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アルトレウスの娘 ~イグニシア戦旗~  作者: 名も無きサルカズ
アルトレウスの娘

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19/22

第19話 直談判


 帝国歴467年7月25日 夕方


 長い卓を挟み、帝国の政を担う重臣たちが向かい合っていた。

 御前会議を構成する十人のアウレ――「選ばれし者」と呼ばれる者たちである。

 上座には、皇帝クラウディウス・パウリヌス・アウグストゥスが座していた。

 セルギウス・オ・ファルセリは、発言者に目を向けることもせず、ただテーブルの木目をじっと眺めていた。

 二日前には、すでに出陣の準備を終えている。アルトレウス領はいまも戦火にさらされているのだ。


 にもかかわらず、セルギウスはいまだに馬上ではなく、この硬い椅子に座っている。


 初日は「半数のアウレが揃わない」という形式的な理由で散会した。やむを得ない、と最初は自分に言い聞かせた。しかし二日目も、議論は一向に進まなかった。

 進めるつもりのない者が、席の半分を占めているからだ。


 そして、今日も――。


 セルギウスは、音を立てぬよう静かに息を吐いた。

 これは迷走ではない。意図された「停滞」なのだ。

 視線だけで、テーブルを囲む顔ぶれをなぞった。誰が何を目論んでいるか、この三日間で嫌というほど理解できた。散会も紛糾も、すべては計算ずくだ。彼らにとって、時間そのものが武器なのだ。アルトレウス領が力尽きるその時まで。


 ――なるほど、見事なものだ。人を見殺しにする時ほど、帝宮の言葉は丁寧になる。


 内心、半ば感心すらしていた。誰一人として、露骨な反対は口にしない。「慎重に」「情報の精査を」「拙速は禁物」。

 その正論が積み重なるたびに、アルトレウス家の命運は削り取られていく。

 誰かが語り、別の誰かが深く頷く。その茶番に、セルギウスは口を挟まなかった。

 ここで噛みついたところで、泥沼に足を取られるだけだ。


 視線を上座へ向けた。

 あの日、陛下が侍従長とのやり取りの最中に現れたのは天祐だと思った。セルギウスの知る皇帝なら、即座に会議を招集し、決断を下してくれるはずだ――実際、招集までは早かった。勝利を確信した。だが。


 皇帝クラウディウスは、もはやかつての面影を失っていた。


 若き日のセルギウスが初めて拝謁した頃、陛下は違った。会議が紛糾すれば一言で断ち切り、時には自ら先頭に立って親征に赴いた。その眼差しは、決断の重みを知る者の目だった。

 その果断な姿こそが武人としての理想そのものだと信じ、セルギウスは今日まで己を律してきたのだ。


 しかし、いま玉座にある顔には、長い統治に倦み果てた色だけが深く刻まれている。

 いつから、これほどまでに変わられたのか。長年そばに仕えてきたのだから、その覇気が霧散して久しいことは頭では分かっていたはずだ。それでも、セルギウスの中の皇帝像は、理想としたあの頃のまま止まっていた。変質を、認めたくなかったのだ。


 ――会議が終われば、直接お目通りを願うしかない


 それだけが、残された最後の手だった。側近を遠ざけ、二人きりで直談判に及べば、必ずや往時の聖断が下ると信じて。


 ふと会議に意識を戻すと、アレクシオス・オ・コムネノスが声を荒らげていた。ファルセリ兵団と並ぶ帝国直轄の「コムネノス兵団」を率いる男だ。


「初報からすでに三日だ! これ以上の情報収集に何の意味があるのか。このまま放置すれば、これより先に届くのは戦況ではなく敗報だ!」


 強い口調で主張するアレクシオスに対し、出兵慎重派の筆頭、ガルシア・オ・トレオルが柳に風と受け流す。皇室の血を引く「七家」の一人だ。


「現在、帝国と西大陸諸侯との関係は極めて不安定です。小領主同士のいざこざに帝都の軍を動かせば、いたずらに緊張を煽り、国益を損なう恐れがあります。慎重に期して、慎重すぎることはありません」


