第21話 明暗
帝国歴467年7月25日 夕暮れ
ルキウス率いる避難民の一団は、夜明け前にアルトレウス館を出発したにもかかわらず、夕刻になっても未だに領の西端に留まっていた。
街道を塞ぐように築かれた、即席の検問所。
出発から二刻と経たぬうちに行く手を阻まれ、それきり事態は一歩も好転していなかった。検問所の前は、先行していた避難民や隊商で膨れ上がり、夕闇が迫る今もなお、列が動く気配はない。
粗末な木柵と天幕、それに帝国直轄領の治安維持を管轄する巡検隊の兵らが並んでいる。
急ごしらえとすぐ見て取れる簡素な設営であるにもかかわらず、その場には正規の関所とは比べ物にならないほどの息苦しさが漂っていた。それもそのはず。彼らは往来のある関所のそれと違い、ただ人の往来を止めるためにそこにあるからだ。
表向きの理由は、「安全上の問題により、帝都から領境の通行停止命令が出ている」というものだった。
だが、その説明が欺瞞に過ぎないことは、ルキウスの目には明白だった。
もし本当に民の安全を案じているのなら、なおさらこれほど多くの人間を一箇所に滞留させるようなことはしないはずだ。密集した群衆の中で積もりゆく疲労と焦燥は、いつ暴動という形で火を噴いてもおかしくない。むしろ、彼らが意図的に「危険な状況」を作り出しているようにさえ見えた。
動ける者はまだいい。老いた者は気力を使い果たして地べたに座り込み、幼子は泣き疲れて母親の膝に顔を埋めている。このまま足止めが続けば、飢えや衰弱によって彼らの命運が尽きるのは時間の問題だろう。
それだけの惨状を目の当たりにしながら、巡検隊の兵たちは眉ひとつ動かさない。ただ「命令に従っている」という無機質な仮面を張り付け、感情を排してそこに立っていた。
――ただ事ではないと覚悟はしていたが、これほどまでか。
振り返れば、不可解なことばかりだった。
アルトレウス家と縁の深いルキウスにとって、救援に向かう事は何ら迷うことのない決断だった。
だが、彼が領地に到着するまでの間、近隣の領主たちは誰一人として援軍を送っていなかった。
そして、このタイミングでの直轄部隊による封鎖である。
このままでは持ち出してきた食料も水も減る一方で、補給の当てはない。避難民の中には「せめて帝都へ近づけさえすれば」となお望みを捨てぬ者もいたが、ここに立つ兵の態度を見る限り、その望みは時間とともに薄れていくばかりだろう。
もっとも、今日という一日を、誰もがただ無為に過ごしていたわけではない。
まだ陽が高かった頃、先に足止めされていた者たちの中から、ついに痺れを切らして動き出す者が現れた。
* * *
領境のこの即席関所で足止めされて半刻程度が過ぎたころだった。
少し先で大きな声が聞こえてきた。
視線を向けると、豪奢ではないが上質な外套を羽織った男が、巡検隊の隊長格らしき者に詰め寄っていた。ハミリ・パンフィロスである。アルトレウス家と深く関わりのある商人の一人であり、聞けばその隊商はなんと数日前からここで足止めされ続けていたそうだ。
アルトレウス領での戦が始まる直前に館に立ち寄った帰り、往路にはなかったこの検問所に足止めされたらしい。
もともと血の気の多い男ではない。むしろ商人らしい計算高さと、他人の懐へ入り込む柔らかさを併せ持つ人物だとは、アルトレウス家の者たちの評である。だが今のハミリの様子は、そのいつもの余裕ある立ち居振る舞いとはかけ離れていた。彼はだんだんと声を荒げ何かをまくし立てるように詰め寄っていた。巡検隊の兵は型通りの返答を繰り返し、話は平行線のまま終わったらしい。やがてハミリは、処置無しというような表情で兵へ一礼だけして身を翻した。
だがその顔つきは、諦めた者のそれとは違うように見えた。
むしろこれから別の手を打とうとする顔だ。先ほどのやり取りは、いわば「駄目でもともと」の挨拶代わりに過ぎず、これからの行動こそ本番だと言わんばかりに、隊商の部下たちに次々と指示を出し始めた。
