第46話 白旗を掲げる男
マクシムの蹄が街道を蹴るたび、村は少しずつ背後へ遠ざかっていった。
――あれは帝国軍でも、諸侯の軍でもない。そもそも他国の軍であるはずもない。
フェリシアは、目前の相手が雑多な集団であることから、傭兵団の可能性も考えていた。
しかし、あれは戦うことに慣れた者たちの集団の反応ではなかった。角笛が鳴った時のあのざわめきは、後ろにいたマロネイアの村人たちとよく似ていた。何の合図かを理解して動いたのではない。ただ、意味の分からない大きな音に不安を覚えたのだ。
傭兵なら、たとえ帝国式の合図を知らずとも、角笛がいつ、いかなる時、何のために使われるものなのかぐらいは知っている。
――軍隊ではない集団、戦場に不慣れな者たちの集まり……。
そうであるならば、あのまま村まで引きつけるのはまずい。
軍勢ならば、まだ動きに理がある。だが、互いに何をすべきかも分からない者が何十人も集まった烏合の衆となれば、一人の不測の行動で何が起こるか分かったものではない。
――村の近くまで来させてしまってからでは、むしろ遅い。
たとえ、どんなに守りやすい地形で待ち構えていたとしてもだ。
そして、相手がいったいどういう経緯でここまで来たのか、何を望んでいるのか。そもそも戦う必要があるのかさえ、まだ分かっていない。
今ならまだ距離がある。何かあっても、マクシムとならどうとでも出来る。
フェリシアは手綱を握り締めることもなく、ただ身体をわずかに前へ預けた。
マクシムは街道を外れ、前方の集団と距離を保ちながら、緩やかにその側面へと回り込んでいった。草地を進むうち、ひとかたまりに見えていた人影も、少しずつ輪郭をはっきりさせていった。
近づくにつれ、まず目についたのは、その歩みの乱れだった。先頭にいる者たちは半ば焦るように前へ出ているのに、その後ろはまるで足並みが揃っていない。
さらに目を凝らすと、荷を背負ったままよろよろとついてくる者、幼子の手を引いている女、肩を貸されながら歩く老人までいる。槍らしき長物を持つ者も確かにいたが、それは兵が得物として携えているというより、旅の途中でどうにか掻き集めた棒切れに穂先をつけたような代物に見えた。剣を佩いた者もいたが、佩き方も身のこなしもまるで様になっていない。
家族を丸ごと抱え、炊事や洗濯、鍛冶仕事まで団の中で賄う傭兵団もあると、ヴィクトルから聞いたことがあった。だが、目の前の集団がそうした傭兵団だとは到底思えなかった。
衣服もまた、帝国人のそれとは明らかに違っていた。長衣の前を帯で締め、頭に布を巻いた男たち。色褪せてはいるが、裁ち方や布地の重ね方には東大陸の匂いがある。女たちの肩掛けや子供の被り物にも、こちらではあまり見ない意匠が混じっていた。
――やはり東大陸の、サルディア人か。
海峡を隔てたすぐ隣、東大陸に広大な領土を持つ巨大な帝国。サルディアこそが、西の隅でかろうじて生き残っているヴァルフレア帝国の最大の貿易相手国だった。
いや、今もそうなのだろうか。その交易を後押ししてきたアルトレウス家が滅亡した以上、これまで通りに続くとは思えなかった。
そうでなくとも、アスターナの父であり、東ではそれなりに名の知れた商会を率いていたハミリの隊商が襲われ、ほとんど皆殺しという有様だったのだ。
そんなことがふと頭をよぎったが、今はそれどころではなかった。
今まさに問題として直面しているこの集団を何とかしないといけない。
改めて彼らを見渡すと、その誰もがひどく疲れ切っている様子だった。
頬はこけ、足取りは重い。荷車に積まれているのも、財貨と呼べるものではなく、鍋や布束、粗末な寝具、木箱といった、暮らしの残骸ばかりに見える。戦に出る集団ではない。移動の途中で行き倒れぬよう、持てるものをどうにか持ち運んでいるだけの人々だった。
飢えと疲労で追い詰められた集団ほど、一度崩れれば何をしでかすか分からない。しかも、これほど切迫した様子でありながら、その場を収めるだけの統率者すら見当たらない。まさに雑多としか言いようのない集団だった。
フェリシアは手綱をわずかに引き、マクシムの脚を緩めた。
そのときだった。
前方の集団のうち、近づくフェリシアに気づいた何人かが、大慌てで周囲に何かを捲し立て始めた。足を止める者が現れ、別の誰かがまた何かを叫ぶ。ざわつきはみるみるうちに後方へ、さらに周囲へと広がり、馬上のフェリシアの姿を認めた者たちの間に、先ほど角笛を聞いたとき以上の怯えが走った。
子供を抱き寄せて身を引く女。荷を捨てかけてまで後ろへ下がろうとする男。何が起きたのかも分からぬまま、ただ周囲につられて狼狽する者たち。
槍を持っていた数人ですら、構えるどころか、狼狽して互いに顔を見合わせていた。そのうちの一人は手にした槍を取り落とし、慌てて拾い上げた。それを見た別の男も、つられるように槍を握り直していた。
――しまった! これでもまだ近すぎたか。
フェリシアはすぐにマクシムの脚を止めた。
