第39話 稀代のペテン師、さもなくば……
朝の鍛錬で身体に残っていた熱は、川の冷たい流れに浸かっているうちに少しずつ引き、気づけば陽は先ほどよりも高く昇っていた。
フェリシアが浅瀬に足をつき、濡れた髪を背中へ払って岸へ上がると、畳んだ布を抱えて待っていたアスターナが、すぐにこちらへ歩み寄ってきた。
フェリシアが差し出された布を受け取ると、アスターナは衣服を置いてある方へ静かに戻った。
彼女は黒に近い暗褐色の髪を首の後ろで一つにまとめていた。フェリシアたちよりわずかに色の濃い肌をしており、細い顔立ちの中では、黒褐色の大きな瞳がひときわ目立つ。
商隊が襲われ、たった一人で助け出された直後の彼女は、誰が声をかけてもまともに返事をすることができず、父の亡骸を残してきた方角を、ただ黙って見つめていた。あれほど大きなものを一度に失ったのだから、無理もないことだとフェリシアは思う。
けれど、その様子を人前に見せていたのは、ほとんどその日だけだった。
翌朝には、悲しみを忘れたわけでも、立ち直ったわけでもないはずなのに、それを表へ出さず、自分にできる仕事を探して動き回るようになった。商家の娘らしく、食料を買い付ける際には自ら交渉役を引き受け、村へ来てからは年下の子供たちや怪我人の世話までして、いつも忙しそうにしていた。
そしてあの日以来、誰かに命じられたわけでもないのに、いつもフェリシアの傍らにいる。衣服や荷物に気を配り、周囲に近づく者へ目を向け、ときには大人たちの話にまで黙って耳を澄ませていた。
まるで、それが自分の役目であると、彼女自身が決めてしまったかのように。
その振る舞いも、言葉の選び方も、十二歳という年齢よりずっと大人びて見える。父を失ったことで無理にそう振る舞おうとしているのか、それとも大きな商家で育った娘なら、このくらいは当然なのか。フェリシアには、まだよく分からなかった。
もっとも、二つしか歳が違わない彼女を見ていると、フェリシアは、自分が必死にそうあろうとしている姿を、鏡写しに見ているような気がした。
布で濡れた髪を拭いながら何気なく顔を上げると、アスターナの視線が自分ではなく、木立の向こうへ向けられていることに気づいた。
あちらには、朝から使っている草地と、一行の天幕がある。だが、いまさら村人が不用意に近づいてくるとも思えない。
「何をそんなに警戒しているの?」
声をかけられたアスターナは、ようやくこちらを見た。
「いえ、村の方々を警戒しているわけではないのですが……」
「まだパトリシウスのことを?」
フェリシアがそう尋ねると、アスターナはすぐには答えず、もう一度だけ木立の向こうへ視線を向けた。
先ほどまでの草地では、従士たちがまだ鍛錬を続けているはずだった。重そうな木の棒を引きずりながら、グレゴリウスに連れ戻されていったパトリシウスの姿も、そこにあるのだろう。
「失礼かとは思うのですが……」
アスターナはそこで一度言葉を切り、フェリシアの表情を窺うように見上げてから、静かに続けた。
「パトリシウス殿については、稀代のペテン師か、さもなくば途方もないお人よしのボンクラとしか言いようがありません」
まったく迷いのない言い方に、フェリシアは布を髪へ当てたまま目を瞬いた。そして、そのあまりの言われようと、フェリシア自身が彼に抱いていた印象との違いに、思わず吹き出してしまった。
「ボンクラ……。ふふっ、そこまで言う?」
「はい」
しかしアスターナはフェリシアの言葉に引きずられることもなく、真顔で頷いた。
「富農であるご実家の反対を押し切り、勘当されてまで助けに来たというだけでも、わたしにはよく分かりません。それなのに、道中では連れてきた従者に物資を持ち逃げされ、それでも引き返さず、手持ちのお金まですべてフェリシア様へ差し出したのでしょう? しかもフェリシア様は彼の顔も覚えていらっしゃらないというのに」
「富農なんて言ったら、パトリシウスは悲しむわよ。彼の家は一応、アルトレウス家の分家なのだから。
それに、彼のお父様のことはよく覚えているのよ。たしかに恰幅がよくて、とても武人には見えなかったけれど、お父様たちとは親しく話をしていらしたわ。よく思い出してみれば、パトリシウスとよく似た顔立ちだった」
「何も求めず、当然のようにお仕えすると言われても、すぐに信用することはできません」
アスターナの口調は穏やかだったが、その言葉には商人の娘らしい頑なさがあった。相手の言葉をそのまま受け取らず、その裏にある得失を確かめなければ気が済まないのだろう。
「父は、人が何かをするときには、その人なりの得があるものだと言っていました。こちらから見て、どう考えても割に合わないことをする人間には、こちらに見えていない何かがある、とも」
「だから、パトリシウスには裏があると思っているの?」
「あるのなら警戒すべきですし、本当に何もないのなら、それはそれで問題です」
フェリシアはまた思わず笑いそうになったが、アスターナの表情があまりにも真剣だったため、どうにか堪えた。
「本当に何もなかったら?」
「途方もないお人よしのボンクラです。そういう暗愚な方をフェリシア様のお傍に置いておけば、いつか取り返しのつかない失敗をして、フェリシア様のお命まで危うくするかもしれません」
そこまで言われるとフェリシアとしてはさすがに彼がかわいそうだと思ったが、しかしアスターナの言い分もまた、否定しにくい。
