第26話 手向け
「敵襲――ッ!」
ヴィクトルはそう叫ぶのと同時に、目の前の従士に槍を突き立てていた賊を一刀のもとに斬り伏せた。
その声に、その場の全員が鋭く反応した。
それまで束の間の休息を取っていた彼らは、瞬時に意識を切り替える。慣れた手つきで武器を手にし、敵の位置を探る動きに移っていた。
その動きに、ためらいはなかった。彼らは皆、修羅場に慣れた男たちだった。
フェリシアはまだ、目の前で槍に貫かれた従士に視線が釘付けになったままだった。
背後の賊をヴィクトルに斬られ、槍に貫かれた従士は支えを失ってそのままフェリシアの方へ倒れかかってきた。
倒れてきた従士を、フェリシアは咄嗟に受け止める形になった。
血飛沫が顔にも胸元にもまともに降りかかったが、そんなことを気にする余裕はなかった。
従士の体を抱えながら地面に倒れ込んだ。だがすぐに身を起こし、彼を抱き起こそうとした。
――血が止まらない!
傷口からあふれ出す血を見て、フェリシアは慌てて手を当て、圧迫するように押さえた。だが、フェリシアの細い手程度の力では、その血は止まりそうになかった。
どうすればいい。どうすれば――。
その瞬間、不意に脳裏へよみがえったのは、館の中庭で騎士たちが訓練していた時の光景だった。
作法の習いごとなどという退屈な時間にはしばしば抜け出し、彼らの訓練を見学していた。
ただ眺めているだけでも、作法の稽古よりずっと楽しかった。騎士たちと言葉を交わせるなら、なおさらだった。
その時、しばしば落馬だか木剣の事故だかで怪我をする者がいた。そんなときには周囲の者たちがすぐに駆け寄って布を裂き、傷口の上をきつく縛って血を止めようとしていた。誰かが「まず縛れ」と怒鳴っていた声まで、妙にはっきりと思い出された。
フェリシアは咄嗟に自分のスカートの裾へ手をやった。
震える指で布を掴み、力任せに引き裂く。びり、と乾いた音がした。上等な衣が歪に裂けたが、そんなことを気にしている場合ではなかった。
裂いた布を丸め、傷口に押し当てる。さらに残った布を彼の体へ回し、上から締めつけるように縛った。うまく結べない。指先は血で滑り、布は思うように締まらない。それでも歯を食いしばり、何とか強く巻きつけた。
すると、先ほどまで噴き出すようだった血の勢いは、いくらか落ちついた。
だが、それでもまだ止まらない。布はたちまち赤黒く染まり、血はその布を伝って流れ落ちてきた。
フェリシアは、縛り上げた上からさらに両手で強く押さえ込んだ。掌の下で、従士の体から熱が抜けていく。それが彼の命の灯火そのものであるかのように思えて、彼女の胸を冷たく締め付けた。
駄目だ。このままでは駄目だ。
誰か、誰かいないの――。
息を詰めたまま顔を上げ、フェリシアは必死に周囲を見回した。闇の中で男たちが怒号を上げ、刃がぶつかり、影が入り乱れている。誰を呼べばよいのか一瞬分からなくなりかけた、その時だった。
ヴィクトル――。
真っ先にその名が浮かんだ。
こういう時、真っ先に動き、何でも器用にこなすのは彼だ。戦の最中でも、混乱の中でも、あの男だけは不思議と頭が回る。フェリシアにとって、それは半ば無意識の確信だった。
「ヴィクトル……!」
喉が張りつき、声がいつもの感覚とは違う。それでも、縛った布の上からなおも傷口を押さえ込みながら、フェリシアは血に濡れた顔を上げ、必死に彼の姿を探した。
* * *
ヴィクトルたちは、すでに敵をあらかた掃討しつつあった。
いきなりの奇襲で損害こそ出したが、相手は戦闘に慣れた者たちとは、まるで違った。
勢いで突っ込んできただけの、まともに武器の扱い方も知らないど素人だった。
暗くて初めはよく見えていなかったが、まともな鎧も身につけていない。ひどいものになると、藁を綱で腹に巻き付けているだけの者までいた。武器も不揃いで統一感はない。それどころか、武器というより農具を手にしただけという者まで混じっている。
先頭近くにいた一人が、やけくそ気味に喚きながらヴィクトルへ斬りかかった。
だが太刀筋は荒く、足も浮いていた。ヴィクトルは半歩だけ身をずらしてそれを受け流すと、返す刃を肩口から深く叩き込んだ。賊は二、三歩よろめき、そのまま地に崩れ落ちた。
すぐ隣では、グレゴリウスもまた一人を討ち倒していた。
敵は数でこちらの倍はいたようだった。
