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アルトレウスの娘 ~アグニシア戦旗~  作者: 名も無きサルカズ
アルトレウスの娘

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第25話 アルトレウスの名の下で


 帝国歴467年7月25日 夜


 ヴィクトルは、丘の上で足を止めた。

 遠く、闇の底に赤い炎が揺れていた。


 月のない夜だった。空は黒く沈み、星明かりも薄い。だが、その闇の中でアルトレウス館だけが、まるでそこだけ昼を取り戻したかのように赤々と照らされていた。

 石壁の輪郭は赤黒く浮かび上がり、屋根の一部はすでに崩れている。時折、乾いた音を立てて梁が折れ、そのたびに火の粉が夜空へ舞い上がった。


 館は、もうすでに陥落していた。


 ここへ辿り着くまでに、二人は何度も道を変えた。敵方の傭兵たちはすでに領内深くまで入り込み、街道も、村へ通じる小道も、安全な道ではなくなっていた。松明の列を見つけるたびに林の陰へ身を伏せ、足音を殺し、息を潜めてやり過ごした。


 二人を含めても十人にも満たない人数で、最短の道を取ることなど、とても可能な状況ではなかった。

 それでも一刻も早く館へたどり着こうと体に鞭打った。そのため足の裏の感覚が麻痺するほど歩き通し、喉は焼けるように乾いている。


 丘の上から見下ろす館は、すでに炎に包まれていた。石壁の輪郭は赤黒く浮かび上がり、屋根の一部は崩れ落ちている。時折、乾いた音を立てて梁が折れるたび、無数の火の粉が夜空へ舞い上がった。


