第37話 プロローグ ~皇女の宴~
帝国歴477年6月18日 夕刻
――悪くない眺めだと思う。
彼女は本来、華美な宴席は好むところではなかった。ほんの一年前までなら、ほとんどの者は彼女にそれほどの関心を持たなかっただろう。彼女の父親と、数年前に初めてできた友人以外は……。
――けれども、今日だけはそれは言うまい。
これだけの目がある。これだけの口がある。ここで語られたことは、明日には帝都の隅々へ流れていくだろう。だからこそ、この場でなければならなかった。
杯を手に客の間をゆるやかに巡る。そのとき柱のそばに、見知った姿を見つけた。
フェリシアだ。
傭兵団を率いる彼女は、こうした華やかな席には馴染まぬのだろう。どこか場から浮いて見えた。友の顔を見つけた気安さで、皇女クラウディアは何気なくそちらへ足を向けた。
だが、近づくにつれて耳に入ってきたのは剣呑な響きだった。
フェリシアのそばには司法を統べる七家の一角、カレンディス家の当主が立っていた。ルシアン・オ・カレンディス。黒髪に赤い髪飾り、紫の絹。あの狡猾と評される笑みを浮かべていた。
「はて、今宵はどのような資格でのご列席かな」
ルシアンの声だった。クラウディアは足を緩めた。
「どなたかの護衛か、あるいは会場の警備でも請け負われたか」
傭兵風情が、皇女の宴に何用か――言葉こそ丁寧だが、その底にあるものは、隠されてもいない。招かれざる者と、暗にそう告げているのだ。
一拍おいて、ルシアンは自ら、軽く首を振ってみせた。
「いや、よもや今は亡き名家の名を継ぐ者として、などとは申されますまい。それは七家すべてへの、侮辱ともなりかねぬ。……いやはや聡明な貴公が、まさか。これは異なことを口にした。お忘れくだされ」
刺しておいて自ら引く。いつもの手だ。
わが友が、あの手合いに絡まれて往生しているのではないか。クラウディアは輪に加わろうと、なおも一歩を踏み出しかけた。
だが、フェリシアが静かに礼を返すのが見えてその足を止めた。
「皇女殿下の友人として、お招きにあずかりました」
そうして、ゆるりと目を伏せた。
「もっとも、このような華やかな席にはとんと縁がございませんので、いささか気後れいたしております。カレンディス卿には、それも見透かされておりましたか。お恥ずかしい限りです」
悪くない捌き方だ、とクラウディアは思った。だが、それだけではルシアンは引くまい。やはり、助けに入るなら、ここか――
そのときフェリシアが、ひと呼吸おいて続けた。
「――ときに、これはまったくの一般論でございますが」
声は先ほどと変わらず穏やかだった。だが、口にしたのは笑って聞き流すには重すぎる話だった。
「いずれの家において、誰を継嗣と定め、名を次代へ渡すか。それを決めるのはその家をおいてほかにございません。陛下の御名のもと、帝室儀典紋章庁はあくまでそれを追認する。順序として、こうあるものと存じます。……家が先にあるのだと。
いえ、司法を司るカレンディス卿にこのようなこと、私などから申すまでもなきことにございました。どうかご無礼の段は、平にご容赦を……」
ルシアンの笑みが止まった。クラウディアは小さく息を吐いた。
――なんだ。案ずるまでもなかった。フェリシアに助けなんて余計なお世話ね。
低く出たかと思えば、こうして相手の足元を涼しい顔で掬ってみせる。継承の道理を持ち出されては、司法の当主とてうかつには反論できまい。
――わが友ながら頼もしいこと。
クラウディアは、口の端に微かな笑みを刻むと踵を返した。二人の会話がその後どう収まったかは、見届けるまでもなかった。
思えば――と、離れながら思う。
あの東の商人を引き合わせてくれたのも、フェリシアだった。困っていることがあるなら力になる、と。友の言葉に噓はなかった。おかげで、必要なものはすべてこの手の中にある。
いい友を持ったと思う。さて。
クラウディアは、広間の別の一角へ視線を移した。
