第8話 夜襲の決断
帝国歴467年7月23日 夕暮れ
野戦用陣地の天幕を固定する最後の杭が土に打ち込まれた頃だった。マティアスは、暮れ行く夕陽を背に立ち、前方の敵陣を見据えていた。
西風が頬を撫でて過ぎていく。
草いきれの匂いに混じって、遠くから漂ってくる煮炊きの煙——
敵は、もう今夜の宿営に入っている。
火を焚き、腹を満たし、明日の進軍に備えているのだ。
昨日の軍議後に放った斥候の報告では、当初確認できていた敵本隊六百のほかに、周辺に左翼・右翼各二百、後方に輜重部隊二百。総勢千二百もの兵が展開しているという。
今、遠目に見える篝火の数、天幕の広がり、丘の背後へ伸びる荷駄の列は、偵察兵の報告とおおむね一致していた。
普段は村で振るっている鍬を槍に持ち替えた男たちが、薪を集める乾いた音。
騎士や従士たちが甲冑を締め直す、張り詰めた金属の擦れ音。
夏の夕刻から夜にかけての屋外活動も、決して楽ではない。しかし、命を削る冬の酷寒や、籠城戦の重苦しさなどと比べれば、外の風に触れていられるだけ、兵たちにはいくらか救いだった。
先刻の偵察で、敵軍の配置はかなり掴めていた。
主力部隊は、こちらの陣地から北西一リーグの平地に野営している。兵站拠点は、その後方にある小さな丘。
指揮官のものと思われる天幕は、中央やや北寄りに二つ。そこだけは通常の見張りとは別に、護衛部隊が周囲を固めているようだった。
夜間の見張りは二刻ごとの交代制。——最も手薄になるのは、非番の者たちが寝静まった深夜の頃合いと予想された。
マティアスは冷静に戦況を見極めていた。
そして、ふと少し離れた場所で、携帯食に悪戦苦闘している二人の甥の姿が目に入った。
あの二人を、ここまで連れて来るべきではなかったのかもしれない。
その思いを、彼はすぐに押し殺した。
だが、一度浮かんだ記憶は、今朝、館で見た二人の背中へと戻っていった。
* * *
その日の朝。
セバスティアーヌスは兄アウレリウスと並び、出撃の最終準備に当たっていた。甲冑の紐を引き締める。剣の刃こぼれがないか指先で確かめる。馬の蹄鉄に小石が挟まっていないか屈み込んで調べる——戦場へ向かう騎士の、儀式めいた作業だった。
だが、セバスティアーヌスの視線は時折、一人の男へ向けられていた。
レオニウス。
兄が最近召し抱えた従士だ。しかも馬術に長けているという触れ込みで採用された男で、今回も騎兵として兄に随行するらしい。確かにその腕前は見事であり、また馬上から直接弓を射る技術にも長けてはいるのだが…
——何か引っかかる。
「兄上」
セバスティアーヌスは声を落とした。
「レオニウスのことで、少し気になることが」
アウレリウスは馬の手綱を手に、振り返る。
「どのような?」
「彼の馬術なのですが……西大陸式のようで」
アウレリウスの眉が僅かに寄った。
「西大陸式?」
「はい。我々が習った東方式とは、手綱の扱い方や騎座の取り方が明らかに違います。馬術の達者なヴィクトルに聞いたのですが、あれは西大陸式の乗り方だと」
それは単なる技術の違いではなかった。近年、アルトレウス家やファルセリ家などが導入してきた東方式の馬術は、パルティア馬を中心とした東方の馬種に合わせて磨かれたものだ。
一方、西大陸式は古くから西方の騎士たちが用いてきた乗り方であり、かつては帝国でも広く採られていた。自分たちより一回りほど年上のヴィクトルが一目で見分けた程度には、この国にもまだ痕跡が残っている。
「それが何か問題でも?」
アウレリウスの反応は、セバスティアーヌスの予想通りだった。
兄は人を疑うことを好まない。技術の細部にもあまり執着しない。ましてそれが、かつて帝国でも用いられていた乗り方だというなら、なおさらだった。
「いえ、ただ……少し不自然かと。彼は兄上に、生まれはモエシア領邦だと申しておりました。しかし、話し方はどう聞いても帝国人のものです。異国訛りが一切ありません」
セバスティアーヌスの説明を聞いても、兄は今ひとつ要領を得ない様子で首をかしげていた。
その時、レオニウス本人が近づいてきた。
