第16話 分水嶺 ―選ばれた道―
帝国歴467年7月25日 昼
―アルトレウス領軍・河川防衛線―
いつの間にか、日は中天にかかっていた。
いくつかの浅瀬で断続的に繰り広げられる攻防に、マティアスは一息つく間もなかった。全軍の状況を掌握し、指示を飛ばしながら、、彼自身もまた剣を振るい敵と切り結んでいた。
招集された農民兵たちに槍を構えさせ、敵を可能な限り川岸へ寄せ付けぬよう壁を作る。その後方では、従士たちが矢を並べ、浅瀬を渡らんとする敵へ向けて一斉に放った。
それを突破し、泥を蹴立てて迫る敵を討つのが、マティアスら騎士たちの役割だった。
弓による一斉射撃は敵の前進を削ぐのに有効だったが、決定的に射手の数が足りない。弓を扱うには長い時間をかけた修練が不可欠であり、それをこなせるのは、必然的に従士以上の階級に限られるからだ。
その技術的不足を補うべく、アルトレウス領軍も数張の「弩」を実戦に投入していた。
強力な弦を機械的に固定し、引き金一つで鋭い矢を放つその武器は、熟練の射手でなくとも敵の鎧を貫く威力を発揮した。招集兵のなかでも見込みのある者に預け応戦させてはいたが、保有数の少なさと装填の遅さが致命的で、戦局を左右するには至らない。
最終防衛線としたこの川の幅は、およそ十五メトロン。
決して大河ではないが、歩兵や騎馬が無策で渡り切れるほど甘くはなかった。
浅瀬さえ押さえれば、敵の侵入は防げる。
理屈の上では、そうだった。
だが、現実はそう単純ではない。
朝から続く終わりのない泥試合の中で、マティアスはその事実を嫌というほど思い知らされていた。
「……また来るぞ」
低く呟き、視線を上げる。
川向こう、砂煙が立ち上る草原の向こうで、敵兵が再び動き始めていた。
槍を構え、盾を前に出し、決して無理はしない――慎重で、しかし確実な進軍。
――こちらだけを消耗させるつもりのようだな……。
マティアスは歯を食いしばる。
敵は強襲を仕掛けてこない。彼らはこの防衛線を無理に突破しようとせず、浅瀬をいくつも使い、少数ずつ当たっては退き、また別の場所で圧をかけ、自軍の消耗を抑えながら断続的に攻撃し続けてきていた。
突破には至らない。我らがさせない。
だが、敵もまた、我らを休ませるつもりなどない。
マティアスは、味方の槍の壁をすり抜けてきた敵兵に体当たりを食らわせ、体勢を崩したところへ剣を叩きつけた。だが、敵も手慣れている。即座に盾をかざして致命傷を凌ぐと、こちらの剣も槍も届かぬ間合いへ、悠々と離脱して敵陣に戻ってゆく。
横に伸び切り、穴だらけの我が軍に深追いはできない。この小癪な一撃離脱に翻弄され続けていた。
防ぐ側であるアルトレウス領軍全体の体力と集中力が、真綿で首を絞められるように削り取られてゆく。
「敵は急いでいない……」
そう呟いた瞬間、自分でもぞっとするほどの戦慄が胸をよぎった。
――これではもはや、遅滞戦術どころの話ではない。
敵は、こちらが自ら消耗しきるのを待っているのだ。
昨日の夕刻、敵は我らの隙を突き、一気に距離を詰めてきた。その結果、アルトレウス領軍は煙幕などの遅滞戦術に用意した仕掛けをすべて失い、最終防衛線であるこの河畔にまで一気に追い詰められた。
今や敵は、ここで緩やかに圧をかけ続けるだけでいい。力任せの強襲などせずとも、こちらはそれだけで兵力・体力共に消耗してゆく。そしてそれは、極めて効率的にアルトレウス領軍を「活動限界」へと追い込んでいた。
マティアスは川岸に並ぶ兵たちを見回した。
皆、よく耐えている。だが、その肩には隠しようのない疲労が溜まっている。
そして何より――。
――アウレリウスとセバスティアーヌスを、後方に下げる機会がない
二人とも、今なお前線に留まっている。本来であれば、とっくに帝都なりの安全圏へ引き下がらせておくべきだったのだ。一度機を逸したが最後、ずるずると彼らを戦場の最前線に曝したまま、打開策を見出せずにいた。
――早くなんとかしなければ……。
とっさに少し先の浅瀬を守っている腹心、ディオニシウスの姿を遠くに探した。
だが、彼もまた目前の猛攻をしのぐので精一杯だ。自ら剣を振るい、敵と刃を交えている。——とても、こちらへ回す余裕などない。
そんな折、浅瀬以外の監視に当たっていた兵から、悲鳴に近い報告が上がった。
「マティアス様!」
伝令の兵は、激しく上下する胸を必死に抑えながら、途切れ途切れに言葉を絞り出す。
「これより下流、約一リーグの地点に敵影!
