第41話 食糧庫の鼠
「どのようなことでしょうか?」
先ほどにもまして、隣に鎮座するレオン老の表情が引き締まったように見えた。エウドキアも一度だけ手元へ目を落とす。どうやら彼らにとっては、ルキウスの手紙よりも、ここからの話の方が本題らしい。
「はい。ここ数日のことなのですが、村の食糧庫から、少しずつ備蓄していた食料がなくなっているのです」
「食べ物が、ですか?」
フェリシアが聞き返すと、エウドキアは小さく頷いた。
それまで黙っていたグレゴリウスも、わずかに顔を上げた。ルキウスからの手紙を聞いていた時とは、明らかに目つきが違っていた。
「最初は乾かしたパンが二つ三つ、それから豆や干し肉が少し。どれも一度になくなる量はわずかなものです。それで、はじめは誰かが使ったのを記録し忘れたのだろうと思っておりました」
村の食糧庫は、領主の家だけが使うものではないという。凶作や戦の際に備えて穀物や保存食を蓄え、必要があれば村人へ払い出す。そのため、帳面と実際の量が多少合わないこと自体は、これまでもなかったわけではないらしい。
「ですが、一昨日からは、わたくし自身で残っているものを確かめるようにいたしました。それで昨日と今朝、きちんと数を確認したのですが、二日間とも、間違いなく確認した数より減っていたのです」
「誰かが入った跡は?」
「それが見当たりません。戸も錠も壊されておりませんし、窓にも変わったところはありませんでした」
フェリシアは首を傾げた。
「鼠……ではないですよね?」
冗談のつもりで言ったのだが、エウドキアは困ったように笑った。
「パンを丸ごと二つ三つ運び出すほど大きな鼠でしたら、食料のことより、そちらを心配しなければなりません」
フェリシアもつられて笑った。
だが、レオン老だけは笑わなかった。深い皺の刻まれた顔から鋭い視線を向けられ、フェリシアは今さらながら、冗談を言うような場ではなかったのかもしれないと思った。気圧されまいと、わずかに背を伸ばす。
「以前ならば、わしらもここまで気にはしなかったでしょう」
老人は膝の上に置いていた手をゆっくり組み直した。
「帳面の付け違いもあれば、誰かが持ち出したことを伝え忘れることもある。村の中だけで起きたことなら、誰がやったにせよ、そのうち話は耳に入ります」
声音は穏やかだったが、先ほどルキウスの手紙について話していたときとは、どこか調子が違っていた。
「ですが、このところは村の周りでも見知らぬ者を見かけるようになりました。街道筋ならともかく、ここはわざわざ道を外れて来なければならぬ村です。それでも、見たことのない顔が入り込んでくる。
主街道の方では、戦で家を失った者や、行く当てもなく歩いている者も随分と増えていると聞きます。近隣でも、納屋から食べ物がなくなっただとか、夜のうちに家畜を盗まれただとか、以前にはなかった話が出てきておりますのでな」
フェリシアも、ここへ来てから似た話を何度か耳にしていた。
戦が終わったからといって、すべてが元へ戻るわけではない。家を焼かれた者もいれば、一家の働き手を失った者もいる。兵が去った街道には、その代わりに行き場をなくした者たちが流れ始めていた。
だが、フェリシアには今はそれよりも気になることがあった。この場の話し合いに漂う、うまく言葉にできない違和感……。
「村の外から誰かが入り込んだのではないか、と?」
「その可能性を、年長の者たちは気にしております」
答えたのはエウドキアだった。そう口にする前に、彼女は隣のレオンへ一度だけ視線を向けた。ほんの短いものだったが、どこまで言うべきか、その意向を確かめているようにも見えた。
「わたくし自身は、まだ何とも申せません。ですが、皆が不安に思っていることを、主人の留守を預かる者として無視するわけにもまいりませんので」
隣でレオン老が静かに頭を下げた。
「奥方様には、わしらの心配をお聞き届けいただいたというだけのことでございます。外から来た者がやったと決めつけたいわけではありません」
そう口にしながらも、レオン老の顔から警戒が消えることはなかった。
そのとき、隣に座っていたアスターナが、フェリシアの袖をほんの少し引いた。
この話になってから、彼女の顔から、それまでの柔らかさが消えている。何かを考えていることだけは分かるのに、その中身は少しも表へ出さない。商談の場で相手の出方を窺う商人のような顔だった。
振り向くと、アスターナはその表情のままフェリシアを見てから、卓の上に置かれた鍵へ視線を落とした。
――何か聞け、ということだろうか。
フェリシアは少し身を寄せ、視線で発言を促した。
「……食糧庫の鍵をお持ちなのは、どなたなのかと」
声はエウドキアたちに届かないほど小さい。
「ああ……」
それなら確かに聞いておくべきだろう。リシアはエウドキアへ向き直った。
「夫人、食糧庫の鍵は――」
「わたくしと、倉を預かっている者が二人、それぞれ持っています」
そこまで聞いたところで、また袖を引かれた。