そんな矢先、同じことを感じ取ったのだろう、少し離れたところで部下の従士たちとともに座り込んでいたデメトリオスがにわかに歩み出て来た。
デメトリオス・オ・アルトレウス。
この避難民団の責任者でアルトレウス家の騎士である。その気位の高さは昨日アルトレウス家の館で見た女主人イザベラとの会話でもよくわかっていた。
そんな彼が、隊商のいる場所へと進むその歩みに躊躇がないのを見て、ルキウスは嫌な予感を強めた。
「これはこれは。誰かと思えばパンフィロス殿ではありませんか」
白々しい作り笑顔で呼び止められたハミリは、内心を隠しもしないかのように嫌そうに振り返った。
「……何でしょうかな、デメトリオス殿。このようなところでお会いできるとは奇遇ですな。しかしながらこちらは今、巡検隊の皆様のおかげで随分と気が立っておりますので」
「それはこちらも同じだ。だが、貴殿がこれ以上この場に留まるつもりがないことは見て取れた」
ハミリの目がわずかに細まる。
「迂回路を行くつもりなのであろう」
「……さて、何のことでしょうか」
とぼけたように返しながらも、ハミリははっきりと否定はしなかった。
デメトリオスは、そこで一歩詰めた。
「我らも同行させていただきたい」
ハミリはあからさまに顔をしかめた。
「貴殿らは大所帯でしょう。あまりに大人数では、裏道はかえって危険だ。隊商の足も鈍ります」
「一部の者たちだけでよい。我ら総勢二百のうちの、ほんの五十名ほどだ」
デメトリオスは即座に言った。
「騎士家の家族、妻子や老親らが中心だ。皆アルトレウス家ゆかりの者たちばかりだ。そなたの立場なら無下にもできぬであろう?
貴殿の隊商に不必要な負担はかけぬ」
ハミリは鼻を鳴らした。見たところアルトレウス家に連なる血族と思われる人物は見当たらない。アルトレウス家直系の親族ならいざ知らず、たかが仕えの騎士風情が立場を利用して、強引に意向を通さんとするその言い草が気に入らない。それがハミリの偽らざる本心だった。
「負担はかかりますよ。人が増えれば水も食料も要る。老人や子供を抱えれば移動速度も落ちる」
「無理を承知の上で頼んでいる」
デメトリオスの声は低かったが、その語気には騎士としての押しの強さがあった。ハミリもまた、それを真正面からはね返せるほど気楽な立場にはない。商人としての才覚はあっても、眼前の男はれっきとした騎士階級であり、アルトレウス家に連なる者でもある。身分差は決して絶対ではないが、無視できるほど小さくもなかった。
短い沈黙ののち、ハミリは渋々といった様子で肩をすくめた。
「……五十名までです。それ以上は無理です。積み荷のこともあり、我らもこれ以上無駄にこんなところに留め置かれるわけにはいかないのです」
「感謝する」
そう言ってデメトリオスが頷いた時、ルキウスはもう黙っていられなかった。
「お待ちください」
二人が同時に振り向く。
「迂回路を取るべきではありません」
ルキウスは、努めて冷静に言った。
「ここには帝国軍がいる。実情はどうあれ、一応はその保護下にあるのです。裏道へ入れば、何かあっても助けは来ない。ここにいれば得られる安全を捨ててまで、そうする理由などございますまい」
ハミリはまとまりかけた話が振り出しに戻りそうな言葉に、やれやれというふうに眉を寄せたが、口を挟んだのはデメトリオスの方だった。
「ここが安全だと、お前は本気でそう思うのか」
その声音には、諫めというより苛立ちが滲んでいた。若造風情が口をはさむな、とでも言いたげに露骨に表情に出している。
「数日前から、隊商も、避難民ですら一人たりとも帝都へ通そうとせぬらしいではないか。
理由は“安全上の問題”の一点張りだ。何がどう危険なのか、誰も明かさぬ。そんなものを、どうして信じられる」
ルキウスは言い返しかけて、言葉を失った。
彼自身、彼ら巡検隊の言い分が本当の理由とは信じていなかったからだ。
だが、それでも――と彼は食い下がった。
「それでも、団を二分するのは危険です。老齢の者、戦えぬ者が多いならなおさら、まとまって行動するべきです。
