第28話 戻る場所なき者たち
雨の音が、少しずつ強くなっていた。
干し草の下で、アスターナは両手で口を押さえ、息を殺していた。
鼻の奥まで、濡れた草の青臭い匂いが染み込んできた。水を含んだ干し草は重く、胸の上にのしかかってくるようだった。
雨粒が、横倒しになった馬車の木枠を細かく叩いている。
その音に紛れるように、アスターナはほんの少しだけ指を動かした。濡れた草がわずかに擦れたが、その微かな音も雨に呑まれて消えた。
それだけで、ほんの少しだけ息がしやすくなった。
その直後、外で悲鳴が上がった。
走る足音。金属同士がぶつかる甲高い音。何かが叩き割られる音。
外の様子はまったく見えない。それでも、悲鳴と怒声がじわじわ近づいてくるのだけは分かった。
動いてはいけない。声を出してもいけない。
息をするだけで草が揺れる気がした。ほんの少し肩が震えただけで、外にいる「誰か」に気づかれるのではないか。そう思うほど全身の震えが止まらなくなる。アスターナはそんな自分自身の反応にさえ怯えた。
すぐ近くで、荷箱が叩き割れる音が響いた。
馬が狂ったように暴れる音、泥を蹴る足音、何か重いものが倒れる音。
馬車の前方で、右で、左で、短く途切れる悲鳴が重なっていく。誰かが怒鳴り、誰かが倒れ、略奪の音が雨音に混じった。
アスターナは両手で口を押さえたまま、ただ目を固く閉じた。
「ぐあぁぁっ!」
またすぐ近くで、鈍い衝撃音とともに呻き声が聞こえた。
干し草のわずかな隙間から、松明の赤い光がぼんやりと見えた。そして足音が、横倒しになった馬車のすぐそばで止まった。
「おい、こいつ何か抱えてやがるぞ」
「どれどれ……ちっ、なんだただの薬箱じゃねぇか。紛らわしいんだよ、このデブが!」
悪態と同時に、何かが泥の中に蹴り倒されるような鈍い音がした。
「他に金目のものはないか?」
「こっちだ! 手を貸せ!」
すぐ近くで男たちの生々しいやり取りが続く。彼らの足が、自分の頭のすぐ上の干し草を踏みしめていく。
指一本動かすこともできなかった。生きた心地がしない。アスターナは、ただただ心の中で何度も繰り返した。
――早く、早く向こうへ行って……!
やがて、人の気配が少しずつ遠ざかっていった。
だが、まだ完全に去ったわけではない。やや離れたところから、襲撃者たちの会話が風に乗って聞こえてくる。
「隊長、運べそうなもんでめぼしいやつは大体さらいました。後はどうします? 燃やしちゃいます?」
「馬鹿野郎。上からは、この道を通る奴を皆殺しにしろって言われてんだ。燃やしたりしたら、警戒して誰も近寄らねえだろうが」
荒々しい声が、さらに吐き捨てるように続けた。
「それにこの雨じゃ、燃やすのも一苦労だ。放っとけ、放っとけ」
「へ、へい」
「よし、ずらかるぞ!
