第32話 エピローグ④ ~棄てられた火(1)~
謁見の間へ向かう回廊の途中で、侍従長ハインリヒ、神殿長官ニコラウス・オ・ソラリス、そしてアルトレウス領の神官長ヒエロニムスの三人は、一人の男とすれ違った。
西大陸風の外套をまとったその男は、道を譲るように脇へ退くと、片手を胸に当て、異国風の礼をした。
礼は丁寧だった。だが、その視線が一瞬、ニコラウスとヒエロニムスの方へ向けられたように、ハインリヒには見えた。
ニコラウスの表情が、わずかに険しくなる。
その変化に気づいたのだろう。ヒエロニムスは一拍遅れて足を緩め、すれ違った男の背へと視線を向けた。顔を知っている様子ではない。だが、ニコラウスの反応だけで、何かを察したようだった。
「今の者は」
ハインリヒがニコラウスに問うと、彼は前を向いたまま、短く答えた。
「あれが例の灰狼の団長、ドラガン・ステファノヴィッチです」
* * *
謁見の間に入ると、奥の上座には皇太子ステファノス・アレクシオス・アウグストゥスが腰を下ろしていた。
その右手側、上座から一段下がった位置には、ガルシア・オ・トレオルが陪席していた。壁際には皇太子付きの側近たちが無言で並んでいたが、人数は多くない。
広い石床の中央で、侍従長ハインリヒ、神殿長官ニコラウス・オ・ソラリス、そしてアルトレウス領の神官長ヒエロニムスは、そろって足を止めた。
その場で一拍を置き、三人は膝を折った。衣の裾が石床に触れ、深々と首を垂れる。皇太子に対する拝謁の礼だった。
「面を上げよ」
皇太子の声は短く、抑揚も薄かった。
許しを与える言葉としては十分であり、礼を受ける者としての形式も外れてはいない。だが、その声音には、相手を迎え入れる温度が感じられなかった。ハインリヒは膝を折ったまま、わずかに目を伏せる。
儀礼に従い、しばしの間を置いてから、三人はようやく顔を上げた。皇太子はなお、彼らを見下ろしたまま何も言わなかった。
その沈黙を受けるように、ニコラウス・オ・ソラリスが静かに口を開く。
「本日は、旧アルトレウス領の戦後処理につき、改めて確認いたしたく参上いたしました」
その言葉に応じたのは、皇太子ではなかった。
「セヴァリス側との約定の件ですな」
代わって答えたのは、皇太子の右手側に陪席していたガルシアだった。
旧アルトレウス領をめぐる一連の手筈を整え、その後始末の実務を取り仕切ってきたのは、この男である。
「まず第一に、旧アルトレウス領はセヴァリス本国の直轄地とはしない。この点については、当初の取り決めより変更ございません」
ガルシアの言葉に、ニコラウスがわずかに顎を引くのをハインリヒは見ていた。
それは帝国の版図の一部を失うということを意味した。だが、形の上では敵国に領土を奪われたという訳ではない。あくまで新たな領主への移譲――そういう名目で、この場の者たちは己を納得させている。
実際にセヴァリス本国の直轄地となるか、名目上とはいえ独立領主に委ねられるかでは、意味が違った。
直轄地となれば、そこはセヴァリスの施政と徴税、そして彼らの兵がそのまま及ぶ前進拠点となる。だが、傀儡であろうと独立領主の領地に留まるなら、少なくとも一枚、隔たりが残る。
中立の緩衝地帯と呼べるほど確かなものではないにせよ、帝国にとっては、安全保障上受け入れられる最低限の防波堤ではあった。
だが、ハインリヒはそこに、誰もあえて触れようとしない事実があることを知っていた。
その名目がどれほど美しく取り繕われようとも、帝国が身内であるはずのアルトレウス家を敵に売ったという醜悪な事実は消えない。そしてその裏切りの果てに、由緒ある家名がその地から永遠に消え去ったという現実もまた、変わることはないのだ。
「次に、旧領内の荘園権益についてですが」
ニコラウスは、努めて冷静に切り出した。だがその言葉を聞いた瞬間、ハインリヒはこの場の空気がわずかに重くなるのを感じた。
土地の帰属という名目とは切り離された、実質的な利権の話だ。そこはもはや帝国の土ではない。しかし、そこから生じる富を受け取る権利――そこに誰の手が伸び、誰の懐が潤うのかという、最も生々しい問題へ踏み込んだのだ。
「そちらも当初の約定通り、先方との決着はついております。実質的には帝国外の土地となりますが、特権としてその権益は保護されます」
ガルシアは迷わず答えた。
「また、その規模についても当初の取り決め通り、旧アルトレウス領の土地のおよそ半分に相当する荘園権益を、こちらに提供させる手はずです。これらは今回の件に協力した帝国側の諸家、神殿庁、そして…」
