第36話 エピローグ⑤ ~君、君足らずとも(3)~
すぐさま返ってきたその一言は、私の心を少し抉った。
だが、この程度でへこたれるわけにはいかない。なにしろ私は、父に勘当されてまで、この人のためにここまで来たのである。
「二年前、アルトレウスの館でお会いしました。我が父、ファウロスに連れられて――」
「ファウロス……トリウス家の」
フェリシアはその名を口の中で確かめるように繰り返し、しばらく私の顔を見つめた。
「覚えています。あの時、お父上の後ろにいたのが、あなたなのですね」
「……はい!」
その言葉を聞いて、グレゴリウスはようやく私の腕を放した。私は痛む肩をさすりながら立ち上がったが、彼はなお私のすぐ後ろに立ち、警戒を解こうとはしなかった。
彼女の記憶の引き出しにおいて、私の存在がただの「父の背後にある影」に過ぎなかった事実に、ちっぽけな矜持の崩れる音が聞こえた気がした。
それでも、せめて声だけはと、虚勢を張るように大きく答えた。
「では、私がアルトレウス家に連なる者だということも――」
「待て待て。お嬢が覚えてるのは親父の方だろ」
髭面の山賊が口を挟んだ。
「ファウロスって名を知ってるだけで、こいつまでトリウス家の者だと決まったわけじゃねえ。お嬢も、こいつの顔は覚えてないんでしょ?」
なぜ、あの男がフェリシア様を「お嬢」などと呼び、さも当然のように口を挟めるのか。
疑われるのはまことに心外だったが、私には自分の身元を示せるものが一つだけある。
腰から古い剣を外し、鞘に収めたまま、両手でフェリシアの前へ差し出した。髭面の男の手が腰の剣へ伸びかけたが、私が剣を抜くつもりではないと分かると、その動きを止めた。
「これは、トリウス家の始祖がアルトレウス本家から賜った剣です。父が持たせてくれました」
フェリシアが剣を受け取った。
鞘も柄も古びているが、そこに刻まれたアルトレウス家の紋は、今も消えずに残っている。
「……確かに、アルトレウス家の紋です」
その一言で、胸のつかえが一気に取れた。
私の背後を塞いでいたグレゴリウスが、一歩退いた。
私は呼吸を整えると、湿った土の上へ片膝をついた。顎を引き、右手を左胸へ当て、視線を彼女の足元へ落として深く頭を下げた。
「改めてお願いいたします。私、パトリシウス・オ・トリウスを、フェリシア様の麾下の末席にお加えください!」
――決まった!
この日のために、幾度となく頭の中で繰り返してきた臣従の礼である。
姿勢も、手の位置も、視線も、言葉も、どこにも不足はない。少なくとも私は、そう確信している。
ここまでの苦労がすべて報われたような充実感が、胸の内に満ちてきた。
だが、期待した返事はなかなか聞こえてこなかった。
不思議に思って顔を上げると、フェリシアだけでなく、山賊面とグレゴリウスまで、そろって渋い顔をしていた。
* * *
髭面の山賊に見えた男は、ヴィクトル・オ・シルミウムという名の、れっきとした騎士だった。
「……騎士だったのですか」
「だった、じゃねえよ。今もだ」
ヴィクトルが不愉快そうに眉を寄せた。
改めて見ても、隣に立つグレゴリウスとは、とても同じ身分に見えない。グレゴリウスの装具は一式が揃い、ひと目で騎士と分かる。対してヴィクトルは、革鎧も肩当ても籠手も不揃いで、少し身なりのよい傭兵といったところだ。
「無理もない。あの面で、この装備ではな」
グレゴリウスが淡々と言った。
「面は関係ねえだろ。それに、これはうちの家に伝わる揃いの装備じゃねえ。俺が自前で集めたものだ。ばらばらなのはそういうこった」
「こいつは、もともと騎士家の三男坊でな。家を継ぐことになる前は、傭兵にでもなるつもりだったらしい」
グレゴリウスが私へ説明した。なるほど。装備については、それで納得できた。
顔について残った疑問は、本人の名誉のため、口に出さないことにした。
もっとも、三人が私の参陣に渋い顔をした理由は、ヴィクトルの身分や装備とは何の関係もなかった。
東大陸へ渡る道は封鎖されている。このまま留まれば追手に見つかるため、いったん引き返し、どこかに身を隠さなければならない。