 ヴィクトルは、ゆっくりと息を吐いた。

 ここに辿り着くまでに歩き通した身体は重く、喉の奥は焼けるように乾いていた。だというのに、その息だけは、思いのほか滑らかに身体から抜けていった。

 そのことに気づいて、彼は己の本音を悟ってしまった。


 ――自分の役割はこれでもう、終わったのではないか。


 これでもう、主家であるアルトレウス家への義理は十分に果たした。

 少なくとも、そう言っても許されるだけのことはしたはずだ。


 そう思った瞬間、胸の奥にあった何かが、ふっと軽くなった。


 隣のグレゴリウスは、同じ炎を見つめたまま動かなかった。

 彼は無意識のうちに、胸元を押さえている。そこには、セバスティアーヌスから託された小さな革袋と、家紋の刻まれた短剣があった。


 主家の娘へ託された言葉と、託された品。それらはまだ、彼の手の内に残っている。

 自分が次にどう行動したらよいのか――グレゴリウスは答えを探すように、険しい表情で燃える館を見つめ続けていた。

 だがヴィクトルはそんなグレゴリウスの様子が目に入っていないかのように、話しかけた。


「この状況では、もう俺たちに出来ることはなさそうだな」


 ヴィクトルは、幼馴染ともいえる相棒にそう水を向けた。


 しかしその言葉が聞こえていないのか、グレゴリウスは立ち尽くしたまま動かなかった。ただ指だけはなお革袋を強く握りしめ、革の擦れる音だけが聞こえた。


 しばらく待っても返事はない。


 ヴィクトルも、それ以上は言葉を重ねなかった。


 グレゴリウスが何を考えているのかまでは分からない。いや、分かろうとする余裕が、今のヴィクトルにもなかった。


 目の前では、主家の館が燃えている。

 幼い頃から何度も出入りし、叱られ、酒を飲み、軽口を叩き、時には居心地の悪ささえ覚えたあの場所が、夜の底で崩れ落ちていく。


 それを見ながら、なお他人の胸の内まで考えてやれるほど、出来た人間ではなかった。


 ただ、ふと別の顔が脳裏をよぎった。


 母は、どうなったのだろう。

 今、どこにいるのだろうか。


 館や周辺に住む騎士・従士の家の女や子供、老いた者たちは、まとまって帝都方面へ避難する手筈になっていた。予定通りなら、もう帝都の近くまで移動できているはずだ。


 ヴィクトルの母も、その一団に加わっているはずだった。

 ヴィクトルは、燃える館から視線を外し、南東の闇へ目を向けた。


 館は落ちた。

 主家は、事実上滅んだ。

 マティアス様も若君たちも、あの状況では、もう戻らない。


 ならば自分は、母のいる避難民の列を追うべきではないのか。


 それは、臆病な考えではない。


 少なくとも、ヴィクトルはそう思おうとした。母一人を案じることは、人として当然のことだ。今さら燃える館へ近づいたところで、何ができる。死体を増やすだけではないか。


 だが、その避難民の列を考えた瞬間、別の可能性も頭に浮かんだ。


 奥方様も、あの一団におられるのではないか。

 フェリシア様も、年齢を考えれば、当然そこに加えられているはずではないか。


 そうであれば、まだアルトレウス家の血は残っていることになる。


 残っている、かもしれない。


 ヴィクトルは小さく舌打ちした。


 面倒なことに気づいてしまった、という思いが先に立った。


 主家の館が焼け、当主の生死も分からぬこの状況で、もし奥方や娘が避難民の中にいるとして、自分たちに何ができるというのか。


 護衛か。

 案内か。

 それとも、ただ生き残った者として、どこかまで付き従うのか。


 この戦は、最初からきな臭かった。

 帝都からの援軍は現れず、館は焼け落ちた。


 これはただ事ではない。


 十名にも満たない疲れ切った男たちで、敵兵が領内をうろつく夜道を抜け、帝都まで逃げ延びる。その先で何が待っているのかも分からない。


 そもそも帝都が、アルトレウス家の生き残りを守ってくれるのか。

 いや、アルトレウス家にとって、そもそも帝都は本当に味方なのか。


 それすら怪しかった。


 ――そんな政治臭がぷんぷんと鼻につくような状況で、俺たちに、まだ何かやるべきことがあるのか。


 ヴィクトルは、答えを出せなかった。だからこそ、もう終わったのだと思いたかった。その方が、ずっと楽だった。


 その時だった。


 闇の向こうから、蹄の音が聞こえた。


 最初はかすかな蹄の音だった。乾いた土を叩く硬い音が、夜気の底を伝ってくる。

 ヴィクトルは反射的に身を低くし、林の陰へ片膝を落とした。周囲にいた数名の男たちも、慌ててそれに倣う。


 音が重なっていない。すぐにそのことに気が付いた。

 複数の騎兵が駆ければ、個々の蹄の音が重なりあって周囲に響き渡る。だが近づいてくる音は、一定の間隔で、ただ一頭分だけが夜道を叩いていた。


 単騎だ。


 敵の追撃隊ではない。少なくとも、まとまった騎兵ではない。

 そう分かっても、ヴィクトルはすぐには立ち上がれなかった。


 蹄の音は、迷いなく近づいてくる。

 その様子からおそらくこちらに人がいることを向こうも気が付いているはずだ。十名にも満たぬとはいえ、疲れ切った男たちが林の陰で息を殺しているのだ。汗の匂いも、踏み折った枝の音も、完全に消せるものではない。まして馬は、人よりもずっと敏い。


