第33話 エピローグ④ ~棄てられた火(2)~
残る確認とは、旧領内に残る神殿ならびに信仰の扱いについてだった。
ガルシアの声音は落ち着いていた。だが、書付で顔を隠すような仕草と、読み上げる速さのわずかな違いに、ハインリヒは先ほどにはなかった急ぎ方を感じ取っていた。
「旧領内に残る神殿ならびに信仰の扱いについてでございます。こちらも当初の約定では、これまで通り、領内に残るイグニズ教徒の信仰は黙認されるものと――」
そこでニコラウスの目が、わずかに動いた。ヒエロニムスもまた、初めてはっきりと顔を上げた。
この項目が彼らにとって最も重要であり、その反応はむしろ当然といえた。
だが、皇太子の表情に浮かんだものは、彼らの安堵とは違っていた。不快と呼ぶにはあまりに薄い。だが、眉の奥に微かな陰が差したのを、ハインリヒは見逃さなかった。
ガルシアもまた、それに気づいたのだろう。
しかし彼は、皇太子へ確認を求めなかった。むしろ、そこに触れぬことこそが肝要だとでもいうように、書付へ視線を落としたまま先を急いだ。
「以上の通り、この件につきましても当初の約定に従い、従来の扱いを維持するものとして処理いたします」
ニコラウスとヒエロニムスの表情には、安堵の色が滲んでいた。
だがハインリヒだけは、ガルシアが今、意図的に何を避けたのかを敏感に感じ取っていた。
ガルシアはそこで書付を閉じかけた。
「では、他に確認すべきことがなければ、本日の協議は以上として――」
ニコラウスとヒエロニムスは、あまりに性急なその言葉に驚き、一瞬だけ互いの顔を見合わせた。
とくにヒエロニムスは、思わず半歩、前へ出かけ、すぐに慌てて姿勢を戻した。
まだ伝えるべきことがある。とっさにそう言い出そうとしたのだろう。だが、ここは次期皇帝たる皇太子の御前である。地方神官の身で、不用意に声を挟める場ではなかった。
ハインリヒは、彼らの様子と小さな仕草を、ひとつとして見逃すまいと神経を研ぎ澄ませていた。すでにこの場では傍観を決め込んでいる。だが、ただ見ているだけではない。
今この場にいるすべての人物の立ち位置と、その遠近。誰が誰に近く、誰から離れつつあるのか。ハインリヒは、それをこの場で見定めようとしていた。
そんな各人の思惑の齟齬に満ちた空気を置き去りにするように、不意に、鋭い声が上座から落ちた。
「待て」
その短い声に、ガルシアの手が止まった。その指先は、ほんのわずかに震えたようにも見えた。俯き加減の姿勢のせいで、その表情まではハインリヒからうかがえない。
ニコラウスとヒエロニムスは、一瞬、救われたように顔を上げかけた。だが、皇太子の視線は、彼らが期待したものとは別のところに向いていた。
「そちらの者は見ぬ顔だな」
皇太子は、ヒエロニムスを見ていた。
問われたニコラウスは、すぐに頭を垂れた。
「――畏れながら、殿下。御前にてご紹介が遅れました非礼をお許しください。こちらは旧アルトレウス領の神官長、ヒエロニムス・ペルガモンコスにございます」
名を呼ばれたヒエロニムスもまた、深く首を下げた。老いた神官の背は、帝都の高位神官たちのように堂々としてはいない。だが、その礼には、長く土地の信仰を預かってきた者にしかない慎みがあった。
そして、彼は頭を垂れたまま、慎重に口を開いた。
「此度は恐れながら、戦の折に焼失いたしました、旧アルトレウス領の神殿につき、再建のご助力をお願いいたしたく、御前にまかり越しました」
皇太子の表情が、ほんのわずかに曇った。再建、という言葉を聞いた瞬間だった。
それは怒りというほど明確なものではない。だが、神殿という言葉に向けられるには、あまりに冷たい陰だった。
ハインリヒには、その表情の動きが、こう告げているように見えた。
――ああ、そのことか。
ヒエロニムスは、それに気づかなかったのだろう。あるいは気づいていても、口にせずにはいられなかったのかもしれない。
「かの地に残る民にとって、神殿はなお、祈りの拠り所にございます。焼け跡のまま捨て置かれれば、領民の心もまた――」
