第24話 落日の先で
帝国歴467年7月25日 薄暮
日が落ちきる寸前の西天には、血を薄めたような鈍く赤い輝きがまだ滲んでいた。だが、その残光も地上を照らす力はすでにない。
進路の先、街道の傍らに身を寄せ合うようにして立つ小村が、また一つ、炎に包まれていた。
ヴァルデリク・オ・ドロミアは馬上からそれを見つめ、険しく目を細めた。藁屋根を舐め、梁を喰い破る火の勢いが、その眼差しに冷たい色を落としていた。
風が運んでくるのは、焦げた木材の臭いだけではなかった。焼けた穀物、家畜の死骸、そして濃厚な血の匂いが混じり合い、湿った夜気を汚している。
――酷い有様だ。
グリゴリ将軍から本隊を離れて先行するよう命じられた時から、この事態は予感というより確信に近かった。
風下の焦げ臭さを嫌い、馬の鼻先が短く鳴った。
「閣下、間違いございません。やはり右翼傭兵隊の一部による略奪です!数はおよそ二十!」
放っておいた斥候が戻り、手短に報告を上げる。相手の正体は予想がついていた。それでも敵との不用意な遭遇戦という万が一の事態を避けるための警戒であった。だが懸念は悪い意味で的中した。
前方では、数人の傭兵が村外れの納屋から酒樽らしきものを運び出していた。略奪を終えた家々には、手当たり次第に火が放たれている。
何より、これまでの村とは異なり、ここにはまだ逃げ遅れた村人が多数残っているようだった。今この瞬間も、彼らは無慈悲な虐殺の対象となっている。
――これは急がねばなるまい。
ヴァルデリクは低く息を吐き、感情を押し殺した。
「レオンティオス」
すぐ後ろを控えていた若者が、音もなく馬を寄せた。
「ここに」
嫡孫レオンティオスの声には、若さに似合わぬ沈着さがあった。燃え上がる凄惨な光景を前にしても眉一つ動かさず、ただ祖父の次なる言葉を待っている。
「行け。あの者どもを止めろ」
一拍を置き、ヴァルデリクは燃えさしのような怒気をその言葉に滲ませて続けた。
「ドロミアの名で止めよ。軍令としてだ。
追い払うだけでもよい。だが、命じてもなお従わぬ者は斬れ。」
レオンティオスの目が、ほんのわずかに鋭くなった。
「はっ」
短く答えるや否や、彼は振り返って配下に命を飛ばした。
「騎兵二十、私に続け! 徒歩兵は村口を固めろ、誰一人これ以上中へ入れるな! 命令に従わぬ者は味方であっても取り押さえよ!」
若い声が夕闇に走った瞬間、ドロミアの軍旗の下にいた兵たちが一斉に動く。火に浮かび上がるその影を見ながら、ヴァルデリクは手綱を握る指に力を込め、自らも村の方へと馬の歩みを進めた。
村の外縁まで進むと傭兵の一部は逃げ惑う農夫を追い立て、笑いながら槍の石突で背を打っているのが見えた。
その有様は掃討などという生ぬるい言葉で包めるものではない。戦場からこぼれ出た狼どもが、牙の向け先を失って村へ食いついているだけだ。
彼らとの間にドロミアの兵たちが割込み農民を逃がす。
戦場での略奪は、傭兵にとっての報酬の一部、基本的にはそのように認知されている。だがそれは、どうせ去る土地での話だ。
今回は違う。セヴァリスはアルトレウス領の完全な掌握を目標としている。根こそぎ奪い、焼き尽くすような真似が許される局面ではない。――それがセヴァリスの理屈だ。
だが、ヴァルデリクにとっては、交流もあった隣領の民が殺されている。それだけで十分だった。
「抵抗するなら斬ってよい。だが、女子供と、武器を捨てた者には手を出すな。」
そこへ、火の粉を浴びながら一人の男が歩み出てきた。
背はさほど高くない。だが肩幅は広く、胸板も厚い。鎧は上等とは言えぬ寄せ集めで、革と鉄を継ぎ足したような代物だったが、その上からでも古傷の多さが見て取れた。鼻梁は一度折れたまま曲がり、左の頬には古い刃傷が白く走っている。
ただの下っ端ではない。
一目で、修羅場を潜ってきた男だと知れた。
男は地面に唾を吐き捨て、ドロミア兵を睨みつけたあと、馬上のヴァルデリクへ視線を上げた。
「……何の真似だ、旦那」
言葉そのものは抑えていた。だが、声の奥には剥き出しの苛立ちがある。
「俺はこいつらを取りまとめている。