フェリシアが横を見ると、アスターナは相変わらず何も言わない。ただ、ごくわずかに顎を引いた。
何を聞かせようとしているのかは、さすがにフェリシアにも分かった。
――その二人が持ち出した可能性はないのか。
だが、それを自分が訊けというのだろうか……。
自分の家中であれば、必要なこととして何も気にせずに聞けただろう。
だが、ここはベラータ家の館で、目の前にいるのはその家を預かる夫人である。倉を任されるほど信用されている者を、盗人ではないかと尋ねる――喉まで出かかった問いが、そこで止まった。
助けを求めるように反対側のグレゴリウスへ目を向けたが、彼は目を伏せ、何かを考え込んでいるようだった。しかも、その顔はいつもより心なしか厳しく見え、どうにも声をかけづらい。
フェリシアがどう切り出したものか迷っているうちに、その様子から察したらしいエウドキアが先に口を開いた。
「倉を預けている二人のことでしたら、すでに話を聞いております」
「あ……」
「どちらも持ち出してはいないと申しております。長くこの家に仕えてきた者たちですし、わたくしとしては、その言葉を信じたいと思っています」
先回りして気を遣わせてしまったようで、フェリシアは少し申し訳なくなった。
だが、エウドキアはそこで話を終えなかった。
「もっとも、それだけで何もなかったことにしてしまうわけにもいきません。村の年長の者たちからも、もう少し広く確かめておいた方がよいのではないかと、そう助言を受けています」
そこで初めて、レオン老が口を開いた。
「倉を預かる二人を疑っているわけではございません」
まずフェリシアへ丁寧に頭を下げてから、老人は続けた。
「ですが、錠が壊されていないからといって、鍵を持つ者の中に盗人がいると決まったわけでもありますまい。誰が夜に倉の近くを通れたのか、誰なら人目につかず出入りできたのか。そこまで確かめてみなければ、何とも言えぬのではないかと考えております。
それに、村の者だけを改めて近頃こちらに滞在している方々へは何も尋ねぬ、というのも妙な話でございましょう?」
なんとも奥歯にものが引っ掛かったような、持って回した言い回しである。しかも言葉こそフェリシアへ向けているが、肝心なところで返答を確かめる相手はグレゴリウスだと言わんばかりに視線を彼に向けた。
そしてグレゴリウスもまた、それを正面から受け止めるように姿勢を正した。まるで、あえて騎士としての立ち居振る舞いを崩すまいとしているように。
「それは、もっともな話でしょう」
よく通る声で短くそう答えた。レオン老は年長者らしく気圧されることもなく、むしろその顔に、わずかに納得したような色すら浮かべている。
そしてすぐにフェリシアへ向き直る。
「村の者であるか、外から来た者であるかにかかわらず、一度は同じように見ておくべきかと存じます。疑うべきところを残したままにしておけば、あとでかえって無用な禍根を残すことにもなりかねませぬ」
フェリシアは小さく頷いた。言っていること自体は理解できているつもりだ。
ただ、先ほどからレオン老は、肝心なところでグレゴリウスの反応を確かめていた。それが気のせいではないことだけは、もう分かっていた。
「それで、私たちに調べてほしいと?」
「はい」
エウドキアが頷いた。
「大事にして村中を騒がせる前に、一度、皆様のお目で確かめていただければと思いまして。皆様は夜の見張りにも慣れていらっしゃるでしょうし、もし本当に誰かが忍び込んでいるのなら、村の者だけで探すよりも確かでしょう」
そこでエウドキアは少し間を置いた。
その先に続ける言葉に迷っているようで、困ったように目を伏せた。
代わりにレオン老が何かを言おうと身を乗り出しかけたが、エウドキアが手で彼をとどめた。
その先を言わせまいとした夫人の意を汲んだのか、グレゴリウスが話を引き取る。
「委細、承知いたしました。では、この件はいったん我らで確かめてみましょう。――フェリシア様、それでよろしいでしょうか」
あえてそれ以上を口にしなかった理由も、フェリシアにはようやく分かった。
自分たちの側も含めて調べる。その含みごと、グレゴリウスは引き受けたのだ。
「はい。そういたしましょう。エウドキア夫人、それでよろしいでしょうか」
「……はい。よろしくお願いいたします」
今度はレオン老も、はっきりとフェリシアを見ていた。
先ほどまで、肝心なところで誰の顔を見ていたのか――その意味も、今ならおおよそ分かる。
胸の奥に、口惜しさとも不甲斐なさともつかないものが残った。
「フェリシア様」
グレゴリウスが静かに声を掛けた。
「よろしければ、まず倉を見せていただきましょう。侵入した者がいるのであれば、戸や窓以外にも何か残っているかもしれません」
それにフェリシアが頷くと、グレゴリウスは改めてエウドキアへ向き直った。
「よろしいでしょうか、夫人」
「ええ。もちろんです」
エウドキアは少し安堵したように頷いた。
* * *
ベラータ家の屋敷を出ると、食糧庫は母屋から少し離れた、村の中央寄りにあるという。