「再建の必要はあるまい」
皇太子は、静かにそう遮った。
あまりに平然とした一言だった。ヒエロニムスの言葉が、その場で行き場を失った。
皇太子は、もう彼を見ていなかった。視線はニコラウスへ、ガルシアへ、そしてハインリヒへと順に移っていく。
「よい機会だ。そなたらにも、ここで話しておこう」
皇太子は、上座に腰を下ろしたまま、謁見の間にいる者たちを見渡した。
「帝国は、もはや古き信仰に縛られている時ではない。聖光教を国教として迎え、西大陸諸国と同じ信仰のもとに立つ」
皇太子の声には、いささかの迷いもなかった。
その貌には、凄惨な変革を口にしている者特有の暗さは微塵もない。むしろ、長く閉ざされていた道をようやく見出した者のような、奇妙な明るさすら浮かんでいた。
それが、ハインリヒには心の底から恐ろしかった。まるで死者が無邪気な笑顔のまま生者の手を引き、冥界の主ハデスの御前へ差し出そうとしているかのようだった。
「陛下にも、いずれご裁可いただくことになる。だが、その道筋は今から整えねばならぬ」
誰も、すぐには言葉を発しなかった。いや、あまりの衝撃に、声を上げることすらできなかったと言う方が正しい。
「ラティウムの教皇庁はいずれ、聖地奪還を掲げて聖討軍への参集を号令するであろう。西大陸の諸王が聖光の旗の下に集うならば、帝国もまたその列に加わらねばならぬ」
皇太子は、そこでわずかに身を乗り出した。
「彼らは聖地を奪い返す。我らは海峡の向こう、東大陸に失われた旧領を取り戻す。大義は一つになるのだ」
その目は、もはや謁見の間にいる者たちを見ていなかった。まだ形にもなっていない遠征の軍旗と、海峡の向こうに広がる旧領を、すでにその瞳の奥に見ているかのようだった。
「聖光教徒として新たに帝国を立て直し、西大陸との連携をもって、海峡の向こうに失われた東大陸の旧領を奪還する。古き帝国の栄光を再びこの手に取り戻すには、それ以外に道はない」
* * *
「ガルシア殿」
謁見の間から二つ回廊を隔てた控えの間。その重い扉が背後で閉じる音が響くのとほぼ同時に、ニコラウス・オ・ソラリスがガルシアへ詰め寄った。
「今のは、どういうことでしょうか」
声は低かった。だが、そこに含まれた怒気は、もはや隠しきれていなかった。
それに対し、ガルシアは答えなかった。先ほどから手にしている書付を閉じもせず、ただ視線だけをそこへ落としている。
「あなたは、ご存じだったのですか。殿下が、あのようなことをお考えになっていると」
「……殿下が、西大陸との融和を重んじておられることは承知しておりました」
ガルシアは、そこで一度言葉を切った。
「ですが、あそこまで明確に国教の変更まで口にされるとは、私も――」
「融和」
ニコラウスの声が、そこでわずかに震えた。
「今の言葉を、融和とおっしゃるのですか。帝国の国教を捨て、聖光教へ改めるなど――それを知ってなお、あなたは我ら神殿庁をあのような暴挙に巻き込んだのですか」
ガルシアの眉間にしわが寄った。いや、顔全体をこわばらせたようにも見えた。だが、顔は俯いたままだ。
「我らに、死ねと言うのですか!」
その一言に、控えの間の空気がさらに重く沈んだ。普段の温和なニコラウスからは想像もできないほど、強い非難を帯びた声だった。
ニコラウスは神殿庁の長官である。七家の一角、ソラリス家に連なる者であり、帝国の宗教行政を担う立場にある。その彼が、そこまで露骨な言葉を口にすることは、本来ならば軽率といってよい。
だが、今の皇太子の言葉は、彼から軽率を責める余裕を奪っていた。
ハインリヒは、広くもない控えの間の色が、ひとつ失われたような錯覚を覚えた。灯籠の明かりは変わらず揺れている。だが、先ほどまでそこにあったはずの温度だけが、どこかへ消えたようだ。
「殿下は、我らテュリンギ人の立場などに興味もないのでしょう」
今度はハインリヒが静かに口を開いた。
ニコラウスほど声を荒げてはいない。だが、その声は冷えていた。
