第20話 兵団出撃
セルギウスは執務室を辞し、重い扉を背後で閉めた。
待機していた副官のマルティウスが、弾かれたように駆け寄ってきた。主君の表情から、ことが動いたことを察したのだろう。
「出陣が決まった」
セルギウスが押し殺した声で告げると、マルティウスは「それは重畳」とでも言うように何度も頷いて見せた。二人はすぐさま帝宮を後にし、兵を待たせている本陣へと戻るべく歩みだした。
だが、その廊下にはもう一人、先客がいた。先ほどの会議で主導権を握り続け会議を先延ばしにし続けていた張本人、ガルシア・オ・トレオルである。
「セルギウス殿、いや――ファルセリ卿!」
――あ奴、あれからずっとここで張り込んでおったのか
セルギウスは内心で舌打ちした。
無視して通り抜けることもできる。だが、ここでそれをすれば余計な波風を立てるだけだ。
セルギウスは隣を歩くマルティウスに短く目配せを送った。副官はその意図を即座に汲み取り、「はっ」と短く応じると、ガルシアに儀礼的な会釈だけを残し、先行して準備を整えるべく早足でその場を離れていった。
「なんでしょう、トレオル卿」
セルギウスは歩みを止めた。
だが、声に冷たさが混じるのは隠しようもなかった。
ガルシア・オ・トレオルは、会議の場にあった作り物めいた冷静さをあえて崩さぬまま、一歩だけ距離を詰めた。だがその顔には、わずかな疲労の色も浮かんでいる。三日間、張り詰めた神経で場を支配し続けていたのだから、無理もない。
「お止めしたく、参りました」
「何を」
「もちろん、出兵をです」
セルギウスの目が、わずかに細くなる。先ほどマルティウスに伝えた短い言葉を彼も聞き逃さなかったようだ。おそらくはセルギウスと皇帝が直談判となれば、この結果も予期していてのここでの待ち伏せだったのだろう。
ガルシアはその反応を意に介す様子もなく、淡々と続けた。
「すでに決意は固まっておられるのでしょう。陛下と何を話されたか、あえてお尋ねはいたしません。ですが、ここで兵を動かせば、貴殿はアルトレウスを救うことができるかもしれぬ。――いや、少なくとも、現在の戦況を一時的には好転させることができるでしょう」
「回りくどい。言いたいことを言え」
「では単刀直入に申します」
ガルシアは、真っ直ぐセルギウスを見た。
「これは、単なる国境紛争ではありません」
セルギウスは黙って聞いていた。
「卿も分かっておられるはずだ。なぜセヴァリスが、あれほど中途半端な兵数で動いたのか。なぜ軍旗を隠し、ドロミアを表に立てたのか。なぜ帝都に対する明確な圧力ではなく、アルトレウス領という一点だけを狙ったのか」
セルギウスは低く返す。
「そなたらがセヴァリスと裏取引しているからであろう」
ガルシアはそれを否定せずに頷いた。
「我らがかの国と接触しているのは事実です。放置していればセヴァリスのみならず、西大陸各国と全面的に戦火を交えることにもなりかねない状況ゆえです」
一呼吸おいてさらに続けた。
「アルトレウス領に新市場を築き東方交易をさらに拡大させようという、かの構想――」
その言葉を口にした瞬間、廊下の空気がわずかに冷えたように感じられた。
「西大陸諸国と協調し我らが策定した規制を東大陸の商会が嫌い、帝都の外へ新たな交易拠点を築こうと画策していることは、ファルセリ卿もご存じでしょう。しかもその場所が帝国内のアルトレウス領となれば、話は単なる商い事では済まなくなる」
ガルシアの声は、相変わらず静かだった。
「西側諸国は、今の帝国そのものに脅威を感じてはおりません。
教条主義の一部を除けば、彼らにとって帝国とは、放っておいても海峡交易で辛うじて息をつなぐ、干上がった異教の小国にすぎぬ。
ですが、アルトレウス家を中核とするその構想だけは別です。」
セルギウスは眉一つ動かさない。
ガルシアはさらに言葉を重ねた。
「統制の効かぬ交易が広がればどうなるか。東の質の高い品が、あの家の仲介で一方的に流れ込めば、西側諸国の職人も商人も立ち行かなくなる。諸国が恐れているのは自国の経済が、内側から食い破られることです。