本当は残骸も片しておきたいんだが……まあ仕方ねえ」
隊長らしき者の合図とともに一斉に足音が遠ざかっていく。
それでも、アスターナは干し草の下から動けなかった。
「出るな」という父の言葉が頭にこびりついて離れない。いや、そうじゃない。たとえその言葉がなかったとしても、恐ろしさのあまり、自ら外へ出ようなどとはとても思えなかった。
――どこかで、まだ誰かが呻いている。
苦しそうに息を吸い、吐き、また細く声を漏らす。それらの気配にアスターナは口を押えて息をひそめ、耳を塞ぎ聞こえないふりをした。
涙が止まらない。どうしたらよいのか、本当に何もわからない。
やがて呻き声はひとつ減り、また、ひとつ減っていった。そして最後に残っていた息の音も、雨の中へと沈んでいった。
それからは、何も聞こえなくなった。
ただ雨だけが、濡れた干し草を叩いていた。
それから、どれほどそうしていたのか分からない。
やがて、また足音が近づいてきた。
また先ほどの連中が戻ってきたのだろうか。
足音は、先ほどほど多くはない。だが、確かにこちらへ近づいてくる。
アスターナは息を止めた。なぜ戻ってくるの?――そう思った瞬間、声が聞こえた。
「そこに誰かいますか」
女性の声だった。それに油断してしまった。声に反応して不用意に体を動かしてしまったのだ。
雨に濡れて重くなった干し草でも、その動きまでは隠せなかった。草同士が、はっきりと擦れ合う音を立てた。
――もう駄目だ! 見つかってしまう
「危険です。敵が潜んでいるのかもしれません」
周囲からそんな声が上がった。それでも、その女性は退かなかった。
濡れた干し草がかき分けられ、アスターナを覆い隠していたものが取り払われていく。
「……アスターナ?」
雨に濡れた短い赤褐色の髪が頬に張りつき、泥と血に汚れた顔で、その少女はこちらを見下ろしていた。
* * *
生きていた。
よかった――フェリシアは、干し草の下から現れた少女の顔を見た瞬間、心からそう安堵した。
ここへ辿り着くまで、彼女たちは誰一人としてすれ違わなかった。
この道はほとんど一本道だった。脇の草地や林へ分け入れぬこともないが、雨に濡れた藪を進めば、足跡なり、折れた枝なり、何かしらの気配は残るはずだった。
だが、それすら見当たらない。
逃げ延びた者は、ほとんどいないのではないか。
その考えを、フェリシアは胸の奥へ押し込めた。今それを認めてしまえば、足が止まる気がした。
その不吉な予感を裏づけるように、行く手にはすでに凄惨な光景が広がっていた。
細い道の中央に、うつ伏せに倒れた騎士デメトリオス。守るべき馬車は、彼の背後に残されていた。
騎士としての務めを果たしたとは到底言えない向きへと倒れた彼の体が、彼の行動のすべてを物語っていた。
そのうえ、その姿は騎士の最後としてはあまりに無残なものだった。
頭部を覆っていたであろう兜、胴を覆っていたはずの鎖帷子、剣帯も、外套も見当たらない。肩口や脇腹には、革紐を刃物で断ったらしい細い跡だけが残り、濡れた下衣が泥に張りついていた。膝から下の泥のつき方も不自然で、そこだけ色が違っている。つい先ほどまで革の長靴に覆われていた場所なのだろう。
その体にはもう、価値あるものなど何一つ残されていなかった。
それは、殺された後のことなのか、あるいは、まだ息があったうちに手をかけられたのか。
だが、この男の名や身分、ましてや死んだ後の尊厳など、襲撃者たちにとっては、何の意味も持たなかったことだけは分かった。
雨は、断ち切られた革紐の端を小刻みに揺らしていた。
おそらくは隊商と行動を共にしていたのだろう。
だが、彼が討たれていたのは、死守すべき防衛線でも、敵が襲来したであろう方角を睨む場所でもなかった。
馬車から離れ、ただ一本道の先だけを目指したかのようなその不自然な姿を見れば、ここで何が起きたのかは誰の目にも明らかだった。
そこから遠くない場所には、彼の部下と思しき従士たちの亡骸も散乱している。
グレゴリウスは、物言わぬそれらを見下ろした。
蔑みというより、もはやその存在すら許さないものも見る目だった。その表情には、御し難い感情を抑えきれずに滲み出る怒気が感じられた。
一方、ヴィクトルは言葉を失い、その先にかすかに見える馬車の一群へ目を向けていた。その肩が、震えを帯びていることに、フェリシアは気づいた。
フェリシアは湧き上がる恐怖を胸の奥に押し込め、さらに歩みを進めた。
その先には小雨が降り続き、不快な湿気に混じって、重苦しい死臭が漂っていた。
