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アルトレウスの娘 ~アグニシア戦旗~  作者: 名も無きサルカズ
アルトレウスの娘

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第23話 脱出


 アルトレウス家当主、エウスタティウス・オ・アルトレウスへ。


 突如の親書、許せ。

 諸事多端しょじたたんにつき、今日こんにちまで筆を執るを猶予した。


 早速だが、本題に入る。

 アルトレウス家の現状、余はすべてを把握している。何故ならば、この事態を容認し、最終的な裁可を下したのは、他ならぬ余自身であるからだ。


 余は以前より、交易のことわりについて幾度となく警告を重ねてきたはずだ。しかるにそなたは理解を拒み、あろうことか新市場設立を強行した。余が今、断腸の思いでこの断罪の決断を下すに至ったのは、すべてそなたの不明が招いた結果である。


 かくなる上は、速やかにその身をもって責を負え。潔く自刃じじんせよ。

 それがこの事態を収拾し、そなたが最後に帝国の安寧へ寄与できる唯一の道である。

 その覚悟を速やかに示すのであれば、後に残るアルトレウスの名に対し、幾分かの配慮をせぬこともない。


 だが、決断が遅れれば遅れるほど、事態は余の配慮の及ばぬ、測りがたき破滅へとなだれ込むであろう。その事、ゆめゆめ忘るることなかれ。深く肝に銘ずべし。



 そなたの覚悟、しかと示せ。余、それを見届けん。



 帝国歴467年7月24日

 ヴァルトレア帝国皇太子

 ステファノス・アレクシオス・アウグストゥス




  * * *


 帝国歴467年7月25日 薄暮はくぼ


 当主エウスタティウスが親書に目を通し終えるのを見届けると、使者は形式的な辞去の礼を済ませるや否や、その場に一刻も留まることを厭うように、逃げるように足早に辞していった。


 エウスタティウスは、投げ出された親書を机の上に置いたまま、半ば呆然と目をつむり、天井を仰いだ。そのまましばらく身じろぎひとつできなかった。

 指先から、ゆっくりと血の気が引いていく。

 もう一度読めば、どこかに誤解があるのではないか。そんな愚かな期待が一瞬だけ胸をよぎったが、文面の一字一句はあまりにも明白だった。


 ――何もかも終わった……。


 帝国のため、イグニズの神々のため、そして我がアルトレウス家のために正しいと信じ、捧げてきたすべてが、今この瞬間に崩れ去った。


 その時、不意に込み上げてきた感情を抑えきれず、彼の右手が机を強く打った。

 自らも意図せぬほどの力だった。


 乾いた音が執務室に鋭く響き、机上の燭台が倒れた。

 そしてそれきり、彼はしばらく動かなかった。


 理想に邁進するあまり、迫りくる危険な濁流に気づくことができなかった。その致命的な不明への後悔が、今更ながらに胸を締め付ける。信じた道は断たれ、家族は逃れようのない死の淵に立たされていた。


 マティアスは、今なお前線で踏みとどまっている。

 アウレリウスも、セバスティアーヌスも、血を流しているだろう。

 イザベラは今も館を取り仕切っている。フェリシアもまだこの館にいる。

 その誰一人として、自分が招いたこの破滅の先へ、なお引きずり込みたくはなかった。


 そう思うと彼はいつまでも虚脱きょだつ感に浸っているわけにはいかなかった。


 ――――かくなる上は、アルトレウスの名のため、家族のために、為すべき唯一のことを果たすのみ。


 エウスタティウスは、館に残っていた三名の老騎士を呼び寄せた。短く、端的な言葉で現状を説き、各々に最後の指示を与えて退出させた。


 騎士たちを退出させた後、執務室には奇妙な静けさだけが残った。

 先ほどまで皇太子の書状が置かれていた机、書きかけの文書、消えかけた燭台の火。

 どれも見慣れたもののはずなのに、今はもう、自分の手を離れた別世界の物のように見えた。


 ここで嘆いても、誰一人救われない。ここで躊躇えば、アルトレウスの名は滅びて消え去るだけだ。


 エウスタティウスは、ゆっくりと息を吸った。


 そして、騎士たちが去った後に開け放たれたままの執務室の扉へ、彼はゆっくりと歩み寄った。


 自らの手で、静かに扉を閉める。それは、アルトレウス家当主としての最後の務めに向き合うための、彼の区切りだった。




  * * *

 