彼らがそれを黙って見ているはずがない。」
「それで、セヴァリスが動いたと?」
セルギウスの低い問いに、ガルシアは表情を変えず応じた。
「セヴァリスならまだ話が通じます。かの国であればこそ、この程度で収まっているのです」
ガルシアは抑えた声のまま、諭すように言葉を重ねた。
「今の帝国は、辛うじて均衡の上に立っているにすぎませぬ。
そこへ各国が看過できぬ火種が投げ込まれれば、事は一挙に崩れる。
そして西は、これをアルトレウス領だけの問題とはみなさず、帝国自身が東方交易の拡大を後押ししていると受け取るでしょう。
この不均衡な東方交易の拡大を帝国が後押しするとなれば、セヴァリスのみならず、他国までこれを口実に介入してくるはずです。
この海峡を押さえる帝国へ諸国が兵を差し向ければ、もはや全面的な戦いは避けられますまい」
一拍置いて、ガルシアはさらに続けた。
「ですが、こちらが水面下で各国と折衝し、事が帝国全体へ波及せぬよう抑え込んできた。
だからこそ、セヴァリスも軍旗を隠し、兵数と戦場を限定し、この程度で済ませているのです」
「……それで、貴殿らはアルトレウスを見捨てた、と?」
セルギウスが遮るように言った。
「交易で得る幾ばくかの利益と引き換えに国を滅ぼしては、本末転倒でありましょう。
アルトレウスとその計画さえ潰えれば、それ以上他の諸国が介入する大義名分は失われ、帝国全体が戦火に呑まれることにはならないでしょう。我らがそうなるよう、危うい均衡の上で繋ぎ止めてきたのです」
ガルシアはあっさりと肯定した。
セルギウスはそこで初めて、短く鼻を鳴らした。
「なるほど。よくできた理屈だ」
「理屈ではありません。現実です」
「帝国は今や、剣だけで立っている国ではありません。交易の細い糸、諸国との危うい均衡、帝都の地政学的な価値――そうした危うい均衡の中で辛うじてそれらを束ねて形を保っている。
ただ一本を守るために束そのものを断てば、残るのは武人としての満足だけです」
「それがどうした」
セルギウスは切り捨てるように言った。
「その理屈が分からぬと申しておるのではない。交易の綻びも、諸国の圧力も、帝都の事情も理解しておる。そのうえで言っている」
セルギウスはそこで一歩、前へと踏み出した。
「だが、だからといって帝国領を差し出して保つ均衡など、武人として認められぬ」
ガルシアが何か言おうとする前に、セルギウスはさらに続けた。
「封臣の血と引き換えに得る平穏を、そなたらは国益と呼ぶのか」
その言葉は、静かであるがゆえに重かった。
「アルトレウスを切れば、西は一時満足するであろう。帝都や西の商人も胸を撫で下ろすであろう。だが、その先に残るものは何だ。帝国が、忠義を尽くす封臣すら見捨てる国だという事実だけではないか」
ガルシアは唇を引き結んだ。セルギウスの声はなおも低い。
「それを知った上で、誰が命を懸けてこの国境に立つ。誰が次に“切られる側”になってなお、帝国を信じる」
「それは理想だが空論です」
ガルシアが、初めて強く言った。
「理想論でしかない。今ここでファルセリ卿が兵を動かしても、アルトレウスを救える保証すらない」
「保証など初めから要らぬ」
セルギウスは即座に返した。
「救わんとするため、見捨てぬために動くのだ」
ガルシアは目を細めた。
「それで帝国全体がさらに深い危機に陥るとしても?」
「国家とはそういうものだ。
西の諸国がどうかは知らぬが、帝国は違う。
この地に興り、世界を制していた頃から、帝国はそうであったはずだ」
セルギウスは一言ごとに、はっきりと言った。
「封土と忠臣を見捨てて保つ帝国など、もはや帝国ではない」
廊下に沈黙が落ちた。
しばらくの間、どちらも動かない。
「《《皇太子殿下》》にも、こういったことをいずれは理解していただきたいものだな」
その言葉を聞いたガルシアは驚きと動揺を隠しきれずにいた。まさかセルギウスから彼らの後ろ盾として密かに動いている皇太子について、言及されるとは思いもしなかったのだろう。
