第38話 鍛錬の始まり
帝国歴467年8月3日 朝
マロネイア村外れの草地を、栗毛の牝馬が駆けていた。
朝のうちはまだ低かった陽も、今ではすっかり木々の梢を越えている。踏み荒らされた草の上には、同じ場所を何度も往復した蹄の跡が残り、その先には、人の背ほどの高さに束ねた藁が一本、杭に括りつけられていた。
そのさらに外れ、木陰になった場所にはアスターナが一人立っていた。時折こちら――フェリシアのいる方へ目を向けながら、静かにその様子を眺めている。
フェリシアは右手に木槍を握り、左手だけで手綱を取る。マクシムはそのわずかな張りを口元で受けると、すっと首を下げ、それにつれて馬体全体まで一段沈んだようにまとまった。その姿勢のまま、草地を力強く駆け抜けていく。
狙うのは、その藁束だった。
馬脚は乱れていない。速度も十分に乗っている。あと数歩――そう思われたところで、マクシムの首がわずかに右へ向き、フェリシアもそれに合わせるように手綱を引いた。
槍の穂先が、藁束の脇を掠めて通り過ぎる。
「避けてはだめだ、寄せるんです」
少し離れたところで見ていたヴィクトルが声を張った。
フェリシアはマクシムを止め、振り返る。
「でも、このまま行ったらマクシムが――」
「戦場では時に、無理を押してでも強く当たらねえといけない場面もあるんですぜ、お嬢」
ヴィクトルは馬を返して戻ってきたフェリシアに向かってそう言うと、藁束を顎で示した。
「馬を痛めつけろって話じゃありません。ですが、お嬢が先に避けりゃ、後ろにいる連中までつられて避ける。騎兵ってのは、自分と馬だけの都合で走ってるわけじゃねえんです」
フェリシアは何も答えず、ヴィクトルの背後を回って起点の位置へと馬を戻した。正面の藁束へもう一度視線を据え、マクシムの首筋を優しく二度叩いて手綱を握り直す。
栗毛の牝馬はヴィクトルのすぐ脇で一瞬立ち止まるや尾を高く跳ね上げ、後脚で激しい蹴りを宙に一発放ってから、再び走り出した。
その蹄が舞い上げた湿った土を、ヴィクトルは身を軽くひねってかわしながらも、藁束へ向けた視線だけは離さなかった。
マクシムは今度こそ進路を逸らさず、先ほどまで避けていた藁束へ向かって真っ直ぐに駆けていった。距離が見る間に縮まっていく中でもフェリシアは手綱を引かず、そのまま馬体を正面から寄せていく。
次の瞬間、マクシムの前脚が藁束をまともに踏み抜き、束ねられていた藁が大きく崩れると、支えていた杭まで巻き込まれるように後ろへ倒れた。
――よし!
心の中で叫んだ瞬間、不意に視界が大きく揺れ、何が起きたのか理解するより先に目の前へ白い火花が散った。
何事かと振り返ると、すぐ後ろにはグレゴリウスが立っていた。片手をまだ中途半端に持ち上げたままのその位置と向きを見れば、たった今それが自分の頭へ振り下ろされたのだということくらいは、さすがの私にも分かる。
――手刀を食らったのか。
そこまで頭が理解したところで、一拍遅れて頭の上から鈍い衝撃が身体の奥へ響いてきた。
「痛っ!」
どういうわけか、その感覚の正体に気づいたのは、グレゴリウスが何をしたのかを理解してからだった。
「痛い、ではないぞ、パトリシウス殿。お前はいったいここで何をしているんだ。いつの間にか居なくなったと思ったら……」
グレゴリウスは呆れたようにそう言うと、振り下ろしたばかりの手をそのまま少し離れた場所へ向けた。
その先では、ラケスがグレゴリウスとヴィクトルの従士たちに混じって剣術の稽古を続けていた。ちょうど一人の従士と立ち合っているところらしく、互いに木剣を構えたまま間合いを測っていた。かと思うと、相手が一歩踏み込んだのに合わせて半歩だけ身を退き、その剣先を受け流しながら、ほとんど間を置かずに打ち返している。
――私と一緒に訓練を始めたばかりなのに……。
いつの間にかラケスは従士たちの中に入っていても全く違和感のないくらいに馴染んでいる。
その輪の中で一緒に鍛錬をしているはずだった私は、気がつけば無意識のうちにフェリシアとマクシムが訓練している方へと吸い寄せられていたのだ。
その私を現実へと呼び戻したのが、たった今グレゴリウスが振り下ろした手刀だ。
