第1話 離婚届の裏に、返事を書かないでください
夫へ離婚届を差し出したら、泣き声が聞こえた。
『行かないで』
私は窓を見た。
廊下を見た。
最後に、目の前の公爵を見た。
アルヴィン・クロード公爵は、いつも通りの顔をしていた。
銀髪。青い目。真っ直ぐな眉。
王都で氷の公爵と呼ばれる、二十八歳の男性だ。
「契約書に、退去の申し出は一月前までにとありますので」
私は、もう一度、紙を差し出した。
『一月しか、ない』
声が、また聞こえた。
今度は分かった。
夫の声だった。
口は、動いていない。
公爵は紙を受け取り、目を通した。
それから、裏返した。
ペンを取り、何かを書いた。
返ってきた紙には、端正な字で、一行。
出発日について、再考の余地はあるか。
「……旦那様」
彼が顔を上げた。
「離婚届の裏に、返事を書かないでください」
公爵の耳が、赤くなった。
私はリーナ。二十四歳。
小さな伯爵家の娘で、前世は文具店で働いていた。
五歳の頃には、別の人生を覚えていた。紙の名前も、インクの匂いも。
だから、自分の離婚届へ余白を多めに取ったのは、ただの癖だった。
返事をもらうためではない。
七か月前、婚約者のアルマンに、婚約を破棄された。
誰が聞いても面白くなさそうな女だから、という理由だった。
趣味が、帳面を綴じることなのは認める。
でも、読みかけの本を机で開いたまま伏せる人より、私はずっと本に優しい。
別れたあと、親戚が紹介してくれたのが、アルヴィンだった。
彼は結婚を勧める周囲に疲れ、私は、新しい見合いで慰められることに疲れていた。
そこで、互いに落ち着くまでの、一年の契約結婚。
契約は二人で読んだ。住む部屋、費用、途中で終えるときの扱いまで。
その席で、彼は言った。
「君を愛するつもりはない」
私は、その言葉を信用した。
恋をしなくてよい結婚なら、自分の暮らしも考えられる。
前世のように、紙やペンを扱う仕事へ戻りたかった。
屋敷は快適だった。
使用人は親切で、私の部屋には日が差した。
でも、夫とはほとんど話さなかった。
食事へ誘っても、忙しいと言われる。
本の話をしても、「そうか」で終わる。
一度、庭の花を一緒に見ませんかと頼んだら、翌日、切り花が届いた。
花は欲しかった。
ただ、切り花の配達を頼んだつもりではなかった。
町の文具店で、見習いの仕事が決まった。
店の上の部屋も借りられる。
契約の期限を待たずに終えてよいという条項を、使うことにした。
なのに、今、夫の心の声が聞こえる。
しかも、泣いている。
「再考の理由を、伺っても?」
私が尋ねると、彼は目を伏せた。
「来月は、雨が多い」
『雨なら、少しは延ばしてもらえるかもしれない』
私は、紙を見下ろした。
銀色の縁が、微かに光っていた。
神殿で買った、婚姻の解消を申し立てるための、特別な用紙。
説明は、読んだはずだ。
提出前に確認する小さな欄が、裏にあったはず。
夫の返事が、その欄を隠していた。




