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売られた花嫁が救った少女は、王都の駅に降り立ちました  作者: くるみ


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第二話 父を葬る息子

 父の仕事部屋へ入るのが、子どもの頃は好きだった。


 大きな机の上には、いつも帳簿や契約書が積まれていた。何が書いてあるのかはほとんどわからなかったが、父の隣へ椅子を置いて、大人たちが数字や土地の話をするのを聞いているだけでよかった。

 仕事中の父は忙しかったが、僕が部屋へ入ってくることだけは咎めなかった。


 僕には、六つ上の姉が一人いた。

 僕が生まれた時、父は大層喜んだのだと、あとになって姉から聞いた。

 けれど、男の子が一人では足りないらしかった。


「男が一人では、病気で死ねば終わりだ」


 父は、もう一人息子が必要だと言った。

 そのあと、妹が生まれた。

 小さかったが、よく泣き、よく乳を飲んで育った。

 母はさらにもう一度、子を産んだ。

 また女の子だった。

 その子は、生まれて数日で死んだ。


 母はその出産のあと、ほとんど寝台から起き上がれなくなった。熱が下がらず、食事も取れなくなった。姉が何度も水を替え、僕は頼まれるたびに階下へ薬や布を取りに行った。


 ある日、診察を終えた医者と父が廊下で話しているのを、僕は階段の陰から聞いていた。


「この冬を越えられるかどうか、というところでしょう」


「次の子は?」


「もう無理です。たとえ回復しても、出産には耐えられません」


 父は少し黙った。


「そうか」


 それから、そばにいた番頭へ顔を向けた。


「なら、次を探せ」


 最初、その意味がわからなかった。


 二階には母がいた。

 まだ生きていた。


     *


 その夜、母に呼ばれた。

 部屋には薬と汗の匂いがこもっていた。暖炉には火が入っていたのに、母は寒いと言って毛布を胸まで引き上げていた。


「お父様は?」


「仕事だって」


「そう」


 母は目を閉じた。

 しばらくして、また開いた。


「来てくれるって?」


「わからない」


「そう」


 それきり黙ったので、眠ったのかと思った。

 けれど、母の指が毛布の上を探るように動いた。

 僕はその手を握った。


「つらい」


「どこが?」


 母はしばらく答えなかった。


「どこかな」


 そう言って、片腕で目を覆った。

 腕と頬の隙間から、涙が一筋流れ落ちるのが見えた。


「あなたたちがいてくれて、よかったのよ」


 母は目を覆ったまま言った。


「お姉ちゃんも、あなたも、妹も。亡くなったあの子も、みんな大事な子よ」


 僕は頷いた。

 母はしばらく黙っていた。


「でも、私の人生って、なんだったのかしら」


 声はとても小さかった。

 母は、はっとしたように腕を下ろした。そのまま目元をこすり、僕に笑いかけた。

 細くなった手が、僕の頭を撫でた。


「ごめんね。お父様に、お母様が会いたいって言ってると伝えてくれる?」


「うん」


 僕はその夜のうちに、父の仕事部屋へ行った。


「お母様が、会いたいって」


 父は帳簿から顔を上げた。


「あとで行く」


「一度でいいから来てって言ってた」


「聞いた」


「いつ?」


「仕事が終わったらだ」


 翌朝、僕は再び母のもとを訪れた。


「お父様は?」


 僕は少し迷った。


「まだ仕事してる」


「そう」


 その翌日も、そのまた翌日も、母は父を待った。

 けれど、父は来なかった。


 母は少しずつ弱っていった。初めのうちは僕が部屋へ入ると笑ってくれたし、手を伸ばして頭を撫でてくれることもあった。

 それもしなくなった。

 最期には、僕の顔を見ることも、笑いかけることもなかった。ただ、天井をぼんやりと見ていた。

 その晩、母は死んだ。


 父は、最後まで来ることはなかった。


 葬儀の日にも、父の姿はなかった。

 外せない取引があるのだと、番頭から聞いた。


     *


 母が亡くなってからは、六つ上の姉が僕と妹の面倒を見ることが増えた。

 朝、襟が曲がっていれば直してくれた。食事を残せば叱り、熱を出せば夜中にも水を持ってきた。幼い妹の髪を結い、眠れない夜には寝台のそばに座っていた。


 八歳の冬、高い熱を出した夜に目を覚ますと、父が寝台の横に座っていた。


「水を飲むか」


 父に背中を支えられ、杯へ口をつけた。

 そのあと差し出された薬を見て、僕は顔をしかめた。


「苦い薬は嫌だ」


「治ったら栗を買ってやる」


「二袋」


「一袋だ」


「二袋」


「欲張りめ」


 熱が下がった日の夕方、父は焼き栗を二袋持って帰ってきた。


 初めて馬に乗せてくれたのも父だった。祭りでは肩車をしてくれたし、仕事机に座りたがれば、大きすぎるペンを持たせてくれた。


 数字をうまく書けないと、父は隣へ椅子を寄せた。


「ここは、こうするんだ」


 大きな手が僕の手に重なり、一緒にペンを動かした。指についたインクまで、父が笑いながら布で拭ってくれた。

 その手は温かくて、大きかった。