 昨日、神殿へ向かう不審な一団と遭遇し、その後の館で味わった挫折――。以来、フェリシアはずっと自室に閉じこもっていた。

 母や使用人たちが幾度となく扉を叩き、彼女の名を呼んだが、それに応える気力すら今の彼女にはなかった。


 夜明け前、出発が遅延していた避難民の一団がようやく動き出したと知った時、彼女は暗い部屋の中でひっそりと胸をなでおろした。自分が行かないせいで彼らを足止めしているのではないか。その罪悪感が、彼女をさらに追い詰めていたからだ。


 だが、安堵したのも束の間だった。意地を張って一度閉ざしてしまった扉は、そう簡単にもう一度開けることが難しいのだ。

 部屋を出るきっかけを失い、かといって何をする気にもなれぬまま、フェリシアはただ無為に、静まり返った館の中で夜を迎えようとしていた。


 三階にある彼女の部屋からは、遠くに神殿の本殿を望むことができる。


 ふと、昨日のあの光景が脳裏を巡った。気になった彼女は吸い寄せられるように、固く閉ざしていた窓に手をかけていた。そして外の空気を招き入れるようにゆっくりと開け放ち、そこから神殿の方角を見下ろした。


 窓を開けた瞬間、流れ込んできたのは冷たい夜風ではなく、妙に生温かい空気だった。

 そして場違いなほどの赤い光が大きく揺らぎながら彼女の視界に広がった。


「……あ……」


 フェリシアは息を呑んだ。

 遠くにそびえる神殿が、まるで巨大な松明のように燃え上がっていた。

 この時間なら闇に沈んでいるはずの神殿周辺の景色が、勢いよく噴き出した炎によって赤黒いシルエットとして浮き上がっている。吹き出す黒煙が、生き物のようにうねりながら、夜空を焦がし星空を隠していた。


 距離があるせいで、音も悲鳴も聞こえない。だが、それが何を意味するのかはフェリシアにとって想像は難しくなかった。


 窓枠を掴む手に力がこもる。


 ――すぐに動かなきゃ


 そう思い立った瞬間には、彼女は自室を飛び出していた。

 けれど、どこへ向かうべきか。愛馬マクシムが待つうまやか、それとも父への報告が先か。迷いを抱えたまま階下へ駆け下りた廊下の先で、母イザベラが待ち構えていた。傍らには、昨日フェリシアの進言に否定的だった老騎士の一人が、護衛のように付き添っている。


「どこへ行くのです、フェリシア」


 その声は静かだった。

 だが、静かであるがゆえに、かえって逃げ道を塞がれたような気がした。

 フェリシアは思わず足を止めた。慌てて踵を返そうとする。


 ――マクシムのいる厩舎への道は母上にふさがれてしまった。かくなる上は父上の執務室へ行くしかない。

 

 「父上に報告したいことがあります。急ぎますので、失礼します」


 わざとよそよそしい丁寧な言葉を使ったのは、意地を張っていたからだ。そうして、イザベラから逃げるように足早に通り過ぎようとした、その時だった。


「フェリシア。用が済んだら、すぐにマクシムの馬房へ来なさい。急ぐのです。今、立ち止まることは許されません」


 ――今、母上は何と言った?


