第7話 ファルセリ家の若き指揮官
ファルセリ家の中庭は、無機質な石畳の広場だった。
四方を厩舎と兵舎に囲まれ、中央に水飲み場を配したその空間は、いかにも軍事貴族の邸宅らしい。
兵団主力こそ郊外の駐屯地に置いているが、この帝都屋敷にも、常に即応体制を維持できるだけの設備が整えられていた。
父セルギウスが帝宮へ向かってから、まだ半刻も経っていなかった。普段は訓練場として使われるこの空間が、にわかに慌ただしく動き出していた。
夕暮れの橙色の光が、石畳を斜めに照らし、長い影を兵士たちの足元に落としていた。馬の嘶き《いななき》が絶えず響き、武具がぶつかる鋭い金属音が空気を切り裂く。
そこに馬や兵士たちの体温が混じった熱気が立ちのぼり、普段の訓練場とは異なる、どこか焦燥を帯びた慌ただしさが中庭全体を支配していた。
「副官殿、先発の騎兵部隊五十騎の選抜が完了しました。程なく装備と補給の準備も整います」
百騎長の一人が、マルティウス・オ・ペルガモンへ報告した。
「よし」
マルティウスは短く頷き、次の報告者へ視線を移した。その動きに、迷いはなかった。
そんな周囲が慌ただしく動き出す中、ダリオスだけが中庭の端に立ち尽くしていた。
十八歳の若き副司令官は、父に似た恵まれた体躯を持っていた。だが、髪の色はセルギウスとは違う。母方から受け継いだ金髪に、父譲りの赤みがわずかに差している。
夕暮れの光を受けると、その髪は金というより、赤金色に近く見えた。
姿勢は正しい。鎧を着た立ち姿にも騎士らしい厳格さがある。
だが、その肩にはまだ余計な力が入っていた。視線は父が去った門の方へ何度も向き、次に何を命じるべきかを探しあぐねている。
父セルギウスが帝宮へ向かう際、ダリオスは呼び止めようとした。だが、父は振り向かなかった。その背中が、門を抜けて消えていくのを、ダリオスはただ見送るしかなかった。
父上は、何も指示を残さなかった。
自分は、何をすればいいのか。
父のように振る舞えると思っていた自分が、実は何も分かっていなかったのではないか――その疑念が、焦りとなって胸を締めつけた。
「ダリオス様」
唐突に耳に入ってきたマルティウスの声が、思考を遮った。
黒髪を短く整えたその男は、大柄ではない。だが、立つ位置、視線の配り方、兵たちの動きを見る目に、長く兵団の実務を預かってきた者の癖があった。
彼はダリオスの半歩後ろ、けれど声の届くすぐ脇に控えていた。若き指揮官を支えながら、決してその前へは出ない位置だった。
「こちらへ」
ダリオスは、マルティウスの元へ歩み寄った。中庭には、既に騎兵たちが集まり手慣れた様子で準備・物資の点検をしている。
「マルティウス」
ダリオスは、困惑を隠しきれなかった。
「父上から、具体的な指示は——」
「ございませんでした」
マルティウスは、あっさりと答えた。
「ですが、セルギウス様は目配せで、我らに命じられました」
ダリオスは、目を見開いた。
目配せ?
あの場面——ジュリアーヌスの報告を聞いた後、父は一瞬だけマルティウスへ視線を向けた。あれが、指示だったのか?
「ダリオス様」
マルティウスは、穏やかに言った。
「我らは日頃より、セルギウス様から有事の際の対応を、頭に叩き込まれておりますゆえ」
マルティウスはそう述べると、中庭の騎兵たちを指し示した。
「準備は三段階で進めます。
まず、先行する騎兵部隊です」
その声は、実務的で淀みがなかった。
「精鋭の五十騎を選抜しました。輜重部隊は分離します。速度最優先で、三刻ほど――およそ半日を待たずに、アルトレウス領へ到達可能です。」
ダリオスは、その速さに驚いた。
「三刻で……?」
「はい」
マルティウスは頷いた。
「携帯する補給物資は最小限にし、馬の負担を減らせば可能です。もちろん、それでは長期の戦には耐えられませんが——時間を稼ぐにはそれで十分でしょう」
その説明で、ダリオスは意図を理解した。
「では本隊は?」
「郊外の駐屯地へ、既に伝令を送っております」
マルティウスは、淡々と答えた。
帝都ケルソナの城壁外、北東へ半刻ほど進んだ場所に、ファルセリ兵団の主力は置かれている。
歩兵を中心とした中核部隊は、日頃そこを拠点に訓練していた。いま屋敷にいる騎兵たちは、セルギウスが友人の葬儀に参列するため帝都へ戻った際、休暇を兼ねて同行させた部隊だった。
「歩兵主体の兵団本隊は、明朝までに出発準備を整えさせます。出発後の到着は、一日以内です」
「……それで、三段階目というのは?」
