第17話 還らざる道
レオニウスを先頭に、アウレリウスたちは敵の別動隊が潜むとされる地点へと馬を飛ばしていた。
アルトレウス軍が必死の防衛線を張る川を背に、一行は丘の頂をすでに越え、その反対側の斜面を下り始めていた。ここまでくると、背後の友軍の気配は遠のき、姿も視界から消えてしまった。
丘の反対斜面に広がっていたのは、見渡す限りの葦の原だった。
人の背丈ほどもある葦が斜面を埋め尽くし、風に吹かれて乾いた音を立てている。その擦れ合う音が、外界の音をすべて遮断しているかのようだった。
いつもなら影のように付き従っているはずのセバスティアーヌスの姿が見えない。
その事実に今さら気づいた瞬間、胸の奥に嫌な空白が広がった。
相談もせず、すべて一人で決めて走ってきた。あいつの言葉を聞くべきだったのではないか。いい加減、愛想を尽かされたのではないか。
そんな思いを振り切るように、アウレリウスは先頭を進む男の背へ声を荒げた。
「まだなのか、レオニウス! 敵の影すら見えぬぞ」
耐え難い沈黙を振り払うように、アウレリウスは前を行くレオニウスの背に声をぶつけた。
返事はない。
馬の足音と、葦の擦れる音だけが続いた。
「……ここらでよいか」
足を止めたのは、レオニウスだった。
その声は、平板だった。
命令を仰ぐ者の声音ではない。
耳を疑うほどに低く、冷たいその響きに、アウレリウスは息を呑んだ。
レオニウスは、ふいに馬の向きを変えた。
そして、誰かに合図するように、右手を高く掲げる。
そしてゆっくりと、そのままこちらへ近づいてきた。
掲げられた手に呼応するように、周囲の葦が一斉にざわめき始める。風の音ではない。硬い武具が擦れ合い、革帯が軋む不穏な響き――。波のように広がるその金属音が、それまで耳に馴染んでいた葦のこすれ合う囁きのような音を塗りつぶしていった。
アウレリウスの背後にいた従士たちは、その動きの意味を理解できず、誰一人として、すぐには動けなかった。
次の瞬間、葦をかき分けて数十人の男たちが姿を現した。
揃いの軍装はなく、武器もまちまちだ。
――傭兵だ。
隠そうともしない野卑な気配が、その一団から漂っていた。
アウレリウスは、目の前の光景をすぐには飲み込めなかった。レオニウスを問い詰めようと口を開くが、喉がせり上がり、声にならない。
そんな様子を、レオニウスは侮蔑と哀れみを含んだ色を帯びた眼差しで見返した。
「……まだ分からないのか。どこまでも、愚かな……」
「何を言っている、レオニウス!」
叫び返しながらも、頭のどこかでは理解が追いつき始めていた。だが、感情がそれを認めようとしない。
――嘘だ。そんなはずはない。
必死に否定しようとするアウレリウスに、レオニウスは容赦のない現実を突きつけた。
「お前は嵌められたんだ。そんな甘ちゃんだから、こうなる」
その言葉は冷たく、冷酷な響きを帯びていた。だが、レオニウスの表情はそれとは裏腹に、どこか眩しすぎるものから目を逸らすかのように、ひどく苦々しく強張っていた。
「おいソティリウス! いつまでグダグダ喋ってやがる。さっさと殺っちまうぞ!」
葦の原から現れた集団のリーダー格が、ソティリウス――レオニウスと呼ばれていた男の言葉を苛立ち交じりに遮った。
「あ、ああ……」
「素人はすっこんでろよ。荒事は専門外だろ、牧場主さんよぅ」
ソティリウスを揶揄するように鼻で笑うと、男は部下たちとともに、じりじりとアウレリウスへ間合いを詰め始めた。
「どういうことだ……ソティリウスって、一体何なんだ! 答えろ、レオニウス!」
「もうすぐ死ぬ坊ちゃんには関係ないこったぜ、なあ?」
リーダー格の男はまともに取り合う気もない。
だが、レオニウス――ソティリウスは、震える声を絞り出すようにして答えた。
「……俺の本当の名は、ソティリウス・ノスタルギアだ。
東方の輸入馬に潰された、あのノスタルギア牧場のな」
アウレリウスにその名の記憶はなかった。
だが、東方の馬が帝国に流れ込んだ時、何が切り捨てられたのかは想像できた。
裏切った男へ、何か言うべき言葉があったはずだ。
だが、だが、それを形にする前に――傭兵のリーダーがお構いなしにハルバードを振り下ろした。思考を奪われていたせいで、応戦の動作は決定的に遅れた。
――間に合わない
死を覚悟し、無意識に身を固くした。
だが、予想していた衝撃はこなかった。
代わりに、鼓膜を劈くような甲高い金属音が、耳のすぐそばで炸裂した。
傭兵頭の刃がアウレリウスへ落ちる、その寸前だった。
後方から駆けつけたセバスティアーヌスが、馬から飛び降りざま、己の剣でその一撃を受け止めていた。
目の前では、セバスティアーヌスの剣が傭兵リーダーのハルバードを真っ向から受け止めていた。
互いの息がかかるほどの距離で、刃と柄が火花を散らして噛み合っていた。
敵は柄を滑らせ、さらに押し込んできた。
セバスティアーヌスは剣を斜めに寝かせ、刃先を逸らしながら一気に距離を詰めた。絡み合う武器同士を下方へ押し込み、そのまま肩がぶつかるほどの間合いへ。
裏切りへの衝撃で頭が真っ白になっていたアウレリウスは、彼の接近にも、この攻防の流れにも気づいていなかった。
「兄上、遅くなって申し訳ございません」