 アレクシオスが即座に食ってかかる。


「何を悠長な! 貴殿の言い分は、まるで『アルトレウス領は帝国ではない』と言わんばかりではないか!」


「滅相もない。そのようなことは一言も申しておりませんよ」


 ガルシアは表情を殺し、冷ややかに応じた。言葉に詰まったアレクシオスが、助けを求めるようにセルギウスへ視線を送る。「お前からも何か言え」という無言の圧力。だが、セルギウスは微動だにしない。

 ここで加勢したところで、感情論の泥仕合に引きずり込まれるだけ、というのが三日間で学んだ事実だった。


 これまでのやり取りから、セルギウスは反対勢力の顔ぶれを冷徹に見定めていた。


 中心に座すガルシア・オ・トレオルを筆頭に、カレンディス家のオクタヴィアヌス。帝都防衛を担うカストル、そして財務を握るコンスタンティヌス。


ガルシアら四人は、ひとまとまりの勢力として動いている。いわゆる派閥というような間柄だ。

だが、そこに侍従長ハインリヒまで加わっているのは意外だった。


 ――――先日の、頑ななまでに取次を拒んだ侍従長の姿勢。背後に何かあるとは思っていたが、この面々と歩調を合わせていたとは……


 どのような裏取引があったのか、あるいはなかったのかは知る由もない。ただ、とにかくこの五人に共通しているのは、信念に基づいた反対ではないということだ。

 彼らの狙いはただ一つ。この援軍派遣を、一刻でも、一分でも長く引き延ばすこと。その停滞こそが、彼らにとっての「目的」そのものに見えた。


 当初は援軍派遣に好意的だった数名の出席者も、この五人の意図を察した途端、貝のように口を閉ざした。風向きが変わったと知るや、彼らは一転して椅子の上の置物と化したのだ。

