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アルトレウスの娘 ~アグニシア戦旗~  作者: 名も無きサルカズ
アルトレウスの娘

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第27話 塞がれた道


 帝国歴467年7月25日 夜


 草むらの陰から見える領境の道は、急ごしらえの関所によって塞がれていた。松明の火が、そこにいくつも揺れている。


「やはり、塞がれておりますな」


 低い声で、ヴィクトルが言った。


 フェリシアは彼の少し後ろに膝をつき、同じように封鎖された道を見つめたまま、小さく頷いた。

 驚きはなかった。むしろ、確認が一つ済んだというだけの反応だった。


 援軍は寄こさなかった。

 だが、ここには巡検隊を置き、道を塞がせている。

 それが何を意味するのかは、火を見るよりも明らかだった。

 

 帝都へ行ってはならない。

 母のあの時の言葉を、改めて思い出した。


 ――見捨てただけでは飽き足らず、ここで死ねとでも言わんばかりだ。


 悲しみが湧かなかったわけではない。だが、今その感情に足を取られてしまえば、次に選ぶべき道さえ失ってしまう。

 フェリシアは胸の奥に沈みかけたものを押し留め、改めて関所とその周囲に目を凝らした。


 このまま帝都へ向かうつもりはない。それでも、この街道を使えないとなれば、進路はさらに限られる。


「あれは巡検隊の連中ですね」


 フェリシアの斜め後ろに控えていたグレゴリウスが、声を落として補足した。

 三人の中で最も体の大きいグレゴリウスは、自然と一歩後ろに控えていた。前に出れば、二人の視界を塞いでしまう。


 巡検隊――帝国直轄領の治安維持と防衛を担う部隊である。


 フェリシアは前にいるヴィクトルへ視線を向けた。


「迂回しましょう」


 ヴィクトルは、躊躇なくそう進言した。

 フェリシアは迷うことなく頷いた。

 ここで時間を費やしても意味はない。彼女は音を立てぬように身を引き、草むらの陰できびすを返した。




  * * *


 ハミリ・パンフィロスは、馬車の前方に張り出した御者台に、番頭と並んで腰かけていた。


 手綱を握るのは番頭で、ハミリはその横から前方の闇に目を凝らしている。

 彼は馬車の幌の内側に身を沈め、荷と護衛に囲まれてふんぞり返るような商人ではなかった。


 帝都方面へ抜ける迂回路の一つでもあるこの道は、東大陸の商人たちにはよく知られている。

 帝都を経由せず、東側から西側へ荷を流す者たちが使う道でもあったからだ。


 その先には、漁港がある。

 表向きは近隣の漁村と帝都周辺を結ぶ小さな港に過ぎない。だが、商人たちの間では、時に荷の出所も行き先も曖昧なまま船へ積み替えられる場所として知られていた。


 ハミリの本当の行き先は、帝都ではない。

 その漁港――ボスポラス漁港だった。


 もちろん、そのことを、成り行きとはいえ護衛名目で同行を許したアルトレウス家の騎士デメトリオスと、その従士たちには伝えていない。

 彼らには、帝都へ向かう分かれ道まで同行してもらい、そこで別れればよい。


「旦那様」


 隣で馬の手綱を握る番頭が、ただの世間話をするには少し真面目すぎる顔で主に呼びかけた。

 誰かに聞かれることを警戒するように周囲へ目を走らせ、それからようやく言葉を続ける。


「アルトレウス家を取り巻く状況は、我々が思っているよりもはるかに悪いようですね。

 ……いや、悪いなどという悠長な話ではありません。ここまでくると、我々東大陸商人にとっても致命的な事態ではありませんか」


 ハミリは否定しなかった。自分たちがまだこんな場所で馬車を走らせていること自体、相当に危うい状況だと分かっていたからだ。

 迂闊だった。

 決断が後手に回りすぎた。

 昨日からずっと、同じ後悔の念が頭を駆け巡っていた。


「女帝陛下の密命により献上した、あの牝馬の件ですが……」


 肯定も否定もしないハミリの沈黙を、番頭は、話を続けろという意味に受け取った。