アルトレウス家に仕えていた騎士や従士の家族、そして隊商の商人と思しき人々が倒れていた。
雨に濡れ、泥にまみれ、もう声を上げることもない人々が、壊れた馬車と散らばった荷の間に横たわっている。
――まるで、死の神タナトスに先回りされているかのよう……
年端もゆかぬ子供から年老いた者まで、かの神は分け隔てなく、その魂を連れ去っていったらしい。
今日一日で、一体どれだけの死に直面しただろう。そして、この終わらない悪夢はいつまで続くのだろうか。
フェリシアはほとんど反射的に、まだ息のある者を探して周囲に視線を走らせた。死に覆われたその場の空気を、少しでも払い除けたかった。
そのとき、不自然に横倒しになった馬車の荷台が目に留まった。駆け寄った彼女の視界の端で、積み上げられた干し草がわずかに動いた。
フェリシアは祈った。生存者であってほしい。どうか、まだ息のある誰かであってほしい、と。
だから、背後からのグレゴリウスの制止も、彼女の耳には届かなかった。
濡れた干し草をかき分ける。
その下にいたのは、アスターナだった。
フェリシアはさらに草を払い、怯える少女へと両腕を差し入れた。
「もう大丈夫。こっちへ」
出てきた声は、自分でも驚くほど低く、知らない人の声かのようだった。本当に自分の口から発せられたものかと疑うほどだ。
優しく声をかけたつもりなのに、喉の奥が恐怖と悲しみで詰まり、うまく言葉にならなかったのだ。
アスターナは外へと引き出されるや否や、すぐに周囲を見回そうとした。
「父様は……父様が近くにいたはずなのです。助けてください!」
その言葉を聞いた瞬間、フェリシアは反射的に目をそらした。同時に、すぐ後ろにいたグレゴリウスが、アスターナの視線を遮るように一歩前へ出た。
フェリシアは一瞬、グレゴリウスに助けを求めようとした。だが、すぐに思い直す。
目の前にいるこの少女は、確か自分と二つしか違わなかったはずだ。
ならば、大人に任せるより、自分が言うべきなのではないか。
何を伝えるのか。どう伝えるのか。
どうするのが一番良いのかは分からない。
それでも、今ここで目を逸らしてはならないのだと、フェリシアには思えた。
「助けることは……できませんでした」
フェリシアは、言葉に詰まりながら言った。
その言葉にアスターナは振り向こうとした。だが、フェリシアはその肩を抱き寄せた。見せないために。
アスターナはそれですべてを悟ったのか、声を押し殺すように、肩を激しく震わせ始めた。
見たくない現実から逃げるように、彼女はフェリシアの胸元へ顔を押しつけた。
最初は、嗚咽さえ漏らすまいとしていた。けれど、フェリシアの腕に支えられた瞬間、張り詰めていたものが切れた。
「う、あ……、あぁ……っ」
言葉にならない声が、雨音の中にこぼれた。
アスターナの手が、フェリシアの衣を強く掴む。
離せば、今度こそ本当に独りになってしまうとでもいうように。
しばらく、二人はそのまま動けなかった。
アスターナの体は震え続け、フェリシアは何も言えないまま、その背をさすり続けた。
かけるべき言葉など、見つからなかった。
ただその時になって、フェリシアはようやく気づいた。
本当は、自分もこんなふうに泣きたかったのだと。
* * *
ヴィクトルは、泥の中に膝をついていた。
雨に濡れた背中は丸まり、普段なら軽口とともに揺れているはずの肩は、今はぴくりとも動かない。
その腕の中には、古びた外套が抱えられていた。
フェリシアとグレゴリウスは、少し後ろに立ち尽くしたまま、その背中を見つめることしかできない。
外套には、大小二つの紋章が刺繍されていた。
華美な装飾とは無縁の実用本位な――もっとありていに言えば、ありふれた見た目の外套だ。だが、一針ずつ丁寧に縫い込まれたそれは、雨に濡れ、泥と血に汚れてもなお、縫い手の込めた思いまで色褪せさせることはなかった。
もともとそれを抱えていた老女は、もう動かなかった。
槍に貫かれ、泥の上に倒れてなお、その手は外套を胸に抱くように固まっている。おそらく、最期の瞬間まで手放さなかったのだろう。
ヴィクトルは、その外套を母の硬直した腕からそっと外し、今は自分の胸に抱きしめていた。
何も言わない。ただ、冷たい雨だけが彼の髪と肩を濡らしていく。
「あそこで斃れているのが、ヴィクトルの御母堂です」
横に立つグレゴリウスが、フェリシアにだけ聞こえるような微かな声で耳打ちをした。