 予想とは真逆の言葉を母から聞き、フェリシアは耳を疑った。

 その声は厳しくはなかった。だが、いつもの母のそれではないと、フェリシアにはすぐに分かった。

 これまでなら、こんな非常時に馬に乗って外へ出るなど、決して許さなかったはずの母が。


 一瞬、戸惑いで足を止めかけたが、フェリシアはそのまま父の執務室へと急いだ。


 娘の背中を見届けたイザベラは、その先に視線を向け、一瞬だけ悲しげな表情を浮かべた。


 ――母として本当はあのような過酷なものを見せたくはない


 だからフェリシアを呼び止めたかった。だが、これはあの子が背負わねばならぬ現実なのだ。

 そう自分自身に言い聞かせ、すぐにその表情を消し、後ろに控える騎士に「後は任せます」とだけ告げると、自らも厩舎の方へと歩き出した。


 残された老騎士は、年を感じさせぬ力強い歩幅で、フェリシアの後を追った。




  * * *


 執務室の扉を開けた瞬間、フェリシアは思わず足を止めた。そこは、静かすぎた。


 まず目に入ったのは、床に転がった燭台だった。消えかけた火が細く揺れ、その傍ら、机の脚元には赤黒い染みが広がっていた。

 その向こうに、見慣れた父の衣の裾が見えた。


「……父上?」


 呼びかけても、返事はない。

 ぴくりとも動かぬその手を見た。

 触れずとも、そこに温もりが残っていないことだけは分かってしまった。肌の色も、生気を失って蒼白に見える。

 フェリシアはようやく、目の前の静けさが何を意味しているのかを知った。


 父の姿に駆け寄ろうとして、フェリシアの視線が机の上で止まった。

 開かれたまま投げ出されたそれは、壁掛けの燭台の明かりに照らされていた。

 赤い印璽、見覚えのないほど冷たい文面。その中で、いくつかの一節だけが目に飛び込んでくる。


 ——潔く自刃せよ。

 ——アルトレウスの名に対し、幾分かの配慮をせぬこともない。


 それらの一節が、やけに鮮明に目に入った。


 そして最後の署名「ヴァルトレア帝国皇太子 ステファノス…」


 そうはっきりと書かれていた。


「……そんな」


 声にならぬ息が漏れた。

 フェリシアはその場に縫いつけられたように立ち尽くした。何か言わなければと思うのに、喉が塞がれたように声が出ない。


 その時、あの老騎士が背後から膝をつき、深く頭を垂れた。フェリシアはそれに気が付き振り向いた。


「……閣下は、最期まで当主としての責務を全うされました」


 その一言で、フェリシアの中に残っていたわずかな希望は、静かに断ち切られた。

 再び父の方へ視線を戻した時には、もう何もかも理解してしまっていた。

 