「アルトレウス側には、もう少しはっきりと伝えるべきだったのかもしれません。

 あの献上の意味を、エウスタティウス殿が正しく理解していたとは思えませんでした。

 そして、この状況です。本来なら、その重大性を考えれば、アルトレウス側でしかるべき対処をされていて当然なのですが……」


 番頭の言葉の意味は分かっている。


 しかるべき対処。

 それはつまり、最悪の場合を想定し、あの牝馬を誰の手にも渡らぬようにすることだ。


 端的に言えば、処分することだった。

 それがどれほど惜しく、どれほど非情であろうとも。


 だが、そもそもアルトレウス家があの馬の意味を、カッスクリアの女帝陛下がどのような思いを込めてあれを贈ったのかを理解していなければ、適切な判断など望むべくもない。


「あの場では、ジュリアーヌス殿だけは気づいておられたようだが……どうだろうな」


 番頭に聞こえるかどうかの小さな声で、ハミリはつぶやいた。


 その時、荷台の幌が小さく揺れた。


「父様」


 やや幼い声がした。

 ハミリが振り返ると、アスターナが幌の隙間から顔を出していた。膝に毛布を抱えたまま、不安そうにこちらを見ている。


「あの馬を、殺さないといけないの? そんなの可哀想……」


 「大人の会話に子供が口を挟むものではない」と退けてもよかった。

 だが、アスターナはハミリの娘だ。

 いずれ商会の表も裏も、知らずには済まされない立場にある。こうしたことも今のうちに覚えておいた方がよい。

 ハミリは娘に視線を向けた。


「我がカッスクリアでは、外へ出せる馬は原則として、繁殖力を持たぬ騸馬せんばのみ。

 血を国外へ渡さぬ――。

 それは、ただの商いの決まりではない。国の定めだ」


 そこで説明を一度切り、ハミリは革袋を手に取って水を口に含んだ。朝から出来事が続きすぎて、喉の渇きにすら気づかずにいた。


「密命とはいえ、その国策ともいえる決まりを破る形での牝馬の献上だ。

 それが万が一、敵に渡ったとあらば、我らも責めを負わされかねないのだよ」


 いずれにせよ、ここは速やかに本国へ戻る手段を確保しなくてはならない。


 ハミリがそう考えた矢先、隊商の先頭付近で不意に喚声が上がった。


 次いで、金属のぶつかる音。

 短い悲鳴。

 馬がいななき、前列の馬車が急に止まった。


「何事だ!」


 番頭が手綱を引き絞るより早く、先頭を歩いていた護衛の数人が闇の中へ引き倒されるのが見えた。松明の明かりが乱れ、影がいくつも道の上を走る。


「敵襲だ!」


 誰かが叫んだ。


「前列、俺に続け! 副長は馬車を守れ!」


 その声に反応して、護衛の隊長格の男が指示を飛ばしながら駆け出した。彼に続いて隊商の護衛たちが前へ駆け出す。

 十五人ほどいた護衛のうち、半数近くが先頭へ向かった。判断としては間違っていないはずだ。最初に斬り込まれたのは隊列の前であり、放っておけば道を塞がれる。


 だが、その瞬間、ハミリは嫌なものを感じた。


 ――隊列が長い!


 自分たちの隊列が、いつもよりかなり長いのだ。


 もともとの隊商だけではない。アルトレウス家から逃れてきた者たちも加わり、馬車と人の列は、普段なら考えられぬほど間延びしていた。前に人数を取られれば、中央が薄くなる。


 そして、敵がそれを見逃すはずがなかった。


「旦那様、左!」


 番頭が叫んだ。

 闇の中から、男たちが現れた。

 左だけではない。右にもいた。


 革鎧、鎖帷子、拾い物らしい兜。装備は揃っていない。旗もない。だが、動きは素人のものではなかった。道を塞いだ先頭の襲撃に護衛を引きつけ、薄くなった本体の両脇から食いついてくる。


 正規軍ではない。だが、ただの野盗でもない。


 ――傭兵か。


 ハミリは顔をしかめた。

 それほど涼しくもない夏の夜だというのに、背中を冷たい汗が流れ落ちた。


 数で負けている。質でも勝ってはいない。こちらの護衛は荷を守るための者たちだ。野盗程度ならどうとでもなるが、夜道で伏撃を仕掛けてくる戦争屋の連中を相手にできるような者たちではない。