やがてガルシアは、深く息を吐いた。
「……やはり、貴殿には我らの思いは届きませんか」
「届いてはいる」
セルギウスは振り返りもせずに言った。
「だが俺は武人ゆえに、その理屈を是とするわけにはいかぬのだ」
そう言い残すと、もう話は終わったとばかりに会釈だけを寄越し、足早にその場を去っていった。彼の心は、もはや帝宮にはなかった。
ガルシアもまた、それ以上呼び止めることはしなかった。
彼らの目的のためには、ここでなお足止めを図り、ほんの少しでも出撃を遅らせるべきだった。だが、ガルシアは声をかけなかった。
言葉を尽くしてなお届かなかった相手を、ただ時間稼ぎのために引き留めるのは、彼の流儀が許さなかった。
彼もまた、セルギウスの理屈を理解はしているのだ。
* * *
セルギウスが駐屯地に到着したとき、すでに陽は落ちて久しく、夕暮れから完全な闇夜へと移行していた。
にもかかわらず、全部隊はすでに整列を完了していた。
隊列の前では、血気に逸る息子ダリオスがすでに愛馬に跨り、今か今かと出撃の号令を待ちわびている。
今朝もセルギウスが帝宮へ上がる直前まで、「無意味な会議など振り切り、即刻出撃すべきだ」と詰め寄ってきた。期限をこの夕刻と定めたことで、辛うじて暴発を抑え、父の帰還を待っていたのだ。
「出立の首尾はどうだ」
「父上の下知を待つのみです。我らはすでに整っております!」
セルギウスの問いに、ダリオスが間髪入れずに応じた。その傍らでは、先に帰還させていたマルティウスが深く頷き、万全の態勢であることを示した。
さらに、今日一日帝都を奔走し、先ほど帰還したばかりのジュリアーヌスもまた、疲弊を見せることなく馬を乗り換えて列に加わっていた。自らに課せられた役目だけを果たして後方へ退くつもりなど、彼には初めからないようだった。
静寂が広がる。兵団の全員が、指揮官から発せられる次の一言に全神経を集中させていた。
やがて、セルギウスの毅然とした声が響く。
「皇帝陛下の聖断は下った! これよりアルトレウス領へ進撃する。各部隊、かねてよりの指示通り、速やかに行動せよ」
セルギウスは深く息を吸い込み、腹の底から号令を叩きつけた。
「全軍、出陣――ッ!!」
「「「おおおぉぉーーッ!!」」」
数千の地鳴りのような咆哮が周辺の村落や田園まで木霊し、その余韻が消えぬうちに、兵団全体がにわかに動き出した。
「騎兵先遣隊、直ちに出立せよ! 閣下に続け!
斥候分隊は予定通り前方三方向に展開。進路の安全を確保せよ。些細な異変も見逃さず、逐一本隊へ報告せよ!
本隊各中隊、縦隊編成のまま速度を保て!
輜重隊は護衛とともにその後に続け! 殿は私が務める!」
マルティウスが矢継ぎ早に、的確な指示を飛ばしていく。
それは、遅すぎる出撃だった。
それでもセルギウス以下、ファルセリ兵団の誰もが信じていた。
一刻も早く戦場に到達し、アルトレウス領を救援するのだと。
今の彼らにとって、帝都の政治的思惑など知ったことではなかった。
外征能力を持つ帝国軍の中でも最強と評されるファルセリ兵団は、夕暮れ時という制約の多い状況下で、その評価に違わぬ練度を見せつけた。
これから先は闇が濃くなるばかりのこの時間からの出撃である。
一般の軍事常識では無謀とも評されかねない強行軍を、彼らは当然のこととして迷いなく受け入れていた。日々の苛烈な訓練と、指揮官への絶対的な信頼があってこそ成せる業であった。
これが西大陸諸国の軍勢であれば、どうだっただろうか。
そもそも封建体制の色濃い西大陸諸国では、帝国のような常備軍自体が稀だ。あるいはセヴァリスのグリゴリ将軍旗下の部隊なら、可能かもしれない。だがそれは例外といってよく、これこそが、大陸の端に押し込められた帝国がいまだに保持する、最大にして唯一の軍事的優位であった。
事実、夜間の強行軍を貫いた彼らは、その出撃からわずか四刻後には先遣隊が、六刻後には本隊が、アルトレウス領にその姿を現したのである。