まさか騎士家の家族以外は見捨てるおつもりか?」
「騎士家の家族に老齢の者が多いからこそだ」
デメトリオスは一歩も退かなかった。
「ここで足止めされ野宿などを続ければ、先に弱るのは彼らだ。動けるうちに動くしかないのだ」
ルキウスは、返す言葉を見つけられぬまま視線を逸らした。列の中には、確かに疲労を隠しきれぬ騎士の身内に老人が多く、この状況に顔色を悪くしている者も少なくなかった。
それでもなお、彼は完全には折れられなかった。
「……分かりました。ですが、私は残ります」
デメトリオスの眉が上がる。
「平民の避難民がここに残る。彼らをまとめる者が要る。あなたは騎士家の家族を連れて行ってください。残る者たちは、私が預かります」
それは、苦渋の決断だった。
正しいとは言い切れない。だが、この場で全員を同じ方向へ引っ張ることはもうできない。ならば、せめて――
だが、デメトリオスはその長身からルキウスを見下ろし、そしてこう言い放った。
「初めからそのつもりよ」
そして、淡々と続けた。
「団を二つに割る。その片方をそなたが率いるのは当然であろう。以後はそれぞれ務めを果たすまでだ」
その言葉にルキウスは言葉を失った。
確かに自分は、ここに残る者たちを見捨てることはできない。残るのは必然だった。だが、初めから自分を切り離すつもりでこの交渉を進めていたと、悪びれもせず言い放つこの男の無神経さには、改めて驚かされるほかなかった。
そうして、避難民団は二分されることになった。
騎士家の妻子や老親を中心とした五十名ほどは、ハミリの隊商と共に迂回路から帝都を目指す。残る平民の避難民と自分が連れてきた従士・従者、それに志願した数名の騎士家に連なる若者が、ルキウスのもとに留まる。
だが、彼に驚かされるのはそれだけではなかった。いざ出立の支度が始まった時、ルキウスは目を疑った。
荷車に積まれていた水瓶が次々に運び出される。干し肉も豆袋も、予備の幌布も、雨風をしのぐために使えると考えていたものが片端から持ち去られていく。まるで「残る者にも当然いくらかは残す」という発想そのものが、最初から存在しなかったかのようだった。
「待ってください、それは……!」
思わず声を荒げると、デメトリオスは振り返りもせずに答えた。
「我らには必要な物資だ」
「こちらに残る者たちは、どうやって夜を越せとおっしゃるのです」
「そなたらで工夫すればよい」
その返答は、あまりにも冷たかった。
ルキウスの胸に、じわりと怒りが広がる。そもそも出発前から彼の指揮ぶりには言いたいことが山ほどあった。それでもルキウスは彼を支えてきたつもりだったが、最後の最後にこのような仕打ちとは……。
だが今ここで掴みかかれば、ただでさえ危うい均衡が崩れ、残る者まで路頭に迷うだけだ。
結局、彼は拳を握りしめたまま、それ以上は言えなかった。
その時だった。
「騎士様!」
幼い娘の声に振り向くと、隊列の後ろから一人の少女が駆けてきた。
両腕に抱えているのは、その小柄な体には不釣り合いなほど大きく、見るからに重そうな袋だった。走るたびに体がよろめき、今にも取り落としそうになっている。
「お、おい、危ない!」
ルキウスは慌てて歩み寄り、その袋を受け取った。予想以上の重みに、一瞬腕が沈む。中には干し肉や硬いパン、豆の小袋に、水袋まで詰め込まれていた。
少女は肩で息をしながら、けれどどこかほっとしたように顔を上げた。
「父には、ちゃんと許可を取ってあります。ですから、遠慮なさらないでください」
真っすぐに視線を向け、まだ幼さの残る声だが、その言葉だけは妙にきっぱりとしていた。
ルキウスは思わず、少女の後方を見やった。
少し離れた場所で、ハミリがややうつむき加減に帽子を押さえながら、視線だけをこちらへ向けていた。表情は読めない。だが、止めるでもなく、かといって恩着せがましく頷くでもなく、ただ、値踏みするようにルキウスへ視線を寄越していた。
その目つきには、デメトリオスに向けるものとは別種の静かな色があった。