 それでもヴィクトルは、まだ息を潜めていた。


 向こうがこちらの正体までは分かっていないかもしれない。

 ただの敗残兵か、逃げ遅れた従士の一団だと思っているかもしれない。

 こちらから声をかけなければ、このまま通り過ぎるかもしれない。そうするのがお互いにとって一番楽かもしれない。


 そして馬影が夜目の視界にもはっきりとわかる距離まで近づき、いよいよその姿が浮かび上がった。


 栗毛の馬だった。


 ヴィクトルの喉が、小さく鳴った。


 あの馬を、知らぬはずがなかった。

 アルトレウス家の中庭で、何度も見た。気性が荒く、誰にもまともに扱えなかったはずの牝馬。だがただ一人、あのお嬢だけは当然のように乗りこなしていた。


 マクシム。


 その背にいたのは、ただ一人マクシムに背を許されたフェリシアだった。

 しかし髪は乱れ、衣服は煤に汚れ、肩で息をしている。だが、その顔を見間違えるはずがない。つい先日、自分たちを見送っていた主家の娘。


 そして、ただ一騎のみである。

 護衛はいない。従士の一団も、どこにも見えない。


 その事実が、ヴィクトルの胸に冷たく落ちた。


 フェリシア様が一人でここにいる。

 それはつまり、館に残っていた者たちが彼女を守り切れなかったか、あるいは、守った者たちはもうここまで来られなかったということだ。


 そして同時に、避難民の一団とも合流していないということでもある。


 もしここで声をかければ、フェリシア様を庇護しなければならなくなる。そうなれば、もう引き返せない。


 やっと終わったと思ったのに――。


 館は燃えている。

 当主も若君たちも、もう戻るまい。


 帝都が味方かどうかすら怪しいこの状況で、主家の娘を抱える。それがどれほど厄介なことか、ヴィクトルには嫌というほど想像できた。


 ヴィクトルの兄は二人ともアルトレウス家のために死んだ。遺体すら戻らなかった。

 その結果、家督が回ってきた。兄たちの亡骸は戦地から帰らず。騎士装備は一から揃え直しだ。そのせいで母との暮らしは、騎士階級とは思えぬほど苦しくなった。


 もう十分だろう。

 義理は果たしたはずだ。


 頼むから、これ以上俺たちに背負わせないでくれ。


 ヴィクトルには、この先が読めてしまっていた。

 後ろ盾を失った令嬢を助けたところで、待っているのは希望のある逃避行などではない。

 見込みの薄いお家再興。

 あるいは、アルトレウスの娘という看板だけを値踏みされ、帝都の有力者たちに都合よく利用される道だ。


 この戦は、最初からきな臭すぎた。

 もう逃げ道など、どこにもない。あるのは、敵兵のうろつく夜道と、政治臭い面倒事だけだ。


 主家の娘。


 それは本来ならば忠義に値するはずの言葉なのだが、今のヴィクトルには、心動かされる原動力とはなりえなかった。


 黙っていれば、このままやり過ごせるのではないか。


 フェリシア様も、おそらくこちらに気づいている。だが、誰がいるのかまでは分かっていないかもしれない。夜だ。顔までは見えていない。そう思いたかった。


 息を潜めていれば、彼女はそのまま走り去るかもしれない。

 こちらから動く必要はない。

 いや、頼むから、こちらに来ないでほしい。

 助けなかったのではない。

 気づかなかっただけだ。

 そうさせてくれ……。


 その時、隣で影が動いた。


 グレゴリウスだった。


 グレゴリウスは、一切ためらわなかった。

 先ほどまで革袋を握りしめたまま動けずにいた男が、フェリシアの姿を認めた瞬間、弾かれるように林の陰から飛び出した。

 ヴィクトルの喉まで、制止の声が上がりかけた。


 何をするのだグレゴリウス――。


「フェリシア様!」


 グレゴリウスの声に、栗毛の馬が耳を立てた。

 フェリシアは手綱を引いた。マクシムは荒く息を吐き、前脚で土を掻くようにして止まる。その背で、フェリシアは一瞬、誰の声か分からぬように目を見開いていた。


 グレゴリウスは、ためらわずその前へ駆け寄った。

 そして膝をついた。


「よくぞご無事で!」


 それは逃げ延びてきた少女を迎える仕草ではなかった。

 主家の血を継ぐ者へ、家臣が示す礼だった。


 ヴィクトルは、林の陰からその背中を見ていた。グレゴリウスは頭を垂れたまま、まず問うた。


「エウスタティウス様は、ご無事でいらっしゃいますか」


 フェリシアはその問いに一瞬表情を歪ませたが、すぐに表情を引き締め、はっきりと首を横に振った。


 遠くで燃える館の赤い光が、彼女の頬をわずかに照らしている。煤と汗に汚れた顔。乱れた髪。固く握られた手綱。唇をきつく縛り、言葉としては何も発さなかったがヴィクトルにも分かった。