それで、こりゃ一体どういうことだ。こっちは命張って先に領内まで踏み込んでんだ。今さら来て、獲物に手を出すなとは、そりゃあ筋が通らねえじゃねぇか」
周囲の傭兵たちが、同意するように口々にわめいた。
ドロミア兵との間には、まだ数歩の間合いがある。だが一度弾ければ、すぐにでも同士討ちになる距離だった。
男はなおも言う。
「俺たちゃ貴族様みてえに、戦の後で屋敷に戻りゃ飯が出る身分じゃねえ。兵に食わせ、明日の分の銭を握らせるにゃ、こういう時に取るしかねえんだ。
俺たちに死ねとでもいうのか。戦ってのはそういうもんだろうが」
火を背にしたその顔には、卑しさより先に、痩せた土地で生き延びてきた者の執念があった。
「それとも何です、閣下。奪うな、焼くな、殺すな――そう言っておいて、俺らの取り分は別に出してくださるんで?」
ヴァルデリクは答えなかった。
ただ、馬を半歩だけ進めた。
それだけで、周囲の空気が変わった。傭兵たちはその圧に怯んだように浮足立つのが見えた。
「名は」
低い声でその隊長格の男に問う。
男はわずかに眉を動かしたが、視線を逸らさなかった。
「ボグダン。二十人ばかしの傭兵団の団長だ」
「では、ボグダン。総司令より改めて申し渡す。以後、この先の村々における勝手な略奪・放火は、ドロミア軍に対する軍令違反と見なす。軍令を破る者は、敵ではなくとも斬る。」
ヴァルデリクはその訴えを最後まで聞いた上で、なお一切応じぬまま、厳かに言い渡した。軍令が何よりも優先するのだと。
「俺たちの雇い主はセヴァリスだ!セヴァリス軍でもないお前らに指図される筋合いはねぇ!」
ボグダンは即座に言い返した。戦場の指揮系統に照らせば、その言い分は間違ってはいなかった。だがそれでもヴァルデリクは間髪入れず、その声をねじ伏せた。
「この戦の総大将はこのヴァルデリク・オ・ドロミアである!」
隣領の村々が焼かれていくのを見ながら、何も感じぬふりだけはできなかった。
理不尽であることくらい、分かっていた。名目だけの権威にすがっていることも。それでも、今はこれで押し通すほかなかった。
だが、ボグダンの側にも退けぬ理由があることは、ヴァルデリクにも分かっていた。
寒村では、田も家も長子が継ぐ。次男三男にまで分ける余裕などない。
飢えぬために家を出た者たちが、最後に流れ着く先が傭兵団だ。そこで槍一本を手に日銭を稼ぐうち、いつしか傭兵団が家族代わりになる。
飯を分け、傷を舐め合い、死ぬ時はまとめて死ぬ。そういう共同体だ。団長たるボグダンが守ろうとしているのは、まさにその最後の砦だった。
ボグダンの背後で、何人かの傭兵が剣の柄に手をかけた。それに応じるように、ドロミア兵たちも槍をわずかに下げる。
燃える藁鳰――刈り取った藁を積み上げた塊――の爆ぜる音が響く中、両者の意地が真っ向からぶつかり合う形となり、周囲に緊張が走った。
装備も数も劣る傭兵たちに動揺の色が見え始めるが、それでも彼らは、団長が引かない限りはと、危うい均衡の中で踏みとどまっていた。
そこへ、指示通り傭兵たちを村人から引き剥がし、排除を完了させたレオンティオスが、祖父とボグダンの間に割り込んできた。
「祖父上。村の混乱は収まりました」
レオンティオスは一度だけボグダンへ視線を流し、さらに続けた。
「この者らも先遣として働いております。将軍の本隊も、今頃は勝っておりましょう。ならば今は、勝者として酒を与え、下がらせるのがよろしいかと」
唐突に将軍本隊の状況を持ち出した孫に、ヴァルデリクは一瞬戸惑ったが、すぐにその真意を察し、老将は静かに一度、頷いた。
――どんな場においても、冷静さを失わずに落としどころを計る。
彼は、剣を抜くより先に言葉を選んだ。その選択はヴァルデリクに若さとは思えぬ熟慮を感じさせた。
老将は孫の横顔をわずかの間、じっと見つめた。
本隊から分離し、先行を命じられたのは、あの「生首串刺し」の一件の直後だった。
「アルトレウス館の後背に回り込み、敵の退路を脅かせ」
それが表向きの命令。
だが続けて発せられた「ドロミアの旗を前に立てよ。戦場にも秩序というものがあるはずだ」という一言で、ヴァルデリクは将軍の真意を悟った。
