第44話 半刻の猶予
帝国歴467年8月4日 朝
「これは、いったいどういう事でしょうか」
件のレオン老が、こちらへ明らかに不審の目を向けて問いただしてきた。その声音にも、隠そうともしていない苛立ちが滲んでいる。本来なら保たれるはずの身分の隔たりさえ、今にも踏み越えかねないような、不穏な熱がそこにはあった。
昨夜、フェリシアら一行は輪番を組み、食糧庫を一晩中見張った。少なくとも、誰かが庫へ近づく姿を見た者はいない。
にもかかわらず――また食料が消えていたのだ。
今朝、同じ部屋にほぼ同じ顔ぶれが集まった。
エウドキアとレオン、フェリシア、グレゴリウス。そして昨日はいなかったヴィクトルが、アスターナに代わってフェリシアの隣に着席していた。村側もレオンのほかにもう一人、大人衆の男が加わっている。それ以外の顔ぶれは昨日と変わらない。
ヴィクトルは今日、自分から出席を申し出ていた。昨日の夕方に話したこともあり、彼なりに思うところがあってのことなのだろうか。
昨日とは違い、村側――とりわけレオンと、その隣に座る大人衆の男の視線は、明らかに険しさを増していた。
「昨夜は決めた通り、交代で人を配置した。少なくとも、我らの知る限りでは、食糧庫へ出入りした者はおりません」
グレゴリウスは静かに答え、言葉の最後だけをエウドキアへ向けた。
レオン老の隣に座っていた男が、すぐにその言葉を拾った。
「では、知らぬところで何かあったとおっしゃるのか?」
「可能性、ということであれば、否定はせぬ」
「いったいどういうことだと説明されるのです?」
そこでレオンが口を挟んだ。
「それでいて食料だけが減った。となれば――」
老人は一度言葉を切って周囲を見回した。
「見張りそのものについても、少し考えねばならぬのではありませんかな」
部屋の空気が一段重くなった。
「それは、どういう意味だ」
今度はヴィクトルが低い声で引き取った。レオンはそちらへ視線を移した。その目が一瞬、ヴィクトルの身なりを上から下までなぞった。
「言葉通りの意味です、もう一人の騎士様。誰一人として侵入者を見なかったと言われる。しかし物だけは無くなっている。ならば、外から忍び込んだ者ばかりを疑っていても仕方がありますまい」
「まさか、俺たちが口裏を合わせてるとでも言いてえのか」
「ヴィクトル殿」
エウドキアがたしなめるように名を呼んだ。だがヴィクトルは引かなかった。
「こっちは頼まれて夜通し見張りまでしてるんですぜ。それで今度は、盗人と庇い合ってるんじゃねえかと疑われる。随分と都合のいい――」
「待て、ヴィクトル」
フェリシアは片手を上げて、ヴィクトルの言葉を途中で制した。その声は驚くほど静かだったが、低くよく通り、部屋の隅まで届いた。ヴィクトルはすぐに口を閉じ、一瞬だけフェリシアの顔を見たあと、背筋をやけに大仰に伸ばした。
「――はっ! フェリシア様」
胸にまで手を当て、これ見よがしに深々と頭を下げる。
あまりにも芝居がかった仕草だった。
フェリシアは思わず眉を寄せたが、それについて特に何も言わなかった。ただほんの少しだけ、口の端に笑みを零した。それは、傍らのヴィクトルやグレゴリウスでなければ気づかないほどの、ほんの僅かなものだった。
フェリシアは小さく息を吐き、改めてレオンへ向き直った。
「村側の意向は理解しました」
老人がわずかに眉を動かした。
「昨夜、誰も食糧庫へ近づかなかった。それなのに食料が減った。ならば見張っていた側にも落ち度があるのではないか。――そういうことですね?」
「……概ね左様でございます」
「ならば、その可能性も含めて再度我らで当たりましょう。また、今回の件は請け負った我らの責任でもある。失った食糧その他はこちらで補填しましょう」
フェリシアははっきりとエウドキアに顔を向けてそう宣言した。ヴィクトルが横でわずかに身じろぎしたが、今度は何も言わなかった。
