第43話 見えていたもの
四人の姿が丘の向こうへ消えてしまうと、荒れ地には急に静けさが戻った。
先ほどまで絶えず響いていた鍬の音も、人の話し声もない。西へ傾いた陽が掘り返された土の起伏を長く照らし、その合間から、まだ抜ききれていない木の根が黒く覗いていた。
ヴィクトルはしばらくミカたちの去った方を見送っていたが、やがて地面へ立てていた鍬を抜き、肩へ担いだ。
「それで、お嬢。話ってのは?」
フェリシアはすぐには答えなかった。
自分から人を残してまで話したいと言ったくせに、いざ二人になると、どこから口にすればよいのか迷った。
「……今日、エウドキア夫人のところでの話し合いの時のことです」
「倉の話ですかい」
「というより……その話のときのことです」
ヴィクトルは何も急かさず、フェリシアの次の言葉を待った。
「私だけ、理解が遅れた。話についていけていなかった。
同席したグレゴリウスも、アスターナも、すぐに理解していたのに……。 レオン老の言葉の裏や言外に含ませた意味。それに、エウドキア殿までもがどうして言葉を濁していたのかも」
そこで少し言葉を切った。
「グレゴリウスとアスターナ。二人とも、私よりずっと先に理解して対応していた。なのに私だけ……」
「なるほど」
ヴィクトルはそれだけ言って、鍬を肩から下ろした。柄の先を地面へつけると、その上へ両手を重ねる。
「兄上たちならどうしただろう? きっと私よりうまく対処したはず。
アウリ兄様なら自分から話に入り込んで、その場の主導権を握って離さない。」
「……」
「セバス兄様なら、相手の言葉を聞き漏らさずに、すべて先回りしてグレゴリウスに話を振ったと思う」
フェリシアはそこで一度、言葉を止めた。
「私には、それができない。兄様たちのようには……。そして、その兄様たちはもういない。」
そして、少しだけ俯いた。
「……それなのに、どうして私だけが生き残ってしまったのか……」
言葉にしてしまうと、胸の奥に押し込めていたものまで、つられて零れ出してしまったようだった。
その間ヴィクトルはずっと沈黙して聞いていたが、彼女が一通り吐き出し終わったと見計らってから、ようやく口を開いた。
「兄君たちとは違いますが、お嬢もなんというか……、そういうものを持ってると思いますよ。
……それで、今回の件ですが、お嬢はその爺さんがグレゴリウスの方を見てたのには気づいてたんですよね?」
「……ええ」
「夫人が答える前に、爺さんの顔を見たのも?」
「それも見ていました」
「夫人が途中で言い淀んだのは?」
「……」
答えながら、フェリシアはヴィクトルが何を言おうとしているのかがわかり始め、次第に居心地が悪くなってきた。
ヴィクトルはしばらく彼女を見つめ、それから片方の眉を上げた。
「じゃあ、全部見えてるじゃあないですか」
「でも、何を意味しているのかがすぐにわからなかった」
「ああ、なるほど。そういう事でしたか」
ヴィクトルは短く息を吐いた。何か腑に落ちたらしい。
「しかし、相手の視線や仕草はちゃんと追えてた。それなのに、今回はグレゴリウスやアスターナの嬢ちゃんにも後れを取ったと」
「……ええ」
「それはたぶん、気持ちの持ちようじゃあないんでしょうかね」
「気持ち?」
「お嬢は自覚ないのかもしれませんけど、この手のことは、むしろ鋭い方な筈ですよ。自然に出来すぎてて、自分でも気づいてねえだけで」
フェリシアは思わず首を傾げた。
「そう、なのかな?」
「そりゃあもう」
ヴィクトルはそう言い切ったあと、少しだけ表情を曇らせた。
「……ここからは、俺の恥を晒すことになりますが」
「?」
「お嬢が館を抜け出して、俺たちのところまで来た時のこと。覚えてます?」
もちろん、忘れるはずがなかった。
アルトレウスの館から逃げ出し、夜の中をマクシムと走り、ようやくヴィクトルとグレゴリウスのもとへ辿り着いた。
「覚えている」
「あの時、俺、お嬢の顔をまともに見られなかったでしょう」
フェリシアは黙ってヴィクトルの顔を見た。
「グレゴリウス殿がお嬢を見つけてすぐ駆け寄った。なのに俺は、ちょっと、いや、かなり出遅れた」
ヴィクトルは自嘲するように口の端を歪めた。
「何食わぬ顔してましたけどね。内心じゃ、そりゃあもう情けないこと考えてましたよ」
「……それは知っていた」
今度はヴィクトルの方が少し目を見開いた。
「ヴィクトルが、グレゴリウスに後れを取ったことを恥じているのは分かっていた。それに……どうして後れたのかも、何となく」
