第6話 侍従長の沈黙 ~ハインリヒ卿~
帝都ケルソナは、帝国の中央に位置する政治・経済・宗教の中心地である。
かつて五百万もの民を擁した大帝国。
その首都は、最盛期には五十万とも八十万ともいわれる人々で満ちていたが、今では十万を数えるのみである。
だが、その石造りの建造物は、変わらぬ姿のまま帝国最盛期の栄光を今なお語り続けている。
市街を貫く大通りには、古代の凱旋門が立ち並び、大広場の周囲には国教であるイグニズ教の神々を祀る神殿が点在している。
——いずれも、西大陸を席巻している聖光教の聖堂とは、様式を異にしていた。
帝都の中心に聳え立つのが、皇帝の宮殿——帝宮である。
帝宮は、城壁の奥深く海側にそびえる巨大な石造建築物である。正門から続く石段を登れば、広大な中庭が広がり、その奥には皇帝の執務棟と謁見の間が配置されている。
だが、不思議なことに、この宮殿がいつ、誰の命によって築かれたのか、その歴史的経緯は現在の帝国には伝わっていない。
そして帝国の最盛期よりもさらに前に建てられたこの宮殿は、今や往時の栄華を失っていた。かつて数百人の官僚と侍従が行き交った広大な回廊は、今ではその半分が閉ざされている。使われなくなった離宮や客間、官房などが、薄暗い沈黙の中に取り残されていた。
帝国歴467年7月23日 夕刻
夕陽が帝宮の石壁を黄金色に染める頃、その最奥では国の命運をも左右しかねない、乾いた議論が始まろうとしていた。
* * *
帝宮の回廊は、夕刻の光を受けて長い影を引いていた。
高窓から差し込む橙色の光が、石畳の上に規則正しい格子を描いている。かつて幾人もの官僚や将軍が行き交ったであろう広い回廊は、今では人影もまばらで、足音がやけに大きく響いた。
七家の一角、ファルセリ家当主セルギウスは、その中央を迷いなく進んでいた。
その半歩後ろを、アルトレウス家の正使の肩書でこの場にいるジュリアーヌス・オ・アルトレウスが追っている。
——静かすぎる。帝国の命運を左右する報せがすでに届いているというのに・・・
回廊の石畳に二人の足音だけが響き、橙色の光が長い影を引くのを眺めながら、ジュリアーヌスは胸の奥に奇妙な重しが沈むのを感じていた。
やがて二人と取次役は、壁龕にオリーブオイルのランプが据えられた、他とは明らかに趣の違う執務室の扉の前で足を止めた。そこの前で待ち構えていた数人の官僚に、その執務室へ入るように促されたからである。
扉の先に入ると、彼らの前に立っていたのは、帝宮侍従長ハインリヒ・フォン・グラーフェンだった。
皇帝直属の侍従長であり、同時に御前会議を構成する重臣――「アウレ」と呼ばれる者の一人でもある。
前任の侍従長を讒言によって追い落とし、自らその地位に取って代わった――とは、口さがない帝宮雀たちの噂するところだ。真偽のほどは定かではない。少なくとも、本人の顔からそれを読み取ることはできなかった。
北方系移民の末裔――帝国内ではテュリンギ人と呼ばれる人々の血を引くらしい、彫りの深い眼差し、すっと通った鼻筋、額にかかる濃い褐色の髪。
年は四十をいくらか越えた頃に見える。背は高いが、武人のような厚みはない。むしろ、余分なものを長い年月かけて削ぎ落としてきたような、細く硬い印象があった。
身に着けている装束もまた、無駄を徹底して削ぎ落としている。
その佇まいは、まるでこの場所そのものが人の形を取ったかのように、冷たく、整然としていた。
ハインリヒの視線が、セルギウスへと向けられる。
そして一瞬、
アルトレウス家を代表する正使の肩書でそこに立つジュリアーヌスへと流れ、
そのまま、何事もなかったかのように通り過ぎた。
「セルギウス殿」
ハインリヒは一礼した。形式としては完璧だった。
「急ぎのご用件と承っておりますが」
「急ぎだ」
セルギウスは、間を置かずに返した。
「北方国境、アルトレウス領に対するセヴァリス王国からの侵攻が確認された。皇帝陛下への拝謁を願いたい」