ここでガルシアは一呼吸を置き、後ろに控える皇太子の側近へ視線を移して言葉を続けた。
「殿下の側近各位にも配分されることになります」
それまで無言で謁見の間に整列していた側近たちの間から、低いざわめきが漏れた。声を立てるほどの無作法は避けていたが、それでもその顔に浮かんだ色までは隠しきれていなかった。
――およそ半分。
ハインリヒは、その破格の数字を胸の内で繰り返した。
――よくもまあ、セヴァリスもこれほどの大盤振る舞いを認めたものだ。それだけ彼らも、アルトレウス家という存在とその背後にいる東大陸系商人に危機感を抱いていたということか。
だが、それなりの利益を約束しなければ、この謀議に加わる帝都の有力貴族は多くなかっただろう。
特段の脅威を感じていない大多数の者たちは、国家の大局などではなく、目の前にぶら下げられた有形無形の報酬によってその去就を決める。
ハインリヒは、自らの周囲にいる者たちの強欲さを、冷ややかに見つめていた。
「恐れながら、殿下」
ここでハインリヒは頃合いと見て、静かに口を開いた。
「領地の処遇と権益の配分につきましては、ただ今のご説明にて承りました。
ですが、アルトレウス家の七家としての名跡を、かの家の血筋に連なる者に引き継がせることについて、なおご一考の余地があるのではないかと存じます。」
これは、ハインリヒ自身だけの考えではなかった。
かつてアルトレウス家へ娘を嫁がせた家――イザベラの実家であるニコメディア家からも、折を見て探ってほしいと含められていた話である。
領地を失ったとしても、まずはアルトレウスの七家の名跡だけは傍系に継がせられぬものか――それさえ叶えば、本家で誰か生き残ってさえいれば、後に道を開く余地が残る。それが彼らの考えだった。
だが親族が直接願い出るのはあまりに危うい。だからこそ、侍従長であるハインリヒの口から皇太子の意向を探る必要があった。
皇太子の視線が、ゆっくりとハインリヒへ向いた。
「アルトレウスは、七家の一角にございます。領地を失ったとはいえ、その七家の名跡まで断絶させることは、帝国の内にも少なからぬ動揺を招きかねませぬ。帝都の傍系に、七家の名跡のみでも継がせる道を残されてはいかがでしょうか」
ガルシアは一度目を瞑り眉間にわずかな皺をよせた。やがて彼は目を開き、ひとつ頷いてから、ハインリヒへ視線を戻した。
「……一理はございますな。名跡を残すだけであれば、今回の仕置きと矛盾することもございませぬ。むしろ帝国内の融和を図るためにも――」
「ならぬ」
その言葉を断ち切ったのは、皇太子だった。
短い一言だった。だが、それだけで謁見の間の空気を、さらに一段冷やした。
皇太子はハインリヒではなく、ガルシアへ視線を向けた。
「ガルシア。余はアルトレウス家に対し、東方との交易について、たびたび自重を促していたはずだな」
「……はい。初めは臣らの一存として伝えておりましたが、聞く耳を持ちませんでしたので、最後には殿下のお名をもって、警告を発しております」
「そうであろう」
皇太子は、そこで初めてハインリヒへ視線を戻した。
「余の名をもって警告してなお、かの家は、いや、エウスタティウスは改めなかった。その果てが此度の仕儀である。そのような不忠の家に、七家の名を残す道などあろうはずがない」
そこでいったん言葉を区切った皇太子は、ふたたびガルシアを鋭く見据え、その声を一段と険しくした。
「余は、初めから直に言って聞かせるべきだと申しておった」
皇太子の声に、苛立ちの色が強く滲んでいた。
「されど、そなたらは止めた。七家としての体面を守るため、まずは穏便に諫めるべきだとな。
ガルシア、その穏便とやらの果てがこれだ」
ガルシアは答えなかった。
その沈黙は、皇太子に屈したわけではなく、さりとて反論の余地もないという実務家の苦渋に見えた。皇太子を直接動かさぬよう押しとどめ、迂遠な警告に留めさせてきたのは、他ならぬガルシアたち周囲の側近だったからだ。
その判断自体が間違っていたと、彼が悔いている風はない。貴族同士の折衝とは、本来そういうものだからだ。
だが、結果という冷酷な事実だけを前にすれば、皇太子の直情的な言葉にも、今は否定しきれぬ一理があった。
「エウスタティウスは最後まで、陛下の許しを得ていると繰り返した。余の名を出してなお改めぬ家に、再興の道など残せるものか」
ハインリヒは、目を伏せたまま皇太子の言葉を聞いていた。
――聞きしに勝る苛烈さだ。しかも、ご自身の理を疑っておられぬ。これではとてもニコメディア家の意向に沿うかたちでの再考を促すこともできまい。しかしこれで不忠とまで断じるのか……