 それだけで、十分だった。

 グレゴリウスもそれ以上はもう尋ねなかった。


 グレゴリウスは胸元に手を入れた。先ほどまで握りしめていた小さな革袋と、家紋の刻まれた短剣を取り出し、両手で掲げる。


「セバスティアーヌス様より、お預かりした品にございます」


 掠れた声だった。

 だが、言葉は夜の中にまっすぐ通った。


「フェリシア・オ・アルトレウス様。こちらを。

 革袋には、紋章指輪シグネットリングが納められております」


 フェリシアは、馬上で身じろぎもせず、その革袋と短剣を見つめていた。

 差し出されたものが何であるか。それが何を意味するのか。貴族家に生まれた者なら、知らぬはずがない。

 少なくともヴィクトルには、フェリシアがそれを理解したように見えた。


 ヴィクトルは息を潜めたまま、その光景から目を逸らせなかった。

 グレゴリウスはなお膝をついたまま、深く頭を下げた。


「そして、フェリシア様」


 一拍、間があった。


「グレゴリウス・オ・マケドニア。この時より、我が剣とこの身を、あなた様に捧げます」


 その言葉に、周囲の男たちがわずかに息を呑んだ。

 ヴィクトルも同じだった。


 それは形式的なものではなかった。逃げてきた娘に向けた同情でもない。


 それは紛れもなく、騎士としての忠誠の誓いだった。


「アルトレウス家に仕える者として、セバスティアーヌス様より託された者として、命ある限り、あなた様をお守りいたします。どうか、この身にご命令を」


 フェリシアは何も言わなかった。


 ただ、手綱を握る指が白くなるほど強く締まった。マクシムが荒い息を吐き、わずかに首を振る。それでも彼女は、馬上から跪くグレゴリウスを見下ろしていた。


 長く感じる沈黙。


 やがてフェリシアは、手を伸ばした。その手は少し震えていた。

 グレゴリウスが掲げていた革袋を受け取る。結び紐を解く指先は、思うように動いていなかった。それでも彼女は、誰にも代わらせず、自分の手で袋の中から紋章指輪シグネットリングを取り出した。


 周囲の赤い光を受けて、指輪に刻まれたアルトレウス家の紋章が鈍く浮かび上がる。

 フェリシアは、それをじっと見つめたのち、ゆっくりとその指輪を自分の指にはめた。

 少し大きかったのか、指輪はわずかに緩んだ。だが彼女は、それを押さえるように手を握りしめる。


 それから、ようやく口を開いた。


「……グレゴリウス・オ・マケドニア」


 その声は大きくはなかったが、それでも周囲にはっきりと伝わる声だった。グレゴリウスは頭を垂れたまま、まさにフェリシアのその言葉を待っていた。


「あなたの忠誠を、アルトレウスの名において受けましょう」


 ヴィクトルは、目を細めた。


 それは、誰かに教えられた言葉なのだろう。

 当主が家臣の誓いを受ける時の、古い形式。まだ少女でしかない彼女には似つかわしくないほど重い言葉だった。

 グレゴリウスは、さらに深く頭を下げた。


「はっ」


 短い返答だった。


 だが、その一言で、何かが決まった。ヴィクトルには、そう見えた。


 グレゴリウスは、もう選んでいた。


 フェリシアの姿を認めた瞬間、当然のように駆け出し、当然のように膝をつき、当然のように主君として仰いだ。そこには迷いは一切なかった。

 その背中を見て、ヴィクトルはようやく、自分が何をしようとしていたのかを思い知った。


 見なかったことにしようとしていた。

 気づかなかったふりをして、やり過ごそうとしていた。

 逃げようとしていた。


 主家の娘が、たった一騎で闇の中を逃げ延びてきたというのに。

 セバスティアーヌス様が最後に託したものの受け取り手が、目の前に現れたというのに。


 喉の奥に、苦いものが込み上げた。


 今さら膝をついたところで、取り繕っているだけではないか。

 グレゴリウスには見透かされているかもしれない。

 フェリシア様にも、一瞬でも逃げようとした自分の浅ましさを、見抜かれているのではないか。


 そんな考えばかりが、頭の中をぐるぐると回った。

 だが、もうそこにぼさっと立ったまま、というわけにはいかない。ヴィクトルは、林の陰から転げ落ちるように這い出してグレゴリウスの後を追った。膝が土にまとわりつく音が、やけに大きく聞こえた。