「父上……父上……」


 ようやく絞り出した声は、驚くほど幼く、弱々しかった。こみ上げてきた涙が耐えきれずに溢れ、頬を伝った。


 その時、背後で膝をついたままの姿勢で老騎士が、低く、しかし強い声で言った。


 「フェリシア様」


 その一声に、彼女の肩がびくりと震える。


 「今は、お泣きになる時ではございません」


 嗜めるようでいて、その声音には懇願にも似た切実さが滲んでいた。

 フェリシアは振り返った。涙で滲んだ視界の向こうで、老騎士は深く頭を垂れている。


 「閣下の、最後のご命令にございます。

 アルトレウス家の未来を担える方は、あなたを含めてもう幾人もいらっしゃらないのです。

 どうか、お急ぎください」


 「でも、父上が……!」


 堰を切ったように言葉が漏れた。けれどその先は続かない。

 泣きたい。縋りつきたい。今すぐ父の傍へ膝をつきたい。十四歳の娘としては、それがあまりにも当然の願いだった。


 だが老騎士は、なおも頭を下げたまま、動かなかった。


 「どうか。ここで立ち止まれば、閣下の最後のご決断までも無に帰します」


 その言葉は、涙に濡れた胸へ、容赦なく突き立てられた。


 フェリシアは唇を強く噛みしめた。

 泣き声が漏れそうになるのを堪えながら、もう一度だけ父の姿を見た。

 机の上には、あの親書がなおも開かれたままだった。それをフェリシアは引っ手繰るように掴み、畳もせずにそのまましまい込んだ。


 その時、外から重たいものが壁にぶつかるような大きな音が鳴り響いた。その音に老騎士は一瞬顔を歪め、フェリシアに再度呼びかけた。


 「参りましょう。フェリシア様」


 フェリシアは震える指で涙を拭った。

 そして、父へ向かって深く頭を垂れると、喉の奥で潰れそうになる嗚咽を押し殺したまま、踵を返した。


 だが、フェリシアは以後片時も忘れることはない。

 父を死へ追いやったものが、皇太子の名でしたためられた、この一通の親書だったということを。




  * * *


 厩舎の中は、がらんとしていた。

 平時のこの時間なら、並ぶ馬房のほとんどに馬たちがいたはずだ。夕刻の飼い葉を平らげ、眠りにつく前の穏やかなひととき。鼻を鳴らして隣と戯れる者、おかわりを要求して前脚で床を叩く食いしん坊……。そんな活気ある「馬たちの団らん」が、ここにはいつも溢れていた。

 けれど今、馬房はどれももぬけの殻。ただ一頭、マクシムだけが、静まり返った闇の中でじっと佇んでいる。



 厩舎へ至る道すがら、背後をついてくる老騎士から状況は知らされていた。

 正門にはすでに敵兵が取り付いていること。留守居の騎士が必死に防戦しているが、敵の破城槌はじょうついによって門が破られるのは時間の問題であること。

 正面以外にも敵兵が徐々に回り込んできており、逃げ道が塞がれつつあること。

 

 もはや、遠くの神殿を案じている段階ではなかった。敵の刃はとうに胸元を通り過ぎ、その切っ先が首筋にまでかかっている。


「準備は整っています。早く、こちらへ」


 娘の姿に気づいたイザベラが、努めて冷静な声を出した。傍らの従士に頷いてマクシムを馬房から引き出させ、フェリシアの方へと促す。

 愛馬マクシムは主を見つけると、いななきを堪えるように首を上下に何度か振って見せた。それはまるで、一刻も早く跨れと主を急かしているようでもあった。


 従士に促されるまま、フェリシアはほとんど無意識に鐙へ足を掛け、マクシムの背へ跨った。


「……母上も、ご一緒に?」


 震える声で尋ねたフェリシアに、イザベラは迷いなく答えた。


「母は、ここに残ります」


 間髪を入れぬ、はっきりとした拒絶。それは、母としての思いを押し殺した、アルトレウス家の女主人としての言葉だった。


「嫌です、母上も一緒に……!」


 フェリシアは跨ったばかりの鞍から滑り降りようとした。もはやこの館に、マクシム以外に馬は残っていない。


「私の後ろにもう一人乗れます。マクシムなら大丈夫です、行けます!」


 母の細い手を掴もうと、必死に身を乗り出す。しかし、その指先が届くより早く、傍らに立つ老騎士の太い腕が、フェリシアの体を鞍の上へと押し戻した。


「離してください! 母上を置いていくなんて、そんなの――」


「早く行きなさい。マクシムの足なら、今ならまだ逃げ切れます」


 イザベラの声は、凪いだ水面のように静かだった。取り乱す娘とは対照的なその冷徹なまでの落ち着きが、かえってフェリシアの絶望を深める。


「ここを出たら、まず他領へ逃げなさい。……いいですか、絶対に帝都へ向かってはなりません。当家の分家や、ルキウス殿など、信頼のおける領主を頼るのです。あるいは、まだどこかに生き残っている我が家の騎士たちがいるかもしれません。彼らを探し、集めなさい」