ダリオスは、さらに問うた。
マルティウスは、わずかに首を振った。
「それは、セルギウス様の会議次第です」
その声には、現実的な冷静さがあった。
「三段目は、ファルセリ兵団以外の帝国軍をどこまで動かせるか、という段階になります。
どの部隊を、どこまで動かせるかは、御前会議の決定次第となります。
これは我々だけでは、判断できません」
ダリオスは、なるほど、と納得した様子で小さくと頷いた。帝国が保有する兵力は、何もファルセリ兵団だけというわけではない。マルティウスの答えに、無意識に狭くなっていた視界が引き戻されたように感じた。
「ダリオス様」
マルティウスは、ダリオスの肩を叩いた。
「若は、焦っておられます」
ダリオスは、その言葉が図星であり、否定しがたい事実だと頭では理解していたが、口からは自然と抗うような言葉がついて出た。
「当然だろう。アルトレウス領は、あと二日で——」
「その焦りは、解ります」
マルティウスは、穏やかに遮った。
「ですが、指揮官が焦れば、兵たちも焦ります」
「深呼吸を。そして、兵士たちに声をかけてください」
マルティウスのその言葉にダリオスは、はっと気づかされた。
そして深く息を吸った。
彼の言葉は、正しい。
自分がここで焦っても、何も始まらない。父は帝宮で戦っている。ならば、自分はここで兵を整える。それが、父の信頼に応えるということだ。
マルティウスはいつの間にか手際よく、先発組として選抜した騎兵たちをダリオスの前に整列させていた。
ダリオスは、兵士たちを見渡した。彼らは、ダリオスの言葉を待っている。若き指揮官の言葉を。
ダリオスは、今自分が負いうる範囲の責任を果たすべく、騎兵たちの前に立った。
「兵士諸君」
ダリオスの声が、中庭に響いた。
「アルトレウス領が、——帝国が、セヴァリス王国からの侵攻を受けている」
ダリオスは意図的にゆっくり、短いフレーズをつなげて語った。騎兵たちの表情が、にわかに引き締まる。
「我々ファルセリ兵団は、帝国の防衛を担う、矛であり盾だ!
今この時にこそ、その力を発揮し、我らの存在意義を内外に示すときだ!」
「準備を怠るな。一刻も早く、出立できる状態にせよ!」
そこで一呼吸し、改めて居並ぶ騎兵たち一人一人と視線を合わせるように向き合うと、一転して落ち着いたトーンで言葉をつづけた。
「若輩ではあるが、ぜひとも諸君の力を、私に貸してほしい」
「はっ!」
一瞬の静寂。
直後、その言葉に呼応するように騎兵たちの声が上がり、中庭を震わせた。
ダリオスは、なお声が上擦りがちなのを自覚しながらも、兵士たちの間を歩き始めた。
一人ひとりと視線を交わし、短く声をかけていく。そうするうちに、彼の声は次第に確かなものへと変わっていった。
兵士たちの返事や、武器を打ち鳴らす乾いた音に背中を押されるように、肩にのしかかっていた無力感の重みが、少しずつ抜け落ちていくのを感じていた。
マルティウスは、その変化を見届けるように、満足げな表情で彼の背中を見つめていた。
「副官殿」
百騎長の一人が、マルティウスへ報告した。
「郊外駐屯地からの返信です。兵団本隊は、明朝までに出発準備を完了させるとのことです」
「よし」
マルティウスは頷いた。
「騎兵先遣部隊は、会議の結果が出次第、即座に出発できる状態にしておけ」
「承知」
百騎長は、走り去った。
ダリオスは、中庭の端に立ち、帝宮の方角を見つめていた。
夕闇が、帝都を覆い始めている。父がいる帝宮の方角には、まだ薄明かりが残っていた。
自分にできることは、まだ限られている。その事実が腹立たしくて、ダリオスは拳を握り締めた。
「ダリオス様」
マルティウスの声が、背後から聞こえた。
「駐屯地の状況を確認してきます」
マルティウスは、既に外套を羽織っていた。
ダリオスは、振り向いた。
「待て」
その声には、決意があった。
「自分も同行しよう」
マルティウスは、わずかに驚いた表情を見せた。だが、すぐに頷いた。
「承知しました」
ダリオスは、自分の従士が急ぎ持ってきた外套を羽織りながら、帝宮の方角に残る薄明かりをもう一度だけ見やった。
父は今頃、何を語っているのか――そんな、自分にはどうにもならない想像を振り払うように、ダリオスは馬に跨り、先行するマルティウスを追いかけた。
中庭を抜け、門を出る。
夕闇の中、二騎は駐屯地へ向かって進み出した。
石畳に響く馬の蹄の音が、遠ざかる帝都の灯りを刻むように続いていた。