「それは、先ほどよく分かりました。ですが、ガルシア殿。あなたまで、そのような認識でおられたのですか」
ガルシアの手が、書付の端を押さえた。
「セヴァリスとの取り決めには、旧帝国領に残るテュリンギ人の扱いに配慮する旨を入れたはずです。それを足掛かりに、西大陸諸国へも働きかける。そういう話であったはず。
ガルシア殿、あの取り決めをまとめたのは、あなた自身ではありませんか」
ハインリヒの声は、なお静かだった。
「ですが、それは帝国がイグニズの信仰を守ったまま、西と融和するからこそ成り立つ話です。帝国そのものが聖光教に膝を屈するなら、我らは融和の橋ではなく、ただ差し出される棄教者になる」
ガルシアは答えなかった。
「我らが聖光教に戻れぬことは、ご存じだと思っておりましたが」
聖光教にとって、テュリンギ人はただの異教徒ではない。
かつて西方から逃れ、傭兵としての戦力を必要としていた帝国の求めに応じ、この地へ身を寄せた者たちである。やがて彼らは、イグニズの火の下で生きることを選んだ。
西大陸の者たちから見れば、彼らは棄教者であり、裏切り者の末裔だった。許されざる者。あるいは、滅ぼされるべき者たちである。
皇太子は、おそらくそのような事情までは考慮に入れていない。いや、眼中にすらないのだろう。
だが、ガルシアならば知っているはずだった。旧帝国領の各地で、テュリンギ人がどのような扱いを受けているのかを。そしてセヴァリスとの密約を、実務として取りまとめた当人でもあるのだから。
「……その点については、殿下にもいずれ申し上げるつもりでした」
「いずれ、ですか」
ハインリヒは短く繰り返した。
それ以上は言わなかった。言えば、今この場で決定的に何かが壊れる。そう判断したからだった。
その沈黙の中で、ヒエロニムスだけが、まるで別の場所に取り残されたように立っていた。
老いた神官は、先ほどからほとんど瞬きもしていない。
「……あの……では」
かすれた声が、ようやく漏れた。
「神殿は、どうすればよいのでしょうか」
誰もすぐには答えられなかった。
「すべて焼け落ちました。何も残っておりませぬ。祭壇も、神像も、寄進帳も、領民らが長年かけて直してきた壁も、梁も、すべて……。再建の費用の当てもございませぬ。帝都神殿庁からのご助力をいただけぬなら、私は、いったい何をもってあの地へ戻ればよいのでしょう」
その問いは、皇太子の大計とも、西大陸との外交とも、テュリンギ人の生存とも違う場所から出ていた。
焼けた神殿。祈る場所を失った領民。そして、その前に立たねばならない神官。ヒエロニムスにとって、世界はまだそこにあった。
ガルシアは、ようやく書付から目を上げた。
「旧アルトレウス領の神殿は、華美とは無縁の、質素な神殿であったと聞いております」
その声は、それまでの敢えて事務的であろうとする声ではなかった。むしろ、珍しく本音で相手に語り掛けるようでもあり、努めて現実的であろうとしている声にも聞こえた。
「ならば、まずは現地で布施を募り、領民とともに、少しずつ建て直す道もございましょう。初めからすべてを戻そうとせず、祭壇一つ、屋根一つから――」
「それは……!」
ヒエロニムスはそれまで俯き加減だった姿勢をびくりと震わせ、そしてゆっくりと首を振った。
「それは、もう……私には」
そこで言葉が途切れた。
「私には、できませぬ」
ガルシアは眉をひそめた。だが、問い返す前に、ニコラウスが目を伏せ、その後を引き取った。
「あの時、神官長らをあの場から退かせたのは私です」
声には、苦いものが滲んでいた。
「あの灰狼の異教徒どもが入る前に、神殿から退去するよう命じました。神官たちを、その場に残すのは危険だと判断したのです」
ガルシアはおそらく、神官たちを最後まで旧領に残し、領民と傭兵団の間を神殿に取り持たせることを漠然と考えていたのだろう。だがニコラウスは、神官たちと傭兵団が鉢合わせる危険を重く見た。
部下を守るための判断だった。