「ですよね」とヴィクトルは苦笑した。
「全部、見透かされてたわけですか。やっぱり」
「すべてではないよ」
「同じようなもんですよ」
そう言われ、フェリシアは少し考えた。
確かに、あの時のヴィクトルが何を考えていたのか、言葉で説明できたわけではない。
ただ、顔を合わせようとしなかったこと。グレゴリウスより遅れてこちらへ来たこと。普段ならば軽口の一つでも飛ばす男が、妙に静かだったこと。
それらを見ていれば、何かを恥じていることだけは分かった。
「でも、お嬢は何も言わなかった」
「言わない方がいいと思った……。それでも結局、残ってくれたのだから、わざわざ指摘して追い打ちをかけなくてもよいでしょう?」
フェリシアはヴィクトルから視線を外し、荒れ地の向こうへ目をやった。
「それなら、それでいいと。そこで私が問い詰めたところで、いったい何になる? 何にもならないよ。そんなことを聞いても、誰のためにもならない」
しばらくの沈黙の後フェリシアが再び顔を向けると、ヴィクトルは何とも言えない表情でこちらを見ていた。
「そういうことですよ、俺が言ってるのは」
ヴィクトルは少し困ったように笑った。
「あの時のお嬢は、俺が何も言ってねえのに、既にそこまで見えていた。俺が何考えてるか一から十まで当てたわけじゃなくとも、だいたいの予想は出来ていた。だからこそ、そこには触れないで置いた方がいいってところまで判断した」
フェリシアは黙った。
「それだけ出来てる人が、人を見るのが苦手ってことはないでしょう」
「でも……今日は」
「だから、今日は何かが違った。まあそれはたぶん、気後れしたんですよ」
「気後れ……」
「夫人と、その隣にいた例の爺さんに」
思いがけない言葉に、フェリシアは眉を寄せた。自分では全く予期しない答えだった。
――私が彼らに対して、怯えていた?
「そんなに難しい話じゃありません」
フェリシアの内心に気がついてなのか、ヴィクトルは小さく首を振った。
「お嬢、今日の相手はうちの人間じゃねえでしょう。
夫人は小なりとはいえ、ここの領主の奥方だ。爺さんだって、この村じゃ相応の立場がある。年も幾周りも上ときた。お嬢から見れば、立派な他家の、それも重要人物という訳です」
フェリシアは何も言わず続きを待った。
「だから、一歩、二歩と引いちまったんじゃありませんかい?
相手が口にしてねえことまで勝手に考えるのは失礼だ、とか。年長者への遠慮とか、まあそういったことです」
フェリシアは反射的に否定しかけた。だが、言葉が出なかった。
思い返せば本当はエウドキアがレオンへ視線を向けた時、何か意味があるのではないかと瞬時に思ったのだ。そしてレオンが自分ではなくグレゴリウスを見るたびに、その理由を考えかけた。
だが、そのたびに――。
「……そうかもしれません」
口にしてみると、妙に腑に落ちた。
「何かあるとは思っていた。でも……勝手にそんなことを考えるのは良くないような気がして」
「それですよ。いつものお嬢なら、もう少し先まで考えてたんじゃありませんかね。だけど他家の……」
そこでヴィクトルが何かを思い出したかのように頭を上げて空を軽く見上げた。
「……ああ。そういや、お嬢は昔から年寄りが苦手でしたな。あの爺さん相手じゃ、余計に一歩引いちまったのかもしれませんぜ」
その言葉にフェリシアは苦い薬でも飲んだかのように顔を歪めた。
ヴィクトルはそこまで冗談ぽく軽い口調で話したあと、改めて軽く顎を引いて顔を引き締めた。
「でも、考えるだけなら誰にも迷惑かからんでしょう。
口に出して決めつけりゃ、そりゃ失礼になることもある。けど、頭ん中で『もしかしたら』と思うだけなら、別に誰の首も飛びませんぜ」
「……随分な言い方だ。だが、それは当たっていると思う。私はああいう年配者は苦手なのかもしれない。バルボの時のように」
かの老騎士とフェリシアは館でも神殿近くで発見した擬態した敵兵を見つけたときも意見が衝突した。フェリシアが騎士や従士の訓練の場によく顔を出したものだが、その時もよく小言を吐いていたものだった。
そしてフェリシアが館から脱出するときに血路を開いてくれたのも彼だ。
「お嬢は分かりやすいですからね。訓練場でも露骨に避けてましたよね」
思わず、フェリシアは苦笑いをした。だが、すぐにまた考える。
「でも、間違っていたら?」
「捨てりゃいい。