ハインリヒの表情は変わらなかった。
「その件については、すでに報告は受けております」
——受けている。
ジュリアーヌスの胸の奥に、嫌な感触が残った。
「ならば話は早い」
セルギウスは一歩踏み出した。
「即刻、御前会議を招集していただきたい」
ハインリヒは静かに首を振り、その動きはまるで長年磨かれた儀礼の型のように無駄がなかった。だがその声には、すでに結論が決まっている者の硬さがあった。
「現時点では、その必要はないと判断されております」
セルギウスの瞳にわずかな苛立ちが灯るのを、ジュリアーヌスは見逃さなかった。
「誰の判断だ」
「陛下のご裁可の前段階として、情報を精査する必要がある、という判断です」
その言葉遣いは、あくまで穏やかだった。
だが、その中に入り込む余地はなかった。
セルギウスの眉がわずかに動いた。
「敵軍はすでに進軍中だ。精査に費やす時間はない」
「情報は錯綜しております」
ハインリヒは淡々と続けた。
「侵攻の規模、兵站の裏付け、セヴァリス王国の関与の度合い。
――いずれも確定には至っておりません」
「確定?そんなものを待ってなどおれば、手遅れになる」
セルギウスの声が低くなる。
「それは——」
ハインリヒは一拍、間を置いた。
「——帝国が正式に動く理由にはなりません」
ジュリアーヌスは、その言葉の意味を考えた。
理屈としては、理解できる。
国家が動くには、正当な根拠が要る。
だが——
「アルトレウス家当主エウスタティウスからの直報だ」
セルギウスが言った。
「帝国七家の一つ、その当主の報告が、まだ足りぬと言うのか」
ハインリヒは、初めてジュリアーヌスの方へ視線を向けた。
冷たい、測るような目だった。
「七家を軽んじるわけでも、当主の誠実さを疑っているわけでもありません」
「では何だ」
「誠実さと、国家判断の材料は別儀です」
淡々とした声音。
そこに悪意はないように見えた。
「一領主の報告だけで帝国軍を動かせば、それは前例となります。
今後、同じような要請があった時、帝国はどう扱うのか。
その責任を、誰が負うのでしょうか。」
——責任。
ジュリアーヌスは、拳を握りかけて、堪えた。
「責任を負うのは、今ここで決断しなかった者ではないのか」
セルギウスの声が、わずかに強くなった。
「状況から見て、猶予は二日だ。敵は約二日でアルトレウス領の館にまで達する。あの館に防衛拠点としての能力は無い」
「二日あれば、さらに情報は集まります。精査の精度も上がりましょう」
ハインリヒは即答した。
まるで、その二日で失われるものなど初めから勘定に入れていないかのようだった。
「その上で、陛下が判断される。それが正道です」
「……」
侍従長の取り付く島もないその返答のあと、しばしの間沈黙が落ちた。
ジュリアーヌスは、そのやり取りを見つめながら、奇妙な感覚を覚えていた。
ハインリヒの言葉は、すべて一応の筋が通っている。
感情論ではない。逃げでもない。
それでも——
"なぜ、ここまで頑ななのか"
セルギウスは、ゆっくりと息を吐いた。
「わかった」
低く、押し殺した声だった。
「では、私が陛下に直接申し上げる」
そう言って、彼はハインリヒの横を通り抜けようとした。
「お待ちください!」
ハインリヒの表情から余裕が消え、初めてその声に強さが滲んだ。
「陛下は現在、政務中です。正式な手続きを経ずに謁見はできません」
セルギウスは立ち止まり、振り返った。
「それでも行く」
「それは帝宮の秩序を損ないます」
「秩序が、帝国を守るわけではない」
セルギウスは言った。
「帝国が守られてこそ、秩序が意味を持つのだ」
ハインリヒは、その言葉を受け止めるように黙した。
ほんの一瞬、彼の瞳に揺らぎが走ったように、ジュリアーヌスには見えた。
だが、それはすぐに消えた。そして感情を消した冷たい声で告げた。
「……御前会議は、現時点では招集されません」
最終的な宣告だった。
その時、執務室の外から重い足音が近づいてきた。