先行させた傭兵隊の手綱を握り直せ――それが実際の任務だった。
その折、将軍からは「物資も多めに持っていけ。輜重には話は付けてある。現地では何かと入用もあろう」と酒や食料も押し付けるように渡された。
レオンティオスはその物資の使いどころが、まさに「今」であると判断したのだ。
若いにもかかわらず、自分に同調して強硬にねじ伏せるのではなく、たとえ一時的なしのぎでしかなくとも、ひとまず収まる道を探る。それはかつての息子によく似ていた。
その若さに似合わぬ資質を目の当たりにしたヴァルデリクは、胸の内にかすかな安堵が落ちるのを感じた。
――孫が独り立ちするまではと老骨に鞭打ってきたが、その役目も、もはや長くはあるまい。
傭兵団のボグダンにとっても、この提案は渡りに船だった。実際のところ、ただ一度の酒と食料との引き換えでは割に合わない。
だが、このまま数でも質でも劣る彼らと対峙し続けることは破滅と同義だ。ここがぎりぎり面子を保てる引き際だと嗅ぎ取った彼は、渋々ながらそれに同意した。
ヴァルデリクは彼ら傭兵団に酒と食べ物を与えた。そしてすぐにでも西に戻ってセヴァリス本隊と合流するように命じた。この場に残しても碌なことにはならない。
ヴァルデリクは馬上から紙片を取り出し、その場で短く書き記すと、無言のままボグダンへ差し出した。
『この傭兵団は作戦遂行に功あり。恩賞について考慮有りたし。
ヴァルデリク・オ・ドロミア』
正直なところ、どこまで考慮されるかはわからない。だが、この勝敗の大勢が決した戦場で、彼ら傭兵にうろつかれるのは不都合なのだ。
ならばせめて、彼らの失った利益の補填になれば、と思ったのだ。
それからヴァルデリクは、レオンティオスらとともに残された村の後始末へと向かった。
傭兵どもを追い払ったあとも、村に残ったのは焼け焦げた梁と、泣き声と、血の臭いだった。
ヴァルデリクは兵を分け、まだ燃え移っていない家から順に火を消させた。あわせて、将軍から持たされた物資の一部を下ろさせる。乾いたパン、干し肉、麦袋。今夜から数日をしのぐだけなら、それで足りるはずだった。
だが、村人たちの目は冷たかった。
怯えと憎しみとがないまぜになった視線で、彼らはドロミア兵を見ていた。つい先ほどまで村を蹂躙していた傭兵どもへ向けていたのと、大して変わらぬ目だった。
――当然だ。
盗賊が奪った分の一部だけを、あとから返してやると言われたところで、ありがたいと思えるはずもない。焼かれた家も、殺された者も、それでは戻らない。
その視線を、ヴァルデリクは黙って受けた。弁解するつもりもない。何を言おうと、それはただの言い訳であり村人たちに届くはずもない。
その時だった。
七つか八つほどの男の子が、幼い妹らしき子の手を引いたまま、おずおずと前へ出てきた。痩せた顔は煤で黒く汚れ、片方の頬には涙の跡が白く筋を残している。
母親らしき女が慌てて引き戻そうとしたが、その子が駆け寄る方が早かった。
「……ありがとう」
小さな声だった。
ヴァルデリクは返す言葉を失った。
その礼が、自分たち全てを赦す言葉ではないことくらい、分かっていた。たまたま目の前で火を消し、食べ物を差し出した相手へ向けられた、子供なりのまっすぐな一言に過ぎぬのだろう。
だがそれでも、その子供の言葉が冷え切っていた胸のどこかをわずかに緩めた。
ほどなくしてヴァルデリクらは、闇夜の中さらに前進を再開した。
* * *
あれから半刻ほど、西の空の残光は既に無く、今は館の炎だけが遠く夜の底に揺れていた。
ヴァルデリクらは暗くなった夜道ということもあり、ゆっくりと進軍していた。
そこはすでにアルトレウスの館と帝都を結ぶ街道、主戦場からは館の後背に位置する場所だった。
「祖父上、先ほどの彼らもそうなのですが。」
レオンティオスは、どうしても消化しきれない疑問を抑えきれず、祖父に問いかけた。
「略奪だけならまだわかります。ですが彼らは何故無益に村人を殺してまわるのでしょうか。彼らの理屈なら殺しても腹はふくれないはず」
「……人はな、レオンティオス。一人で『罪』の重圧に耐えられるほど強くはない」