小柄で、身のこなしも軽い。歩き方もまた、乾いた草を踏んでも音を立てぬような軽妙さがあった。
「若君方、準備の方はいかがでございましょうか」
「順調だ。お前も準備を急げ」
アウレリウスは、先ほどまでの弟とのやり取りなどなかったかのように自然に応じた。
丁寧な言葉遣いと恭しい態度。だがセバスティアーヌスには、その男の目の奥に、どうにも言い知れぬ冷たさがあるように見えた。
疑いが見せた影かもしれない。
そう思い直そうとしても、その感覚だけは消えなかった。
* * *
陽が高く昇った頃、館の中庭には二百名を超える兵が整列していた。
マティアス・オ・アルトレウスはすでに馬上にあり、そこから部隊を見渡していた。騎士・従騎士・従士ら45名と、急遽領内の各村々から召集された人員の約八割に当たる190名。アルトレウス家が動員可能な戦力の大半を率いての出陣である。
残りの兵力——と呼べるほどの数はもはや残っていないが、それらは屋敷の警備や伝令のために留め置かれる。
マティアスはこれより北上し、国境の警備部隊がまだ健在であれば、彼らとも合流するつもりだった。
それでも兵数においては敵軍の四分の一以下に過ぎず、兵の質においては、もはや議論の俎上に載せるまでもない致命的な開きがある。
兄エウスタティウスは、娘のフェリシアを傍らに従え、館の正面階段に立っている。領主として、出陣する兵たちを、そして息子たちと弟を激励し、送り出すために。
「兄上」
マティアスは馬を進め、兄の前で停止した。
「頼む、マティアス」
エウスタティウスの声は小さかった。だが、固く握りしめられた拳と、かすかに揺らぐ瞳が、その内心を雄弁に物語っていた。
昨日の軍議で下された決定に対し、兄は親として、そして領主として、激しい葛藤を抱いたに違いない。
防衛拠点としての体をなしていないこの館を出て、野戦による遅延戦術を展開する。この方針自体は、軍議に列席した者たちにとって当初からの既定路線だった。しかし、マティアスはそこで、兄の息子二人をも出陣させるべきだと強く主張したのだ。
「家の命運を懸ける戦に、領主の直系が不在とあらば、兵たちに示しがつきませぬ」
兄エウスタティウスは、わずかに視線を彷徨わせ、迷いを見せた。だが、領主としての責任が、親としてのそれを飲み込んでいった。そして彼はついに、短い頷きを返した。マティアスの非情な正論を、受け入れたのだ。
「お任せください」
二人が交わした言葉は短かった。それぞれが抱く感情の重圧ゆえに、流れる空気もまた、耐えがたいほどに重苦しい。
もうこの館に自分が戻ることは無いのであろう。マティアスは幼少期から兄と共に過ごしたアルトレウス家の館を慈しむように、そして惜別を込めて見上げた。
——そして、これがおそらく兄弟の交わす最後の言葉になる。
そのことを、マティアスだけは一人、疑いようのない事実として受け入れていた。
己のすべてを差し出しても、守れるものは限られている。それでも差し出さなければ、最低限のものさえ残らない。
マティアスは、その残酷な真理を、静かに受け入れていた。
* * *
叔父マティアスを先頭に、部隊はすでに動き出していた。兵たちの三割近くが、すでに屋敷を後にしている。
二人の兄もまた、部隊を率いて今まさにフェリシアたちの前を通り過ぎようとしていた。
ふと、フェリシアは視線を巡らせた。出陣を見送る人々の中に、母イザベラの姿を探したのだ。すると、予想していたよりもずっと離れた場所――中庭の奥、回廊の陰に、母の姿があった。
後ですぐ行く。そう言ってフェリシアたちより遅れて中庭に来ていたはずなのだ。それが自分たちよりもずっと遠くから、静かに見守っている。
ややうつむき加減のためか、その表情は見えない。ただ、回廊の柱に添えた手だけが、白くなるほど強く握られていた。
フェリシアは遠くにいる母に声をかけようとしたが、すぐに父の声がそれを遮った。
「アウレリウス、セバスティアーヌス」