扉の前で足音が止まる。ハインリヒが振り向くより早く、扉が開いた。
現れたのは、皇帝クラウディウス・パウリヌス・アウグストゥスだった。
空気が、わずかに張り詰める。セルギウスは、扉が開く前からその主を悟っていたように振り向いた。
「陛下」
皇帝は、側近を伴い、静かにその場に姿を現していた。
「セルギウス」
名を呼ぶ声は短く、だが感情の起伏を感じさせなかった。
皇帝は周囲を一瞥し、次いでセルギウスへと視線を戻す。
「珍しいな。招集もないのにおぬしから帝宮に来るとは」
叱責ではなかった。
純粋な、関心の声音だった。
「何があった」
一瞬、場の空気が止まった。
セルギウスは、言葉を選ぶように息を吸った。だが、口を開きかけたそのとき――
「……いや、よい。後ほどでよい」
皇帝は軽く手を上げ、制した。
「ここで話すことではあるまい。公式な場を整えた方がよかろう」
その視線が、セルギウスの背後に控える官僚たちへと向けられた。もちろん、そこにはハインリヒもいる。
「……はっ」
セルギウスは短く応え、頭を垂れた。
皇帝はそれ以上の説明を求めず、踵を返した。
「隣の控えの間でしばし待て。改めて呼ぼう」
そう告げると、皇帝は側近を伴って回廊の奥へ消えていった。
その背が見えなくなるまで、誰一人として口を開かなかった。
しばしの沈黙の後、空気がわずかに動き出した。
ハインリヒは、表情を崩していなかった。
動揺も、焦りも見せない。
ただ、皇帝の去った方向を見つめるその横顔から、何かを計り直しているような冷静さを感じた。
「会議の件ですが」
補佐官の誰かが切り出した。
「この件、早急に御前会議を――」
「時期尚早です」
遮ったのは、ハインリヒだった。
声は低く、抑制されている。
「陛下は公式な場を、と仰せになりました。ならばなおのこと、未整理の憶測をその場へ持ち込むわけにはまいりません。情報が不足しています。憶測で議題を上げれば、混乱を招くだけでしょう」
この期に及んで尚、ハインリヒは御前会議開催に否定的な見解を自らの補佐官たちに展開していた。
たしかにその理屈は、破綻していなかった。
だが、ジュリアーヌスは拭えぬ違和感を覚えていた。
――度が過ぎる。
慎重であること自体は、帝宮では珍しくもない。だがこれは、慎重さを理由に決断の場そのものを遠ざけている。
侍従長一人の判断で、ここまでできるものなのか。
あるいは、背後にもっと大きな力が働いているのではないか。
侍従長一人の判断で、ここまで押し切れるものなのか。
あるいは、彼の背後に、もっと大きな力が働いているのではないか。
御前会議を開くかどうかではない。会議を開かせないこと自体が、目的になっている。
まるで会議の招集の否定、それ自体が目的であるかのように。
だが、なぜそこまで頑なに対応するのか?
少なくとも、ジュリアーヌスの知る限り、ハインリヒがここまで頑なになる理由は見当たらなかった。
「では、現時点では」
ハインリヒは静かに締めくくった。
その時、扉が慌ただしく叩かれた。
返事を待たず、一人の官僚が入室し、ハインリヒに駆け寄って耳元で何かを伝えた。
その瞬間、ハインリヒの顔が一瞬だけ険しくなった。そして少しの間目を閉じ、何かを飲み込むような間を置いてから、彼は官僚に告げた。
「……ただちに参上するとお伝えせよ」
と伝え、自らも執務室から退室していった。
ジュリアーヌスやハインリヒの補佐官たちはその様子に唖然としていたが、セルギウスだけはそれを予期していたかのように平然とその様子を眺めていた。
ジュリアーヌスには理解できなかったが、セルギウスにとっては――
皇帝が動かぬ理由は、もはや存在しなかった。
その半刻後、御前会議の招集が決定した。
ジュリアーヌスは最初、胸に広がる安堵を覚えたが、それもすぐに冷めたものに置き換えられていった。
なぜなら、これでようやく、本来なら最初から立っているべき場所に辿り着いただけに過ぎないのだから。