筏で渡河を試みる兆しあり! 至急、対応の兵を……!」
敵は、浅瀬という「定石」の外から揺さぶりをかけてきたのだ。
即座に対応せねばならない。だが、点在する浅瀬の防衛に兵を割ききっている今、どこからか無理にでも兵を抽出せねばならなかった。
一箇所でも対岸に足掛かりを作られ、背後へ回り込まれればすべてが終わる。この河川防衛は、わずか一穴の綻びで瓦解する脆い均衡の上に成り立っていた。
見れば、知らせを運んできた兵の馬は、限界を超えて目を血走らせ、口から白い泡を吹いて立ち尽くしている。もはや一歩も動けまい。
マティアスは、すぐさま後方の宿営地へ視線を走らせた。そこには、防衛戦では使いどころの限られる騎士たちの馬が十数頭つながれていた。
マティアスは即座に命を下した。
「動ける者のうち、極力小柄な者を募れ!
一頭に二人ずつ跨がり、現場へ急行せよ!
どちらか一人は、必ず騎乗経験のある者にせよ!」
騎士にとって大切な馬に、兵を二人乗りさせて送り出す。軍規も矜持もかなぐり捨てたその決断が、アルトレウス軍が直面している苦境を物語っていた。
急行する兵を送り出した後、一瞬だけ、嵐の前の静けさのように敵の攻勢が緩んだ。敵も部隊を再編しているのだろうか。
マティアスはそんなことを思い浮かべながら、ようやく一息つける、そう思った矢先だった。
「――叔父上!」
声を張り上げ、馬を駆って近づいてきたのは、マティアスが今、最もその身を案じていた人物だった。
「北東の丘より敵影あり! 川のこちら側です! レオニウス、報告せよ!」
主に促され、レオニウスと呼ばれた男が馬上から声を張り上げた。
「はっ、北東の丘まで偵察いたしましたところ、大きく迂回してきた敵の傭兵部隊と思われる一団を発見。こちらを背後から突き、攪乱する動きを見せております!」
マティアスの背筋が凍りついた。
つまり、正面の川とは別に、右後ろから回り込まれかけているということだった。
来たか――。
川を正面から突破せず、別動隊を回り込ませて後方を突く。陽動にしては厄介すぎる、致命的な搦手だ。この手の手法を敵が使ってくるのは時間の問題だった。
だが、それ以上にマティアスを苛んだのは、峻烈な違和感だった。
――誰も、そのような場所へ斥候を出す指示は出していない。
ならば、その者が気を利かせて自発的に斥候に出たとでもいうのか?――
マティアスがその疑念を口にするより早く、アウレリウスが叫んだ。
「叔父上、すぐに動けるのは我らだけです! あそこを抜かれれば、この防衛線は終わる。
少数なら、今すぐ叩けばまだ間に合います。いざ!」
「待て、アウレリウス! なぜそのような場所に斥候を――」
駆け出そうとする甥の馬前に立ちはだかったが、アウレリウスは遮るように答えた。
「私が許可しました。レオニウスは勘が働く男なのです!」
自分の配下の有能さを誇るような、若さが滲む自信に満ちた表情。その後ろでは、セバスティアーヌスが何とも言えぬ苦い顔をして押し黙っている。
「ならん!」
マティアスは怒鳴りつけた。
「お前はここを動くな! 持ち場を離れることは許さん!」
「ですが、あそこを抜かれれば――」
「それでもだ! 戻れ!」
強い言葉で命令を突きつけ、マティアスがさらなる詰問を重ねようとした、その刹那だった。
「アウレリウス様、参りましょう。機を逸しますぞ」
