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アルトレウスの娘 ~アグニシア戦旗~  作者: 名も無きサルカズ
アルトレウスの娘

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第29話 エピローグ① ~遅すぎた援軍~


 帝国歴467年7月26日 夜明け前


 アルトレウス家の館は、最後の残り火を残すばかりとなっていた。


 領境の丘の上から、セルギウス・オ・ファルセリは馬上でそれを見下ろしていた。

 東の空は、まだ白み始めてもいない。


 背後には、夜を押して進んできたファルセリ兵団の本隊が控えている。

 騎兵、歩兵、伝令。隊列はまだ乱れていなかった。


 帝都では、半ば無理を通すようにして陛下の許可を取りつけた。

 そのうえで夜間の強行軍を重ね、ようやくアルトレウス領境まで兵を率いてきたのである。


 問題は、そこまでしてなお、間に合わなかったことだった。


 その事実を目の当たりにした兵たちの沈黙が、彼らの到着が遅すぎたことを如実に物語っていた。

 そしてその先に待つ政治的な危うさは、兵たちではなく、セルギウス自身が誰よりもよく理解していた。


 丘にはすでに、息子ダリオス率いる先遣隊が展開していた。


 若き指揮官は、泥に汚れた外套のまま、馬首を返してこちらへ近づいてきた。

 血気に逸るところのある息子だ。本隊の到着を待たず、先遣隊だけで事を起こすのではないか、との危惧がセルギウスの胸にはあった。

 だが、ダリオスは踏みとどまっていた。

 大勢が決してしまったこの状況で、少数の先遣隊にできることなど、もはや何もない。

 それを理解できないほど、息子は愚かではなかったらしい。


「父上」


 ダリオスは一瞬だけ唇を噛み、遠くの館へ視線を向けた。


「……間に合いませんでした。我らの到着時には、すでにこの状況でした」


 セルギウスは頷いただけで言葉を発しなかった。ダリオスは報告を続けた。


「館から脱出した者がいないか、敵軍の所在、残存する友軍の有無も合わせて斥候を放って調べさせております。

 報告は今しばらくお待ちを……」


 だが、それにもセルギウスは頷くだけだった。すべての報告を終えてなおも無言の彼に焦れたダリオスは、遂に一番聞きたかったことを直接問うことにした。


「前進して防衛線を敷きますか? 野戦陣地の構築は?」


「その必要はない。今はこのまま整列して待機でよい」


 ――なにせ奴らはここまで進軍してくることはないのだからな。


 そこで初めてセルギウスは言葉を発した。ただし、その内心は言葉にせぬままに。


 その時、やや遠目から馬蹄の音が近づいてきた。旗を掲げて向かっている姿から、伝令だとすぐにわかる。


「伝令!」


 兵の一人が声を上げた。

 泥を跳ね上げながら駆け込んできた騎手は、馬から飛び降りるようにして膝をついた。

 外套には見慣れぬ紋章が縫い取られている。金糸のような上等な糸ではない。簡素な布章だった。


「ラウレントゥム家より伝令にございます!」


 セルギウスはわずかに眉を動かした。すぐ横に控えていた、土地勘のあるジュリアーヌスが素早く耳打ちする。


「ラウレントゥム家は、アルトレウス領の東隣を治める小領主です」


 セルギウスは短く頷いた。


「うむ。申せ」


「我が主マルケルス・オ・ラウレントゥムは、兵五十を率い、この丘より南東半マイル、旧水車小屋跡付近へ向けて進軍中。四半刻のうちに着陣いたします。

 以後の戦場での動きにつきましては、我があるじは、ファルセリ家と協同いたしたき意向にございます。

