第22話 灰狼の群れ
帝国歴467年7月25日 薄暮
神殿の前庭に、ようやく聞き慣れたけたたましい馬蹄の音が鳴り響いた。
石段の脇に腕を組んで佇んでいたジョルジュ・ヴコヴィッチは、その音の主を冷ややかな目で見やり、内心で小さく息を吐いた。
予定を大幅に超過した現状に、誰よりも激しい不機嫌を撒き散らすであろう男を迎えなければならない。
だが、遅まきながら到着したという事実だけで、今は十分だった。
日が沈みきる直前、もうもうと土埃を巻き上げて現れたのは、数騎の隊伍を組んだ騎馬分隊だった。その先頭で、馬上から隠そうともせぬ仏頂面をしている男――この傭兵団”灰狼”を束ねる団長、ドラガン・ステファノヴィッチその人である。
団員たちの顔つきも、予定外の遅延に気勢を削がれて沈んでいた。
神殿前へ乗りつけたドラガンは馬上から辺りをぐるりと見渡した。そして声音荒く、苛立ちを隠そうともしない態度で言い放った。
「……チッ。やっと着いたと思えば、今度はこの死人みてえな面ァ拝まされるのか。葬式なら余所でやれ」
だが、ジョルジュには分かっていた。こういう時のドラガンは、ただ気が立っているだけではない。頭の中ではもう、遅れた分をどう取り返すか、その算段を回している。
ジョルジュは石段を下り、幼馴染でもある団長の馬前まで歩み寄った。
「ようやくか。おまえにしちゃ珍しく手間取ったな」
「珍しく、で済ませる気かよ」
ドラガンは片眉を吊り上げた。
「帝国の巡検隊だの警備兵だの、あの犬っころどもが、あっちでもこっちでも足を止めやがった。
書付を見せろ、荷を開けろ、どこへ行く、しまいには何の用だと来たもんだ。
アホか、こいつらは。味方のはずの連中がこのざまだ。全く話が通ってねえ。誰だよ、ここの責任者。
なんならそいつを殺して埋めてやった方が早いかもしれん」
その背後にいた部下たちが、乾いた笑いを漏らす。ジョルジュはそれを無視して、短く肩をすくめた。
「こっちも大差ねえよ。分隊ごとに散々止められた。カストルとかいうのが警備隊の責任者らしいんだが、こちら側の人間のくせに全く段取りがなっていねぇ。単なる無能が為せる不手際なのか、それとも帝国側がそもそも一枚岩じゃねえのか……どっちにせよ、奇襲の筋書きは滅茶苦茶だ」
ドラガンは馬上から神殿を見上げた。
前庭は静まり返っている。見張りに立っているのは灰狼傭兵団の連中ばかりで、神官の姿は一人もなかった。夕闇の中、古びた壁はひどく白く、そして不気味に見えた。
「神官どもはどうした」
「とっくに逃げた後だ。
逃がされた、って言う方が近いな」
ジョルジュはそう言って、神殿の扉へ目をやった。
今回の作戦で、神殿は最初からこちら側だった。神殿の神官たちを束ねる宗教貴族で帝国七家の一角、ソラリス家が反アルトレウス側についていたのだ。
ソラリス家当主ニコラス・オ・ソラリスは、ガルシア・オ・トレオルの要請を受け、宗教貴族として協力を約束した。
もっとも、進んで手を貸したというより、断れずに従ったという方が実情に近いのだろう。異教徒の侵攻に、喜んで門戸を開く坊主などそうはいない。少なくともジョルジュには、そうとしか思えなかった。
アルトレウス領の神官長から上がる情報は逐次帝都へ流され、神殿は灰狼傭兵団が集結するための中継点として静かに整えられていた。
だが、傭兵団が実際に神殿へ入る段になって、ニコラスは神官たちに退避を命じた。理由は明白だ。まともな指導者ならこれから先、この場が血と火にまみれることを知っていてなお、部下をいつまでもそこにとどまらせることはしない。
要するに、神殿は反アルトレウス側ではあった。
だが、自分たちの運命まで異教徒に預ける気はなかった、それだけのことだ。
「ソラリス家のおっさんも、案外部下思いだな」
ドラガンが鼻を鳴らした。
「自分は手を貸す。汚れた俺たちと肩を並べるのは御免だ、と。ましてや自分らの手を血で汚すなんざ、考えただけで虫酸が走るってか」