当たってると決めつける必要もねえし、違うと決めつけて最初から捨てる必要もない。覚えといて、次を見る。それで違ったら、その時に捨てりゃいい。
てか、お嬢はその辺についての心配はいらないですよ。すでに自然とそんなふうにしているはず。私にはそう見えます」
あまりにも簡単に返ってきた。
「俺みてえな兵隊でも、そのくらいはやりますよ。敵が右から来るかもしれねえと思ったからって、右から来るって決めつける馬鹿はいません。ただ、来るかもしれねえから見ておく。それだけです」
ヴィクトルはそこで肩を竦めた。
「それから、お嬢はもっと偉そうにしていてくださいや。年のことなんて気にしなくていいんです。むしろ、アルトレウス家の現当主は私だ! ぐらいでいてくれた方が俺らは助かりますし、村の大人たちにも威厳を示せます。
そうすれば、翁どもに気後れもしなくて済むようになりますから」
その言葉を聞きながら、フェリシアは先ほどまでの話をもう一度頭の中でなぞった。
レオンの視線。
エウドキアの間。
グレゴリウスの返答。
アスターナが袖を引いたこと。
見えていなかったわけではない。見たあとで、自分から手放していた。それもすべて無意識のうちに気後れ……遠慮していたということが原因なのか。
「……なるほど」
思わず、ヴィクトルと同じ言葉が口から出た。
「分かったような気がします」
「そりゃ良かった」とヴィクトルは満足そうに頷いた。それから少しだけ間を置き、先ほどの話を思い出したように視線を逸らした。
「まあ……あの時のことは、本当に情けねえ話なんですけどね」
「もう気にしていないと言ったでしょう」
「お嬢が気にしてなくても、俺は気にしますよ」
苦笑しながら、ヴィクトルは肩に鍬を担ぎ直した。
「それでも何も言わず、俺に声を掛けてくれた。……あれで随分、救われたんですぜ」
フェリシアは何も答えなかった。
「ああ、それから」
そこで思い出したかのようなしぐさの後、ヴィクトルは少しだけ姿勢を正した。
「さっきお嬢は兄君たちのことを言っていましたが……まあ俺は、主君には恵まれたって思っておりますよ」
「主君……」
その言葉を、フェリシアは小さく繰り返した。ヴィクトルにとっては、もう当然の呼び方なのかもしれない。
だがフェリシアには、まだ時折、その言葉が自分のものではないように聞こえることがあった。
「さて。そろそろ戻りましょうや。グレゴリウス殿も待ってるでしょうし」
そして二人は並んで歩き始めた。丘へ向かって何歩か進んだところで、フェリシアは足を止めた。
「ヴィクトル」
「はい?」
ヴィクトルも振り返った。
「さっき、主君には恵まれたと言いましたよね」
フェリシアはしばらく何も言わなかった。
夕暮れの光が薄くなり始めていた。
「私も今後はそのように振る舞いましょう……
でも、私がこれからも良い主君でいられるかは、分かりません」
ヴィクトルの表情から、わずかに笑みが消えた。
「何か、するつもりなんですかい」
「ええ」
今度は迷わなかった。
「近いうちに、皆に話さなければならないことがあります。私がこれから何をしたいのか。そのために、何をするつもりなのか」
そこまで言って、フェリシアは一度口を閉ざした。
胸の奥にあるものを、そのまま言葉にするには、まだ少しだけ覚悟が足りなかった。
「今までみたいに、ただ生き延びるための話ではありません。アルトレウスへ帰られれば、それで終わる話でもないのです」
ヴィクトルは黙って聞いていた。
「それをすべて話した上で、それでも私について来るのか……皆に決めてもらわなければならないと思っています。これはもうただの主従関係だけで強いて良いような話ではありませんから」
ヴィクトルの目が、わずかに細くなった。だが、それ以上は何も尋ねなかった。
しばらく、二人の間に言葉がなかった。
やがてヴィクトルが、いつもの調子より少し低い声で言った。
「……随分と物騒な話になりそうですな」
ヴィクトルは片方の眉を上げた。
「ええ。そうです」
「そこまでの話なら、俺にだけ先に聞くわけにもいきませんなぁ」
「皆に同じところで聞いてほしいです。グレゴリウスにも、従士たちにも、そしてアスターナやパトリシウスたちにも。
聞いた上で、それぞれに決めてほしい」
「そうですかい」
それきり、ヴィクトルは追及しなかった。ただ一度だけフェリシアの顔を見て、それから再び村の方へ向き直る。
「なら、その時に聞かせてもらいましょう。ですがお嬢。俺とグレゴリウス殿のことなら、そう心配せんでもいいと思いますよ」