そこにフィロン・オ・トレオルがいた。トレオル家の嫡子。ごく最近婚約者という肩書を手に入れた、一応は整った顔立ちの、如才ない男だ。今も、高官たちと如才なく笑い合っている。
あの男が、自分の何を見ているかはとうに承知していた。フィロンが見ているのはクラウディアではなく、その背後にある皇位だ。それを責めるつもりはない。この宮廷ではそうでない者を探す方が難しい。
ただ、それならそれでこちらにも算段がある。
クラウディアはフィロンの方へ、ゆっくりと歩み寄った。
「フィロン公子」
男が振り向き、慣れた仕草で頭を垂れる。
――ここが正念場だ。
クラウディアは、この宴を催したただ一つの目的を果たすべく、意を決した。
「殿下」
「よい宴でしょう。あなたにも、楽しんでいただけているとよいのだけれど」
「もちろんでございます。殿下のお心遣い痛み入ります」
クラウディアは微笑んだ。歓談の続きのような、何気ない声で問うた。
「そういえば――一昨日の夜は、どちらにおいででしたの」
ほんの一瞬、フィロンの目が揺れた。
「一昨日、でございますか」
男はすぐに柔らかく笑った。だがクラウディアはその前の目の揺れを見逃してはいなかった。
「はて……確か、屋敷におりました。書見などして、静かに過ごしておったかと」
弦の音がひとつ途切れた。身体にこもった熱が、さらに一段上がるのを感じた。
「おかしなこと」
クラウディアは、口元に手を添えて微笑みを崩さぬまま言った。
「あなたは一昨日の夜、東の商人ダリューシュ殿の招きで、タイスの邸においででしたでしょう」
その名を聞いて広間がざわりと揺れた。
誰かが息を呑み、誰かが扇の陰で囁きを交わす。この宴に招かれるほどの家に生まれた者で、その名を知らぬ者はいない。商いの話もそれ以外の趣向も、望むものなら何でも揃えてもてなすという、あの邸。
口の端に上るのも憚られる場所の名が、皇女の唇からこともなげに零れたのだ。
フィロンの頬がこわばった。だが、男はなおも笑みを繕った。
「……ああ、あの席でございますか。いかにも招かれはいたしました。なれどあれは商談。東との交易について話を詰めていただけのこと。それ以上のことは、断じて」
「商談?」
クラウディアは、その言葉を静かになぞった。
「では、その商談の席であなたがこう仰ったのも、交易のお話の一部だったのでしょうか。――皇女を娶れば生涯、籠の鳥だ。この縁談は己の本意ではない、と」
フィロンの笑みが凍りついた。
「……何を、根も葉もない」
「ならば、これはいかが」
クラウディアの声は、少しも高ぶらなかった。
「今のうちにわたくしの愛人にならぬか。堅苦しく、貧相な体つきの姫よりも、そなたの方がよほど心地よい。……そうも仰ったとか」
広間が、どよめいた。
フィロンは答えられなかった。否認の言葉を探すように口が動いたが、声にはならなかった。皇女がその時のことを、あまりに正確に諳んじてみせたからだ。曖昧な噂を聞きつけたという話ではない。あの席にいた誰かが、一言一句、皇女へ伝えている。
「――さらに、申しましょうか」
クラウディアはほんのわずかに首を傾げた。その仕草だけが無邪気だった。
フィロンはうなだれた。それが答えだった。
広間は静まり返っていた。弦はもう鳴っていない。クラウディアは、そこで初めて目を伏せた。
「……わたくしは、信じたくはありませんでした」
その声から、微笑みが消えていた。
「何かの間違いであってほしいと。あなたの口から、それは違うと、そう聞きたかったのです。だからこそこうしてお尋ねしました。
なのに……あなたは開口一番、屋敷にいたと仰った。最初から嘘でわたくしをごまかそうとされた……。
これではもう、何を信用してよいやらわかりません」
クラウディアは静かに瞼を閉じ、先ほどから目に溜めていた涙を、ここで初めて目尻からこぼした。
少なくとも、招かれた客たちの目に映ったのは、深く傷ついた者の静かな諦めだけだったのだろう。広間のそこかしこで、彼らが痛ましげに目を伏せるのが分かった。あの純真な姫君になんという言葉を聞かせたのか、と。