短く告げると、セバスティアーヌスは敵がハルバードを引き戻そうとした刹那、セバスティアーヌスはその力に合わせて刃を跳ね上げた。長柄の武器がわずかに流れ、傭兵の体勢が崩れる。
敵がわずかによろめいた隙を逃さず、セバスティアーヌスの従士が間に割って入った。壁となって二人を庇い、即座に傭兵たちと対峙する。
「ですが、この局面を打破できるだけの力と余裕は、私にはなさそうです」
セバスティアーヌスは申し訳なさそうに振り返ったが、その佇まいにはどこかすべてを悟ったような、静かな覚悟が宿っていた。
アウレリウスは、弟がもはや生還を勘定に入れてはいないことを悟り、息を呑んだ。
「すまないが、今しばらく……少しでもいい、時間を稼いでくれ」
「はっ!!」
弟の呼びかけに応じた従士たちの動きは、先ほどまでの困惑が嘘のように鋭かった。一丸となって主たちの周囲を固め、敵に相対した。
その光景を見て、アウレリウスは今更ながらに思い知らされた。
――弟は、セバスティアーヌスは、こんなところで自分と供に果ててよい人物ではない。
彼は、無能な兄の独断に巻き込まれ、自分を助けるためにこの絶望的な戦場へ飛び込んできたのだ。
退路は、すでに塞がれている。来た道も、周囲の葦の原も、完全に敵の兵で埋め尽くされていた。
アウレリウスは、己の愚かさが招いたこの結末に、今さらながら己の無能を恥じた。
今さら謝ったところでどうにもならない。そんなことは分かっていた。
それでも、今の自分には弟への謝罪を言葉にする以外に道はなかった。
「お前まで巻き込んで……すまない。
俺なんかに付き合わなければ、お前はもっと、アルトレウスの男として、その力を振るえたはずなのに。俺のせいで……」
「大丈夫ですよ、兄上」
意外なことに、セバスティアーヌスは晴れ晴れとした笑顔で兄の言葉を遮った。その表情には憂いの影すら無く、むしろ重荷を下ろしたかのような清々しささえあった。
彼は左手の小指を見せると、静かに告げた。
「紋章指輪はフェリシアに託しました。彼女なら、きっと役立ててくれるでしょう」
弟は、すでに最悪の事態を見越して決断を下していた。
だからこそ、迷いなく兄のもとへ駆けつけられたのだ。
万事を整えていた弟への安堵とともに、兄としての情けなさがアウレリウスの胸を突く。
自分はフェリシアに、何一つ遺せていない――その悔恨を読み取ったかのように、セバスティアーヌスは言葉を継いだ。
「兄上から頂いたあの短剣も、共に託しました。
フェリシアにも、兄上の想いは必ず伝わるはずです」
「そうか……」
アウレリウスは、短く息を吐いた。
「すまない。これで、思い残すことはなさそうだ」
視線を交わした兄弟の間に、もはや言葉は不要だった。二人は同時に、血に飢えた獣のように迫る傭兵たちへと向き直った。
すでに従士の何人かは斃れていた。
十重二十重と囲まれた主従は、守備の円陣をさらに狭めていく。
アウレリウスの重厚な鎧も、受けきれなかった攻撃で無数の亀裂が走り、返り血で赤黒く染まっていた。その中には、彼自身の傷口から流れた血も混じっているに違いない。
個人の武技であれば、アウレリウスもセバスティアーヌスも傭兵たちに劣るものではなかった。事実、何人もの敵に深手を負わせて戦線から離脱させ、獅子奮迅の働きを見せていた。
だが所詮は多勢に無勢だ。手負いの者は後方に下がり、無傷の者が代わって前に出る――傭兵たちの執拗な波状攻撃に対し、アウレリウスたちに休む暇はない。
一人を斬り伏せ、息をつく間もなく次の刃が迫る。それを受け流したかと思えば、別の槍先が脇腹をかすめた。甲冑が受け止めているのか、自分の肉が裂けているのか、もはや判然としない。
剣を振り上げようとした瞬間、腕が思うように動かないことに気づいた。それが疲労なのか、痛みなのか、もはや判断もつかなかった。ただ、重い。剣も、腕も、全身そのものが鉛に変わってしまったかのようだった。
その一瞬の遅れを、敵は見逃さなかった。
馬上で奮戦していたアウレリウスの背を、敵の槍が捉えた。最も厚い装甲の部分で受けたため、刃が身を貫くことこそ免れたが、その衝撃までは殺しきれない。息が肺から一気に押し出され、視界が白く弾けた。大きく前のめりになったアウレリウスは、そのまま激しく落馬した。
地面に叩きつけられた瞬間、背骨が砕けたかと思うほどの衝撃が走った。目の前に火花が散り、口の中に鉄の味が広がる。 視界はひどく霞み、天地の区別すら定かではない。
朦朧とする意識の中で、セバスティアーヌスの叫びが聞こえた。
弟が自ら馬から飛び降り、兄を助けようと駆け寄ってくるのが見える。
その姿に、アウレリウスは思わず手を伸ばしかけた。だが、指先はもう彼の意志には従わなかった。
馬上という優位を捨てたセバスティアーヌスは、瞬く間に数多の敵に取り付かれた。
弟の剣が一閃し、一人がよろめき、また一人が退く。だが、その隙間はすぐに別の影で埋まる。瞬きをする間に、その姿は黒い敵の群れに阻まれ、見えなくなった。
アウレリウスの周囲もまた、すでに敵の影で覆い尽くされていた。倒れたまま起き上がろうと力を込めるが、やはり体は動かない。
――最後まですまない
仰向けに横たわったまま、彼は心の奥で弟に詫びた。次の瞬間、振り下ろされる刃の影が霞んだ視界を覆い――
そこで彼の世界は、静かに断ち切られた。