レオニウスが静かに主を促した。その声に弾かれたように、アウレリウスは「叔父上、失礼する!」と叫び、制止を振り切って馬を蹴った。
「待て! 戻れと言っている!」
声を荒げた瞬間、川向こうから矢が飛んできて地面に突き刺さった。
俄かに敵の攻勢が強まり、マティアスは阻止するために体を先回りして彼の馬の前に出すのが遅れてしまった。
マティアスの怒声も虚しく、従士たちを引き連れた蹄の音は、みるみるうちに遠ざかっていく。
手元には既にマティアスの馬は無く、追いかけて引き戻させることもできなかった。
……あの、従者風情が!
マティアスは怒りと戦慄に震えた。
自分の命令よりも寵臣めいた男の進言を優先した甥の未熟さと、それを手玉に取るレオニウスという男の底知れなさに、言いようのない不快感が胸に絡みついた。
* * *
砂塵の向こうへ駆け去っていく兄の背を、セバスティアーヌスはただ見送るしかなかった。
三人の緊迫した会話に入り込むこともできず、ただ後ろで見守るしかなかった彼は、遠ざかる砂塵を見つめながらある確信を抱いていた。
――あの男は、こうなることを望んでいたのだ。
「……くっ」
最悪の予感を抱きながらも、兄を止めることさえできなかった。己の無力さに歯噛みしながら、彼は慌てて周囲を見回した。
アウレリウスのあまりに急な発進に、持ち馬と離れていたヴィクトルやグレゴリウスたちが置いてけぼりを食らい、必死の形相でこちらへ走ってくるところだった。
マティアス叔父上が「目付け役」として兄に付けたはずの二人が、この場に置き去りにされている。それは、たまたまの行き違いにすぎぬのだろう。
だが、今の状況が彼にとって「思惑通り」であることだけは、疑いようもなかった。
兄を追うなら、今すぐに動かねば間に合わない。いつもなら、なし崩しにその背を追い、流されるまま戦場へ身を投じていただろう。
だが、セバスティアーヌスは今回ばかりは違った。兄の背後に漂う底知れぬ悪意に触れたとき、彼は己が成すべきことを、自らの意志で選び取っていた。
「グレゴリウス!」
甲冑を帯びたまま走り、激しく息を切らしていた騎士の名を呼ぶ。
ヴィクトルよりやや先行してこちらに到着したグレゴリウスは、呼びかけたセバスティアーヌスのいつもに無い真剣な眼差しに何かを察し、素早く彼の馬の左肩付近まで駆け寄って膝をついた。
セバスティアーヌスは一瞬だけ目を伏せ、次の瞬間には迷いを捨てた目で顔を上げた。
「これを、持って行け」
彼は懐から、肌身離さず携帯していた小さな革袋と家紋の刻まれた短剣を取り出した。中には、自らの身分を証する紋章指輪が収まっていた。
「これより館へ戻り、フェリシアにこれを渡してほしい」
「なっ……」
その意味を理解したグレゴリウスは言葉を詰まらせた。物静かで思慮深いこの主筋の若者を、彼は内心、深く慕っていた。
そしてすぐに思いとどまらせようと、言葉を紡ごうとしたが――
「必ず、届けてほしいのだ。そして以後はフェリシアと共にあり、彼女を助けてやってほしい。頼む」
――せめて妹だけは逃がさねばならない。あの子ならきっと、自分とは違い……。
強く言い切った後、セバスティアーヌスは憑き物が落ちたように、微かに笑った。そして――
「そんなに心配するな、私だってむざむざと敵の手にかかるつもりはない。後でフェリシアと落ち合おう!」
その言葉と、迷いの消えた静かな微笑。それを見たグレゴリウスはもう、それ以上続ける言葉を失ってしまった。