「ただし」
フェリシアは一度言葉を切った。
「今後、我らが調査を続ける間は、村からの無用な干渉はお控えいただきます。よろしいですね、エウドキア殿」
フェリシアの言葉が落ちると、部屋の中には短い沈黙が残った。先ほどまでとは違う意味で、空気が張り詰めている。
レオンらは俯き加減のまま沈黙している。エウドキアは何か言おうとして声にならずにただフェリシアを見つめ、それから小さく頷こうとした。まさにそのとき、にわかに廊下の向こうから慌ただしい足音が近づいてきた。
誰かが止める声も聞こえたが、それを振り切るように扉が開く。
「フェリシア様! グレゴリウス様!」
飛び込んできたのは、グレゴリウス配下の従士だった。
会合の最中だと承知しているはずの男が、断りもそこそこに入ってくる。その時点で、ただ事ではないと分かった。
「何事だ」
グレゴリウスが立ち上がる。
「報告いたします。村の東、街道をこちらへ向かう集団あり。東へ出していた者が前方で確認しました。現在、村からおよそ一リーグ!」
ここでフェリシアも立ち上がった。
「数は?」
「まだ距離があり、正確には。ですが、その者の報告では、少なくとも四十、五十――いえ、それ以上いる可能性もあります」
「騎兵は? 馬上にある者は何人だ? 旗や指物――どの陣営か示すようなものはあるか?」
今度はヴィクトルが、確認したいことを矢継ぎ早に問いかけた。
「その者が見た限り、騎乗している者はいなかったとのことです。旗や指物の類も確認できず、帝国、諸侯、あるいは他国の勢力――いずれに属する集団なのかも分かりません。ただ、槍らしき長物を持つ者は何人もいたと。武器も身なりも不揃いで、ひどく雑多な集団に見えたそうです」
ヴィクトルは腕を組んだまま、その報告を聞いていた。
対してグレゴリウスは姿勢を正したまま、報告の一語一語を吟味するように聞いている。やがてフェリシアへ身体を向けた。
「フェリシア様。これだけの人数で、先触れの一つも出さず、この距離まで接近してくるとなれば、少なくとも尋常な一団とは思えません。正規の軍勢には見えぬとしても、賊徒や傭兵崩れ、それに類する集団である可能性は考えておくべきでしょう。それ相応の備えが必要かと」
「味方だと思える理由が無いな。お嬢、ここから一リーグなら、真っすぐこちらへ向かってくりゃ、半刻もかかりませんぜ」
ヴィクトルもその言を肯定した。フェリシアは二人に頷いた。
「グレゴリウス。こちらの全員を集めてほしい。武装できる者はすべて」
「フェリシア様。それでしたら、すでに全員へ声を掛けるよう人を走らせております! まもなく天幕に集結するはずです」
報告に来た従士が、グレゴリウスに先んじて答えた。
フェリシアはそれに満足したように頷いた。
「ならば、我々も天幕へ急ぐ。ヴィクトルは先に東側の地形や状況を確かめるように。万が一、迎え撃つことになれば、どこがよいか、どこなら守れるか。それに、相手がそのまま真っすぐ街道を来るとも限らない」
「分かりました」
今度のヴィクトルは芝居がかった礼をしなかった。ただ一度頷くと、すぐに扉へ向かった。いつものヴィクトルだった。
矢継ぎ早に対応を決めてゆくフェリシアたちとは対照的に、村側の三人は明らかに狼狽していた。とりわけ、今日になって加わった大人衆の男は動揺を隠せていない。
本来、このような時に村の防衛を担うはずの領主ルキウスも、その従士たちも今はいないのだ。
「ご、五十人……? 半刻……?」
大人衆の男が呟いた。
先ほどまでフェリシアたちへ向けられていた険しい視線はすでになく、今まさに退出しようとしているヴィクトルを、ただ呆然と目で追っているだけだった。
エウドキアだけは俯き加減で、その表情までは窺えなかった。だが、膝の上に置かれた手はきつく握られていた。
「まさか、賊では……」
「それはこれから確認します」