 馬上のフェリシアを見上げ、その足元に手を添えて最後の指示を懸命に伝えようとする母を見て、フェリシアはもう、どうにもならないのだと悟らされた。

 一呼吸置いて、イザベラは言葉を継いだ。


「いずれは母の実家、ニコメディア家を頼ることもできるでしょう。ですが、それは今ではありません。今は、何があっても帝都に近づいてはなりません」


 フェリシアは溢れそうになる涙をこらえ、絞り出すようにして頷いた。


「……バルド殿、あとは頼みます」


 イザベラが短く告げると、老騎士――バルドは、沈痛な面持ちで一度だけ深く頷いた。


 その時、遠くで館の正門が悲鳴を上げて軋む音が響いた。破城槌が、ついに最後の一撃を加えたのだ。


「前をお向きなさい、フェリシア様。ご自身の脚であるマクシムを信じるのです」


 老騎士バルドは低く力強い声で激励しながら、従士から引き継いだ引き綱を取り、厩舎を後にしてフェリシアとマクシムを裏門へと導き始めた。




 フェリシアらの姿はもう見えない。蹄の音も遠ざかり、やがてそれも聞こえなくなった。

 一人残されたイザベラは片手で口元を押さえ、声を殺した。こみ上げる嗚咽は、喉の奥で小さく震えただけだった。

 涙が一筋、頬を伝い落ちる。


 ――イグニズの神々よ。私の娘を、どうかあの子だけはお守りください……。


 彼女は、テュリンギ人が帝国へ移り住んで以来、家々で受け継がれてきた古い作法で、母として神々に祈りを捧げた。



 しばらくの祈りの後、イザベラは壁に掲げられていた松明を手に取り、ゆっくりと歩き始めた。




  * * *


 フェリシアらは裏門の前へたどり着いた。空はすでに闇に覆われていたが、壁の内外は篝火の光で赤く照らされていた。

 壁の外が騒がしい。どうやら門の外まで既に敵が回り込んできているようだ。


「裏門を開けよ!」


物見櫓に立つ衛兵隊長らしき男へ、老騎士バルドが声を張り上げた。


「何を言っているんだ! 外にはもう敵兵が集まってきているんだぞ! 今開けたらこの門は終わりだ!」


 物見櫓の衛兵隊長はそう言いながら声のした方に振り返った。そしてそこにいる人物を見て慌てて言い直した。


「あ、いえ、という状況であり、開門は困難かと……」


「お館様の、最後のご命令である!」


バルドの怒号が、周囲の喧騒を圧して響き渡った。


「フェリシア様をここから脱出させるのだ。敵の包囲が完成する前、今しか道はない! 門からなだれ込む兵がいれば、このわしが抑える。貴公らは、馬一頭が走り抜けられるだけの時間を稼げ。頼む!」


