第34話 エピローグ⑤ ~君、君足らずとも(1)~
あの頃の自分がどれほど世間知らずであったか、当時の私は少しも理解していなかった。
いや、理解しているつもりだったのだ。だがそれは、若さ特有の傲慢な錯覚に過ぎなかった。
常に私の側にいたラケスは、私の浅はかな言動を容赦なく見咎め、その都度、苦言を呈した。当時の私には、それがまるで、彼が私を窘めることを生きがいにしているのではないかと邪推したくなるほどだった。
それに対する私の態度といえば、「寛大に聞き流してやるのが友としての礼儀」とばかりに、まともに耳を貸そうともしなかった。
しかし実際には、真に寛大であったのも、私が道を踏み外さぬよう手綱を握り続けてくれたのも、彼の方だったのだ。
今更そのことを持ち出して反省の弁を述べても、彼は「何のことです? 昔のことはすべて忘れてしまいましたよ」と、平然と嘯く。
忘れるはずもない。
ラケスは、私が若い頃に言い間違えた神官の名でさえ、必要とあれば今でも正確に持ち出してくるのだから。
今こうして私が手記を綴っていられるのも、すべては彼が繋ぎ止めてくれた命のおかげだ。
ゆえに、この手記の最初の頁に、彼の名を深く刻んでおかねばならない。
だが、私はあの無知で世間知らずだった過去の自分を、些かも悔いてはいない。
無知とは、時に人を大胆にさせる。
あの時、無知蒙昧としか言いようのない若造であったからこそ――私は、あの家に定められた立場から飛び出すことができたのだ。その蛮勇に、そしてその後に巡り合えた幾多の幸運に、いまはただ、深く感謝している。
パトリシウス・オ・アウグストゥス・トリウスの手記より
* * *
「ここだと思いましたよ。若様」
至福の時間は、あまりにも短い。
声の方へ目を開けると、予想通り、ラケスが木陰の外に立っていた。しかも、これまた予想通りのあきれ顔だ。
昼下がりの仕事始めを告げる鐘の音は、つい先ほど鳴り終わったばかりだというのに。
「今、私は人生においてとても重要なことを実践しているんだ」
「お昼寝ですよね」
「昼寝を侮るなよ。寝不足は体に良くないんだ」
「昨夜もいつも通りの時間にお休みになった上に、今朝はいつもより遅めのお目覚めでしたよね」
「……」
彼は私と同い年で、父上に仕える家の子だ。幼い頃から私の側に置かれている。遊び相手であり、護衛見習いであり、時には口うるさい目付役でもある。
整った顔立ちをしているが、表情はいつも控えめだ。背は私より少し高く、立ち居振る舞いにも無駄がない。
剣を取れば私より強く、馬に乗せても私より巧い。そのうえ計算もでき、文字も読める。幼い頃から隣に置かれる者としては、嫌味なことこの上ない。
そのくせ、こと《《私への忠誠心》》となると、いささか希薄だと言わざるを得ない。少なくとも、私の怠惰と安眠に対する配慮が皆無というのは、主君への配慮がいささか欠けるのではないか。
その上、私の企みを必ず暴き、どこへ逃げるかを正確に読み切って先回りして来るとは……。
もはや忠臣というより、よく訓練された牧羊犬である。
「何故お前が、そんな無粋なことを言うのか。それだけが分からない。草は香り、雲は風に流れ、空はこんなに青く美しいというのに」
「物語の一節のつもりですか? 実際の情景を見た者がいれば、おそらく泣きますよ。時間を無駄にした、と」
主従というには気安く、友人というには少し口うるさい。
誠に困った奴だ。
「今日の授業は何か知っているか」
「農事論の実地講義です」
「あの先生さ、実地って言葉の意味をちゃんと理解してないと思わないか。何故実地と名がつくのに、屋敷の中での講義なんだよ。おかしいだろ」
「最初に講義で基礎を学び、それから畑へ出るはずだったのです。若様がいつも逃げ出すので、いつまで経っても実地にたどり着けないのですが」
そのとき寝転がっていた丘の木陰は、私のお気に入りの場所だ。
木陰が広く、昼寝に適している。だが理由はそれだけではない。ここからは、荘園の大半が見渡せるからだ。
東には父上の屋敷があり、白い壁と赤い瓦屋根が、夏の日差しを受けてやや眩しく光っている。屋敷の周囲には石垣と低い防壁がめぐらされている。
しかしこれは、隣国などの兵と一戦交えるためのものではない。蓄えた収穫物や金品といったものを野盗などの襲撃から守るためのものだ。
父は「この程度の備えは豪農の嗜み」と言っている。
私は父のこの言葉が好きではない。豪農の嗜みというのはつまり、自分たちは貴族ではないと認識している、ということに他ならない。