「貴族ってのはだいたいそうだろ」
ジョルジュが答えると、ドラガンは低く笑った。
「違ぇねえ」
神殿にはばらばらに到着した分隊がすでに集まっていたが、予定より遅れに遅れた末、最後に姿を見せたのがドラガンの分隊だった。分散潜入、神殿集結、夜襲による一気呵成――事前に整えていたはずの計画は、帝国側の不手際のせいで見るも無残に砕け散った。
そのうえ、状況はさらに悪い方へ転がっていた。
領主家の娘と思しき人物が異変を察し、館側へ報せに走った。先着した見張りの報告によれば、アルトレウス家の館はすでに門を固く閉ざし、守りを整えているという。
奇襲は、もはや望むべくもない。
ジョルジュは先に把握していた情報を、要点だけに絞ってドラガンへ伝えた。
神殿は既にもぬけの殻。館は警戒を強化済み。集結は遅延。奇襲の利は消失。
報告を聞き終えたドラガンは、露骨に顔を歪めた。
「俺たちの計画は敵のお嬢ちゃんにばっちりバレて、味方に足を引っ張られ、やっと揃ったと思えば相手は既に引き籠もり済みか。おい、誰だこのクソみてえな筋書きを考えたのは」
「雇い主に会ったら聞いといてやれ」
「次に会ったら、な。今ここにいねえやつのことは後だ」
ドラガンは馬上で身をひねり、前庭の奥から外壁、扉、塔のように突き出た部分まで、神殿全体を改めて眺めた。
ジョルジュはその横顔を見ながら、胸の内で嫌な胸騒ぎを覚えた。
この顔を、昔から知っている。
無茶を言い出す時の顔だ。
しかも厄介なことに、そういう時のドラガンは意外なほどに鋭い。普段の言葉遣いは荒い。作法など鼻で笑う。だが、戦になると途端に、人の心の崩れ方と場の勢いの作り方に妙な冴えを見せる。
だから灰狼傭兵団は、こんな寄せ集めでもここまで生き延びてこられた。
ちょうど館の方角へ向かって風が吹いている。
乾いた木、古びた漆喰、放置された祭具の粉っぽい匂い。そこへ部下たちの持つ松明の油の臭いが混じる。
次の瞬間、ドラガンの口元がゆっくりと吊り上がった。
「……よし、これだな」
「何だよ」
ジョルジュは、彼の「いかにも悪だくみを思いついた」という表情にいやな予感がしたが半ば諦めたように訊いた。
「景気づけだ」
「嫌な予感しかしねえな」
ドラガンは、歯をむき出しにして笑った。
「この異教の巣たる神殿を、でっかい篝火に変えてやる」
ジョルジュはこの提案、というか企みについて一瞬で考えを巡らせた。
普通に考えれば、悪手だ。
館に接近する前にこちらの存在を大々的に知らせることになる。守る側に時間を与え、狙いを絞らせる。夜陰を利用して少しでも有利に近づくという“セオリー”から言えば、やめた方がいい。
だがその一方で、ドラガンの狙いも分かった。
この段階で奇襲にはならないことがわかっている。ならば今度は逆に、相手の心理を揺さぶる方向に動く。
夜の闇の中、背後で神殿が盛大に燃え上がれば、館の中の連中は落ち着いてなどいられない。
神殿が落ちたと知れば、心が浮き足立つ。こちらもその炎を狼煙代わりにできる。
下品で乱暴、まともな人間の行いではない。だが確かに理にはかなっていた。
「夜の火ってのはな、人の心を勝手にざわつかせやがる。
神殿が燃えりゃあ、館の連中は次は自分らだと思うだろ。そうなりゃ、壁は残ってても中身の方が先に焼けちまうってもんよ」
放っておいたらいつまでも過激に持論を展開しそうなドラガンを前に、ジョルジュは鼻の奥で小さく息を吐いた。
「……まあ、おまえがそういう無茶を言い出す時は、大抵それなりに考えてる時だからな。
いや、ただ勘がいいだけだったかな」
「当たり前だろ。俺を誰だと思ってやがる」
「えらく勘の働く山賊のお頭」
「褒められちまったぜ」
「褒めてねえよ」
だがジョルジュはそれ以上は言わなかった。反対もしない。
どうせこの男は、止めたところでやる時はやる。そして、こういう時に限ってその読みは当たり、彼の思惑通りに事が進むのだ。
ドラガンは周囲の団員を見渡し、短く片手を上げた。
「火を放て!
