第35話 エピローグ⑤ ~君、君足らずとも(2)~
父の手が、机の端に置かれた小さな鐘へ伸びかけた。だが、指先は触れる直前で止まり、ゆっくりと引き戻された。
私には、父が今、どう答えるべきか迷っているように思えた。ここが押し時だと勝手に思い込み、少しでも父を安心させようと言葉を続けた。
「ラケスも一緒に来てくれますので、大丈夫です」
しかしラケスは、私の期待とは全く違うことを言いだした。
「一人で行かれるのでは? 今そのように伺ったばかりなのですが」
不意を突かれた私は、おそらく間抜けな顔をしていたのだろう。予想だにしないその裏切りの言葉が、友とも腹心とも思っていた彼から発せられたのだ。
「若……いえ、若様。今のお顔そのものが、旦那様の懸念をよく表しているのだと思いますよ」
「お前、今どちらの味方なんだ」
思わず振り返ると、ラケスはいつもの控えめな顔で立っていた。腹立たしいことに、少しも悪びれていない。
そのとき、父が机の向こうで深く息を吐いた。
――終わった……
あと一押しで父が許してくれると見込んだ私の目論見は、ラケスの余計な一言で脆くも潰え去ったようだった。あいつがあんなことさえ言わなければ、私の覚悟はもう少し立派に見えたはずだ。
しかし父は私ではなく、ラケスを見た。
「ラケス、お前がついて行ってくれるか? このボンクラを導けるか」
またしても、予期もしない言葉が父から飛び出した。
だが、ラケスは少しも嬉しそうな顔をしなかった。かといって、いやそうな顔でもない。
いや、むしろ最初からそうなることを予想していたように、ただ静かに頭を下げた。
「承知いたしました。私の力の及ぶ限り、若様を補佐させていただきます」
「ただし、これは我がトリウス家とは何の関わり合いもない」
父は一度だけ言葉を切り、机の封書に視線を落とした。
次に口を開いた時、その声は父親のものではなく、家を預かる者のものになっていた。
「この愚か者が勝手に家を出る。それだけだ。お前はその見張り役として、ついて行ってくれ。よいな」
「心得ております」
「父上、ちょっと待ってください」
「黙っていろ。勘当された者が口を挟むな」
「勘当されたのですか、私は」
「今勘当した。お前はもうこの家の者ではない。
お前に腹心を持つ資格があると思うな、たわけが」
あまりにも容赦がない。
ラケスは目を伏せていたが、肩がほんのわずかに揺れた。笑ったのではない、と本人は後に言い張ったが、私は今でも信じていない。
「我が家は人は出さぬ。援軍など以ての外だ。お前が一人で勝手に家を出て行く。どこへ行くかは我らは知らぬ。ただそれだけのことだ。
トリウスの名は……、まあ、お前が勝手に名乗るのは問題なかろう。所詮は紋章庁に名も無い家の名だ。誰も気にはするまい」
言い終わると、父は机の上の小さな鐘を鳴らした。
澄んだ音が、扉の向こうへ抜けていった。ほどなくして家令が入ってきた。普段であれば、私の身なりや授業をすっぽかしたことについて小言の一つも言う男だ。だがこの時ばかりは、父の顔を見るなり、何も言わずに背筋を伸ばした。
「金を用意しろ」
父の言葉に、家令の眉がほんのわずかに動いた。
「旦那様」
「すぐだ。奥の小箱を開けろ。商談用の銀貨袋も持ってこい。私の机の下段にある封金も出せ。こいつへの手切れ金だ」
言葉だけを聞けば、突き放している。
だが、父の指は止まらなかった。机の引き出しを示し、倉の鍵を命じ、馬屋へ走らせる者を選ばせる。その一つひとつが、私をこの家から追い出すための支度であり、同時に、私を死なせぬための支度でもある。
「馬を三頭出せ。二人の騎乗馬と荷駄馬だ。保存食と水袋も用意しろ」
「従者として、口が堅く馬の扱える者を一人選び、すぐに旅支度をさせろ。外套は厚手のものを選べ。夜は冷える。革袋に分けて金を入れろ。一つにまとめるな。落とせば終わる」
決めた後の父の差配はいつもの事ながら、恐ろしく手際が良い。父は私をボンクラ呼ばわりするが、これをいつも見せつけられていては反論の余地もない。
「ああ、お前が出て行った後のことは心配しなくてよいぞ。弟のヨアニスはお前と違って優秀だからな。むしろこの程度の手切れ金と引き換えに優秀な跡継ぎを挿げ替えられたのは、まさに天の配剤というものかもしれん」
もう言いたい放題言われてしまっているが、実際に我が弟は優秀なやつで、性格もよい。あいつさえいればトリウス家も安泰というものだ。
「それから」
父の視線が、部屋の隅へ向かった。そこには、古い剣が掛けられている。
