第45話 角笛の問い
「どうだ? 状況は把握できたか?」
村の東側まで出てきたフェリシアがそう尋ねると、先に東側を見に来ていたヴィクトルは、街道の先へ向けていた目をこちらへ戻した。
会合を終えたあと、フェリシアたちは一度天幕へ戻り、集まった者たちへ必要な指示を出してから、村の東へ移動していた。村人たちもエウドキアとレオンの指示で動き始めており、弓や農具を手にした男たちがそのうち追いかけてくるはずだ。
一方、東へ延びる街道の向こうには、問題の集団がすでに肉眼でもそれと分かるほどの大きさで見えていた。
「ええ。さっきよりはだいぶ見えてきました」
ヴィクトルは再び街道の先へ目をやった。
「まず、足が遅い。こっちへ向かってるのは間違いありませんが、あの調子なら半刻どころか、もっとかかるでしょうな。それから隊列なんてもんじゃありません。前と後ろで随分間が空いてますし、横にも好き勝手広がってる。兵隊なら、よほど酷い連中でももう少しまとまって歩きます」
フェリシアも目を細めた。
距離はまだある。それでも、ヴィクトルの言うことは分かった。
ひとつの集団ではある。だが、ひとつの隊ではない。
先頭を歩く者、その後ろを何人か固まってついていく者、そこから大きく遅れて歩く者。街道を外れかけている者さえいる。
「騎兵は? それから弓隊は?」
「今のところ一騎も見えません。馬そのものがいるかどうかまでは分かりませんが、少なくとも馬上で周囲を警戒してる奴はいません。弓も見える限りでは確認できません。少なくともまとまった部隊としてはいないと思います。旗も何も無し。武器らしい長物はところどころ見えますが、あれも揃えて持ってるって感じじゃありませんな」
ヴィクトルはそこで腕を組んだ。
「正規の兵じゃないのは、ほぼ間違いないでしょう。それどころか誰かがちゃんと統制しているかどうかすら怪しいですぜ。ただ、だから安心できるかって言われりゃ逆です。賊だってなんだって、何をするか分からねえ連中が一番怖い。なにせ戦場での常識ってものが通用しませんから」
「なるほど。そういうものなのか」
フェリシアは街道の先を見たまま答えた。
数だけなら、こちらより向こうが多い。だが、こちらには騎士も従士もいる。
「もし守ることになるなら、ここより少し後ろの小高い場所ですな。東は開けてますから、どこから来ても見通しは利きます。ただ……そこまで引きつけるとなれば、そのすぐ後ろがもう村だ。後がないのが厄介です。」
「戦になると決めつけるのも早計かと。賊か、敗残兵か……あるいは、逃亡流民の集団という可能性もあります。どのみち、もう少し近づかないと判断がつきますまい」
グレゴリウスもまた、判断を保留していた。
そんなやり取りをしている間に村人たちがようやく追いついてきた。アルトレウス領とは違い、国境から遠いこの村の村人たちは、戦支度など慣れていない。弓や農具を手に、どこか落ち着かない様子だった。それでも彼らを含めれば、見た目だけならそれなりの人数になる。
ならば、まずはこちらが警戒し、防衛の備えを進めていることを相手に知らせるべきだろう。
フェリシアは後ろを振り返った。
「角笛はあるか? 誰か角笛を吹ける者はいるか?」
集まっていた従士たちの中から、一人の男がすぐに進み出た。
「自分が。先の奇襲作戦でマティアス様に従った折も、ラッパ手を務めてました。進軍や戦闘中の基本合図程度でしたら、一通りできます」
「十分だ。まず警戒の角笛を吹け。向こうにはっきり聞こえるように。それでも向こうの足が止まらないようなら、少し間を置いて、今度は戦闘準備の合図を」
男がわずかに目を上げた。
「戦闘準備の合図、ですか?」
「ただし、攻撃開始の合図はまだ出さない」
フェリシアはそう言ってから、街道の先を指した。
「確認したいことが二つある。まず、あの人たちが帝国式の角笛の意味を知っているかどうか。知っていれば止まるなり整列するなり、それなりの対応をするはず」
従士が頷く。
「そのうえで、どう動くかを見る。もし向こうにも角笛があって返してくるなら、それも判断材料になるだろう」
そこまで聞いていたヴィクトルが、感心したように眉を上げた。
「よくそんなこと知ってましたね、お嬢。俺はてっきり、角笛なんぞ鳴ったら走れだの止まれだの、その程度しか興味がないもんだと思ってましたよ」
フェリシアはちらりと彼を見た。
「伊達に家庭教師の目を盗んで、広場の訓練を見ていたわけじゃない。何の合図なのか、どういう意味なのかも分からないまま眺めていても、ちっとも面白くないだろう?」
「なるほど。お勉強をさぼって、別の勉強してたってわけですか」
ヴィクトルはそう言って笑ったが、すぐにまた街道の先へ目を戻した。
「ただ、悪くない手だと思いますぜ。向こうが意味を知ってて、それでも速度も落とさず突っ込んでくるなら、こっちも遠慮する理由がなくなる。逆に止まるなり距離を取るなりするなら、少なくともいきなり殺し合う気じゃないってことは分かる」
ヴィクトルはそう言いながら、まだ何か言いたげな表情を浮かべていた。当然、フェリシアがそれに気づかぬわけもない。
「他に何か言いたいことでも?」
「いえいえ。ただ……」
ヴィクトルはそう返事をしながら、フェリシアへ少し顔を寄せた。そしてフェリシアにだけ聞こえるような小さな声で囁いた。
「朝からずっと、男言葉をつかってますな。いいと思いますよ、俺は。男装の令嬢、という方が威厳も保ちやすい」