周辺の領主が日和見を決め込むなか、ただ一人、館まで援軍に駆けつけた騎士領主ルキウス。頼れそうな先といえば、彼の村くらいしか思い当たらないらしい。だが、当のルキウスとも今は連絡が取れていないという。
食料も物資も金も持たない一行が、何の断りもなく彼の治める小さな村へ押しかければ、村人の蓄えを食い潰すことになる。彼らはそれを恐れ、身を寄せる決断を下せずにいた。
そこへ、馬も荷物も失った私たちが現れたのだ。
「それで」
ひと通りの説明を終えたヴィクトルが、私とラケスを交互に見据えた。
「おまえたちは、これからどうする?」
「もちろん、フェリシア様にお供します」
そう答えるとヴィクトルは眉間に深い皺を刻み、あからさまに苦り切った表情を私に向けた。このとんでもなく呑気で鈍い若者に、一体どこから現実を教え込めばいいのか――そんな彼の困惑をよそに、私は誇らしげに胸を張った。
「何も持たずに馳せ参じたわけではありません」
私はラケスに目配せした。互いに衣の内側や腰帯の隙間から、厳重に隠し持っていた小振りの革袋を取り出し、足元の土の上へ並べていった。革袋を置くたび、中の貨幣がじゃらりと鈍く鳴った。
「父から託された軍資金です。馬や物資こそ失いましたが、これらだけは肌身離さず持っておけという父の教えが活きました。ラケスが身につけていた分もあります」
私は革袋の一つを取り上げ、フェリシアの前へ改めて置いた。
「これを、すべてフェリシア様へ献上します」
ラケスが横から、残っている貨幣のおおよその額を付け加えた。
フェリシアの目が大きく見開かれ、先ほどまでの沈んだ表情が、一息のうちに明るくなった。
「それだけあれば、当座の食料を買えます。それだけではありません。馬や荷車も用意できます。
村で不足するものをこちらから持ち込めるのなら、ルキウス殿にも迷惑をかけずに済みますね」
フェリシアは顔を上げ、私に華やかな笑顔を向けた。その可憐な笑顔が、私には女神に見えた。
「パトリシウス。あなたの申し出、うれしく思います。どうか、私たちに力を貸してください」
フェリシアはごく自然な動作で私の両手を取った。彼女の方がかなり背が低いため、自然と私を見上げる形になる。ただそれだけのことなのだが、この時の私には、私一人を頼って懇願されているようにしか思えなかった。
「はい! この身、生涯をかけてフェリシア様にお仕えします!」
感極まり、上ずった声でそう言い切った。
我が人生で、これほど嬉しかったことが他にあっただろうか。私は、まさに今この瞬間のために、これまで生きてきたのだと感じた。こんなに喜んでくださり、頼ってくださるのなら、火の中であろうと水の中であろうと、どこへでも赴ける。
傍らで、ラケスがフェリシアの笑顔と、並んだ革袋を見比べた。
「若、あれほど旦那様から、『これは軍資金ではなく、若への手切れ金だ』と念を押されていたのに……」
ラケスはほとんど独り言のようにごちていたが、聞かなかったことにした。
「……お嬢に、あんな才能があったとはな」
ヴィクトルが、フェリシアたちには聞こえないほどの声を落として、グレゴリウスに言った。その声は、すぐ近くにいた私にも聞こえていた。
「私も初めて知った」
グレゴリウスも、フェリシアと私を見比べていた。
「本人は分かってやってると思うか?」
二人の視線がフェリシアへ向いた。当の本人はすでにその場へしゃがみ込み、ラケスとともに革袋の中身を確かめ始めている。
グレゴリウスはしばらくその様子を眺めた後、わずかに首を横へ振った。
「何の話ですか?」
「こっちの話だ。気にするな」
ヴィクトルはそう言ったが、二人が何を確かめ合っているのかは分からなかった。
私が首を傾げているうちに、フェリシアはラケスとともに革袋を抱え、少し離れたところで、買い入れる物資について話し始めていた。
それと入れ替わるように、少女がこちらへ歩み寄ってきた。
先ほど、大きな商家の娘と紹介されたアスターナだ。まだ子供と呼んでよい年頃だが、実にかわいらしいお嬢さんである。