父の声に、フェリシアは振り返った。呼ばれた兄たちが隊列を少し離れ、父のもとへ馬を寄せていく。二人とも凛々しい騎士の装いであり、その姿をフェリシアは少し誇らしく思った。アウレリウス兄上の背後には、従士のレオニウスたちが控えめに馬を並べている。
「マティアスの指示に必ず従え。勝手な行動はせず、慎重に行動せよ。深追いは禁物だ」
「はい!」
アウレリウス兄上は手に持つ槍を少し上に掲げ、帝国式の答礼を返しながら力強く答える。まっすぐな性格の長兄らしく、その声に迷いはない。
一方、セバスティアーヌス兄上は、また別の色を帯びていた。彼はいつも思慮深く、今日という日も、もう一人の兄のような高揚感は見せない。フェリシアは、その横顔から目を逸らした。いつもの兄と、どこか違う――それだけが、胸に残った。
少し離れた場所では、ヴィクトルとグレゴリウスが馬の最終点検を終えたばかりのようだった。彼らは最後尾の部隊らしい。長年アルトレウス家に仕えてくれている譜代の騎士家出身だ。
「ヴィクトル、グレゴリウス」
フェリシアは二人に声をかけた。
「おや、お嬢」
ヴィクトルが振り返る。
兜を被るために撫でつけられた濃い黒髪は、それでも額のあたりでわずかに癖を残していた。頬に走る古傷といかつい顔立ちは、知らぬ者なら近寄りがたく思ったかもしれない。
だが、その低い声に反して、表情にはいつもの軽妙な笑みが浮かんでいた。
隣にいたグレゴリウスは、薄くなった髪を剃り上げた頭をわずかに傾け、穏やかな目でフェリシアを見た。口数は少ない。だが、馬具を確かめる手つきは丁寧で、締め具の一つにも見落としがない。
「今日はお見送りまでしていただいて、恐縮ですな。まあ、美しいお嬢に見送られるんなら、戦場での励みにもなるというものです」
「ヴィクトル」
グレゴリウスが苦笑いを浮かべ、軽く咎めた。
「フェリシア様、この男の軽口は気になさらないでください」
そう言って、グレゴリウスは恭しく頭を下げる。実直で真面目な性格が、その一つ一つの仕草に表れていた。
「どうか気をつけて」
フェリシアの言葉に、ヴィクトルは軽く肩をすくめて見せた。
「ご心配をおかけして申し訳ありません。ですが、この無骨な顔に似合わず、わたくし意外と器用でしてね。グレゴリウスともども、無事に戻って参ります」
「全身全霊をかけて奮闘いたします」
ヴィクトルの軽口は、心配させまいという彼なりの優しさなのだろう。
グレゴリウスはそれ以上多くを語らなかった。ただ、手綱を持つ指を一度だけ握り直した。
「それに、マティアス様の作戦は見事なもの。きっと敵も面食らうことでしょう。なあ、グレゴリウス」
「……ええ」
ヴィクトルの言葉は相変わらずだったが、グレゴリウスの返答はどこか歯切れの悪さが残った。真面目で誠実な性格ゆえに、どうしてもその言葉を手放しで肯定することに躊躇いを覚えたのだろう。
フェリシアも二人の性格と思いを十分に理解していたため、あえてそれを指摘することはしなかった。
そして、ついに最後の部隊が出発の時を迎えた。
「ではお嬢、これにて。――進軍!」
フェリシアに向けた軽口を止め、一転して武人の顔に切り替わったヴィクトルの号令が中庭に響いた。
それまでずっと石畳を叩く重厚な音が館全体に反響していたが、最後の部隊が出発し、次第にそれは遠ざかっていった。
フェリシアは父と並んで、最後まで部隊の後ろ姿を見送った。
やがて、最後の兵の姿も見えなくなった。
中庭には静寂が戻った。父と娘だけが、そこに立ち尽くしていた。
「父上」
兵たちの姿が消えた道を、いつまでも呆然と見送る父の袖をフェリシアは引いた。
エウスタティウスは一瞬ハッとした表情を見せたが、すぐにいつもの厳格な顔つきを取り繕い、娘の頭に手を置く。
だが、その掌は微かに震えていた。
——なぜだろう。
父の様子に当てられたのか、あるいは兵たちが去りゆく背を見送って実感が湧いたのか。フェリシアの胸中にも、得体の知れない不安がじわりと広がっていた。
* * *
夕闇が次第に濃くなり始めていた。
国境の物見櫓にあった警備隊二十名が、奇跡的に一人の脱落者も出さずに合流を果たした。