その判断は、間違ってはいない。少なくとも、神殿が焼かれたという結果だけを見れば、危険は現実にあったのだと分かる。だが――。
ハインリヒには、ヒエロニムスがなぜ言葉を失ったのか、おおよその察しがついた。
領民から見れば、神官はさっさと逃亡し、神殿は文字通り消え去った。
館が燃え、領主家が倒れ、民が混乱の中に置かれたその時に、その場にいなかった神官に、かつてと同じ信頼は寄せられないだろう。あるいはすでに領内の民の間には、神官は敵方と通じていたのだという噂が駆け巡っているかもしれない。こういう時の民草の目は鋭いのだ。
彼らにどれほど正当な理由があろうと、どれほど危険を避けるためであろうと、残された民の目にどう映るかは別の話だった。
焼けた神殿を建て直すことはできる。金と人手と時間があれば、建物はいつか戻る。
だが、一度失われた信頼は、祭壇を据え直しただけでは戻らない。
「私が幾ばくか出しましょう……それでも必要な分には、到底届かぬでしょうけれども」
ニコラウスが、静かに言った。
七家の一角であるソラリス家、帝国の宗教行政を預かる名家の者が口にするには、あまりに小さな申し出だった。その佇まいは、到底、十分な額には届かぬことを恥じ入っているようでもあった。
ハインリヒはその意味を理解していた。
ニコラウスは、神官としては真っ当すぎた。権威を金に換えることに長けず、利権を囲い込むことにも向いていない。ソラリス家の名と神殿庁の権益は大きい。
実際、今回も神殿庁は旧アルトレウス領における荘園権益の分配を受けている。
だが、それを実際に握っているのは、彼の周囲にいる一門とその取り巻きだ。
今、彼が差し出そうとしている金は、おそらく彼自身の手元に残る、わずかな私財から出るものなのだろう。
ハインリヒは、ガルシアへ視線を向けた。
ほんの短い目配せだった。
ガルシアは、その意味を理解したようだった。ひとつ息を吐き、ヒエロニムスへ向き直る。
「……我らからも、幾ばくか布施を出しましょう。十分ではありますまいが、何もないよりはよい」
ヒエロニムスから、礼の言葉はなかなか出なかった。彼は言葉の代わりに深く、深く頭を下げ、それに応えた。
その姿を見ながら、ハインリヒは胸の内で静かに結論を下していた。
ガルシアはまだ、話の通じるまともな感覚の持ち主だ。ニコラウスもまた、宗教貴族には珍しく善良であり、それでいて決して愚かではない。
だが――
――この陣営は駄目だ。
担いだ神輿が勝手に跳ね回り、担ぎ手にすら制御できていない。
このままこの陣営に身を寄せたところで、我らテュリンギ人の未来に何ら助けとはならない。
ハインリヒはその確信を胸に、冷ややかに彼らを見限った。
そして、神殿を失ったヒエロニムスの、力なく伏せられた背中へ視線を落とす。
寄り添うべき領民を見捨てた神官が、かつての信を失う。それは何ら不条理でもなく、むしろ必然といえた。
そしてその無惨な姿は、そのまま鏡のように、ハインリヒ自身の現在を映し出していた。
アルトレウス家は、同じ帝国人として受け入れ、婚姻によって結び、有形無形に支えてくれた数少ない盟友だ。
その手を、テュリンギ人の未来のためだと称して自ら振り解いた。
ただ、彼らは『テュリンギ人ではない』『我らが庇護すべき対象ではない』ということを言い訳にして。
その結果、ニコメディア家先代が、テュリンギ人の為という大義名分のもとに、娘や孫を失うことを強いられた。
それにもかかわらずテュリンギ人の未来に何ら良い結末を得られないどころか、破滅への刻をさらに早めかねないこの状況に陥っている。
そのすべてが、ハインリヒ自身の主導したことだった。
寄り添うべき時に姿を消した神官が、二度と信頼を取り戻せない。
それらが、これからハインリヒ自身に突きつけられるであろうものと重なって見えた。
一度失われた信頼は、祭壇を据え直しただけでは戻らない。
それは神官だけの話ではなかった。
それでも彼は、外面だけはまるで他人の傷を眺めるような冷ややかな仮面で装い、ただヒエロニムスの項垂れる背中を見つめていた。