西側には麦畑が広がっている。穂はまだ青みを残し、風が通るたびに波のように揺れている。畑のあいだを細い水路が走り、そのさらに向こうでは農夫たちが腰を曲げて作業をしている。
南には葡萄棚が続き、ところどころに見張り小屋と倉庫が見える。父上が近年力を入れている区画で、帝都の商家に卸す酒の原料になる。これについては私も多少知っている。
なぜなら、葡萄酒は高貴な者の嗜みなのだから。そして、酩酊して屋敷に戻って、父上にこっぴどく叱られたことは、一度や二度ではない。
これらの田園はすべて、三代前の曽祖父が、アルトレウス家による帝国中央への口利きと本家の資金を得て開いた、我がトリウス家の荘園だ。
だが、領地ではない。ここは帝室の直轄領であり、我らはそこに根を張ることを許されたに過ぎない。
我がトリウス家は、帝室にも連なる七家の一角、高貴なる血筋を受け継ぐアルトレウス家の分家であるにもかかわらず、だ。
剣術の授業は好きだ。まさに貴族が嗜むべき重要な技術の一つだ。
だが、傭兵崩れで、屋敷の用心棒を兼ねる剣術教師に言わせれば、「これは護身術ってもんで、剣術というほど大層なものじゃありませんよ」という。それならそれで、本物の剣術を教えてほしいぐらいだ。
馬術も好きだ。ただ、ラケスの方がかなりうまいのが気に入らないが、まあ仕方ない。
アルトレウス家の分家筋としてこれらを学ぶことは非常に有意義だ。
だが農事論というものにはそれらに比べ、どうしても力が入らない。いや、これも大切であることくらい、私とて理解しているのだが……。
「先生には悪いが、今日は体調が優れないことにしよう」そう言いかけた時だった。
遠くから、蹄の音が聞こえた。
私は何気なく丘の下へ視線を向ける。だが、すぐにその音の違いに気づいた。
そのあまりにも速い蹄音。人馬の動きもいつもとは違う。馬上の人影は、すでに脚が上がりきらなくなりかけた馬を、それでもなお追い立てている。
あの走らせ方はただ事ではない。
この荘園の前を通る道は、帝都へと続く脇街道だ。そこに使いを出す小綺麗な商人たちなら、あのような無茶な御し方は絶対にしない。あれでは、屋敷に着く前に馬を潰しかねない。
ラケスも気づいたのだろう。私を立たせようと腰帯に伸ばしていた手が止まった。
丘の下の道を、猛烈な土埃を巻き上げて、件の騎馬が駆け抜けてゆく。
騎手の横顔が、ほんの一瞬だけはっきりと見えた。見覚えがある。あれは父の得意先である、帝都商家の使いだ。
いつもなら馬上でも衣の乱れを気にかけ、取次の者にも丁寧な礼を崩さない、冷静で人当たりの良い男だ。
その男が今、馬の口から溢れる白泡も気にせず、なりふり構わず、屋敷へ向かって馬を走らせている。
――あれは間違いなくうちの屋敷へ向かっているな。
「若様」
ラケスの声が低くなった。
「戻りましょう」
「そうだな」
私は頷いた。
それから、少しだけ口元を上げた。
「こちらの方が面白そうだ」
ラケスは、心底嫌そうな顔をした。彼にしては珍しく、実に分かりやすい表情だ。そんな彼に、私は追い打ちをかけるように言葉を続けた。
「ああ、それからラケス。お前はもう少し、主君の心に寄り添うということを覚えた方がいいぞ。せめて、昼寝より面白そうなものを見つけた時くらいはな」
ラケスは呆れたように私を見たが、もう何も言わなかった。
* * *
「お前は、何を言っているんだ」
父はあきれ果てたように、片手を広い額に当てて顔を歪めた。
昨晩まで完璧に整合していた帳簿の数字が、朝になって突然、無意味な羅列へ変わっていた――そんな怪異に出くわしたなら、父はきっと今と同じ顔をするだろう。
だが、それが解せない。
なぜ、その顔を私に向けるのか。
アルトレウス家の危機に、我がトリウス家も兵を出すべきだ。
貴族として、一門として、これ以上なく美しく、筋の通った大義名分。少なくとも、この時の私は、己の言葉の完璧さを微塵も疑っていなかった。
そしてその先頭には、継嗣たるこの私が立つ。
言葉にしてみれば、実に立派な決意ではないか。それはもう、物語であれば誰かが拍手の一つもしてくれそうな場面である。
少なくとも、言った本人である私はそう思っていた。
だが父は、未だに額に手を当て続けたまま、深く息を吐いた。
机の上には、先ほどの使いがもたらした封書が残されている。赤黒い封蝋は無惨に割られ、上質な紙の端には、開く際に父が指先に込めただろう、歪な皺が寄っている。
商家の使いの姿は、もうその部屋にはない。
