第47話 思惑の外
言葉を遮られ、ダリューシュは思わず面食らった。だが、それもほんの一瞬のことだった。
ダリューシュの目は、少女の跨る馬へ向けられていた。
東方の血を引く馬だということは、遠目にも分かっていた。近頃ではこの国でも見かけるようになった馬種だ。それ自体はさほど珍しいものではない。
だが、こうして間近で見ると、どうにも気になることがあった。
――牝馬ではないか。
しかも、あの均整の取れた馬体、しなやかに張った筋肉は……。
サルディアからこちらへ渡るあの種の東方馬は、すべて去勢された牡馬のはずだった。繁殖に用いることが可能な牝馬を国外へ出すことなど、まずあり得ない。
――だが、例外が一頭だけいる!
ダリューシュは何食わぬ顔で馬上の少女へ目を戻した。そして、掲げていた白旗をゆっくりと下ろすと、改めて丁寧に頭を下げた。
「これはまた、ずいぶん手厳しいお言葉ですね。ですが、これだけの人数で押しかけてしまったのですから、まったくもってごもっともな話ではございます」
言葉はいつもの軽い調子で出たが、すでに笑みは消えていた。
「まず申し上げますと、こちらがベラータ卿のご領地とは存じ上げませんでした。この先に村があると聞いて、彼らは居ても経ってもいられず、という風に食糧を求めて先走ってやって来た、という状況でございますれば……」
ダリューシュはそこで一度言葉を切り、背後の集団へ目を向けた。まだ彼の言葉は続くようだったが、間髪入れず少女が割り込んだ。
「まるで他人事のような物言いだな」
「意図せず彼らが動いてしまいました。少々事情がございまして……」
「あの者たちを預かっている、とそなたから聞いたばかりだが?」
「ええ、その通りです。ですから、責任がないなどと申し上げるつもりはありません。ただ、彼らがここへ向かったのは、私の命令ではないのです」
少女は馬上からこちらを見下ろしたまま、何も答えなかった。
ダリューシュはその沈黙に少し困ったような笑みを浮かべ、少女の跨る栗毛の馬へちらりと目を向けた。
――それにしても、あの牝馬がなぜここに?
思い当たる事情はある。だが、それを確かめるには、今はあまりにも都合が悪い。
「実を申しますと、私どもはここしばらく、まともに食糧を調達できておりません。あまりに買い付けが難航するもので、昨日から私自身が出向いていたのですが、その留守に、どうやら待ちきれなくなった者たちが勝手に動き始めてしまったようなのです」
「食糧が手に入らない?」
「ええ。小さな町ではもちろん、比較的大きな町ですら売ってもらえない。金は言い値でよいと言っても、取り付く島もない」
「この辺りの街では食糧が不足していると?」
「いえ、売れる分が全くないという訳ではなさそうです……」
ダリューシュはわずかに肩をすくめた。
「私どもが東大陸の人間だからでしょう。実のところ、私たちの商会も帝都では結構手広く商いをさせていただいておりました。しかし例の戦以降、我らに対する風当たりが厳しくなり、帝都と東大陸を繋ぐ航路が初めに封鎖されました。それから数日後には当局から帝都にいては命の保証ができないとまで脅され、こうして帝都を脱出して東大陸へ戻るために南のトラキア半島を目指しております。あそこからならまだ東へ行く船が出ていると聞きます。
もともと、私どもの商会の者は数名だけだったのです。ところが、同胞にも同じような境遇の者が大勢おりまして……。ひどいものは着の身着のままで町を追われ、行く当てもない。見捨てるわけにもいきませんので、私がまとめて面倒を見ることにした、という次第です。
今や東大陸のサルディア人は住んでいた町や村を追い立てられてしまって、お尋ね者も同然の扱いですよ。役人から売るなと命じられたわけでもないらしいのに、どの店もこちらの顔を見ると途端に『売れるものはない』と言い出すのです。
いやあそれにしても、商人が物を買えないというのは、なかなか情けない話です」
最後は少し冗談めかしてみせたが、少女は笑わなかった。
少女はしばらくダリューシュを見つめていたが、やがてその視線を彼の背後にいる人々へ移した。
話を聞く気はあるらしい。だが、警戒を解いたわけではなさそうだった。
「事情は分かった。だが、あの者たちをこれ以上村へ近づけるわけにはいかない」
「おっしゃることは分かりますが、私どもとしても、何とか食糧を――」
「まずはあの者たちを止め、十分に遠ざけてからだ」
少女はダリューシュが言いかけた言葉を制して続けた。
「私は、食糧の話をしないとも、応じられぬとも言っていない。だが、互いに十分な距離を保てねば、話をすることすら難しい。それはそなたにも分かるはずだ」
ダリューシュは少女の言葉の真意を測りかね、続きを促すように、改めて正面から彼女を見上げた。
「こちらから攻撃を仕掛けるつもりはないが、統制も取れぬまま村へ近づいてこられては、こちらとしても適切な対応ができぬ」
そこまでは芝居がかった大きな声だったが、今度は小声でダリューシュにだけ聞こえるようにもう一言添えた。
「悪いようにはせぬ」
ダリューシュは何か言いかけたが、思い直した。
――悪いようにはせぬ、か。
ダリューシュは、少女の跨る栗毛の馬へもう一度だけ目を向けた。
例の牝馬がこちらへ渡った経緯は、ダリューシュも知っていた。誰の意向で、どこの家へ贈られたのかも。
――まさか、こんなところで出会うとは、ね。