フェリシアは声をかけようとして、唇を噛んだ。
彼にとって、あの女性が唯一残された肉親だということは耳にしていた。年老いた母親を、彼がとても大切にしていたということも。
だからこそ、この光景を前にして、どのような言葉をかければよいのか分からなかった。いや、こちらから声をかけること自体が躊躇われた。
隣のグレゴリウスもまた、それ以上は何も言わず、じっとその場に佇んでいる。
しばらくの間あたりを支配していた沈黙を破り、やがてヴィクトルが小さく息を吐いた。
「これは……、母が、俺のために縫っていたんです」
掠れた声だった。
彼は外套の刺繍に視線を落とす。
「大きく描かれたアルトレウスの紋章と、こっちがうちの家、シルミウムの紋。どっちも背負って帰ってこいって、そういうつもりだったんでしょうなぁ」
そう言って、ヴィクトルはいつものように笑おうとしたが、それは乾いた笑いにすらならなかった。
ヴィクトルはゆっくりと立ち上がった。
濡れた外套を胸に抱いたまま、母の亡骸を静かに見下ろす。
三男として、それまで何にも縛られずに自由に振る舞っていたヴィクトル。だが、父と兄たちを亡くした今、家を継ぎ、騎士の役目を負うこととなった。それは残された母を守るためであり、それだけが彼を騎士たらしめる唯一の理由だった。
その道が、今、目の前で無残に断たれた。
だが、その横顔には、迷いも怒りも見当たらなかった。さりとて、いつものように親しみ深い軽口を叩くような雰囲気も、そこにはない。
ただ、戻る場所を失った者だけが纏う、底知れない静けさがあった。
「お嬢」
ヴィクトルはもう一度膝をつき、泥に沈んだ母の体をわずかに整え、硬くなった両手を、何とか胸の上で組ませた。
そして感情の起伏を奪われたような声とともに、ヴィクトルが振り返った。
「行きましょう。この状況です、埋葬は諦めましょう」
それは、いつもの調子で主を促す言葉ではなかった。
ヴィクトルは、母の形見となった外套をより強く掴んだ。それは彼にとって本意ではないことを物語っていた。
「俺にはもう、戻る家は無くなりました」
激しい雨音の中で、その声だけが妙に、はっきりと響いた。
「いまの俺は、お嬢が目指す場所と同じ方を向いとると思います。
なら、お嬢が目指す場所へ連れて行ってください。
――俺はようやく、腹をくくりましたんで」
ヴィクトルの言葉を聞いた瞬間、フェリシアはその意味を察した。彼は自分がこのまま、どこかの誰かに庇護を求めることなど望んでいないのだろう、と。
指先が、自然と懐のあの書状へ伸びていた。
グレゴリウスは、兄セバスティアーヌスが最後に向けた信頼を、命令以上のものとして受け取っているのだろう。
そしてヴィクトルも今、戻る場所を失って、自分の隣に立とうとしている。
――この二人なら、自分が抱え込んだこの途方もない企てに、ついてきてくれるだろうか。
「明かりを灯さずに来たのは正解でした。すぐにここを離れるべきです」
そのヴィクトルの言葉にフェリシアはグレゴリウスにも意見を聞こうと隣を仰ぎ見る。
「それがよろしいかと。この状況では恐らく今は東へは渡れそうもありません」
「そう。では皆を集めて。この道はもう進めません」
そう答えるとフェリシアは少し離れた場所に繋いでいた愛馬マクシムに跨ると、途中、泣き疲れて木にもたれ掛かっていたアスターナを自分の後ろへ乗せた。
アスターナを加えた一行は、九名と一頭になっていた。フェリシアの先導のもと来た道を引き返す方向へと歩みを進め始めた。
もう帝国内に居場所はない。それでも今はどこかにいったん潜んで機会をうかがうしかない。
馬上でフェリシアは、あの書状を手で確かめていた。
何度も握り潰し、皺だらけになったのに、まだ捨てられずにいるあの親書を。
近いうちに打ち明けなければならないと思っている。
もちろん、二人を信頼していないわけではない。
だが、自分の目指すものは、彼らの想像を遙かに超えてしまっているのではないか。そんなものにはついていけない。そう言われるかもしれない。
そう考えると、まだそれを伝える勇気がなかった。
フェリシアが向かうその先は、ただ逃げ延びるための道ではない。
アルトレウスの名を背負い、血塗られた道を進む、修羅の道だった。
それを打ち明けてもなお、ヴィクトルとグレゴリウスは、自分の傍に立ってくれるだろうか。
共に来てくれるだろうか。
フェリシアは書状の感触を、もう一度指先で確かめた。
それは胸に秘めた思いを確かめるようでもあった。