邪神どもを燃やし尽くせ!
我らが神へ供物として捧げよ!
いいかぁ、景気良くやれ!」
まったくもって不穏な言葉を叩きつけ、部下たちの昂揚を煽り立てる。
「「おーっっっ!!」」
待ちかねていたように、男たちが一斉に呼応した。場にどよめきのような活気が広がる。
投げ込まれた松明が宙を舞い、油壺が砕け、乾き切った木と布へ一気に火が走った。無人の神殿は悲鳴を上げることなく焼かれたが、梁が爆ぜ、扉が崩れ落ち、壁面が赤々と照り返す様は、さながら生きた獣を、あるいは敵方が信じる異教の神を痛めつけているかのような禍々しさを帯びていた。
炎は瞬く間に天を突いた。
噴き上がる黒煙が、夜に沈みゆく空を赤黒く汚していく。舞い散る火の粉は、傭兵たちの顔を妖しく、残酷に染め上げた。
彼らは笑い、囃し立て、火勢に興奮していた。聖光教徒である彼らにとって、異教の神殿を焼くことは、仕事と憂さ晴らしが同時に叶うようなものだったのだろう。
ジョルジュはその騒ぎを横目に見ながらも、視線だけは団長から外さなかった。
ふと、ドラガンが神殿の照り返しの中に沈む、敷地外縁の雑木林へ目を向けた。次の瞬間には、背の短弓がその手にあった。
流れるような動作でためらいもなく放たれた矢が闇を裂いていた。
空気を切り裂く鋭い音が響き、直後、林の奥から短い呻き声が漏れる。
たまらずといった様子で、近隣の農夫のような恰好をした二人が、よろめきながら茂みから這い出した。
「なんだ、邪神が飼っている使い魔か。……いや、あの館のねずみの方だな」
見てくれだけは農民に擬態しているが、その所作からただの農民には見えない。館の使用人かなにかだろう。
ドラガンは自分が吐き捨てる言葉が終わるのも待たず、男の髪を乱暴に掴み上げた。
「見せ物用の餌は、生餌のほうが値打ちがある」
すぐ近くに立つジョルジュにだけ聞こえる声でつぶやいた後、ドラガンは全員に聞かせるように声を張り上げた。
「野郎ども!異教徒にふさわしい命の燃やし方を見せてやろう!」
そう言い終えると、ドラガンは二人の襟首を片手ずつで掴み上げ、そのまま燃え盛る神殿へまとめて投げ込んだ。
「ぎゃぁぁぁぁぁ!」
炎に包まれた農夫が、のたうち回りながら断末魔を上げる。だが、その絶叫もほどなくして火の爆ぜる音に飲み込まれ、動かなくなった。
その遺体が炎に同化していくのを満足げに見届けたドラガンは、ゆっくりと馬首を返した。向かう先はアルトレウス館。
「よし。行くぞ」
たった一言。それだけで、前庭の空気は一変した。
灰狼傭兵団は、燃え盛る神殿を背にして進軍を開始した。
もはや奇襲ではない。立ち上る火柱をかがり火代わりにし、怒号と殺意を剥き出しにして、正面からの襲撃である。
「おい、あのねずみが張り込んでるってのに、気付きもしなかったのかよ」
「すまんな。俺はお前ほど鼻が利かないんだ」
「たるんでるんじゃねえのか」とでも言うようなドラガンの愚痴に、ジョルジュはそう答えると、彼のすぐ後ろへ馬を寄せた。
どう考えてもこれは紛れもない蛮行だ。だが彼もまたドラガンのそのやり方に全く驚きはなかった。
――俺の感覚も相当に麻痺してしまっているようだな……。
彼は内心自嘲した。
猛火の赤光に照らされ、長く伸びた仲間たちの影は、獲物の匂いを嗅ぎつけて山を下る狼の群れそのものだった。