「叔父上」
セバスティアーヌスは、今度はマティアスの方へ向き直り、その目を真っ直ぐに見つめた。
「私は兄と共に行きます。……後はお任せいたします」
「何だと――」
マティアスはそこで一度言葉を詰まらせた。
甥の顔を見た瞬間、続く制止の言葉が喉の奥で止まった。
いつになく達観した、それでいて晴れ晴れとした表情だった。
代わりに、重く、確かな約束を口にする。
「わかった。
……心配するな。ここは、私が死守する」
* * *
セバスティアーヌスと彼の従士が、アウレリウスを追って砂塵の向こうへ消えていく。マティアスは兵の指揮を執りながら、その背を静かに見送っていた。
兄の次男であるセバスティアーヌスは元来、言葉の少ない男だった。ゆえに、その胸中を測りかねる部分があった。その慎重すぎる気質は、時に優柔不断と映り、兵を率いる上では致命的な遅れを招くのではないかと案じてもいた。
だが、先ほどの彼は違った。
そして何より――
――セバスティアーヌスは、あのフェリシアにすべてを託す道を選んだ。
この戦が初陣であるセバスティアーヌスが、自分よりさらに四つも年下の妹に未来を預けたのだ。驚きはあったが、同時に、物事の本質を見抜く彼らしい選択だとも思えた。
フェリシアはまだ幼く、しかも女の身でもある。本来ならば、アルトレウス家の未来を託す対象としては到底適しているとは言い難い。
だが、セバスティアーヌスがそうであったように、マティアスもまた、ある確信を抱いていた。
――あの子には、人の心を掴む、生まれついての輝きがある。
それは血筋だけでは説明のつかない、人を惹きつけ、前を向かせる天性の輝きだ。
マティアスは再び川の対岸へと視線を戻した。
最前列の槍の壁が、またしても食い破られつつあった。これまでも幾度となく押し返してきた。だが、いつまでもは持たない。
「マティアス様!」
グレゴリウスに遅れて、ヴィクトルが肩で息をしながら駆け寄ってきた。
「我らの馬を回収し、直ちにアウレリウス様らを追います!」
その瞬間、戦場を迂回するように十頭近い馬が、どこかへ逃げ去っていくのが見えた。おそらく、渡河地点へ急行した部隊は、馬を繋ぎ止める暇さえなく応戦を強いられたのだろう。主を失った馬たちが、戦火を逃れ四散していく。
「今から追っても、もう間に合わん。馬も諦めろ!」
マティアスは声を張り上げ、後方の小道を指さした。
「お前たちはここはもうよい。今すぐ戦域を離脱し、館のフェリシアのもとへ向かえ!」
そして、一転して声を低め、二人を見据えて告げる。
「それが、セバスティアーヌスの願いだ」
早く行け――。
マティアスは、追い立てるように手を小道の方へ何度も振った。
ヴィクトルとグレゴリウスは一瞬だけ視線を交わし、覚悟を込めて深く頷いた。
「承知!」
二人とその配下の数名が、迷いを断ち切るように駆け出していく。
背後では、敵の角笛の鈍い音が戦場に響き渡り、甲高い金属音が激しさを増していた。
マティアスは重く、鈍い光を放つ剣を構え、前を向いた。
「……行け」
誰にともなく呟き、迫りくる敵の群れに向き直る。
ここで踏みとどまり、わずか一刻、一瞬でも時間を稼がねばならない。
――すまぬ
守ってやりたかった甥たちへ、胸の奥でただ詫びながら、マティアスは再び狂瀾の戦場へと身を投じた。