この問題児をどうにかしなければならない。彼の顔にはそう書いてあるような気がした。
眉間にしわを寄せ、こちらを見下ろすその視線を見る限り、私はまだ見捨てられてはいない、と思いたい。
そんなことを思い巡らせてから、私はこの期に及んでもまだ、先ほど倒された藁束の方へ視線を戻してしまった。
フェリシアとマクシムの姿は、もうそこにはなかった。
どうやら藁束を踏み倒したあとも、そのまま真っ直ぐ走り抜けていったらしい。草地のずっと向こう、木々の手前まで離れたところに、栗毛の馬体と、その背に乗る小さな人影が見えていた。
「なあ、パトリシウス殿。今敵と遭遇したら、誰が一番先に死にそうだと思う?」
唐突な問いに、私は一度だけラケスたちの方を見た。
向こうでは、先ほど打ち込まれた従士が体勢を立て直し、今度はこちらから仕掛けるつもりなのか、木剣を構え直してじりじりと間合いを詰めている。ラケスもそれに合わせて腰を落とし、相手の動きをじっと見ていた。
あの中で一番先に死にそうな者――。
考えるまでもない気がする。
「……私、ですよね」
「分かっているなら結構だ」
グレゴリウスは満足そうに頷いて即答すると、手刀を放った方とは反対の手をこちらへ差し出した。正確には、その手に持っていた棒のようなものを、である。
その手には、どこから持ってきたのか、私の背丈より少し短いほどの太い木の棒が横たえられていた。表面にはところどころ黒ずんだ泥がこびりつき、濡れた木肌が朝の陽を鈍く返している。
「君にぴったりなものを、そこの小川で見つけた」
そう言いながらグレゴリウスが片端を持ち上げ、何でもないことのように差し出した手をさらにこちらへと突き出してきた。
剣にしては太いし、槍にしてはやけに短い。そもそも武器と呼んでよいものなのかも怪しい。
「これは……?」
「川底に沈んでいた。ちょうどいい太さと重さだったからな」
何がちょうどいいのか分からないまま、差し出された木を両手で受け取った。
その瞬間、腕が一気に下へ持っていかれた。
「うわっ――」
思わず腰を落として踏ん張る。見た目から想像していたよりもずっと重い。彼はさっき川底に沈んでいた、と言っていた。水を吸っているせいなのか、それとも元から密度のある木なのか、持ち上げようと腕に力を込めても、ようやく片端が地面から離れる程度だった。
そんな私を見ても、グレゴリウスは眉一つ動かさない。
「君の場合は、まず筋力だ。それから基本の型を身体に覚えさせる。実際に剣を振るのは、そのあとでいい」
「これで、ですか?」
グレゴリウスは当然のように頷いた。
「まずは素振り二百回。終わったら、その時に次のことを説明しよう」
「二百……」
聞き間違いではないかと思って顔を上げたが、グレゴリウスはもうこちらを見ていなかった。
私はしばらくその横顔を眺め、それから手の中にある泥の残った木へ視線を落とし、最後に、何か別の答えでも見つからないものかと空を仰いだ。
雲一つない、実に良い天気だった。ただそれだけだった。
そのとき、ふと横から視線を感じて顔を向けると、少し離れたところにいたヴィクトルがこちらを見ていた。どうやら今のやり取りにも気づいていたらしい。口元には隠す気もない笑みが浮かんでいる。
目が合うと、その笑みはいっそう深くなった。それは今の私の状況をかなり正確に把握している、ということはその笑みで分かった。そしてもちろん、彼から助け舟など出してくれはしない。
「何をしている。行くぞ」
「あ、はい」
先に歩き出したグレゴリウスを追おうとしたものの、抱えて運ぶにはどうにも重い。仕方なく木の片端を持ち上げ、もう片方を地面につけたまま引きずることにした。
湿った草の上を沈木が擦り、泥を引きずった跡が長く残っていく。
その先ではラケスがまた別の従士と向かい合っていた。こちらが訓練を抜け出してフェリシアたちを眺めている間にも、彼は随分と先へ進んでしまったらしい。
――まあ、仕方がない。
できないものは、できるようになるまでやるしかない。
そう自分に言い聞かせながら、私は重い木をずるずると引きずり、時折こちらを振り返るグレゴリウスに急かされるようにして、皆が鍛錬を続ける輪の中へと戻っていった。