 場所はグレゴリウスの半歩後ろ。まさに後れを取った者の定位置、といった位置取りだった。

 それでも、ヴィクトルは頭を垂れた。


「ヴィクトル・オ・シルミウム。我が剣とこの身を、フェリシア・オ・アルトレウス様に捧げます」


 声は、思ったよりも上ずっていた。


「命ある限り、御身をお守りいたします」


 言い終えた瞬間、背後で土を踏む音が重なった。従士たちだった。

 彼らは騎士ではない。グレゴリウスやヴィクトルと同じ言葉で誓う立場にはない。だが、二人の騎士が膝をついたことで、自分たちもまた立ったままではいられないと悟ったのだろう。


 六人の従士たちは、慌てるように二人の後ろへ並び、次々と片膝をついた。

 彼らの隊列は乱れていた。

 膝をつく音も揃わない。鎧には泥と血がこびりつき、誰もが疲労で肩を上下させているが、それでも遅れまいと我先に競い合うように二人の騎士にならった。


 フェリシアは、馬上から彼らを見下ろしていた。

 その視線が、一瞬だけヴィクトルの上で止まった。

 先ほどの自分の愚かな考えや迷い、今さら膝をついた情けなさも、何もかも見透かされたような気がした。


 だが、フェリシアは何も言わなかった。責める言葉も、問い質す言葉もない。ただ、ほんのわずかに目を伏せた。


 あえて口にしない。少なくともヴィクトルには、そう見えた。その沈黙が、かえって堪えた。

 罵られた方が、まだ楽だったかもしれない。遅い、と言われた方が、言い訳もできたかもしれない。


 お嬢……

 普段からヴィクトルが親しみを込めてそう呼ぶフェリシアは、ここで彼の顔を潰さなかった。

 逃げようとした男に、なお家臣として膝をつく場所を残した。

 ヴィクトルは奥歯を噛みしめ、さらに深く頭を下げた。


 フェリシアは、小さく息を吐いた。


「……あなたたちの忠誠を、アルトレウスの名において受けましょう」


 声は決して大きくなかった。

 それでも、跪いた者たちの耳には確かに届いた。



  * * *


 マクシムの背から身をずらした瞬間、膝が崩れかけた。


 グレゴリウスが即座に手を差し出し、ヴィクトルも半歩遅れて身を乗り出した。だがフェリシアは、そのどちらにも完全に体重を預けることなく、どうにか地面に足をつけた。

 マクシムの背から身をずらした瞬間、膝が崩れかけた。地面に足を置いたはずなのに、そこに自分の体重を預ける感覚が、少し遅れてやってきた。

 手を貸してくれたヴィクトルの方に目を向けると、彼はうつむき加減に顔をそむけていた。

 そしてヴィクトルは何も言わず、視線だけを従士の一人へ向けた。その男はすぐに水袋を差し出した。


 ――まだ、何かを気にしているのね。


 何を気にしているのか、何となく分かる。

 それでも、こんな状況でなお残ってくれただけで十分にありがたかった。フェリシアは本気でそう思っていた。


 ――とにかく疲れていて眠い。


 フェリシアは、ゆっくりと自分に差し出された水袋へ手を伸ばした。


 従士に少し離れた場所へ繋がれたマクシムが、何やら騒がしく嘶いているようだったが、今はあまり耳に入ってこない。


 水袋を差し出していた従士は、まだ若い男だった。煤と泥に汚れた顔で、それでも彼女を安心させようとしたのか、わずかに口元を緩めていた。


 その表情が、不意に固まり、短い息が漏れた。


 何かを言おうとした唇が、震えて声にならなかった。

 次の瞬間、その従士の胸から槍の穂先が突き出ていた。少し遅れて、血が噴き出した。


 びちゃり。


 湿った音がした。鮮血が宙を舞い、彼女の横顔に張りついて赤く染めた。



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