ヴァルデリクは、なお脳裏に焼きついて離れぬ村の惨状を思い返すように、深い皺をわずかに震わせて静かに語り出した。
「あのような連中にとって、恐怖や罪悪感は命取りだ。迷いは剣を鈍らせ、怯えは逃亡を招く。だから彼らは、あえて引き返せぬほど凄惨な一線を越えるのだ。共に手を汚し、同じ血を浴びる。そうして『共犯者』となることで、一人では背負えぬ罪を分かち合い、泥沼のような結束を固めるのだ」
彼は一度言葉を切り、凄惨な略奪の跡を冷徹に見つめた。
「真っ当な軍規も、守るべき故郷も持たぬ集団が、極限の戦場で正気を保つための一番手っ取り早い手段が『残虐』なのだ。皆で獣になれば、誰も自分を罪人だと思わずに済む。……それが、寄る辺なき傭兵どもが、己を保つために覚えてしまう歪んだ術、とでもいえよう」
「……はい」
レオンティオスは短く応じ、それ以上は何も言わなかった。
その瞳には、なおも割り切れぬものが濁っていたが、口元は一文字に結ばれている。祖父の言葉を飲み込みきれぬまま、彼はただ黙って夜道の先を見つめていた。
ヴァルデリクは、孫の横顔に宿った沈黙の重みを確認すると、一度だけ手綱を引き直した。
アルトレウスの館が炎に包まれているのが遠めにもはっきり見えるところまで進軍してきた。
その館の炎より手前の暗がりを睨んでいたヴァルデリクが、わずかに眉を寄せた。風向きが変わり、死臭とは異なる、もっと鋭く、何かが追い立てられているような気配をわずかに感じた。
その時だった。
街道の先、奥からこちらへ向かってくる、自分たちとは別の力強い蹄の音が響いた。
「――っ! 止まれ!」
レオンティオスの叫びと、向こうから飛び出してきた馬の嘶きが重なった。
衝突を避けるべく互いに手綱を引き絞り、馬が前脚を高く上げる。激しい砂埃と嘶きが収まった時、そこには一頭の馬に跨り、激しく肩で息をする人影があった。
まずヴァルデリクの目を引いたのは、その馬だった。
首差しは長く、胸はさほど厚くない代わりに肢は細く締まり、全身の均整が西方馬とはまるで異なる。闇の中でもなお分かる、東方馬特有のしなやかな体つきだった。
至近。
夜のそれほど道幅の広くもない街道で、互いの馬の鼻息が触れ合うほどの距離。
馬上には煤に汚れ、乱れた髪の間から覗く、少女の瞳。
その瞳が、馬上のレオンティオスを、そして彼の手元にあるドロミアの旗を、射抜くように見つめていた。
――パルティア系の軍馬か。
ドロミアもセヴァリスも、軍馬は土着の西方馬系だ。東大陸の馬は採らない。ゆえに我らの騎兵にそれが並べば、それだけで強く目につく。
その異質な馬体の上にいたのが、まだ若い少女であることに、ヴァルデリクは次の瞬間気づいた。
この地域の祭りや会合で、エウスタティウスの傍らによくいた少女だった。
――エウスタティウスの娘、フェリシアだ
彼はそう確信した。
闇の中から不意に現れた人馬に、手勢は俄かに騒然となった。追うべきか、囲むべきか、誰もが一瞬判断を失う。
そのざわめきを断つように、ヴァルデリクは右手を横へ伸ばした。
「その道をそのまま行かれよ」
低い声だった。だが、その場にいた誰の耳にも、はっきり届いた。
ドロミアの兵たちはなおもざわついていたが、祖父のその手の意味をただ一人素早く察したレオンティオスが、即座に声を張り上げた。
「全軍停止! ここで小休止とする。馬を休ませよ! 今の者に構うな、余計な詮索は無用!」
若いながらもよく通る声が、夜気を切り裂いた。
兵たちの動きが止まり、誰もがその場で手綱を押さえる。
フェリシアはなおも馬上で息を乱しながら、ヴァルデリクを見つめていた。
その瞳には疑いと警戒がなお鋭く宿っていたが、それでも彼の言葉が虚言ではないことは悟ったのだろう。
一瞬。
ほんの一瞬だけ、彼女はためらった。
やがて、馬上からごく小さく頭を下げた。
次の瞬間、栗毛の馬は再び地を蹴り、二人の間を風のようにすり抜けて、帝都へ続く街道を駆け去っていった。
誰も追わなかった。
蹄の音だけが、闇の奥へ、遠ざかっていく。
ヴァルデリクはその音が完全に消えるまで、ただ前を見たまま動かなかった。




