第30話 エピローグ② ~仮初の主君~
「貴様!なぜあのような真似をした!」
幕舎の中に、グリゴリ将軍の怒声が叩きつけられた。
「首を槍先に掲げ、晒し物にして辱める。そのような下劣な振る舞いで功を誇ろうなどと、貴様は何を考えておるのか!」
「閣下、あれはこの者ではなく右翼の傭兵どもが勝手に――」
「たわけ! だから、なぜ止めなかったのかとこの者に問い質しておるのだ。わかるか、ソティリウス!」
横から取りなそうとした将軍の副官は言葉を最後まで発することすら許されず、喉を詰まらせ、すごすごと退いた。
レオニウス――アルトレウス家ではそう名乗っていた男は、頭を下げたままの姿勢で黙っている。
「奴らがアルトレウスの子倅どもの首を槍先へ突き刺しておったその時、貴様は何をしていた!
止める術など、いくらでもあったはずだ。
それともその時、貴様は昼寝でもいたしておったか!」
「もちろん、止めようと致しました。されど粗暴な傭兵どもに、私一人では如何ともしがたく……」
「なんと軟弱な言い様よ。貴様はそれでも武人か!
……いや、そなたはただの商人であったか。ならば、いくら責めたところで詮無いことを申したわ。商人風情に武人の心得など分る筈もあるまいに、これは儂の不明であった。
そのおかげで、我らは戦場での礼儀も作法も知らぬ蛮族よと、周囲から蔑まれ嘲笑されよう」
それからも、グリゴリの叱責はしばらく続いた。
やがて見かねた副官たちが、「閣下、もうそのくらいで」と取りなしに入った。グリゴリもようやく口を閉ざしたが、レオニウスが退出しようとしたところで、最後にもう一言だけ浴びせた。
「金はやる。約束だからな。
だが領内でまた一旗揚げようなどと考えておるのなら、遠慮せよ。命令ではない。わしからの要望じゃ。
あのような無作法を見過ごしてのうのうと自陣に帰った儂の手の者が我が物顔で領内で商いに勤しんでる、などと巷で言われてみよ。末代までの恥辱じゃからな!」
そう言いながらも、グリゴリは最後まで彼を正面から見なかった。
レオニウスをアルトレウス家へ潜り込ませたのは、ほかならぬ自分だった。敵を内側から崩せと命じておきながら、その仕事を終えた男に、いまさら武人の面目を説いている。
その欺瞞を、彼自身もひどく滑稽だと自覚していた。
「仰せの通りに」
それに対し、ソティリウスは一切反論をしなかった。彼自身、グリゴリ将軍の言葉に異論がなかった。
あの二人があのような辱めを受ける謂れはなかった。ただ、自分が担った役目はもう終わった。これ以上この場に未練を残すつもりもなかった。
アルトレウス家に潜入したのは復讐のためだった。自分の稼業も、一族の牧場も、彼らのせいで不当に奪われた。その思いからこのような役目を引き受け、かの継嗣に取り入り、最後には死地へ誘い込み、敵の手にかけさせた。
だが、それで思いは晴れたか? 無念の思いは報われたのか?