曽祖父の代から伝わるものだと聞かされている。トリウス家の始祖が、アルトレウス家から下賜された剣。幼い頃の私は、その剣を見るたびに、自分たちの家にも確かに貴族の血が流れているのだと信じていた。
父はその剣の前まで歩いていった。壁から外す時、鞘金具が小さく鳴った。
長く飾られているせいか、革の一部は少し乾き、金具の縁にも鈍い曇りがある。だが、父はそれを雑には扱わなかった。片手で鞘を支え、もう片方の手で柄のあたりを確かめた。
その所作だけで、父がこの剣をどう思っているのかは分かった。
だが、父の口から出た言葉はまるで違った。
「これも持っていけ」
私は思わず目を見開いた。
「父上、それは――」
「うちは土弄りが本業なのでな。剣など壁に飾っていても畑の畝一本分の価値にもならぬ。邪魔な古道具を処分するまでだ」
そう嘯きながら、父は鞘を両手で持ち直した。
その瞬間だけ、父の背筋は、宮廷の儀礼に臨む者のように端正に伸びていた。
「始祖が、アルトレウス本家から下賜されたものだ」
* * *
帝国歴467年7月27日 朝
「父上の人を見る目も、存外あてにならないな」
私はラケスを横目に見た。
ラケスは地面に膝をつき、逃げた馬の跡を確かめていた。地面の硬さ、草の倒れ方、蹄の向き。そういったものを一つひとつ見ていたが、私の言葉を聞くと、素直に頭を下げた。
「申し訳ありません」
もう一人の従者が姿を消したのは、出立したその日の夜――半日と経たぬ頃のことだった。
正確には、夜が明けて目を覚ましたとき、そこにいるはずの馬の姿がなかったのだ。そして馬で運んでいた諸々の荷も消えていた。
水袋も、保存食も、替えの外套も、父があれほど手早く用意させた革袋も、馬に括りつけられていたものは根こそぎ消え失せていた。
残っているのは、私とラケスが肌身離さず身につけていた金品と、腰に佩いた短剣だけだ。いや、正確には父から持たされた古剣もある。あれだけは寝る時も抱えるようにしていたので、無事だ。
それが賢明な判断だと自画自賛していると、ラケスが「単に彼がこの剣に価値を見出せなかっただけでしょう」と私の鼻柱を折りに来た。
地面には、蹄の跡がいくつも残っている。草は踏み荒らされ、細い枝が折れている。
逃げた従者は自分が乗るための馬を盗んで行ったわけではない。彼は馬に乗れない。私とラケスが騎乗していた馬は単に逃がされていただけだった。私たちに追わせないために。
そして彼自身は荷駄馬を引き、荷ごと悠々と持ち去ったらしい。実に用意周到である。父が「目端の利く働き者を付けてやった」という言葉は、ある意味証明された。最悪の形で。
やがてラケスは立ち上がり、逃げた馬の跡が続く暗い林の奥へ視線を向けた。
「逃げ出す可能性が高いとは思っておりました。ですが、荷を持ち去るだけでなく、馬まで逃がすとは……そこまでは予想できませんでした。見誤りました」
「こうなると思ってたのか?」
「はい。あの者は出立前から、自分が選ばれたことに不満そうな顔でした。旦那様の命には従っていましたが、若様に同行する覚悟もその気もなかったでしょう」
「そこまで分かっていて、なぜ言わなかったんだ」
私は、ありったけの不満をその一言へ込めた。
「若はすぐ顔に出ますから……」
悪びれもせず、ラケスは淡々と言い添えた。
「こちらが警戒していると悟らせれば、あの者はもっと物騒な手段に出たかもしれません。
どちらにせよ、この程度で済んだのは不幸中の幸いです」
「……この程度、ねえ」
結果として、私たちは旅の冒頭でいきなり物資のほとんどを失ったのだ。そんなに楽観してよいものか。まあ父とラケスに口を酸っぱくして言われ、肌身離さなかった金品だけは無事だが……。
「彼も不安だったのでしょう。右も左も分からない世間知らずの若造についてゆくのが。東方の格言にもあります。君、君たらざれば、臣、臣たらず――ですね、若」
主君にとんでもないことを言い放つ不忠の家臣を持った我が身の不幸を感じながら、私はこれからどうすべきかに思いを巡らせた。
昨日まで十分すぎるほどの用意のあった食料も水もない。金だけはある。だが、この林の中では銀貨一枚を水一口に替えることもできない。近くの村がどこにあるのかさえ、私には分からない。
「腹が減ったな」
「まずは水を確保しましょう。腹はしばらく空いても歩けますが、水がなければどうにもなりません」