 白髪を振り乱し、必死の形相で訴える老騎士の迫力に、衛兵たちの間に緊張が走った。今この瞬間を逃せば、二度と道は開かない。彼らもそれを、痛いほどに理解していた。

 隊長は了解の敬礼を返すとすぐさま開門とその後の指示を飛ばした。


「フェリシア様、これにてお別れです。後はこのマクシムの脚を信じて、どうかご無事で……」


 そこで少し躊躇したのち、言葉を続けた。


「昨日の一件、申し訳ございませなんだ」


 その表情には、なかなか言い出せず、ようやく言うべきことを言えたというかすかな安堵が滲んでいた。

 その謝罪の意味を、フェリシアはすぐには理解できなかった。

 そのぐらい彼女にとってそれは意外な言葉だった。あの時は当然という体で、けんもほろろに否定されたと思っていた。だが実はこの老騎士はそのことを気にかけていたのか……

 この老練で経験豊富な騎士としてのその判断に、自分はふてくされていた。なのに彼らは最後の最後まで自分を押し殺してフェリシアの脱出に尽力してくれている。


 ――恥じるべきは、私だ。……皆、自分の命を懸けて、成すべきことを全うしようとしているのに

 なのに自分はなんと狭い視界で、小さな世界で物事をとらえていたのだろう。


 彼女は自分を恥じた。だが同時に、胸の奥で定まらずに揺れていたものへ、ひとつの火が灯るのを感じた。


 ――ならば、私も。私の責務を、果たさなければ


 決意を込め、手綱を握る手に力を込めたその刹那。

 背後で凄まじい轟音が響き、夜空がひときわ赤く染まった。

 一瞬だけ振り返れば、先ほどまでいた厩舎が火の粉を撒き散らして崩れ落ちる様が目に映った。炎はすでに、本館にまで牙を剥いている。

 だが、もう振り返らなかった。フェリシアはすぐに前を向いた。


「いいか!開くぞーッ!」


 馬がなんとか二頭並んで通れる程度の狭い裏門が、隊長の号令とともに、重々しい音を立てて開かれる。

 外には十数人の敵兵がすでに押し寄せ、隙間が生まれた瞬間、先頭の数人が雪崩れ込もうとした。

 だが、バルドはすぐさま門口へ身をねじ込み、半身で門口を塞いだ。

 正面から突っ込んできた敵兵の盾を、老いた肩で押し返す。

 狭い門の隙間で先頭がつかえ、後続の兵もその背にぶつかって押し戻される。


「今だ、道を空けろ!」


 その一瞬の間隙を逃さず、フェリシアの脱出を援護するために衛兵たちやバルドの従士が血路を切り開こうと門前へ踏み込んでゆく。

 衛兵たちが槍の柄で敵兵の肩や喉を打ち据え、ついに門前にわずかな空白をこじ開けた。


「行かれよッ!!」


 バルドが振り向きもせず叫んだ。

 その声を合図に、フェリシアは愛馬の腹を強く蹴った。マクシムはそれに応えて勢いよく前へ飛び出した。


 フェリシアの脱出路のために必死に奮戦する彼らの横をすり抜け、裏門前の広場まで出てきた。そこで敵兵が壁になって立ちふさがる。まだ完全に集結していないようで、彼らの兵の壁は薄い。

 その時、左の暗がりからハルバードを手にした敵兵が突進してきた。


 ――マクシムの横腹を突かれる!


 軍馬でも横腹は柔らかい。そこを突かれたならただでは済まない。そう悟った瞬間、フェリシアは馬上で身を強張らせた。

 その刹那、敵兵の顔が不意に歪み、体が横へ弾かれたように崩れた。こめかみには、一本の矢が深く突き立っていた。


 矢が飛んで来た方向へ振り向く。そこには物見櫓の上であの隊長が弓を放った直後の構えの姿が見えた。彼は弓の先でフェリシアの進む先を示し、「行けッ!」と合図を送り、歯を見せるように笑った。


 フェリシアは頷き返し、それからすぐに手綱を握り直した。身を低く伏せ、首筋へしがみつくようにして叫んだ。


「行って!マクシム!」


 それに呼応したかのようにマクシムは大きくいななき、前をふさぐ敵兵に跳びかかった。


「うわぁっ!」


 東方パルティア系軍馬であるマクシムは、引き締まった体躯に似合わぬ重い質量を持っていた。鍛え抜かれた軍馬の質量は、人ひとりを正面から受け止められるようなものではない。

 正面にいた敵兵はマクシムの前脚でまともに踏み抜かれ、鈍い音とともに地面へ崩れ落ち、動かなくなった。

 その一撃を目の当たりにした周囲の敵兵は、それだけであっという間に浮足立った。


 フェリシアはその隙を逃さなかった。左右へ散る敵兵の間を切り裂くように、そのまま一気に南へと夜の小道を駆け抜けた。


 後ろは振り向かなかった。

 裏門が閉じられたのかどうかも、バルドたちがその後どうなったのかも、分からなかった。

 それでもフェリシアは、前だけを見て走るしかなかった。


 背後にあるはずの館の焼け落ちる炎も、母の声も、もう何一つ確かめることはできなかった。



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