彼女もまた、フェリシアの顔から革袋へ、そして私へと順に目を向けた。
こちらへ来る途中、その顔には一瞬だけどこか陰があった。だが、私の前で足を止めた時には、それも消え、にこやかな笑みを浮かべていた。
「パトリシウス様は商品に例えるならば、さぞ値打ちのあるガラスなのでございましょうね」
「私が、ガラスですか」
「ええ。高価なガラスほど、混じり物も気泡もなく、向こう側まで曇りなく透けて見えると申します」
アスターナは、年齢に似つかわしくないほど、商人らしい穏やかな笑みを浮かべている。
「それでいて、炉の中では職人の息にもたいそう素直なのだとか。腕のよい職人がほんのひと息吹き込めば、望んだとおりの形へ、少しも逆らわず美しく膨らんでくれるそうでございます」
そこで一度言葉を切り、改めて私を見た。何か心を見透かされているようで、少し居心地が悪い。しかし、次の言葉は私にとって意外だった。
「パトリシウス様を拝見しておりますと、なるほど、上等なガラスとはこのようなものかと思わされます」
商人であるアスターナから、それほど高く評価されるとは思っていなかった。
「ああ、なるほど。そういうことですか」
私は先ほどまで怪訝な顔をしていたらしい。だが、ようやくその意味を理解すると、自然と頬が緩んだ。
「胸の内を隠さず、使うべき時に、持っているものを惜しまず差し出す。その迷いのなさを褒めてくださっているのですね」
「……ええ。お見事なほどに、迷いがおありにならないようで」
「ありがとうございます。さすがは名高い商家の娘さんだ。アスターナ殿に値打ちを認めていただけるとは、誠に心強いかぎりです」
「……いえ。私はただ、外から見えたものを申し上げただけでございます」
「それでも嬉しく思います!」
アスターナは笑みを崩さなかったが、その表情は先ほどよりもどこかぎこちなくなっていた。私から半歩退くと、挨拶もそこそこに、そそくさと立ち去ろうとする。
私はなおも呼び止めようとしたが、そこで肩をそっとつかまれた。振り返ると、ヴィクトルが首を横に振っている。
「まあ、気にするな。おまえが悪いわけじゃねえ」
「何のことでしょう」
反対側から、グレゴリウスまで私の肩へ手を置いた。
「何か困ったことがあれば、相談には乗ろう」
「……分からねえなら、それでいい。俺はお前のことはいいヤツだと思ってるからな。まあ、強く生きろよ、若いの」
「ありがとうございます。お二人とも、思っていた以上に親切な方なのですね」
二人は顔を見合わせ、なぜか先ほどよりも深い憐れみを浮かべた。
理由はさっぱり分からなかったが、二人なりに私を気遣っていることだけは理解できた。やはり、見かけだけで人を山賊などと決めつけるものではない。
フェリシア様はもうラケスと共に、これから買い集める食料や、ルキウスの村へ持ち込む物資について熱心に話し合っている。先ほどまで行く先すら決められずにいた一行が、私の軍資金によって、力強く明日の支度を始めているのだ。
世の者が君主と聞いて思い描くのは、壮年の男が城に座し、軍旗の下に騎士を従え、己の財で臣下を養う姿だろう。
フェリシア様は、そのいずれにも当てはまらない。まだ十四歳の少女であり、城も領地も軍旗も失い、つい先ほどまで臣下を養う財すら持っていなかった。
だが、だからどうしたというのだ。
彼女はもう、失ったものではなく、明日必要なものを数えている。君主に足りないものがあるのなら、それを補うのが臣下の役目ではないか。
領地がないのなら取り戻すために働き、兵がいないのなら集め、財がないのなら、私が持てるものをすべて差し出せばよい。すべてを備えた者の下へ参じるだけなら、誰にでもできる。何もない今だからこそ、私が彼女を支えるのだ。
胸に湧き上がる熱い忠誠心に突き動かされ、私は誰に聞かせるでもなく、誇らしげに呟いた。
「やはり――君、君足らずとも、臣、臣たれ、だな」
その直後、いつの間にか傍らへ戻っていたラケスが、深い、深いため息をつきながら首を振っているのが目に入った。