少なくとも、先ほどの草地でグレゴリウスに手刀を落とされ、重そうな木を引きずらされていた姿を見る限り、武技にせよ立ち居振る舞いにせよ、ヴィクトルやグレゴリウスはもちろん、その従士たちと比べても、洗練されているとは言い難い。
けれど、フェリシアには、アスターナほど彼を疑う気にはなれなかった。初めて会ったときから、言葉の選び方にも、ひどく場違いな臣従の仕方にも、取り繕っているようなところがなかったからだろうか。
あるいは、あれほど不器用に差し出されたものを、疑う方が難しかっただけなのかもしれない。あの不器用さの裏に何かあるようには見えない。むしろ見えているものがすべて、というのがフェリシアから見たパトリシウス像だった。
「そう? 彼は信頼できると思うよ」
フェリシアがそう答えると、アスターナはすぐには頷かなかった。
「フェリシア様がそうお考えなら、わたしからこれ以上申し上げるつもりはありません」
口ではそう言いながらも、彼女の視線は再び木立の向こうへ向けられている。
「でも、まだ見張るつもりなんでしょう?」
「念のためです」
アスターナは少しも悪びれることなく答えた。
「稀代のペテン師であったなら、見逃すわけにはまいりませんし、本当にただのお人よしであったとしても、何をしでかすか分かりませんから」
どうやら彼女の中ではパトリシウスは、もうすでにとんでもない危険人物という扱いらしく、どちらであっても監視を続けるという結論に変わりはないらしい。
フェリシアは濡れた髪を布で包みながら、小さく息を吐いた。
「分かった。でも、あまり怖い顔で見ないであげてね。たぶん本人は、何で見られているのかも分かっていないから」
「ご心配には及びません。これはわたしが為すべき役割ですので」
「……」
アスターナの答えが、どうも自分の求めていた答えと食い違うように思えたが、フェリシアはそれ以上は何も言わないことにした。
アスターナがこれほど真剣に考えている以上、やめるように命じたところで、今度は気づかれないように見張るだけだろう。
「それなら、ほどほどにね」
フェリシアは濡れた髪をもう一度強く拭い、アスターナが用意していた衣服に袖を通した。川から上がったばかりの肌には布地が少しまとわりついたが、木々の間を抜ける風に当たっているうちに、それも次第に気にならなくなっていく。
二人が川辺を離れて野営地へ戻る頃には、朝の鍛錬も終わりに近づいていた。
従士たちは木剣や盾を片づけ始め、マクシムは天幕の近くで鞍を外され、機嫌よさそうに草を食んでいた。と思ったのもつかの間、こちらへちらりと視線を向けると、すぐそばにできていた泥水の溜まりへ二、三歩移動し、そこで前脚を折って膝をついた。
「あっ、ちょっと、マクシム――」
フェリシアが制止するよりも早く、マクシムは胸を泥の中へ落とし、そのまま肩から勢いよく横倒しになった。
濁った水が大きく跳ね、栗毛の馬体を腹の下から濡らしていく。それでもマクシムは少しも気にする様子を見せず、背中を泥へ擦りつけながら四本の脚を宙へ突き出し、反対側へ転がろうと身体を大きく捻った。
「ああ、もう……」
つい先ほどまで手入れをされ、陽を受けるたび艶やかに輝いていた美しい栗毛は、見る間に黒土の泥にまみれ、ところどころに元の毛色を残したまだら模様になってしまった。
やがて十分に満足したのか、マクシムは前脚を踏ん張って立ち上がり、わざわざ従士たちがいる方へ少し近づいてから、頭から尾の先まで身体を大きく震わせた。泥水と草の切れ端が辺り一面へ飛び散り、近くにいた従士たちが慌てて身を退く。
――夕方にもう一度手入れをしなきゃ。
フェリシアの嘆きをよそに、当のマクシムは何事もなかったかのように鼻を一つ鳴らすと、再び足元の草を食み始めた。
その少し離れたところでは、パトリシウスが例の沈木を両手で持ち上げようとしていた。
「……八十七!」
声だけは勇ましかったが、木は胸の高さまで上がる前に両手から落ち、片端が地面へぶつかって湿った土を跳ね上げた。
傍らに立つグレゴリウスが何かを言うと、パトリシウスは肩で息をしながら再び木へ手をかける。
その様子を見つめるアスターナの横顔は、先ほどまでと少しも変わっていなかった。
――本当に見張るつもりなのね。
フェリシアは小さく息を吐き、それ以上は何も言わずに自分たちの天幕へ戻った。
その少し離れたところでは、パトリシウスが例の沈木を両手で持ち上げようとしていた。
「……八十七!」
声だけは勇ましかったが、木は胸の高さまで上がる前に力なく落ち、片端が地面へぶつかって湿った土を跳ね上げた。
アスターナの視線は、その一部始終を追っていた。
先ほどまでと少しも変わらない真剣な横顔を見ながら、フェリシアはふと、彼女がパトリシウスを疑っているから見張るということだけではなく、彼女自身が見張るべき相手を必要としているのではないかと思った。
周囲に近づく者へ目を配り、荷に気を配り、大人たちの話に耳を澄ませる。そのどれもが、父の商隊にいた頃から身につけてきた振る舞いなのだろう。今はその目をフェリシアへ近づく者に向け、その手で彼女の衣服や荷を整えている。
そうして何かをしていなければ、あの日、父の亡骸を残してきた方角へ、心まで引き戻されてしまうのかもしれない。
けれど、それを本人に言えるはずもなかった。たとえ口にしたところで、アスターナは真顔で否定し、それどころかまた別の「為すべき役割」を見つけ出そうとするかもしれない。
フェリシアは小さく息を吐き、声をかけることもなく自分たちの天幕へと戻っていった。