そう言うや否や、ラケスは歩き始めた。私は古剣を抱え直し、その後に続いた。その決断力たるや、もはやラケスが主人であるかのような錯覚さえ覚えるほどだ。
* * *
「止まってください」
ラケスが小声で警告し、同時に片手を横へ伸ばして私を制した。ラケスの視線は、水音のする方ではなく、その少し先へ向いている。
沢の向こう岸、倒れた木の陰。そこに、踏み荒らされた草がある。新しい。しかも一人や二人ではない。
私にもようやく分かった。水場には、先客がいる。ラケスは私に下がるよう目だけで告げた。
だが、その時にはもう遅かった。
「動くな」
低い声が、木々の間から飛んできた。同時に、右手の藪が揺れた。
姿を現したのは、髭面の男だ。衣服は泥と煤で汚れ、片袖には乾いた血がこびりついている。戦の敗残兵だろうか。その外見からはとても正規の兵、少なくとも騎士といったふうには見えない。
手には抜き身の剣。刃は私たちの胸元より少し低い位置に向けられている。すぐに胸を突ける位置だ。
私は思わず古剣を抱え直した。それが良くなかったらしい。強面の男の目が、より一層鋭くなった。
「その手を動かすな」
「待ってください。我々は水を求めて来ただけです。敵意は――」
ラケスの言葉が、不意に途切れた。私の首筋に、冷たい硬質な何かが触れたからだ。
草を踏む音も、微かな息遣いすらも聞こえなかった。いつ、どのようにして背後を取られたのか、まったく見当がつかない。ただ、認識したときには、鈍い銀光を放つ刃が喉の横へ押し当てられ、身動きを封じられている。
「敵意があるかどうかは、こちらで判断する。どうだ、グレゴリウス」
正面の山賊とも傭兵とも見分けのつかない強面が、私の背後――喉元に刃を押し当てている男へと声をかけた。そのときになって初めて、他にも人の気配があることに気が付いた。正面の男の背後にも、さらに左右の草むらからも、音もなく人影が滲み出してくる。私とラケスという二人の素人は、敵が姿を現すはるか前から、完全に取り囲まれているのだ。
「若、動かないでください」
ラケスが押し殺した声で言った。
だが、彼の心配は杞憂だった。そもそもこの状況で暴れるなどという蛮勇を、私は持ち合わせていない。
背後の男の動きには、一切の淀みもない。
喉元の刃が離れる――そう思った瞬間、右手首を掴まれ、背後へ容赦なくひねり上げられた。
激痛に息を詰まらせると、膝裏を払われた。身体が前へ崩れ、受け身を取る間もなく地面へ押し伏せられる。肩甲骨の間へ膝を当てられ、身じろぎ一つできない。
男は私の両手首を背後で交差させて片手で強固に握り込み、そのまま私の背中に膝を乗せるようにして、冷たい地面へと一気に押し潰した。
「本当に二人だけのようだ。見たところ、傭兵の類ではなさそうだが……」
私の身動きを完全に封じてから、私を制圧しているグレゴリウスと呼ばれた男は、ようやく山賊面の男に答えた。
「……まあ、たしかに戦場慣れした者の動きとはいえない間抜けさではあったな」
山賊面の男の私たちへの見立てはあまりにも容赦ないのだが、実際に間抜け面で地面に突っ伏していたので、反論の余地もない。
「君、名前は。どこから来た」
私を押さえつけている男の声には、正面の山賊面の男のような粗野さがない。無駄のない言葉の響きと、濁りがなく郷土の訛りなど微塵もないその発声から、品格のようなものが感じられた。
それにつられたわけでもないが、私はなぜか、その問いに対して真摯に答えなければならないという錯覚のようなものを覚えてしまった。
「ここから南東、ルシオン郡トリウス荘園から来ました。パトリシウス・オ・トリウスです。アルトレウス家の危機を聞き、援軍に――」
「若!」
「あ……」
ラケスの声で、ようやく私は自分が何を口走ったのかに気づいたが、もう遅い。そもそも彼らが誰で、どの陣営に属するのかも分かっていない。それなのにトリウス家だの援軍だの、アルトレウス陣営側だと自分から名乗り出てしまっている。
「トリウス?」
だが、私の返答にすぐに反応したのは、正面の山賊でも、後ろの紳士でもなかった。
これまで聞こえていた太く低い男たちの声とは、まったく質の違う、高い声だ。ただ、疲労のためか、いまは少しかすれている。それでも声の芯までは失われてはいない。
声の主は、髭面の男の斜め後ろ、倒木の陰に立っていた。
赤褐色の、それほど長くない髪。遠目には少年とも見紛うような、小柄な姿だ。私はその人物を見た瞬間、言葉を失った。
私はその女性を知っている! 忘れるはずがない。
「フェリシア様!」
「誰?」