だが、ヴィクトルとグレゴリウスを中心とするこの一団の力量を目の当たりにした賊どもは、数名が討ち取られた時点でもう浮足立っていた。
そこから先は早かった。踏みとどまる者はなく、ほどなくして敗走が始まった。
戦の帰趨が定まった今を好機と見た農民崩れが、即席で野盗に化けて火事場泥棒を決めこんだ――そんなところだろう。
ヴィクトルはそこらにころがる物言わぬ骸となり果てた賊の一人を上から見下ろしながら、そう分析した。
勝ち負けが見えた途端に湧いて出て、弱った敗者からもぎ取ろうとする。そんな連中は、傭兵にも劣る。
ヴィクトルは昔から、そう嫌悪していた。
そしてあらかた片付いて一息つけそうなその時だった。
「ヴィクトル……!」
近くでフェリシアの声が聞こえた。
声の主を探そうと振り返ると、倒れた従士を抱きかかえて必死に止血しようとしているフェリシアの姿が目に飛び込んできた。
ヴィクトルは、はっと我に返った。
誓いを立てた舌の根も乾かぬうちから、守るべき主を危険にさらしている。
賊を斬ることに意識を奪われ、またしても彼女から目を離していた。
その事実が、ヴィクトルには情けなく、恥ずかしかった。叱責されて然るべき失態だった。
しかし、ヴィクトルの名を呼んだ当のフェリシアの行動は、彼の予想の外にあった。
「助けて! 彼の血が止まらないの! お願い早く!」
槍で後ろから貫かれたのは、ヴィクトルの従士の一人だった。
フェリシアはその従士を抱きかかえるようにしながら、傷口へ必死に手を押し当てている。
フェリシアの服は返り血で赤黒く濡れ、べっとりと肌に張りついていた。
その返り血も気にせず、彼からあふれ出ている血を必死に止めようとしている。自力でそれがかなわないと判断するや自分を呼び、助けを求めていた。
「お嬢……」
ヴィクトルは急ぎ駆け寄り、瀕死の従士の傍らに膝をついた。そしてフェリシアの肩に手を添えた。
――これは俺の責任だ。俺が引き取らないといけない……。
ヴィクトルは、ゆっくりとかぶりを振った。
「……もう、この者は手遅れです」
* * *
フェリシアは、その言葉を口にしたヴィクトルを見上げた。
ヴィクトルの言葉にすぐには理解が追いつかなかった。一呼吸おいてようやく意味が呑み込めた時、心臓が強く脈打った。
――そんなはずがない、認めてしまえばすべてが終わる――。
フェリシアはヴィクトルの言葉を遮るように、いっそう強く従士の体を抱きしめた。
「嘘……だって、まだこんなに温かいのよ。手を離したら、本当に死んでしまう。お願いヴィクトル」
掌からあふれる血を、まるで命を繋ぎ止める糸であるかのように必死に堰き止めようとする。
フェリシアは、虚空を見つめるように曇っていく従士の瞳を、じっと見つめた。その瞳にはもう何も映してはいないのかもしれない。
その時だった。瀕死の従士が最後の力を振り絞るように、微かに腕を持ち上げ、かすれた声で訴えかけた。
「…フェリシア様。…どうか、お慈悲を……」
その言葉でフェリシアはようやく悟った。自分がしていることは、ただ彼の苦しみを長引かせるだけなのだと。
フェリシアはその言葉が途切れるよりも早く、今にも力尽きそうで冷たくなった彼の手を右手で握りしめた。
そして、彼に何か伝えようとして言葉に詰まり、慌ててヴィクトルの方へと振り向いた。
「……パウロス。彼の名です」
フェリシアの意図を察したヴィクトルは、即座に答えた。
フェリシアは頷いた。そして彼に向かい直り、一度目をつむり、息を整える。それから、ところどころ詰まりながらも、はっきりとパウロスのために祝詞をささげた。
「…パウロス。我が勇敢なる戦士よ。ここまでよくついてきてくれました。
そなたのその勇気と献身をここに称えます。
天上のイグニスよ、ご照覧あれ。
その肉体が母なる大地へと還ろうとも、その栄誉は永遠のものなれ。
我、ここに証人として神々に祈りを捧げん……」
そしてフェリシアは先ほどグレゴリウスから受け取ったあの紋章入りの短剣を取り出した。彼を苦しみから早く解放するために。
ヴィクトルとグレゴリウスは慌ててそれを制止しようとした。
「お嬢、こいつは俺の従士です。ここは俺が…」「フェリシア様。ここはわたくしにお任せください!」
しかしフェリシアは二人の制止に首をはっきりと振った。
「パウロスは、この私に最後の旅立ちを見届けることを求めたのです。これは私の務めです」