彼が運んできたのは、アルトレウス領を囲む不穏な断片の数々である。
帝国巡検隊による街道の封鎖。突如として現れた、あの小領主ドロミアの分不相応な軍勢。
周辺を荒らし回る西方の傭兵団と、その陰に紛れ込んだセヴァリス王国兵の気配――。
それらの断片を集約すると、答えは一つしかない。アルトレウス家の危機である、ということだ。
「で、もう一度言ってみろ」
父は、机の上の封書と私とを交互に見比べながら、低く問いただした。あきれ果てた声音のさらに奥には、私にはまだ正体の掴めない、鋭い苛立ちが潜んでいる。
「ですから、今すぐ兵を挙げてアルトレウス領へ援軍を差し向けるべきです」
「お前は、我が家を何だと思っている」
「我がトリウス家は、アルトレウスの血を引く分家です!」
私は己の正義を信じて声を張った。
「本家が危機にあるときに、身を潜めて座視するなど――」
「我が家はすでに、貴族家ではない!」
怒号が部屋の空気を引き裂いた。
「っ……!?」
「貴族でもない者が勝手に武器と人を動かす。それは農民反乱というのだ!」
父が反対することは予想していた。危険だから動くな、と言われるものと思っていた。
だが、違った。父は、我が家には動く資格そのものがないと言ったのだ。もっとずっと根底の方から、自分の、自分たちの存在を否定するような言葉だった。
「農民、反乱……」
私はその言葉を、うまく飲み込めなかった。
父はすぐには答えなかった。
広い額に当てていた手を下ろし、机の上に置かれた封書へ視線を落とした。割れた封蝋の欠片が、紙の端で小さく転がっている。父はそれを指先で押さえたが、拾い上げはしなかった。
その仕草が、妙にゆっくりとして見えた。
「そうだ」
父は、先ほどよりも低い声で言った。
「ですが、我が家は――」
言いかけて、言葉が止まった。アルトレウス家の分家。そう続けるつもりだった。
だが、父の顔を見た瞬間、その言葉が喉の奥で引っかかった。父は怒っている。怒っているが、それ以上に、何かを諦めさせようとしている顔だ。
「我がトリウス家が、先々代のアルトレウス家から枝分かれした血筋であることは事実だ。オ・トリウスという名乗りも許されている。
だが、それは本家の威光によって許された名に過ぎん。帝室儀典紋章庁が管理する帝国貴族録に、我がトリウス家の名はない。実際に我が家にあるのは、荘園と倉と葡萄棚だけだ。
軍旗も召集権も持たぬ田舎の名士が、勝手に人を集めて武器を持たせればどうなる。それは援軍ではない。農民の武装蜂起だ。
パトリシウス、お前は見たくないものから目を背けているに過ぎないのだ」
「背けてなど――」
「お前は剣を習えば貴族に近づくと思っている。馬に乗れれば、名を取り戻せると思っている。アルトレウスの血を引くと言えば、この家が昔の場所へ戻れると思っている。だが現実は違う。お前自身、本当はそれを知っているはずだ」
そこまで言って、父は一度口を閉じ、部屋の隅に掛けられた古剣へ視線を向けた。
その剣に視線を向けた父は、これまでよりもずっと声を落とし、呟くように言葉を絞り出した。
「……もちろん、お前がその名に誇りを持つことまで、否定はせんがな」
胸の奥に、容赦のない事実が突き刺さった。父の言葉は、どれ一つとして的外れではない。
それでも、ここで引くわけにはいかなかった。
たとえ父の言うことが正しく、そしてそれが自分自身で分かっているとしても。
私は助けたい。二年前に父に連れられて訪れたあの館を。代を重ねた今でも、同じ血を引く者として、私を迎えてくれた人々を。
そして、あの時、何の含みもなく笑いかけてくれた一人の少女を。
「父上のお考えは分かりました。しかし私は参ります。たとえ一人であろうとも」
言い切った瞬間、部屋の中が静かになった。
父は押し黙り、ただ私を見ていた。
その目に浮かんでいたものを、この時の私は勝手に怒りだと思った。あるいは、呆れだと。だが今なら、少し違うものではないかと思う。
今にして思えば、父はあの沈黙の間に理解したのだろう。目の前の息子が、どうあっても自分の決めた道を変えるつもりがないことを。
「お前のような世間知らずが戦場に赴いても、すぐに死ぬだけだぞ」
父は、身体の熱をすべて吐き出すような、深い息をついた。先ほどまでの前のめりな姿勢を解き、椅子の背へ深く身を預けた。
「死ぬつもりはありません」
「死ぬつもりで戦場へ行く若造などおらぬわ。それでも戦場では若いお前みたいなやつから死ぬ。その程度の覚悟で、戦場へ向かうなどと言うな」
「それでも、行きます」