 自分に直接関わりのない火の粉をかぶりに行くような真似はしない。それが帝都貴族の流儀であり、この都で生き延びるための常識だった。


 この会議はもはや、形だけ整えた空虚な飾りに過ぎない。

 そう断じた今、セルギウスが思考を割いているのはただ一点。いかにしてこの無益な場を切り上げ、皇帝の懐へと飛び込むか――それだけだった。




  * * *


 無意味な時間がようやく終わりを迎えた。

 議事進行を司る侍従長ハインリヒは、議論が熟さぬことを理由に、早々に明日への持ち越しを宣言した。


 唯一の反対者であったアレクシオスは、同じ陣営と信じていたセルギウスが沈黙を貫いたことに、「貴様もか」と言いたげな失望の眼差しを向け、足早に退室していった。

 盟友には悪いが、セルギウスにとっての本番はここからだった。


セルギウスは、援軍を阻もうとする者たちが口を挟む暇を与えぬよう、絶妙な機を計った。

 皇帝クラウディウスが立ち上がり、周囲の視線が一瞬だけ緩んだ、その刹那だった。退席する動線を読み、誰よりも素早くその行く手に先回りする。

 視界の端で、事態に気づいたガルシアが目を剥くのが分かったが、構わず一気に踏み込み、この国で最も高貴な人物の前で深々とこうべを垂れた。


「陛下、少しばかりお時間を拝借したく存じます」


皇帝クラウディウスは一瞬、不意を突かれたように目をしばたたかせたが、すぐにその驚きを深い疲れの奥へと押し隠した。


「……少しならばよい」


弱々しくも拒絶のない声。皇帝は、奥にある自身の執務室へとセルギウスを誘った。




  * * *


 執務室の扉が閉まると、皇帝クラウディウスはセルギウスを見ぬまま、低く言った。


「そなたの言いたいことは分かっている。……いや、分かっているつもりだ」


 その声には、苛立ちも威圧もなかった。

 ただ、ひどく疲れた者だけが持つ鈍い響きがあった。


「先ほどの会議の続きをやろうというのであろう。アルトレウス領へ援軍を派遣せよ、と」


「は」


 セルギウスは短く応じた。


「今この場ですぐに決断せよ、そなたはそう言いたいのであろう」


「その通りにございます」


 皇帝はそこで初めて顔を上げた。


「だが、そなたにも見えているはずだ。ガルシアらが何を計り、何を恐れているのか。なぜセヴァリスが旗を隠し、あえて『小領主同士の小競り合い』という体裁を演じているのか」


「その先の火種を恐れるあまり、いま目の前で燃えている火を見て見ぬふりをされるのですか」


 セルギウスは真っ直ぐに皇帝を見据え、毅然と反論を突きつけた。

 彼とて、セヴァリスの意図は承知している。「これは非公式の軍事行動であり、帝国も介入を控えるべし」という無言の恫喝。一見すれば外交的に筋が通っているようにも見えるが、それは欺瞞に過ぎない。


「奴らが担ぐドロミア家は名目上の独立領主に過ぎませんが、アルトレウス家は陛下の家臣であり、その封土は帝国領の一部です。しかも血筋をたどれば祖を同じとする、れっきとした血族の家柄。両者を同列に語ることなど、断じて許されぬはずです」


 皇帝はすぐには言い返さなかった。

 その沈黙は、言葉に詰まったからではない。むしろ、どの真実から口にすべきかを測っているかのような、重苦しい間だった。


「余も、本来ならばそう言いたい。……いや、若かりし頃の余であれば、そなたに言われるまでもなく兵を出しておったであろうな」


 自嘲気味に響く、ひどく静かな声だった。セルギウスは、反論の言葉を飲み込み、黙した。


「だが、今の余には、その先が見えてしまうのだ」


 皇帝は視線を落とし、意を決したように言葉を継いだ。


「セルギウスよ。そなたは、アルトレウスを救えば、それで全てが終わると思うか?」


 皇帝はそこで初めて、セルギウスを真正面から見据えた。その瞳には、かつての覇気の残滓ざんしのような、鋭い光が宿っているようにも感じた。


「ガルシアらの背後には、皇太子の影がちらつく。いや、もはや影などではない。彼が主導的に動き、この会議を操っておるのだ。

 それにそれらと通じる西大陸の諸国、諸侯も黙ってはおるまい。」


 セルギウスはその言葉に引っかかりを覚え、あえてとぼけて返した。


「……なんと。陛下は、すでにご譲位をお考えだったのでございましたか」


 皇太子の独断を放置してよいのか、と暗にあてこすったのだ。


「そのようなことは口にしておらぬし、考えたこともない。だが――」


 皇帝はやや憮然とした表情で言葉を切り、苦い毒を飲み込むように顔を歪めた。


「皇太子……ステファノスは、余の死を待つつもりはないらしい」


「そこまで陛下がお分かりになっているのであれば……。

 それになぜ、殿下はこのような派閥を動かすようなことをされるのでしょうか。

 殿下は帝国全体を率いる立場となられるお方。陛下と異なる立場で派閥を操るなど、あってはならぬはずでは?」


「だからこそなのだ。ここで余が何らかの決断を下せば、それは帝国内の決定的な分断を招くことになろう」


「お言葉ながら陛下。陛下ともあろうお方がそのような弱腰では、我ら臣下はいか相成りましょうや」


セルギウスは一歩踏み込み、声を絞り出した。


「陛下は私の初陣の折、百年前の故事について語ってくださいました。イピロスやテッサリアのみならず、帝都周辺を除くトラキアの過半を失ったあの大離反の悲劇を。一領主の救援を渋ったことをきっかけにして、数多の封臣が帝国を見限って離れていったのだ、と」