僥倖だった。天祐というものかもしれない。確かめたいことはいくつもあった。だが、それを今ここで問い質すなどと野暮なことはしない。
ダリューシュは胸に手を当て、貴人に対する正式な礼を取った。そして、先ほどまでの軽い調子をすっと収め、静かに告げた。
「承りました。アルトレウス家に連なるご令嬢様」
* * *
帝国歴467年8月4日 夕刻前 帝都ケルソナ
「閣下、セルギウス・オ・ファルセリ卿より先触れが参っております」
書類に目を通していたガルシアは、顔を上げた。
「もう返事が来たのか。早いな。それで、いつ戻ると?」
「いえ、それが……」
知らせを持ってきた文官はそこで言いにくそうに、一度言葉を切った。
「すでに帝都へ入られまして…… ファルセリ家の屋敷に一度立ち寄り、それからすぐにでもこちらへお見えになるとのことでございます」
「……何だと?」
まったく予想していなかった返答に、ガルシアは思わず聞き返した。
彼に使者を遣わしたのは、昨日のことである。いくら陛下からの召還とはいえ、まずは帰還の日取りを知らせる返事が届き、それから会談の段取りを整えるものだと考えていた。それが、いきなり到着の先触れとは。
ガルシアは窓の外を眺めた。日は既に大きく傾いている。それなのに今からこちらへ来るというのか……。
――まったく、あの御仁らしい。
知らぬ間柄でもなく、彼の為人はよく知っているつもりだった。考えてみれば、自分が想定していたような段取りなど、あの御仁にはただ間怠っこしいだけなのだろう。陛下からの命を受けた以上、余計な駆け引きなどせず、ただちに行動に移す。だからこそ、わざわざ皇帝陛下にまで働きかけたのだ。
それなのに、会談まではまだ幾日も猶予があると決めつけていた。自分の見通しの甘さに、少し腹が立った。
だが、せめてもう少し、こちらにも準備を整える時間が欲しかった。
「分かった。到着次第、こちらへ通すように。……いや、まずは控えの間へ案内してくれ」
文官が一礼して退出すると、ガルシアは椅子の背に身体を預けた。
――呼び出されたセルギウスの方は、不本意で相当に苛立っているのだろうな。
昨日の皇帝への謁見が思い返された。
だが、ガルシアとしても、彼を呼び戻すこと自体、そもそも本意ではなかった。
アルトレウス領から逃れ、難民となった者たちの救護は、いまだ終わっていない。それどころか、さらに帝都やその周辺から追われた東大陸人まで流入し、現地の負担は増すばかりだという。
その原因ともなる政策にガルシアも無関係とはいえなかった。たとえ自分から引き起こしたことではなくとも……。
この状況で、総指揮を執るセルギウスを呼び戻すなど、現地で事に当たっている者たちからすれば、「いったい何を考えているのだ」という話である。
しかし、それでも放置しておくわけにはいかぬ、退っ引きならない事情があった。
ガルシアの脳裏には、その厄介事を持ち込んだ張本人の顔が浮かんでいた。淡い金茶の髪に、整った顔立ちの青年だった。
昨日、ガルシアは無理を押して参内の許しを取りつけ、皇帝に拝謁した。今回の軍事行動について、セルギウスから正式な報告を受けるべきではないかと奏上するためだった。
「セルギウスを戻せと? 現地の収拾はついたのか」
皇帝クラウディウス・パウリヌス・アウグストゥスは、ガルシアの上奏に対して、苦々しい顔を隠しきれていなかった。
それもそのはずだ。今回の出陣は御前会議で正式に認められたものではない。そのような非正規ともいえる出兵を、最終的にセルギウスへ許したのは、皇帝その人だったのだから。
「はい、陛下。戦闘そのものは、ひとまず落ち着いております。幸い、現在は暗黙の了解のもと、両軍が互いに一定の距離を置く形となっておりますゆえ、これ以上戦火が拡大する恐れは、ほぼなくなったものと考えられます」
ガルシアは一呼吸置き、続けた。
「もっとも、旧アルトレウス領からの避難民の救護は依然として続いております。兵団すべてを撤収させられる状況ではございませんが、現地の指揮は引き続き彼の部下に任せ、セルギウス殿お一人にお戻りいただくのであれば、差し支えないものと推察いたします」
皇帝は少し考え込んだあと、頷いた。
「いずれ報告は聞かねばならぬ。よかろう。日取りなどはそなたに任せる」
「はっ。ありがたき幸せに存じます」
ガルシアは深く頭を下げた。
「ときにガルシア。……まあ、なんだ。此度のことは、ひっ迫した状況の中でやむを得ず取った対応なのだ。そのあたりも鑑みてだな……」
ガルシアはその歯切れの悪い言葉を、自分たちがセルギウスをつるし上げるのではないかという皇帝の危惧と受け取った。
「御意のままに」
陛下も本音では、セルギウスを急いで呼び戻す必要などないとお考えなのだろう。ガルシアとて同じだった。あのことさえなければ。
だが、それ以上の説明を皇帝にするわけにはいかなかった。
――今は、こちらを先に片づけねばならぬ。
そう考えて動いたものの、いざセルギウスを迎えるとなると、どこから話を切り出すべきか。
ガルシアが考えをまとめるより早く、扉が軽く叩かれた。
「閣下。セルギウス卿がお見えになりました」
――相変わらず、動きが早い。
先手を打ったはずが、いつの間にかこちらが後手に回っている。しかも、当の本人にはそんなつもりすらないのだろう。
ガルシアは一度だけ目を閉じ、それからゆっくりと椅子から立ち上がった。