ヴィクトルは少し笑った。
「少なくとも、話を聞く前から逃げ出すようなことはありません
いや、驚くくらいはするかもしれませんがね。俺もあいつも、ちょっとやそっとの話でお嬢に背を向けるようなことは、たぶんありませんぜ」
「……ええ、ありがとう」
二人はまた歩き出した。
丘の向こうには、すでに村の屋根が夕闇へ沈み始めていた。
* * *
帝国歴467年8月3日 夕刻
帝都ケルソナ・巡検隊第二隊詰所
「隊長。あの察聞の女からの定時連絡です。例のメフラーン商会に関する奴ですね」
部下が差し出した紙片を、巡検隊第二隊長ニケタス・カリストスは、手元の書類から顔も上げずに受け取った。
「またか」
「はい。今回は、少し人数が増えたようで」
ニケタスはようやく紙片を開いた。
目を通す間も、その表情はほとんど変わらなかった。そこに記されていたのは、商人ダリューシュ・メフラーンとその一行の現在地、それに道中で同郷の者たちを拾いながら移動を続け、いまでは五十人を越えるまでに膨らんでいるらしい、という程度の話だった。
紙片から目を離さないまま、ニケタスが尋ねた。
「内容を確認したのか」
「いえ。でもあの女、渡す時にいちいち中身まで喋るんですよ。俺に色目を使いながら」
「そうか」
興味があるのかないのか分からない返事だった。
「あの女、こっちに拾ってもらいたい下心が見え見えなんですよ。察聞なんぞより、巡検隊にいた方がましだとでも思ってるんでしょう」
部下はなおもそんなことを呟いていたが、ニケタスは相手にせず、紙面の最後まで目を走らせた。
「……目的地はカリポリスで変わらず、か。やはり、そこから船で東へ渡るつもりのようだ」
紙片の端を指先で軽く叩いた。
「あそこは自治権持ちの街だからな」
「追わなくてもよいのですか?」
部下の問いに、ニケタスはすぐには答えなかった。
机の上には、まだ目を通していない報告が何枚も積まれている。密輸、喧嘩、夜間の不審者、街道での荷改め――どれも放っておけば面倒になるが、今すぐ自分が席を立つほどのものでもない。
その中にあって、追い立てられるように帝都を離れ、途中で同郷の者を拾いながら帰国を目指す外国商人の一団など、ニケタスにとっては今のところ、それ以上でも以下でもなかった。
もっとも、彼らを帝都から追い出す実務を担ったのも巡検隊であり、直接それに当たったのはニケタス自身が率いる第二隊だった。
「いや、いい。カリポリス方面には、もう一分隊を出してある。連中が船に乗って東へ渡るところまで見届けさせれば、それで済む」
ニケタスは紙片を二つに折った。
「承知しました」
部下が踵を返しかけたところで、ニケタスはもう一度、その紙片へ目を落とした。
「ただ…… カストル閣下の指示とはいえ、我らの支配下にない大きな集団が領内をうろつくのは感心せん。何故そこまで急いで東の人間を追い立てる必要があるのか。……上が何を考えているのか、俺にはよく分からんな」
部下が立ち止まる。
「では、巡検隊長閣下にも、この件を上げますか?」
「いや」
ニケタスはすぐに首を振った。
「次の定時報告に載せておけばいい。この程度のことで、いちいちカストル閣下のお耳を煩わせる必要もあるまい」
そう言ってから、折った紙片を指先で弄ぶ。
「まあ、監視する側からすれば、ばらばらに動かれるより塊になってくれた方が都合はいい。それに五十やそこらなら、まだ商人の一行と言えなくもない」
そこで声の調子がわずかに変わった。
そもそも、帝国内に住み着いていた東方人まで急き立てるように外へ出しているのだから、行く先々で同胞が合流するのも当然だった。しかも報告を見る限り、ダリューシュ自身、それを拒むつもりはないらしい。
「だが、百を越えるようなら話は別だ。それか――別の勢力と接触するようなことがあればな」
「では、引き続き?」
「ああ。連絡を絶やすなと、あの女に伝えろ。それしか能がないんだから、せいぜい旦那をせっついて、こちらへ流す話を拾わせろ、とな」
「了解いたしました」
部下はにやりと笑い、わざとらしいほど仰々しく胸へ手を当てた。
そのまま踵を返し、部屋を出ていく。
扉が閉じると、ニケタスは手にしていた報告を机の端へ放った。紙片は何枚かの書付の上を滑り、そこで止まった。
ニケタスが次の書類へ手を伸ばすまで、その紙片へ向けられた目は、ほんのわずかな間だけだった。