かつて彼の家は馬を育てていた。西方の重い馬体、厚い首、寒さに強く、短いながらも骨太な脚。甲冑をまとった騎士を乗せてなお、容易には崩れない。あれこそが戦場の馬だと、彼は信じていた。
だが、アルトレウス家で見た東方馬は違った。
寒さへの耐性や荷駄への転用のしやすさを除けば、たいていの面で東方馬は軍馬として優れていた。速く、粘り強く、反応が鋭い。脚の回転、息の持ち、騎手の意図を拾う敏さ。その差は、商売敵への憎しみで曇らせられるほど小さくはなかった。
ソティリウスはアルトレウス家で、実際にその馬に触れ、世話をし、自ら跨ってもみた。
手綱をわずかに張るだけで、乗り手の意志がハミを通じてそのまま伝わるかのような、恐ろしいほどの敏感さ。乗り手の力量次第でどこまでも化けるその馬は、西方の重馬に慣れた身には驚異でしかなかった。
馬を知らぬ者なら、流行り物だと笑えたかもしれない。だが、レオニウスにはそれができなかった。
良い馬は良い。
それを見抜けぬほど、自分は落ちぶれていない。見抜いてしまうほどには、まだ馬飼いだった。
そして、それは馬に限った話ではなかった。
仮初の主君と仰いだアウレリウス・オ・アルトレウスは、決して名君と呼ばれるような器とは言えなかった。思慮深いとは言えず、思い込みが強い。そして良くも悪くも人を信じやすい性格だった。だから取り入るのは、驚くほど容易かった。
初めは侮っていた。
だが、彼は人を身分だけで見なかった。レオニウスが馬について意見すれば、従士の分際だと退けることなく耳を傾けた。一度など、居並ぶ家臣たちを前にして、「馬のことなら、こやつの方が俺よりよほど詳しい」と屈託なく笑ったことさえある。
そんな性格なので下の者からは慕われていた。よく家臣たちが彼のもとに集まっていた。一見して優秀で、どこか取り澄ましたところのある、他家ならば家督争いの火種にでもなりそうな、彼の弟でさえもそこに集まる一人だった。
周囲を惹きつける魅力のある、それでいて、どこまでも愚直な男だった。
人を疑わず信じた相手を自分の側へ置くことに、何のためらいも持たなかった。
その信頼を、ソティリウスは利用した。
彼を死地へ誘い込み、敵の手にかけさせた。
復讐は果たした。
だが、果たしたあとに残ったのは、東方馬のすばらしさと、自家の牧場が没落した必然だった。
そして、仇敵と憎んだ者たちの素顔を知りながら、その信頼を裏切ったという、今さら覆しようもない事実だけだった。
彼はセヴァリスの作法に則り、深く一礼をして立ち上がり、退出口へ向き直った。そして数歩歩みを進めたのち、何かを思い出したように踵を返して跪いた。
「将軍閣下、何卒お教えいただきたき儀がございます」
「申してみよ」
殊勝なほど反論らしい反論もなく立ち去ろうとしていたソティリウスの後姿を眺めていたグリゴリは、少し驚いた表情をしながらも質問の許可を与えた。
「アウレリウス様、セバスティアーヌス様ご両名を、この近くに弔われたと聞きました。何卒、その場所をお教えいただきたく」
グリゴリはしばらく答えなかった。
「……仮初とは申せ、一度は主君と仰いだ者であろう。おぬしも顔を見せるがよい」
やがて、近くに控えていた副官へ顔を向けた。
「場所を教えてやれ。簡素ではあるが、アグニズ式に則って弔ってある。祈ってやるがよかろう」
「ご厚情、痛み入ります」
ソティリウスは深く頭を下げ、今度こそ立ち上がった。
「待て」
退出口へ向かいかけた背に、グリゴリが声をかけた。
「これから、おぬしはどうするつもりだ」
先ほど領内から去れと言い放った者が尋ねるには、いささか今更な問いだった。グリゴリもそれを自覚しているのか、ソティリウスの方へは顔を向けなかった。
「もはや、私を待つ家族も、戻る家もございません。今は身軽な身にございます。なので母の故郷と聞くモエシア連邦へ行ってみようかと」
「モエシアか」
「はい。かの地では、今もアグニズ教徒が暮らすことを許されていると聞き及んでおりますゆえ」
「そうか」
グリゴリは、それ以上何も言わなかった。
ソティリウスはもう一度深く一礼し、幕舎を退出した。
陣中をしばらく歩いたところで、背後から彼を呼び止める声がした。先ほど幕舎にいた副官の一人が、小走りで追ってくる。
「ソティリウス殿。将軍より、これを預かって参りました」
差し出されたのは、セヴァリス領内を通行するための許可証だった。末尾にはグリゴリ将軍自身の署名と、道中の通行を妨げぬよう命じる裏書が添えられている。
「北へ向かわれるのであれば、必要になるだろうとのことです」
ソティリウスは黙ってそれを受け取った。
振り返った先では、幕舎の入口がすでに閉ざされている。
「……ありがたく頂戴いたします」
副官が立ち去ったあと、ソティリウスは許可証を懐へ収めた。
それから彼は、北へ続く街道ではなく、先ほど教えられた小高い丘の方角へ、ひとり歩き出した。