煤に汚れ、疲れ切った彼らは今朝、アルトレウス領へ迫る敵軍に対し、入念に準備された火計を仕掛けていた。枯草と松脂による炎の壁、そして視界を奪う煙幕。その遅滞戦術は功を奏し、敵の進軍スピードは予想の中で最も遅い範囲にまで鈍化していた。
マティアスは今夜、夜襲を敢行することを決めていた。
第一の目的は、敵の進軍を可能な限り遅らせ、帝都からの救援を待つこと。これがアルトレウス軍に共有された唯一の戦略である。
だが、マティアスには、兵たちに明かしていない目的があった。
甥のアウレリウスとセバスティアーヌス――最悪の場合でもどちらか一人を、敵をかく乱させたうえで機に乗じて戦場から離脱させ、帝都へ送り届けることだ。
いつ来るとも知れぬ救援という、不確かな希望に縋り、自家の命運を他人に委ねるような真似だけはしたくなかった。
夜戦はそのチャンスを作るための布石の一つであった。
だが、ここでマティアスの計算違いともいえる事態に直面した。いや、こうなることは予見できたはずだった。しかし結論を急ぐあまり、若者ならば当然抱くであろう血気を、彼は見落としていたのだ。
「私も皆とともに出撃します!」
アウレリウスが、血気に逸る顔でそう言い放った。
さらに悪いことに、その言葉に触発されたもう一人、弟のセバスティアーヌスも
「兄上が出撃するならば私も兄上とともに……」
と夜襲に志願してきてしまったのである。
結局、陣に留め置くつもりだった二人を押しとどめることができず、ともに出撃することを認めざるを得なかったマティアスは、ヴィクトルとグレゴリウスの二人を呼んだ。
「二人にはアウレリウスとセバスティアーヌスの補佐として、常に影の如く付き添ってもらいたい。
何をおいても二人の安全を第一とせよ。突撃では深入りするな。成功してもしなくても一撃の後すぐに撤退する。何があっても二人の退却が最優先だ、よいな」
ヴィクトルとグレゴリウスの視線が一瞬だけ交錯し、再びマティアスへと向けられ、同時に頷いた。もはやそれ以上の詳しい説明は不要だった。長年の関係の中で、二人はマティアスの真意を理解していた。
二人の甥が参加することを受け、マティアスは当初の計画に苦渋の修正を加えざるを得なかった。
当初は、隠密性に優れた徒歩による「浸透戦術」を検討していた。この手法は敵の喉元深くまで食い込み、効果的な打撃を与えられる反面、襲撃後の撤退戦においては騎兵のように一撃離脱というわけにはゆかない。敵中からの徒歩での離脱となるため、極めて高い危険を伴う。――特に、若く血気盛んな彼らを伴うのなら、なおさらだ。
そこで彼は、作戦を「機動力重視の騎兵突撃」と「遠距離からの火矢による焼き討ち」の二段構えへと切り替えた。二つの部隊による並行同時攻撃。それは敵を混乱に陥れると同時に、甥たちの離脱路を確保するための、苦肉の策でもあった。
夜襲部隊は騎士や従士だけの選抜部隊で当たることになった。ろくに戦闘訓練もされていない召集兵では荷が重いとの判断からだ。
直前まで下馬して接近し、至近距離から騎乗突撃を仕掛ける一隊は、マティアス本人が率いる。
兵力は騎兵十五騎と徒歩十名。この中に、甥二人とヴィクトルらも含まれる。
一方、敵の糧秣を狙う焼き討ち部隊三十名は、信頼の厚い副隊長格の騎士に委ねられた。
敵指揮官襲撃部隊はそれぞれ自分の馬を手綱で引きながら歩いて敵陣に接近していた。夜の帳の向こうで、敵の篝火が刻一刻と近づいてくる。敵陣まで残り数十歩。その距離に至り、マティアスは初めて、低く鋭い声で騎乗を命じた。
「槍を構えろ」
闇の中で、穂先が一斉に銀色の光を放つ。
部隊を二列縦隊へと素早く組み替え、その先頭に立ったマティアスは、左右へ鋭く目を配った。二人の甥と、彼らを護衛するヴィクトルらの位置をもう一度確認していた。
——本来なら、あそこにいさせるべきではなかった。
しかし、そう思った瞬間にはもうその考えを切り捨てていた。
「突撃――ッ!」
咆哮とともに、マティアスが真っ先に馬を蹴った。
地を穿つ蹄の音を響かせ、十五騎の鉄騎が怒濤の勢いで敵陣へと猛進していった。