その瞬間、フェリシアは少し顔を赤らめ、その声の主をしかめっ面で睨み返した。
「揶揄うな、ヴィクトル」
あっさり見抜かれたことが、何より気恥ずかしかった。だから睨み返してはみたものの、否定の言葉までは続かなかった。
ヴィクトルは口の端にわずかな笑みを浮かべただけで、それ以上は何も言わなかった。
フェリシアは誤魔化すように彼から目を逸らすと、従士へ頷いた。
「では始めよう。最初は警戒。十分に間を置いてから、戦闘準備を」
「承知しました」
男は腰に下げていた角笛を外し、ゆっくりと息を吸い込んだ。
フェリシアは相手の反応を見逃すまいと、ひとり集団から数歩前へ出た。
「ヴォォォーー……! ヴォォォーー……!」
長く二度。低く太い音が、間を置いて村の東に広がる平原を渡ってゆく。やがて男はひと呼吸置き、もう一度、同じ合図を繰り返した。
その音は背後の村にも響き、さらに街道の先へと伸びていく。
フェリシアは動かなかった。ヴィクトルやグレゴリウスも何も言わない。二人の視線はただ、遠くに見える人の群れへ向けられていた。
遠くの群れがざわつき始めたのが、ここからでも分かった。ただでさえ遅い歩みがさらに鈍り、ばらばらに動く人影も目立ち始めている。
だが、その角笛に反応したのは、前方の正体不明の集団だけではなかった。
フェリシアたちの後ろで、どうにか列を作って座らされていた村人たちにも動揺が広がっている。合図の意味を知らぬ彼らにとっては、平原に低く響き渡る角笛の音そのものが、不安を掻き立てるものらしかった。
十分な間を置いて、男は再び角笛を構えた。
「ヴォッ、ヴォッ、ヴォッ――ヴォォーー……!」
今度は短く三度、そのあとに長く一度。
先ほどとは明らかに異なる調子だった。帝国の兵に馴染みのある者なら、それだけで十分に意味の通じる音だ。
フェリシアたちは、音が消えてからもしばらく様子を見た。
だが、何も変わらない。
一度目の角笛が響いた時から続くざわめきも、ばらばらに動き回る人影も、そのままだった。誰かが周囲の者を集める様子もなければ、隊列を整えようとする動きもない。こちらへ何らかの合図を返す者もいなかった。
警戒を告げる音と、戦闘への備えを告げる音。意味を知る者にとっては、まるで違う。
だが、あの集団の反応には、その違いがなかった。
「……あれは意味を理解していない!」
フェリシアはほとんど確信してそう言うと、後ろを振り返った。
ヴィクトルとグレゴリウスも、それぞれ頷いている。二人も同じものを見たらしい。
――そもそもこの村は国境からも遠い。ここまで帝国の内側へ入り込んでいる集団が、それでも帝国式の角笛を理解していないというのなら?
この状況でそれが当てはまる集団となればかなり絞られる。ならばここで待っていたらむしろ手遅れになるかもしれない。フェリシアの腹は、既に決まっていた。
「総員、この場で引き続き待機! 私はマクシムと先行してあの集団を見極める!」
そう言うや否や、フェリシアはもう駆け出していた。
数歩先、村側に寄せて繋いであった一頭の栗毛が、彼女の姿を認めて首を上げる。
「お、お嬢!」
ようやく我に返ったようにヴィクトルが声を上げたが、フェリシアは振り返らなかった。
マクシムの手綱を取ると、その勢いのまま鐙へ足を掛ける。鞍へ身体を滑り込ませるまで、ほとんど間はなかった。
「お嬢! さっき言ったでしょうが。統制の取れてねえ連中が一番怖いんです! 誰か一人が勝手に弓なんか射ってきたらどうするんです!」
「フェリシア様、なにとぞここはお留まり下さい!」
そう叫びながら二人とも慌ててこちらへ向かってくる。
「相手が何者かも分かっていないのです! せめて我らの誰かを――」
フェリシアは馬上からようやく振り返った。
「騎兵はいない。弓を持ったまとまった集団も見えない。全体として統制が取れているようにも見えない。それに、こちらの角笛の意味も理解していない。むしろ向こうが近づいてからでは手遅れになるかもしれない。今行かずしていつ行くのだ!」
――それに、遠くからの一斉射撃でもない単発の弓程度ならマクシムが勝手に避けてくれる。
フェリシアは二人の言葉を遮るように続けた。
「マクシムなら、あの集団よりずっと速い。近づきすぎなければ追いつかれることもない。それとも、相手の顔が見えるまでずっと、ここでおとなしく待っているとでも?」
ヴィクトルが舌打ちするように息を吐いた。
「だからって、お嬢が行く必要はないでしょうが」
「マクシムは私にしか扱えない」
その言葉だけは、少し低くなった。
グレゴリウスは眉を寄せた。今、この村にいる馬はマクシム一頭きりだった。
グレゴリウスは何か言おうとしたようだったが、結局、口を閉じた。
「フェリシア様」
「大丈夫」
フェリシアは片手を上げ、今度は二人を制した。
「行けば何かは分かる。ここから眺めているだけよりはな。ここは任せる。私が戻るまで、相手が動いてもこちらからは仕掛けるな。とにかく私が戻るまで待て」
「しかし――」
「万が一、私が戻らなければ後の指揮はヴィクトルに任せる。行こう、マクシム!」
手綱をわずかに送ると栗毛の馬はそれだけで意図を察したように踏み出し、次の瞬間には速度を上げた。
背後からもう一度、自分を呼ぶ声が聞こえた。だが、もはやそれは制止の声というより、無事を祈る叫びに近かった。
そしてフェリシアも振り返らない。
東へ延びる街道と、その先に散らばる人影だけを見据えたまま、マクシムと共に村を離れていった。