――可哀想に。
――あれは殿下への侮辱ではないのか。
――なんと軽率なことを……。
それらの囁きがあちこちから聞こえてくる。婚約者に裏切られ、嘘をつかれ、侮辱された、いたいけな皇女。
それでいい。それが欲しかったものだ。
クラウディアは一歩下がると、広間全体へ向き直った。そして、よく通る声で告げた。
「たった今、決心いたしました。
わたくしは、フィロン・オ・トレオルとの婚約を、本日をもって解きます」
どよめきが起きた。クラウディアはそれが鎮まるのを待たなかった。
「加えて――わたくしは、神殿へ入ります」
どよめきが、息を呑む音に変わった。
「俗世の縁を絶ち、神々へこの身を捧げます。皇位を継ぐべきは、正統なる嫡孫でありましょう。わたくしがいつまでも継承者の一人に数えられていては、いらぬ諍いの種となるばかり。
……神殿はわたくしにとっても、傷ついた心の癒しとなることでしょう」
衆目の前で娘が傷心を訴え神殿入りを言い切ってしまえば、撤回を強制するほど父は厳しくなれない。
クラウディアは、父のその甘さをよく知っていた。
幼い孫ではなく成人した自分に跡を継がせたい父の思惑も、手放したくない情も分かっている。だが、自分に玉座を望む気はない。ここで拒んで見せれば、父も諦めて孫を後継に立てるしかないのだ。
――これでいい。
神殿に入った者が、二度と俗世へ戻れぬわけではない。継承の話さえ収まれば、父に還俗を願い出ればいい。その時こそ、家の都合ではなく自分が選んだ男と生きる。
しばしの辛抱だ。
クラウディアの視線がほんの一瞬、広間の端へ流れた。
そこにキリロスがいた。大陸西方出身かと見間違えるような、金髪に紺碧の瞳を持つ美青年。伏し目がちに自分を見つめる彼と、まばたきほどの間、視線が触れ合う。それから、クラウディアは何事もなかったように正面へ戻した。
二人の視線が触れたことに気づいた者がいたとしても、その意味まで悟る者はいないはずだ。
クラウディアにとっての宴は、もう終わっていた。
* * *
会場に残る騒めきをよそに、楽師たちは再び曲を奏で始めた。先ほどまでの混乱を覆い隠すように、弦の音はそれまでよりも大きく広間へ響いた。
宴の主であるクラウディアは、あの宣言のあとすでに姿を消していた。声を潜めてその顛末を囁き合っていた客たちも、一人、また一人と帰路につきはじめている。
その音に紛れ、フェリシアは壁際に控えていた給仕の男へ、折り畳んだ紙片を渡した。男は紙片へ目を落とすこともなく、袖の内へ収めた。
フェリシアはもう男を見ていなかった。わずかに俯いたその口元に、ほんの一瞬だけ笑みが浮かんだ。だが、それを見た者は誰もいなかった。
何事もなかったように顔を上げると、そのまま退出する客の波へ紛れていった。
その夜、紙片は離宮を出た。
いくつかの手を経たのち、それはフィロン・オ・トレオルのもとへ届いた。
* * *
トレオル家の屋敷の灯を落とした一室。フィロンは卓に肘をつき、額を手で覆ったまま動かずにいた。あの屈辱が、思い返すたびに腹の底を焼いた。杯を重ねても何ひとつ薄れはしなかった。
――なぜ皇女が知っている。たった一夜、枕元で漏らした戯言だというのに……。
普段なら言わぬ軽口を多く口にしてしまった自覚がある。あの日に限って……
その時、小姓が一通の書付を運んできた。差出人の名はないという。誰から託されたものかも分からぬと。
フィロンは、気のない手つきでそれを開いた。
卓の上の杯が倒れた。酒が木目に沿って広がっていく。だが、フィロンはそれを見ていなかった。
書付には、あの夜の言葉が皇女の耳へ渡った経緯――少なくとも、そう信じるに足る筋道が記されていた。
その下から、もう一葉の紙が現れた。
恋文だった。
宛てられた相手の名はどこにもない。だが、そこに記された言葉を読み進めれば、誰へ向けて書かれたものかは疑いようがなかった。そして何より、その筆跡をフィロンはよく知っていた。
キリロス。