 しかも、半数は前へ吊り出された。

 今、馬車の周りに残っている者だけでは、押し返せない。


 だが、こんな時のために――。


 アルトレウス家の騎士デメトリオス。

 あの男とその従士たちの同行を許したのは、押し切られたからだけではない。

 まさに、こういう事態に備えるためでもあった。


 ハミリは咄嗟に振り返った。

 剣を抜いて立ち塞がる騎士の姿を確認するために。


 だが、そこに剣を抜いて立ち塞がる騎士はいなかった。

 見えたのは、本来の持ち場からさらに後方で、敵に背を向け、隊列の奥へ逃げ込もうとするデメトリオスの姿だった。

 その口は従士たちに何事かを叫んでいたが、何を言っているのかまでは聞こえない。

 従士たちも、一瞬戸惑っていたが、結局は背を向けた主人を追いかけ、次々と走り出していた。


 ハミリは、声を失った。

 呆れだけではなかった。怒りでも、まだ足りない。


 ――終わった。


 少なくとも、この場を正面から支えきる力は、もうない。


 隊商を率いる者として、万が一の事態を考えなかったわけではない。

 だが、いざそのときが来ると、人の心はそう簡単には割り切れるものではない。

 商会にとっても、自分自身にとっても、これからが正念場のはずだった。

 そのはずだったのに、幕切れはあまりに唐突で、あっけなかった。


 ――だが、いつまでも立ち尽くしているわけにはいかない。


 ハミリは振り返った。


 荷台の幌の隙間から、アスターナが顔を出していた。何が起きているのか理解しきれていない。ただ、父の顔を見て、いつもの冗談が返ってこないことだけは悟ったのだろう。


「父様……?」


「降りなさい。急いで!」


 状況を理解しきれぬまま、父の剣幕に押されて荷台から降りてくるアスターナ。番頭が手綱を放り、彼女を受け止める。

 馬車の前方では、すでに護衛の一人が脇腹を押さえて膝をついていた。別の男が助けようとして斬りかかられ、松明が地面に転がる。

 まだ護衛隊の副長が踏みとどまっている。だが、このままでは、護衛たちが崩れるのも時間の問題だった。

 その前に……


「この干し草を積んだ馬車を倒してくれ!」


 ハミリは、周囲で立ち尽くしていた使用人たちに指示を飛ばした。

 一瞬の空白の後、数人が飼い葉用の干し草をうず高く積んだ馬車へ群がる。


「馬を外せ! 間に合わなければ革帯を切れ!」


 革帯の金具が外され、解放された馬が脇へ逃がされた。

 残された荷台に男たちが取りつき、片側から一斉に押した。


 車軸が軋む。

 木枠が悲鳴を上げる。


 次の瞬間、馬車はぐらりと傾き、重い音を立てて横倒しになった。

 荷台から大量の干し草が崩れ、乾いた草の匂いと粉塵が夜気に広がる。


「アスターナ」


 ハミリは娘の肩を掴んで「この中へ入れ」と強引に誘導した。

 体を引きずられるように引っ張られ、アスターナは唇を震わせながら、干し草の奥へ身を縮めた。

 ハミリはその上から草を被せた。番頭も手を貸し、外から見ればただ荷が崩れたようにしか見えぬ形に整えていく。


 ――略奪が目的だとしても、嵩張かさばるだけの干し草なら目もくれないだろう。


 それからハミリは、荷台の隅に置いてあった水袋を掴んだ。

 水をかける。

 干し草に水を含ませ、さらに無価値なものにする。安易に火を放たれても、少しは燃えにくくなる。

 だが、この程度の水でいったい何が防げるというのか?それはハミリにも分かっていた。


 そう思ったその時、頬にぽつりと、冷たいものが触れた。雨だ。


 ――これは天祐だな。


 ハミリは、普段なら思い起こすことすら稀な水の女神テティスに、不遜にも感謝した。


 アスターナが小さく息を呑む気配がした。

 ハミリは干し草の隙間へ顔を近づける。


「声を出すな。何が聞こえても出るな。たとえ私が呼んでもだ」


 干し草の奥で、娘が泣きそうな目をしているのが見えた。


「父様……」


「よいか。息を小さくしろ。口を手で塞げ。絶対に動くな」


 アスターナは何度も頷いた。

 頷くしかできなかった。


 ハミリは最後にもう一度だけ干し草をならし、濡れつつある干し草の束を上から重ねた。これで見つからぬとは限らない。槍で突かれれば終わる。火をかけられても、長くはもたない。

 それでも、何もしないよりはましだった。


 それから、番頭の方へ振り返った。

 残っている者たちにも、最後の指示を与えなければならない。


「お前は残っている者を連れてここを脱出しろ!」


 番頭が目を見開いた。


「旦那様は」


「私は残る」


「しかし……」


「この太った体では、お前たちについていくことなどできん。ならば、横倒しにした馬車の陰に潜んでいる方がまだましだ」


 しかし番頭はなお、決心がつかないのかその場を離れられずにいた。

 そのとき、遠くでまた悲鳴が上がった。

 今度は近い。


「早くしろ。ここで二人並んで死んでも、何の役にも立たん」


 番頭は深く頭を下げた。

 それは長年仕えた主に対する礼であり、同時に、二度と交わされることのない別れの挨拶でもあった。

 次の瞬間、彼は身を翻し、まだ動ける者たちへ向かって走った。

 

 ハミリは馬車からこぼれ落ちていた小さな木箱を拾い上げ、胸に抱えた。


 ――こうして抱えていれば、何か価値のあるものを必死に守っているようにも見えよう。


 実際の中身は、ただの薬箱だ。彼はそれを抱え込んだまま、先ほど横倒しにした馬車の車体に背をもたれかけさせ、その場に座り込んだ。


 あの程度の作業で、早くも息が上がっている。己の体力のなさ、そのあまりの不甲斐なさに胸の内で自嘲した。

 今、自分がどれほど惨めなつらをしているか。それを想像しただけで、口元から乾いた失笑が漏れた。


 その乾いた笑いは、闇の向こうから近づく無数の足音によって掻き消された。



 

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