そうフェリシアは返答したあと、傍らに控えるグレゴリウスへ目くばせした。グレゴリウスはその意図を理解したように頷き、エウドキアたちへ向き直る。
「エウドキア様、村からも人を集めてください。若い者を中心に、戦えそうな者を。どの程度集められますか」
突然問われ、エウドキアはすぐには答えられなかった。
「弓を引ける者、槍を扱える者。鍬でも斧でも構いません」
グレゴリウスが言うと、レオンが考え込むように目を伏せた。
「若い者だけなら二十……いや、三十には届きますかな。ただ、まともに弓を扱える者は数名程度。他は皆、畑を耕す者ばかりです」
「十分です」
フェリシアが即座に答えた。
「戦になると決まったわけではありません。ただ、何かあった時に動けるようにしておきたいのです。こちらにも数がいて、防衛の構えを取っていると見せる。それだけでも違います」
レオンはなおも険しい顔を崩さなかった。
「しかし、相手が五十を越えるとなれば……ルキウス殿がいらっしゃるならともかく、若い者だけを集めても、戦になれば我らではとても」
「そのあたりの指揮と判断は我らで行います。そこは心配なさらずに」
今度はグレゴリウスが答えた。
「まず我らが前に出ます。村の者には後ろを固めてもらう。弓を扱える者は別にして集めてください。それ以外は、ひとまず武器になりそうな物を持たせるだけでよいでしょう」
「それと」
フェリシアが続けた。
「戦えない者は、なるべく村の東側から離してください。子供もです。まだ騒ぎ立てる必要はありませんが、いつでも動けるようにはしておいてください」
エウドキアがようやく顔を上げた。
「村の奥へ集めます。しかし、村人には何と説明をすればよいか……」
「こうした時の取り決めはありますか?」
「はい。ルキウス様がいらっしゃる時に、何度か訓練を」
レオンが答えた。先ほどまでフェリシアたちを問い詰めていた時とは、声の調子がまるで違っている。
「ならば、それに従わせるのがよいでしょう」
グレゴリウスは一度、東の方角へ顔を巡らせた。
「この村の東は開けています。視界を遮るものが少ない。何も知らせずとも、いずれ村の者にも気づかれます。それなら初めから警戒時の手順に従わせた方が混乱も少ない。理由も分からぬまま逃げろと言われても、動きが鈍る者は出るでしょう」
エウドキアが小さく頷いた。
「では、そのように」
「避難の際、街道を塞ぐほど荷車を出すのは控えてください。家畜を逃がすなら東側の放牧地にいるものだけでよいでしょう。それも間に合わぬようなら捨ててください。人を優先します」
「なるほど……分かった」
レオンも小さく頷いた。
そこでエウドキアが立ち上がった。
「レオン。指示をお願いします。村の者へ伝えてください。弓を扱える者と、それ以外に分けて集めます。子供たちは――」
「皆、西側へ向かわせましょう。年寄り衆にも声を掛けさせます」
今度はレオンも迷わなかった。すぐに席を立つと、村人への伝達に向かった。
「では、我らも行きます」
フェリシアが言って席を立った。グレゴリウスもそのあとに続く。
だが、扉へ向かいかけたところで、フェリシアは何気ない調子でグレゴリウスへ尋ねた。
「マクシムは、いつもの場所で間違いないか?」
「……はい」
答えるまでに、ほんのわずかな間があった。
フェリシアはそれ以上何も言わず、歩きながら東の方角へ目を向けた。その横顔を見て、グレゴリウスの足がわずかに止まった。
「フェリシア様」
「何?」
「いずれにしても、まずは皆を集め、状況を確認してからです」
何を言おうとしているのかは、フェリシアにも分かった。彼女も足を止め、振り返る。
「そうだね。まずはヴィクトルの報告を聞こう」
少しだけ間を置いた。
「その先は、それ次第にしよう」
グレゴリウスはまだ何か言いたげだった。だが結局、それ以上は口にしなかった。
二人はそのまま足を速め、天幕へ向かった。




