袖が机上の書状の山に触れた。援軍を請う文面が、一番上から滑り落ちる。
エウスタティウスは、それを拾わなかった。