 その旨、お含みおき願います!!」


 いくら隣領とはいっても、まだ夜も明けぬこの時間の着陣である。これは明らかにファルセリ兵団と歩調を合わせんとした行動であろう。

 帝都でか、あるいは街道沿いでか。いずれにせよ、物見を配してこちらの動きを窺っていたのだろうか。


 そして、それから後も伝令の到着が相次いだ。ラウレントゥム家の到着を皮切りに、周辺領主の兵が続々とファルセリ兵団の周辺に集まりだしたのである。


 夜明けまでには、一ヶ村、二ヶ村の領主騎士から数千人の領民を抱える領主まで、大小の別なく周辺領主のほとんどが兵を率いて参陣してきた。

 その数は、ここにいるファルセリ兵団の総数に迫る勢いだった。

 中には領内で徴募した招集兵まで動員している領主もいる。

 皆、ファルセリ兵団の出撃を確認してからの出陣のはずだ。それで招集兵まで動員しているということは、それ以前から臨戦態勢で待機していた事実に他ならない。


 言葉は悪いが、これまでセルギウスは彼らのことを、日和見といわれても仕方のない腰の引けた連中だと不満に思っていた。しかし、この状況を前にして、その評価を彼はひそかに改めた。

 対岸の火事と他人事だったという訳ではない。彼らもまた、明日は我が身という危機感を強く持っていたのだ。


 帝都の意向がはっきりしない中、一介の地方領主の身で突出した行動をとり、宮廷に巣食う魑魅魍魎ちみもうりょうどもに睨まれては、この国では生き残れない。帝都の政治にたとえ明るくなくとも、それが帝国貴族の常識だ。

 だから息をひそめて待っていたのだ。自分たちの政治的盾になってくれる、強い何かを……。


「父上、これだけの兵をもってすれば、今からでもまだ状況はひっくり返せます。前進して丘を下り、我らが武威を示しましょう!」


 館の陥落を目の当たりにし、沈みかけていた兵たちの士気は、諸領主の軍勢が続々と着陣するにつれ、再びたかぶりを取り戻しつつあった。

 ダリオスの進言は、その空気を代弁するものでもあった。


 夜明け前には、この丘の前面には約百二十名ほどのドロミアの旗を掲げた敵部隊が姿を見せた。彼らは、こちらを牽制するように陣を敷いていた。

 集まった兵力をもって、反撃の手始めにあの部隊を叩く。ダリオスの言葉は、そういう意味だった。


 だが、セルギウスは首を横に振った。その表情は揺るがず、視線はドロミア勢のさらに向こう側の田園へ向けられていた。そこには、セヴァリス軍と思しき敵影がかすかに見えていた。


「兵力だけを見れば、十二分に対抗できるでしょう」


 そう告げたのはセルギウスではなかった。

 今しがた到着したばかりの後詰め――輜重隊を率いていたマルティウスである。


 彼の視線は、丘に集まりつつある諸領主の軍勢へ向けられていた。


「しかし、すでに館は落ちました。この状況で敵とさらなる前面衝突は、特に彼らにとって政治的に危険です」


 ダリオスは言葉を返しかけた。だが、マルティウスは静かに続ける。


「今ここで我らが踏み込めば、これは救援ではなく、新たな戦の開始になります。戦火がさらに周辺へ広がります。彼ら諸公のためにも、これ以上この地での戦禍を拡大させぬようにすべきです」


 ――こちらから手出ししなければ、領境の外側にいる我らをセヴァリス軍が攻撃してくることはない。

 むしろ攻めた瞬間、集まった周辺領主たちの政治的立場をまとめて窮地に落としかねない。


 その密約がある事実を伏せながら、マルティウスはダリオスをはじめとした血気に逸る者たちを言葉巧みになだめた。ダリオスはともかく、他の兵たちに公にしてよい話でもない。