自分では十分に距離を取ったつもりだった。だが、相手がこれほど追い詰められ、しかも戦場慣れしていないとなれば、たとえ離れていても、馬に乗って近づいてくる人影そのものが脅威に映るのだろう。
下手にもう一歩でも詰めれば、それだけで誰かが悲鳴を上げ、誰かが勝手に逃げ、あるいは逆に、追い詰められたまま槍を振り上げるかもしれない。そうなれば、何のために二人の反対を押し切ってまでここへ来たのか、分からなくなる。
フェリシアはマクシムを横へ開かせるようにして、じりじりと距離を取り直した。集団の進路からさらに離れるように草地を下がり、相手を刺激しない位置へ移った。
マクシムも主人の意図を察したのか、鼻を鳴らしただけで素直に脚を変えた。
すると、正面の集団も、フェリシアがそれ以上近づいてこないと分かったのか、ざわめきの質がわずかに変わった。なお怯えてはいたが、先ほどのような一足飛びの混乱にはならなかった。
ひとまず相手を刺激せずに済むだろうという距離まで下がると、フェリシアはそこで馬を止めた。集団の中に取りまとめ役がいるなら、こちらへ何らかの反応を示すはずだ。そう考えてしばらく様子を見ていると、集団の少し後方で土煙が上がるのに気づいた。
目を凝らす。
街道の後ろ側から、一台の馬車がこちらへ向かってきていた。
それは人の群れの中へ割って入ろうとしているのではない。明らかに、群れの脇を抜けるようにして、こちらだけを目指している。
馬車を曳く馬は一頭。速度は決して速くないが、急いでいるのは見て取れた。御者台には男が一人、その横にも誰かいるように見える。
御者の隣に座る男が、棒の先に白い布を結びつけたものを掲げていた。
――白旗……こちらへ話をしに来るつもりなのか。
白旗を軍旗とともに掲げれば、軍使であることを意味する。だが、あの男が掲げているのは白旗だけだった。所属を示す旗すら持たぬ集団なのだろうか。
フェリシアは手綱を持つ手にわずかに力を込め、マクシムを馬車へ正対させず、いつでも退けるよう斜めに向けた。
何にせよ、旗を掲げての意思表示なのだ。少なくとも、こちらと話をするつもりの者が現れたということだろう――。
馬車は土煙を上げながら、まっすぐフェリシアの方へ近づいてきた。
馬車はさらに近づいてきたが、フェリシアまでまだ十分に距離を残したところで、ゆっくりと速度を落とした。
御者台の二人の姿も、今でははっきりと見える。
手綱を握っているのは、四十代も後半と思われる男だった。顔には疲労の色が濃く、衣服にもかなりの埃がついていたが、手綱を扱う様子は落ち着いていた。
一方、隣で白旗を掲げているのは、二十代半ばほどの若い男だった。長い髪を後ろに流し、旅の汚れが目立つものの、身につけている衣服は上等なもので、少なくとも先ほど見た人々とは身なりが違っていた。
「ここでいい、ホスロー。あとは私が話すよ」
若い男はそう声を掛けるなり、まだ動いている馬車の御者台から飛び降りた。身軽に着地すると、そのままフェリシアの方へ歩き出す。御者は何か言おうとして男の方を向いたが、すでに彼は歩き出していた。諦めたように前へ向き直り、馬車を止めた。
どうやら、若い方が主人らしい。
白旗を掲げたまま歩いてきた男は、まずフェリシアの背後へ目を向けた。遠く村の手前には、ヴィクトルやグレゴリウスたちが武装した者を集め、今も待機しているはずだった。
その方角を一度確かめた男は、改めてフェリシアへ向き直った。
こうして間近で見ると、遠目に感じた以上に整った顔立ちの男だった。すっと通った鼻筋に、やや切れ長の目。長い髪は旅の埃に汚れ、目元にも疲労の色が浮かんでいたが、それでもなお、その容貌の美しさは少しも隠せていなかった。
――これほど顔立ちの整った男を、今までに見たことがあっただろうか。
少なくとも、フェリシアには思い当たらなかった。
目の前にいるのがまだ年若い少女であることに、多少の驚きはあったのかもしれない。しかし、少なくともその態度には、こちらを侮るようなところは見られなかった。
若い男は丁寧に頭を下げた。そして口を開くと、その声にはどこか人懐こさがあった。礼儀を欠いているわけではないのに、話しぶりには妙な軽さがある。それがこの男にとっては、ごく自然なことのようにも感じられた。
「いやはや、これは大変なご心配をおかけしたようで。あちらの兵をお率いになるお方とお見受けしました。私はダリューシュ・メフラーンと申します。まずはこちらの事情を――」
「この先の村は、帝国直参の騎士ルキウス・オ・ベラータの治める領地だ!」
フェリシアは男の言葉が終わるのを待たず、馬上から声を張り上げた。目の前の男だけでなく、その向こうにいる人々にも、後方に控える味方にも聞かせようとしているかのような、大きな声だった。
「主街道を外れ、徒党を率いてこの地まで来たのは、そうと知ってのことなのか否か! そして、その目的は? 返答次第では、こちらも相応の措置を取らねばならぬ。返答や如何に!」