毅然としたフェリシアのその言葉に決意の強さを感じとると、二人ともそれ以上何も言えなくなった。
彼女は短剣を鞘から抜き、パウロスの上半身を抱き起こして後ろから支えようとした。
それを見てヴィクトルは手早くパウロスの肩へ手を差し入れ、ゆっくりと上体を起こした。ぐったりと力の抜けた体は重く、支えを失えばそのまま地へ崩れそうになる。
フェリシアも反対側へ回り込み、膝をついてその背を抱えるように支えた。
パウロスの苦痛の表情とは裏腹に、その体から伝わる熱は少しずつ失われていった。先ほどまで確かに抗っていた命が、指のあいだから零れ落ちていくようだった。
ぬるい血が、指先から袖へと染みていく。
ヴィクトルは一瞬だけ目を閉じ、それから短く言った。
「首筋です。深く迷わず。……一息で」
フェリシアの喉が小さく鳴った。
ヴィクトルはさらに、パウロスの顎をわずかに上げて角度を作りながら、続けた。
「ためらえば、それだけ長引きます」
フェリシアは唇を強く結んだ。
パウロスの唇が、かすかに動いた。もう声にはならない。ただ息が漏れた。その顔に浮かんでいたのは恐怖ではなく、かすかな安堵にも似たものだった。
フェリシアは短剣を持つ手に力を込めた。
「……パウロス、どうか、安らかに」
その名を呼び、もう一度だけ彼の顔を見た。
そして意を決すると、首筋へ刃を当てた。
一瞬だけ目を閉じて息を大きく吸いこんだ。その直後、目を見開き、ためらいを断ち切るように一気に刃を引いた。
パウロスの首筋から血が一気にあふれ出し、やがて張り詰めていたものが切れたように力が抜けた。
フェリシアは短剣を取り落としそうになりながら、それでも両腕で彼の体を支え続けた。肩口に額が触れるほど近く、温もりが急速に失われていくのがわかった。
つい数日前までは、このような修羅場に身を置くなど想像すらしていなかった。この数日、特に昨日からの出来事は、経験したことのない展開の連続だ。
感情が追いついてこないうちに次々と新たな局面が自分に襲い掛かってくる。そんな感覚だった。
なので彼が安らかに逝けたのか、それを感じる余裕はフェリシアにはなかった。
「……お見事にございます」
それは慰めでも、お追従でもなかった。主としてその役目を果たした者へ向ける、騎士なりの言葉だった。
だがその声は彼女に届いていないのか、フェリシアはそれにも答えず、しばらく血に濡れた手でなおパウロスの肩を抱いていた。
やがて顔を上げてヴィクトルに問いかけた。
「パウロスの埋葬はどのようにすればよいのですか」
「戦場でこのような場合には、その地にそのまま埋葬するのが倣いです」
“このような場合”――戦況ままならず、戦友の亡骸を持ち帰ることが困難な状況。
フェリシアはその含意を即座に汲み取り、「では、そのように」と頷いた。
そして周囲を見渡し、背の高い大きなオークの木を見つけると、そちらを指さした。
「あの木の近くに埋葬しましょう。あの木なら母なる大地に帰る手助けをしてくれるに違いありません」
「ならば出来るだけ根元に深く埋めてやりましょう。狼の群れに掘り起こされぬように……」
そう答えたグレゴリウスの手には、先ほどの賊どもが遺棄した鍬がすでにあった。
* * *
オークの大樹の根元近くには、すでに浅からぬ穴が掘られていた。
湿り気を含んだ土の匂いが夜気に混じり、鍬で掘り返された黒土が傍らにうず高く積まれている。
パウロスの亡骸は、ヴィクトルとグレゴリウスの手で静かにその中へ横たえられた。
血に濡れた衣は土の上でなお黒く光り、閉じられた瞼はもう二度と開くことはない。
フェリシアは穴の傍らに立ち尽くし、その姿をじっと見下ろしていた。
つい先ほどまで、自分の腕の中で苦痛に喘いでいた男が、今はこうして土へ還されようとしている。
短い時間だった。
名を知ったのも、最期の願いを聞いたのも、ほんのわずかな間のことに過ぎない。
ヴィクトルが無言で土をかけようと、一歩前へ出る。グレゴリウスもまた鍬を持ち直し、続こうとした。
「待って」
フェリシアの声に、二人の動きが止まった。
闇の中で、皆の視線が彼女へと集まる。
フェリシアは何も言わず、短剣へ手を伸ばした。つい先刻、パウロスを苦しみから解き放つために使ったばかりの、形見の刃だ。
ヴィクトルが目を見開いた。
「お嬢……?」
だがフェリシアは答えなかった。
左手で自らの後ろ髪をひとまとめに掴む。煤と汗と血で乱れた赤褐色の長い髪は、いつもより重く感じられた。