 そしてこういった対応は副官のマルティウスが長けているので安心して任せられた。


 周囲のざわめきが、少しずつ沈んでいく。

 それを待ってから、セルギウスは別の問いを投げた。


「斥候からの報告はどうなっている」


「今戻った斥候によると、あちこちの村が傭兵と思われる複数の小集団によって略奪に遭っているらしく……。さらには館を落としたのもどこぞの傭兵団のようで…」


 ダリオスは苦り切った顔で言葉を続けた。


「……一度はアルトレウス領に散らばった傭兵どもも今はセヴァリスの本隊と思しき部隊の周辺で再編成しつつあるようです。


 ただ不可解なのは、実際に館を落とした急先鋒の傭兵団です。奴らはセヴァリスの指揮下に入っていないのか、館での略奪の後、姿を消しました。現時点では所在が掴めません。


 それから……、友軍の姿は何処にも確認できませんでした。この状況から察するに、もう……」


 セルギウスは「そうか」とだけダリオスに返し、近くに控えるジュリアーヌスに向き直った。


「我らは間に合わなかった」


 セルギウスは言った。慰めるでも、詫びるでもない。ただ、動かしようのない事実として、その言葉を選んだ。


「言い訳はせぬ。それでだ。このような状況でこの問いは酷かもしれぬが、敢えて問わねばならん。

 お前はこの先、どこに身を置く」


 ジュリアーヌスはすぐには答えなかった。なぜなら、その答えを自分自身がまだ持っていないからだ。


「今更そなたが実家に戻ったところで居場所もあるまい。ファルセリ兵団の旗の下に一旦身を置くという手もあるが、どうだ」


 セルギウスは続けた。


「此度のそなたの働きは見ていた。道案内、土地の事情、帝都での立ち回り。我が兵団にそなたのような人材がいれば助かるのだが……。もっとも――」


 そこで、セルギウスはわずかに口元を歪めた。


「今の我が家の旗が、どれほど頼れる庇護となるかは分からんがな。今回の件で、我らも無傷では済むまい」


 ジュリアーヌスは何かを言いかけた。だが、その言葉は形になる前に、背後からの声に遮られた。


「ファルセリ卿!」


 そう大声で駆けよって来た人物は騎士と思しき格好をしていた。供回りの者もなく一人だった。夜通し屋外を動き回っていたのか、その出で立ちは所々泥に汚れていた。顔には疲労の色が濃い。


「マロネイア村の領主騎士、ルキウス・オ・ベラータ卿にございます。この周辺の領主ではございませんが、アルトレウス家とは懇意の間柄でした」


 これまでと同様にジュリアーヌスがさっとセルギウスに耳打ちで彼の素性を説明した。

 セルギウスは頷き、先を続けさせた。


「ここより北側の領境までアルトレウス領の避難民を率いてきましたが、そこで巡検隊によって足止めされております。

 我らには野営のための物資はもとより、今朝の食事にも事欠く状況です。

 なにとぞ、ご助力を賜りたく、参上いたしました」


 セルギウスの目が細くなった。


「数は?負傷者はいるのか?」

 

「私が館から率いてきた者は百ほどですが、それ以外にも足止めされた者たちが多くいます。総数はおよそ三百程度かと。衰弱している者もおります。

 さらに気がかりなのは、ここへ来るまでに野盗まがいの者たちに出会いました。避難民の多くは丸腰です」


「マルティウス」


「はっ」


「輜重隊から物資を出せ。薬師も連れて行け。傷病者は必要に応じて治療を。輜重隊から人夫を二十。護衛に本隊から五十を割け。避難民の周囲を固めろ。

 それで件の巡検隊の連中が何か言うようなら儂の名を出せ。おお、ファルセリの旗も持って行け」


「承知いたしました」


 ルキウスは、そこでようやく息を吐いた。

 断られる覚悟も、待たされる覚悟もしていたのだろう。だがセルギウスは、逡巡することなく物資と兵を動かした。

 そして彼はセルギウスに「寛大なるご差配、誠に痛み入ります」と深々と頭を下げた。泥に汚れた騎士の肩から、張りつめていたものがわずかに抜けた。


「よくここまで民を率いてきた。大儀である」


「いえ。成すべきことをしたまでにございます」


 セルギウスは、頭を下げるルキウスをしばし見ていた。

 周辺領主が二の足を踏む中、遠方からアルトレウス家の急変に駆けつけ、今もまた他家の避難民のために奔走し、頭まで下げる。


 ――良き騎士、良き領主とは彼のような者を指していうのであろうな。


 それからセルギウスは振り返り、そこで何か言いたげにしているダリオスに水を向けた。


「ダリオス、何か言いたいことでもあるのか」


「はい、父上。その役目、私にお命じください。ここで何もせず見ているだけなら、せめて民を救いに行かせてください。少しでもできることがあるのであれば、私にやらせてください!」