やつには事後の始末を任せた。女への手当てもその先のことも、すべて委ねた。あの夜、己が何を口にしたのかを知る、ただ一人の側近。
――こいつが、皇女と通じていたのか。
断片が音を立てて、ひとつに嵌まった。宴での皇女のあの落ち着き。
あの時ただ一度、キリロスへ向けた視線。その時は気のせいだと流していたが、今思い返せばそれは裏切りの合図に思えた。
フィロンは立ち上がった。倒れた杯もこぼれた酒もそのままだった。壁の剣へ手を伸ばす、その動きだけが妙に静かだった。
* * *
キリロスの体は裏庭の地に倒れ、動かなくなっていた。
彼はフィロンに対して、何の警戒も見せなかった。まさか自分が疑われているなどと、微塵も考えていなかったのだろう。
夜露に濡れた下草に伏したまま、その身体の下から流れた血が、屋敷の灯に鈍く黒赤く浮かんでいた。
フィロンはしばらく、それを見下ろしていた。
やがて、控えていた使用人を呼び、血に濡れた剣を無言で差し出し「手入れをしておけ」と、それだけを告げた。受け取った使用人の手がわずかに震えていたが、フィロンは気に留めなかった。自分が何を成したのか、その実感は、まだどこか遠くにあった。
その静けさを破ったのは門を叩く音だった。
帝宮からの使者である。皇帝陛下が直々にお召しである、と。
迎えに立っていたのは、近衛隊長アレクサンドロス・タウロスその人であった。
平民の出でありながら若き日より戦場で皇帝に付き従い、その武勇と忠誠だけを頼りにこの地位まで上り詰めた男。家格も派閥も持たぬがゆえに、ただ皇帝の意のままに動く刃――夜半にこの男自らが屋敷まで足を運ぶことの意味を、平時のフィロンであれば思い至らぬはずもなかった。
だが、この時のフィロンは、怒りを使い果たしたあとのような虚脱の中にいた。
ぼんやりと、己の袖に目を落としていた。返り血がある。着替えねばなるまい。近衛隊長直々の迎えとは、ずいぶんと丁重なことだ。――そんなことばかりが頭をよぎった。
なぜ、この夜半に皇帝が自分を召すのか。なぜ、よりにもよってこの男が来たのか。その問いにまで、彼の考えは及ばなかった。
ただ、男が帝宮からここまでの移動に要した時間を考えれば、キリロスを誅したことと無関係なのは明白だ。いや、そもそもこれは七家である我が家の内輪の問題であり、帝宮のあずかり知らぬことのはずだった。
うっすらと胸をかすめた疑問は、返り血の始末という目先の焦りに紛れ、霧の向こうへ消えるように意識の外へと追いやられてしまった。
タウロスは何も語らなかった。ただ、フィロンが従うのを静かに待っていた。その目には、憐れみも侮蔑もない。命じられた務めを果たす、それだけの目だった。
着替える間も与えられず、供を伴うことも許されないまま、フィロンはそのまま馬へ乗せられた。タウロスら近衛の騎馬に囲まれ、一行は帝宮への坂を上っていった。その背を屋敷の者たちが静かに見送った。
* * *
トレオル家の継嗣フィロンの亡骸が、帝宮の外堀に浮いているのが見つかったのは、翌朝のことである。
記録の上では、事故として処理された。夜半に足を滑らせ堀へ落ちたのだと。だが、帝宮に仕える者たちの中で、それを事故と信じる者はいなかった。
皇女クラウディアは、皇帝クラウディウスが最も溺愛する末娘であり、今や彼に残された最後の子でもあった。
その娘が前夜の宴で告げた決断と、その発端とされた婚約者の仕打ちを、皇帝がどう受け止めたか。
誰も、その答えを口にしなかった。
こうして、トレオル家は一夜にして嫡子を失った。
この日以後、当主ガルシア・オ・トレオルが政の表舞台から静かに消えた。
それは、常に帝都の政治の中枢に関わり続け、幾たびもの政変を乗り越えてきた男にしては、あまりにもあっけない幕切れだった。
数日後、二年近く定まらぬままであった皇位継承者として、まだ幼い皇帝の孫を皇太孫に立てることが宣言された。
そして、その発表に隠れるようにして、皇女クラウディアの神殿入りもまた、静かに発表されたのである。