次の瞬間、その髪束へ一瞬のためらいもなく刃を当てる。
ざくり、と鈍い感触が手に返った。
既にパウロスの血で塗れた短剣では、上等な絹糸を断つようにはいかない。何度か刃を引き、押し込み、ようやく太い髪束が断ち切られた。
肩口のあたりで不揃いに断たれた髪が、夜風に乱れて頬へ張りついた。
一方、切り落とされた髪束は、彼女の手の中でかすかに揺れていた。
フェリシアはそれを見下ろし、それから静かに、パウロスの眠る穴の中へと投げ入れた。
赤褐色の髪は、煤にくすみながらふわりと舞い、土と血に汚れた亡骸の傍らへ落ちた。
誰もすぐには言葉を発せなかった。止めることもできなかった。止めるべきでないとさえ思えた。
その沈黙の中で、フェリシアだけがまっすぐ前を見ていた。
「……これから先、長い髪は邪魔になるでしょう」
そう口にした声は、驚くほど静かだった。
「これは、パウロスのこれまでの献身と、これより先の旅路への手向けです。
いいえ、パウロスだけではありません。
この地で、アルトレウスのために戦い、死んでいったすべての者たちへの、私からの手向けです」
ヴィクトルが息を呑む。
グレゴリウスは鍬を握ったまま、何も言わずその言葉を聞いていた。
フェリシアはそれ以上は語らず、しばらくその場に佇んでいた。
風が吹き、切り落とされた髪の端を揺らした。
さきほどまでの少女らしい面影は、そこにまだ残っている。
だが同時に、それとは別の何かが、確かに彼女の中で立ち上がりつつあった。
ヴィクトルにも、グレゴリウスにも、そしてその場の従士たちにも、そう感じられた。
「埋葬を」
最後にそう命じた声は、もはや先ほどまでの震えを帯びていなかった。
ヴィクトルは深く頭を垂れた。グレゴリウスもまた、黙って頷く。二人は鍬を取り、静かに土を落とし始めた。
土が落ちる間も、フェリシアは短剣を手放さなかった。
兄から託された紋章入りの短剣。刃にはまだ、黒ずみ始めた血が残っている。
ヴィクトルはそれに気づき、静かに手を差し出した。
「お嬢、短剣を。手入れをしておきます」
フェリシアは短剣を見下ろした。
少しの間を置いて、彼女は首を横に振った。
「いいえ。これは、このままにしておきます」
声は小さかったが、拒む響きだけははっきりしていた。
ヴィクトルはまだ何かを言おうとしたが、結局、差し出した手を静かに下ろした。
フェリシアの指が柄をさらに強く握り直し、ほとんど独り言のように「この血は拭き取らせない」と呟くのを――彼女自身、無意識であろうその微かな声を、聞いてしまったからだった。
その時、フェリシアの頬に、冷たい雨粒が一つ触れた。
誰も空を見上げなかった。ただ土の落ちる音だけが、細い雨音に混じっていた。
やがてオークの大樹の根元には、新しい土盛りが一つ、雨に濡れながら残っていた。
フェリシアはその前に立ち、血に汚れた指先を胸の前で組んだ。祈りの言葉はもう口にしなかった。ただ、長く、深く、その場に黙祷を捧げる。
そして顔を上げた時、その表情にはもう、先ほどまでの揺らぎはなかった。
もう振り向かない――そう思わせるだけの力強さが、その表情にはあった。
遠くではなお、アルトレウス館の炎が夜を赤く染めている。背後には敵兵の潜む闇があり、前には帝都へ続く道がある。
フェリシアは短く告げた。
「参りましょう」
その一言に、ヴィクトルも、グレゴリウスも、従士たちも無言で従った。
故郷であるこの地に留まることはもう許されない。もうこの地は、自分たちのものではなくなったのだから。
田畑の土は柔らかく、夏の夜風は優しい。小川の水は流れ、何もかもがこんなに美しいというのに。
――立ち止まることなど、許されない。
あの館では、自分を逃がすために多くの者が残った。兵も、従士も、使用人もいた。父も、母も、そして兄たちも――。
ならばせめて、自分だけが生き残ったことに、わずかでも意味らしきものを見出さねば……。
懐の奥で、皺だらけの紙片が胸に当たった。
――いずれ、この紙切れの送り主にも、相応の答えを返さねば……。
湿った夜風が、切られた髪の残る首筋を撫でていく。
フェリシアは一度も振り返らず、帝都へ続く闇の道へと歩き出した。
先ほど別れを告げたものすべてが、すでに遠くに感じられた。
近くで揺らめいている草木の姿が、定まらぬ自らの運命のようにも感じられた。