「その心意気や良し」


 その言葉に、セルギウスは息子の顔を改めて見据えた。


「だが、お前は今回はここに残れ。この戦場の後始末を見届けよ。戦というものは斬った張ったばかりではない。

 それに、救護は功を拾う場でもない」


 ダリオスは唇を引き結んだ。溢れそうになる反論を辛うじて呑み込み、別の言葉を口にする。


「……承知いたしました」


 ――ここで起きていることはまつりごとだ。そして戦とは政の一部に過ぎないのだ。それをダリオスにもそろそろ理解させねばならんからな。


 指示は瞬く間に伝わっていった。丘に集まっていた兵たちの一部が、出発のためにあわただしく動き始める。


 ジュリアーヌスは、その光景を黙って、しかし真剣なまなざしで見ていた。


 やがて、彼は何かを決心したように静かに膝をついた。


「セルギウス様、いえ、ファルセリ卿」


「答えは出たか」


「はい。ありがたきお言葉ではありますが、兵団へのお誘いは辞退させてください」


 セルギウスは責めるような顔をしなかった。ただ、ジュリアーヌスの言葉の続きを待った。


「これからファルセリ家にも、厳しい風が吹くはずです。その中で、アルトレウス本家に仕えていた私を抱え込めば、余計な大義名分を与えかねません。

 私一人の身の置き所のために、ファルセリ家の荷を増やすわけには参りません」


「では、帝都の実家へ戻るのか」


「戻ったところでただの厄介者、いえ、実家にとってはそれ以上の存在となりましょう。いまさら家の奥に引っ込んで、何も見なかった顔をするには、私はあまりに多くを知りすぎています」


 セルギウスは小さく頷いた。


「ならば、如何するつもりだ」


 ジュリアーヌスは一度だけ、焼け落ちた館の方角を見た。


「しばらくは人目を避け、野に身を置こうかと存じます。

 なれば、一つお願いしたい儀がございます」


「申してみよ」


「時を稼ぐにも、身を隠すにも、金は要ります。厚かましき願いとは承知のうえで、路銀を――できれば、少し多めに頂戴できればと」


 セルギウスはしばし黙っていた。

 やがて、低く笑った。


「そうか……よかろう」


「この御恩、忘れませぬ。

 では、私も救護の手伝いに参りますのでこれにて失礼いたします」


 そう言い残すと、ジュリアーヌスはルキウスらの方へと足を向けた。


その時だった。


「父上、これでよろしいのですか」


 ダリオスは、ジュリアーヌスがこの場を離れるのを待ってから、彼への不満を口にした。


「主家がこの有様となったときに、自分は己の路銀の算段などと――」


「ダリオス」


 セルギウスの声は低かった。叱声ではない。だが、それだけでダリオスの言葉は止まった。


「あやつは己の懐を温める金を求めた訳ではないのだ」


 セルギウスはそこで、わずかに目を細めた。


「お前は先ほど、民を救いに行きたいと言ったな。ならば覚えておけ。剣で救えるものばかりが救いではない。

 先ほどのルキウスの言葉を聞いた時の、あやつの顔を見ていなかったか」


 ダリオスは、それ以上続ける言葉を失った。

 父の言葉で、先ほどのジュリアーヌスの様子が脳裏に蘇る。ルキウスの報告を聞くまで、あの男はどうするとも煮え切らぬ様子だった。だが、その直後には、すでに何かを腹に決めた者の顔になっていたからだ。


「金は相応に用意してやれ。恩賞ではない。支度金だ」



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