若さゆえの青さはあれど、この騎士なら託した物を私物化せず、ちゃんと「残る者たち」のために使うだろう――そんな無言の見立てが、わずかに滲んでいるように思えた。
やがてハミリは、娘へ向けて短く声を投げた。
「アスターナ、出発するぞ」
叱る響きはなかった。むしろ、ルキウスに相対する娘の様子に半ば呆れながらも、それを認める父親の声だった。
「……そうか」
ルキウスは袋を抱え直し、アスターナを見下ろした。
「助かる。礼を言う」
するとアスターナは、ルキウスの素直な感謝の言葉に嬉しそうに、それでいて照れくさそうにも見える顔で頷いた。
「皆さまで、使ってください」
そう言い残すと、彼女はくるりと踵を返し、再び出発しようとする一団の方へ駆けていった。
その背を迎えたハミリは、娘の頭を手のひらで軽く叩くような仕草をしたが、結局は何も言わず、そのまま列へ戻らせた。
そうして、デメトリオスたちは隊商とともに去っていった。
その列の中には、以前道中で少し言葉を交わした騎士ヴィクトルの母君の姿もあった。
ルキウスはすれ違いざま、あの時と同じく騎士の作法に則った一礼だけを捧げた。老女もまた、何も言わずに静かに頷き返した。
それだけで十分だった。今さら言葉を尽くしても、互いに重荷を増やすだけだから。
残されたのは、身ひとつに近い状態の避難民と、ルキウス、その従士・従者、そして数名の志願者だけだった。
その志願者たちは、本来ならデメトリオスらとともに迂回路へ加われたはずの、騎士や従士の家のまだ少年と呼んでよい年頃の者たちだった。彼らは次男・三男で身の軽い者が多く、またデメトリオスに従うことよりもルキウスに付き従うことを選んだのだ。
立ち尽くしている暇はなかった。
ルキウスは胸の内に渦巻く怒りと不安をひとまず押し込み、すぐさま残った者たちを見渡した。
「近くの小川へ向かう。水を汲めるだけ汲む。
若い者は枝を集めろ。
荷車を寄せて風除けを作る。布がないなら、あるもので凌ぐしかない」
従士たちがすぐさま動き出し、平民の避難民たちも、疲れきった顔のまま、それでも命じられるまま立ち上がった。
日が落ちる前に、せめて一晩だけでもしのげる場所を作らねばならない。
ルキウス自身も桶を手に小川へ向かった。草を分け、泥に足を取られながら水辺へ下り、冷たい水をすくう。その掌の感触に、ようやく己の喉もまた干上がっていたことを思い出す。
何もない。
だが、だからといって何もしないわけにはいかなかった。
そうして、陽が大きく西へ傾いた今も、ルキウスたちはなお、この検問所の前に留め置かれたままだった。
巡検隊の兵たちは、その有様を見ても何の感慨も示さなかった。ただ、篝火のそばに立ち、ぼんやりとこちらを見ているだけである。その火は、守りの火ではなかった。ただ人を足止めし、見張るためだけに焚かれた、冷たい火だった。
その時、従士の一人が足早に戻ってきて、ルキウスの傍らへ身を寄せた。
「ルキウス様。午前に出立したハミリの隊商ですが……巡検隊の者どもが、あの一団が街道を離れて迂回路へ入るのを、じっと見届けておりました」
「見届けていた?」
「は。しかも、隊商の最後尾が林道へ消えると、兵の一人がすぐに検問の奥へ引っ込みました。別の者も、それを見て何か合図を交わしたように見えまして……」
ルキウスは無言のまま、篝火のそばに立つ巡検隊の兵へ目を向けた。
相変わらず、何を考えているのか知れぬ顔ばかりだ。
迂回路へ向かったこと自体を、まるで待っていたかのようではないか。
はっきりとした理屈が浮かんだわけではない。それでも、言いようのない一抹の不安が胸をかすめた。
だが、ルキウスはすぐにその感覚を頭の隅へ追いやった。
今は、去った者たちの行く末よりも、ここに残された者たちの夜をどう繋ぐかの方が先だ。手元にあるわずかなものを数え、水を確保し、火を絶やさず、せめて朝まで誰も倒れぬようにする――それだけで、もう手一杯だった。
群青に沈みゆく空の下、彼らは何もないところから、一晩だけでもここでしのぐために急いで支度を続けた。