セルギウスはここで一呼吸を置き、射抜くような眼差しを向けた。


「いま正に、あの大離反と同じことが起きようとしているのです」


 皇帝は苦渋の表情で押し黙った。

 セルギウスの言わんとすることは、理解しているのだろう。

 だが長い治世で得た経験は、決断の先にある副作用ばかりを見せ、ついに王者の牙を抜いてしまっていた。


 セルギウスは、最後の賭けに出る。

 ここで陛下の許しが得られねば、もはや独断で兵を動かすほかない。その果ての処罰など、初めから覚悟のうえだった。


 だが、自分が理想の指揮官と仰ぎ、憧れ続けた皇帝クラウディウスの晩年がただ一度の誤った決断により、汚名に塗れることは可能なら避けたかった。


「ここでアルトレウスを見捨てるというのならば……。救援を求める絶望の淵で、主君がその責務を果たさぬというのならば、封土の家臣たちはどのように感じると思われますか」


 ここでセルギウスの叱咤が、静まり返った執務室に叩きつけられた。


「君、君たらざれば、臣、臣たらず!

 恐れ多くはございますが、あの大離反の世の皇帝のごとく、歴史に『愚帝』の名を刻むことを陛下はお望みか!」


さらに、容赦なく言葉を重ねた。


「あの大離反の折ですら帝国に残り、忠義を尽くしてきた数少ない封家すらも、今度こそ帝国を見限ることになりましょうぞ!」


 言い終えた瞬間、執務室は死んだように静まり返った。


 その言葉を聞いた瞬間、皇帝の顔からかすかに血の気が引いた。しかし叱責の声も、怒気を含んだ反駁も返ってこない。

 その言葉が、怒りより先に痛みとして届いてしまったからだ。ただ、老いた指先だけが、机の上で微かに震えていた。


 セルギウスは頭を垂れたまま、次の言葉を待った。

 もはや退路はない。今の諫言が不敬と断じられれば、その場で拘束されても不思議ではなかった。


 だが、皇帝はなお沈黙を保っていた。


 高窓から差し込む夕暮れの光が、執務室の床をゆっくりと這っていく。

 遠く、どこかで鳥の鳴く声が一度だけ聞こえた。


 やがて、クラウディウスは深く息を吐いた。


 「……そなたは、厳しいな」


 声は弱々しかった。

 だがその弱さの奥に、かすかに昔日の響きが残っていた。


 皇帝はしばらく黙した後、ついに顔を上げた。


 「セルギウス」


 「は」


 「兵を出せ」


 その一言は、呟きのように低かった。

 だが、セルギウスの耳には誰の叫びよりも明瞭に響いた。


 思わず顔を上げかけたが、セルギウスは辛うじてそれを堪えた。


 「ただし――」


 皇帝の声が、再び重くなる。


 「これは、帝国の正式な命ではない」


 セルギウスの眉がわずかに動く。

 クラウディウスは言葉を選ぶように、ゆっくりと続けた。


 「余が御前会議を経て下す勅命として兵を動かせば、すぐさま帝都は割れる。今はまだ、その形を取ることはできぬ。

 なのでこれは余個人としてそなたに命じる」


 「……」


 「ゆえに、そなたはファルセリ家当主として動け。帝国軍としてではなく、ファルセリ兵団を率いる一門の長として、余個人の名代としてアルトレウスを救え」


 セルギウスは沈黙した。それが何を意味するか、分からぬはずがなかった。

 功あれば、皇帝は後から黙認するだろう。

 だが敗れれば、あるいは帝都の政争が悪化すれば、責はファルセリ家と皇帝個人が負うことになる。

 皇帝はその危うさを承知のうえで、それでもなおこの形しか選べなかったのだ。


 「……かしこまりました」


 セルギウスは、深く頭を垂れた。するとクラウディウスは、かすかに顔を歪めた。


 「許せ、セルギウス」


 その一言は、皇帝のものというより、老いた旧友の謝罪のように聞こえた。




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