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澱む月  作者: 渡辺律
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 目の前ではこんなはずじゃなかったのに、と更紗が泣き叫んでいる。彼女がこれほど声を上げて何かを主張している姿を見るのははじめてだな、と斎は他人事のようにどこかぼんやりと思った。











 急な引越しの翌日。

 朝、当然のように迎えに来た塚本とともに車に乗り込み、今日の予定を聞く。昨日泣きつかれて眠ってしまった更紗をそのまま置いてきてしまったことが少し気がかりだが、わかりやすいところにメッセージを残してきたし、彼女が起きたころを見計らって電話かメールをすればいいだろう。昨日までとは違って電話だってメールだってできるのだし、家に帰れば更紗がいる。


「今日のスケジュールは以上です」

「待て、今日の夕方に樫山氏との会合が入っていたはずだが?」


 スケジュール管理は秘書に任せているとはいえ、重要な案件については自分でも把握している。今日は昼前に取締役の集まりがあり、夕方に樫山氏との会合があった。特に樫山氏との会合は社運をかけた一大プロジェクトの要ともいうべきもので、数ヶ月前からずっと準備していたのだ。なのに、先ほど塚本に告げられたスケジュールには取締役会議はあったものの、樫山氏との会合はなかった。延期になったのだろうかと思って尋ねてみると、紫様がなさいますとの返答があった。


「紫が?どういうことだ」


 まったくもって意味がわからない。なぜここに紫の名前が出てくるのか。

 斎の怪訝な眼差しに気づいていたにもかかわらず、塚本は能面のような顔で、そのことについては紫様からご説明なさるそうです、と告げた。









「で?説明してもらいたいんだが?」


 斎に与えられている会社の一室に入ると、昨日と同じく椅子に悠々と座り、コーヒーを飲んでいる紫がいた。昨日は正直、不意打ちだったため、紫のペースに乗せられてしまったけれど今日こそは、と斎は冷静になることを心がける。弟が人の上に立つ者としての力量をどれくらい有しているかは定かではないけれど、一筋縄でいく相手ではないことに間違いない。なぜなら斎には紫が何を考えているのかわかったことが一度もないのだから。だとしたら油断はすべきではない。斎は万能ではないのだから。


「説明?昨日したと思うけど。あ、そか、報告ならあった。離婚も婚姻も無事に成立したよ。式やらなんやらはしたければ塚本に言ってね。今すぐしたいって言われると少し困るんだけど。まあ、なにはともあれおめでとう。これで大好きな人と結婚できたね」


 僕は残念ながらまだ待たなくちゃいけないんだよ、ほんっと残念だよね。と紫はこぼす。



「は?いや、ちょっと待て。俺が聞きたいのはそういうことじゃなかったんだけど、今、俺と更紗との婚姻が成立した、とかなんとか聞こえたんだが?」

「うん、そうだよ」


 何か問題でも?と言わんばかりの弟に斎は頭を抱えたくなった。


「離婚届にはサインしたが、婚姻届にはサインしてないぞ?」

「でも、昔戯れに婚姻届に柏木さんと兄さんだけのサインを入れたことあるでしょ?あれを使ったんだよ。兄さんに新しくサイン貰ってもよかったんだけど、柏木さんのまで貰いにいくのも面倒だし、別に問題ないでしょ?」

「だからなんでそれをお前が持ってるんだ」

「兄さんの荷物をまとめて引越しさせてるときにこんなものがありましたけど、って連絡があったんだよ。兄さんも案外ロマンチックだよね」


 確かに婚姻届にサインをして、それをどこか心のよりどころとして持っていたのは確かだ。だけど、あれはただの気休めのようなもので使うつもりはなかった。ゆえに鍵付の引き出しのなかにしまっておいたつもりだったのだが。



 と、そこまで考えて斎ははっと気づいた。いけない。このままではまた紫のペースに飲まれてしまう。更紗との結婚はひとまずおいておこう。どちらにせよ落ち着いたら入籍するつもりだったのだからそれが少し早まったとしても問題ない。更紗にもきちんと説明してやれば受け入れてくれるだろう。


「そんなことより、だ。樫山氏との会合はお前がすると聞いたんだが」


 冷静になって問い詰めてやると紫はああ、と納得したような声を出した。


「まさか、とは思っていたんだけどもしかしてわかってなかった?ねぇ、兄さん。父さんから告げられたはずだよね?兄さんは表向きは嘉納のトップだけどそれは飾り物としての位置に過ぎないって。実権を握ってない人間を重要な会合に向かわせるわけがないとは思いつかなかったの?仕方がないから説明してあげるね。これから取締役会やなんかの会合には塚本が全部指示を出すし、それに反するような行動はすべて謹んでね。仮に兄さんが何かしようと思っても重役の何人かは兄さんが実権を持ってないことをすでに知っているよ。あと、今まで兄さんがやっていた仕事で会社の運営にまつわることについては僕が代理って形で引き継ぐ。兄さんの仕事はそういうのが絡まないものだけかな」


 紫はにっこりと笑った。


「わかったら出ていってくれないかな?」











 どういうことだと塚本に詰め寄るも、塚本は「すべては現当主と紫様が決められたことですので」としか返答しない。この男に聞いても無駄だと今までの秘書に連絡をとろうとするもつながらない。苛々する斎を見てしらじらしくも塚本は「ああ、お加減が悪いようですね。送っていきますので今日はお帰りになられては?」などとぬかし、挙句の果てに斎は何一つ了承などしていないというのに自宅にまで送り届けられ、今日はお休みくださいとさっさと塚本はどこかへ行ってしまった。


 そうしていきなり斎が帰宅したことに驚いて出迎えてくれた更紗に、更紗と入籍がすんだこと、そして斎が実権を奪われてしまったようであることを淡々と告げたところ、更紗はうそでしょう、と呟き崩れ落ちた。




「こんなはずじゃなかったのにっ」

「あたしが好きになったのは王様よっ」

「愛人のままでいたかったのにっ。結婚なんてしたくもなかったっ」



 更紗がなにか叫んでいる。

 もう、なにもわからない。




 





ひとまず斎視点はこれでおしまい。

後日談は紫視点で。

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