もともとハインリヒのグラーフェン家は家格としては高くなく、そのためこれまで皇太子をはじめとした帝室に連なる方々との交流はほとんどなかった。侍従長に抜擢されて日も浅かった彼が皇太子の性格に直接触れるのは今回が実質初めてだった。
これ以上発言しても傷口を広げるだけだと判断したハインリヒは、沈黙でこの場をやり過ごすことを選んだ。
ただ、彼の内側で、ひとつの警鐘が強く鳴っていた。
――皇太子は危険だ。
その沈黙をどう受け取ったのか、皇太子はわずかに顎を上げた。
淡い金茶の髪と、彫りの深すぎない整った顔立ち。ステファノス・アレクシオス・アウグストゥスは、見る者にまず皇族としての端正さを思わせる男だった。
だが、薄く細められた瞳には、相手を見ているというより、盤上の駒を数えているような冷たさがあった。
「それはそうと、ハインリヒ」
名を呼ばれ、ハインリヒは胸の奥に嫌な予感を覚えながら、静かに顔を上げた。
「そなたはニコメディア家とも縁があったな」
その言葉が発せられた瞬間、ガルシアの表情がわずかに強張った。ニコラウスもまた、黙したまま目を細める。
先ほどまでとは違う種類の緊張が、謁見の間を支配した。
ハインリヒはすぐには答えず、ただ静かに目を伏せた。
必要以上に身を晒さぬ沈黙は、彼が宮廷で生き延びるための防衛反応でもあった。だが、今回はそれだけではない。驚きの方が勝っていた。
正直に言えば、どう返すべきか、瞬時には見極められなかったのだ。
皇太子ステファノスという男は、鷹揚にして苛烈、大局のみを見て、些細な政略には目を向けない。ハインリヒは、そういうお方だと思っていた。
だが、それは間違いだった。
殿下は、アルトレウス家にニコメディアの娘が嫁いでいることを知っている。そして、グラーフェン家とニコメディア家が同じ北方出身、テュリンギ人の同胞であり、その間にも古い繋がりがあることを把握した上で、この問いを投げかけている。
――この男は底が知れない。
そう思った瞬間、ハインリヒは答えるべき言葉を失った。下手に答えれば、その言葉がどこへ繋げられてゆくのか見当がつかない。ならば今は、沈黙を貫くしかなかった。
皇太子は、その沈黙を気にする様子もなく、淡々と自らの言葉を続けた。
「アルトレウスの血を引く者が、ニコメディア家を頼ることがあれば、速やかに捕らえ、帝都へ差し出せ。縁戚の情に流され、庇い立てすることは許さぬ」
「殿下」
そこで初めて、ガルシアがやや戸惑いながらも、意を決したように低く声を挟んだ。
「それはいささか、やり過ぎ……いえ、踏み込みすぎではございませぬか」
ガルシアは言葉を選びながら、ゆっくりと続けた。
「アルトレウス家へ送った親書には、速やかに覚悟を示せば、後に残る者についてはご配慮なさる趣旨を記されておりました。またエウスタティウスも殿下の親書を受け速やかに――」
「配慮せぬこともない、と記したまでだ」
皇太子は、ガルシアの言葉を途中で遮った。
「誰を、どの程度とまでは申しておらぬ。散り際の作法ぐらいならば、考えぬでもない」
「なっ……」
だが、一度開きかけたガルシアの唇は、すぐに閉じられた。
「それに、その書状も、すでにアルトレウスの館とともに灰となっておろう」
その一言で、ガルシアは完全に言葉を失った。
親書に何が記されていたのか、もはやこの場で確かめる術はない。だが、今の応酬を聞くだけでも、おおよその想像はついた。
ハインリヒは背筋を伸ばしたまま、ただ黙ってこの場をやり過ごすことに徹した。
ニコメディア家とは、後で別に手を打つほかない。頭の痛い話ではある。だが、それ以上に……。
――この皇太子に与して、本当に大丈夫なのか。
アルトレウス家は、帝国内で軽く扱われがちな我らテュリンギ人の者たちに、一定の理解を示してきた数少ない名家だった。
そのアルトレウス家を切り捨ててまで、こちら側についた。反対の声も少なくない中で、それを主導したのは他でもない。テュリンギ人たちの盟主という立ち位置にあったハインリヒ自身だ。
皇太子の視線が、ふたたび彼へ戻った。
「よいな、ハインリヒ。ニコメディア家にも、その旨を違えず伝えよ」
ハインリヒは、ごく短く答えるに留めた。
「はっ」
その返答を聞くと、ガルシアはわずかに息を吐いた。
これ以上、この件に言葉を費やすべきではない。そう判断したのだろう。彼は手元の書付をこれまでよりも高く上げ、それに視線を落としたまま、努めて事務的な声に戻した。
「では、残る確認に移らせていただきます」