フェリシアとアスターナ、グレゴリウスの三人は、鍵を受け取るとそのまま食糧庫へ向かった。
しばらく歩いたところで、アスターナがぽつりと言った。
「フェリシア様。彼らの意向に従う、というわけではございませんが、我らの側も確認した方がよいと思います」
「我ら、というと……アスターナも、レオン老の含意を最初から理解できていたのですね」
「はい。そして夫人も、それを望んでおられると思います」
フェリシアは歩みを緩めた。
そこでようやく、エウドキアがあの場で見せていた躊躇の意味まで腑に落ちた。レオン老だけではない。エウドキアもまた、自分たちを最初から疑いの外へ置くつもりはなかったのだ。ただ、彼女の方がレオン老よりも自分たちに遠慮する気持ちが強かっただけなのだろう。
思い返せば、グレゴリウスもかなり早い段階で察していたようだ。
「……二人とも、あの場ですぐに理解できていたのですね」
アスターナは少し俯き、答えなかった。代わりにグレゴリウスが小さく頷く。
「おそらくは、レオン殿ら年寄衆の意向が夫人に影響を与えているのでしょう。そしてそれはもっともな意見でもございます故……」
「そうですか……」
気づいていなかったのは自分だけだった。二人を連れてきた判断は間違っていなかったのだろう。それでも、自分だけが一歩遅れていたことには、少しばかり情けなさを覚える。
「彼らにとって、私たち全員が怪しいということでしょうか?」
「いえ、そこまでは」
アスターナはすぐに否定した。
「盗みといってもコソ泥のようなものです。少なくともフェリシア様や騎士のお二方を直接疑っておられるわけではないと思います。」
「では……誰を?」
「夫人、というよりレオン老のお立場なら、東大陸人であるわたし。それから従士の皆様まで、可能性には入れておられるでしょう。ただ、わたしは、その方々を積極的に疑う理由はないと思います。
もっと疑うべき者が他におりますので」
そこまで聞いて、フェリシアは嫌な予感がした。ここまでは随分と説得力のある話だったのに、この瞬間から、いつものアスターナの悪い癖ともいえる過剰な猜疑心の話へ変わったような気がした。
「まさか……」
「パトリシウス殿ではないかと」
「……」
フェリシアはそこで立ち止まり、「やっぱり」と独り言のようにつぶやいた。立ち止まったことに気づいたアスターナも数歩先で足を止め、どうしたのかと訝しむように振り返った。
その顔には笑った様子がまるでない。だからといって、どこまで本気で疑っているのかと問われれば、それもよく分からなかった。
「どうしてパトリシウスなの?」
「最近こちらへ加わった方です。ご実家からは勘当され、道中では連れてきた従者に物資を持ち逃げされ、ご自分の手持ちのお金はフェリシア様へすべて差し出したと聞いています」
アスターナは指を折ることもなく、淡々と並べた。
「今のところ、わたしたちの中で最も食料にも金銭にも余裕がない方ではないでしょうか」
「…………」
言われてみれば、条件だけなら確かにそうだ。そうではあるのだが……。
「いや、でも……パトリシウスが夜中に倉へ忍び込んで、パンや干し肉を盗んでるところなんて、全然想像できないのだけど」
彼をこの数日見ていれば、その可能性はどう考えてもなさそうにしか思えなかった。そもそも彼は、おなかが空いたからといって、自分で食料を調達しようという発想すらなさそうだ。まあ、ラケスに泣きつくということなら想像できるが、そのラケスも、この数日の間に接してきた限りでは、フェリシアの中で彼なりの独特な信用を勝ち得ていた。
そんな思いを巡らすフェリシアをよそに、アスターナはわずかに首を傾げ、むしろフェリシアの言葉の方が不思議だと言いたげな怪訝な顔をした。
「フェリシア様は、つい昨日まで、あの方のお顔すら覚えていらっしゃらなかったではありませんか。表に見えているものがすべてとは限りません」
やはり冗談なのか本気なのか、フェリシアには分からない。
「パトリシウス殿については、その心配はないでしょう」
それまで黙っていたグレゴリウスが、ようやく口を挟んだ。
「ここ数日、私が朝から鍛えておりますが……良くも悪くも、人知れず倉へ忍び込んで食料を持ち出せるほど器用な御仁ではありますまい」
フェリシアは思わぬ援軍に、すぐさま頷いた。
グレゴリウスまでそう言うのなら、やはり自分の見立ては間違っていないらしい。
もっとも、本人が聞けば少しも嬉しくない擁護だろう。疑うアスターナも、庇うグレゴリウスも、結局のところ「パトリシウスは頼りない」という一点では妙に意見が一致している。
しかし、アスターナは相変わらず表情を変えなかった。
「とにかく、パトリシウスまで疑う必要はないと思う」
「承知しました」
いつものように返事だけは素直だった。
だが、その横顔を見る限り、本当に疑いを解いたのかどうかは甚だ怪しい。
フェリシアはグレゴリウスと顔を見合わせて小さく息を吐き、再び食糧庫へ向かって歩き出した。