 父が僕を見る優しい目が大好きだった。


     *


 姉が十七になった時、父は嫁ぎ先を決めた。

 相手は、姉より三十近く年上の港町の商人だった。


 その数日前の夜、厠へ行こうとして廊下を歩いていると、父の仕事部屋から姉の声が聞こえた。

 戸が少しだけ開いていた。


「結婚したくありません」


 僕は足を止めた。


「だから何だ」


「ほとんどお話をしたこともありません。それに、あの方は――」


「港に倉庫を三棟持っている。あちらと縁を結べば、北港から入る荷が安くなる」


「そんなことを言っているんじゃありません」


「私はその話をしている」


 しばらく何も聞こえなかった。


「お父様、お願いです」


 姉の声は、昼間に聞くものとは違っていた。


「行きたくありません」


「話は終わりだ」


 椅子を引く音がした。

 僕は慌てて廊下の角まで戻った。

 少しして姉が部屋から出てきた。僕には気づかず、俯いたまま自分の部屋へ戻っていった。

 僕は、その夜のことを姉には言わなかった。


 翌日、姉に尋ねた。


「姉さん、遠くに行くの?」


「そうね。汽車にも長く乗るみたい」


「帰ってくる?」


「たまには帰ってくるわよ」


 姉はそう言って、いつものように僕の襟へ手を伸ばした。


「また曲がってる」


 襟を直し終えても、姉はすぐには手を離さなかった。


「大丈夫よ」


 姉は笑った。


「向こうでも、ちゃんと幸せに暮らすから」


 けれど、襟元に残った手が震えていた。

 姉自身も気づいたのか、すぐに手を下ろし、指を隠すように強く拳を握った。

 僕は何も聞かなかった。


 結婚式の朝、門の前には黒い馬車が停まり、前夜の雨が石畳の窪みに残っていた。

 姉は外套を着たまま、僕の前で足を止めた。


「また襟、曲がってる」


 いつものように手を伸ばした。


「もう自分でできるようになりなさいね」


「できるよ」


「できてないから言ってるの」


 姉は笑った。

 今度は、手は震えていなかった。


 馬車へ乗る直前、僕の頭を一度撫でた。


「元気でね」


 閉じた窓硝子の向こうに姉の横顔が見えた。

 やがて車輪が濡れた石畳を踏み、馬車は門の向こうへ消えていった。

 父は上機嫌だった。


「これで北港の荷が安く入る」


 僕は、何も言わなかった。


 妹が年頃になった時も、父が縁談を決めた。

 姉ほど年の離れた男ではなかったが、妹が自分で選んだ相手ではなかった。


 その時も、僕は何も言わなかった。


     *


 父が母の次に迎えた妻は、屋敷へ来たばかりの頃にはよく笑う女だった。

 庭を歩くのが好きで、馬にも乗りたがった。

 けれど、いつの頃からか一人で外へ出ることを許されなくなり、客が来ても食事の席へ出なくなった。


 ある朝、階段の下で死んでいた。

 父は事故だと言った。

 使用人たちも事故だと言った。

 僕も、それ以上は聞かなかった。


 その次の妻は、よく父へ言い返した。

 初めの頃は、廊下にまで二人の声が聞こえていた。

 やがて聞こえるのは、女の声ばかりになった。

 閉じた部屋の中から。

 夜、戸の向こうで泣いていることもあった。


 一度だけ、父へ言った。


「開けてあげたらどうです」


 父は書類から目を上げた。


「前にも逃げようとした」


「だからって、閉じ込めるのは」


「泣いても扉は開かん。そのくらい、そろそろ覚えればいい」


 僕は、それ以上言えなかった。


 そのうち、女はいなくなった。

 どこへ行ったのか、僕は聞かなかった。


     *


 年齢が上がるにつれて、僕も商会へ出ることが増えた。

 父と一緒に歩けば、誰もがよく頭を下げた。


「いつもお世話になっております」


「若旦那も、立派になられましたね」


 父にも、僕にも、皆よく笑った。


 ある晩、忘れた帳簿を取りに戻ったことがある。

 奥の部屋から、番頭たちの声が聞こえた。


「また畑を一つ取ったそうだ」


「返済がひと月遅れただけだろう」


「職人の方は、道具まで持っていかれたらしい」


「働けなくして、どうやって返せっていうんだ」


 誰かが鼻で笑った。


「あの人には関係ないんだろうよ」


 少しして、別の男が言った。


「若旦那も、そのうち同じになるさ」


 僕は戸を開けなかった。


 翌朝、彼らは昨日までと同じように僕へ頭を下げた。


「おはようございます、若旦那」


 僕も、いつもと同じように挨拶を返した。


     *


 しばらくして、父はまた妻を迎えると言った。


「十八だ」


 僕は思わず父を見た。


「十八?」


「若い方がいい」


「本人は承知しているんですか」


「両親とは話がついている」


「本人は」


「親が決めることだ」


 国境に近い村の農家の娘で、家には借金があった。仲立ちをしたのは、マルタという女商人だった。

 父は借金を肩代わりする代わりに、娘を妻として引き取るつもりだった。


 何を言っても無駄だ。

 いつからか、その言葉で考えることをやめるようになっていた。


 娘は来なかった。

 オルレア駅で逃げたのだという。

 僕は何もしなかったくせに、その知らせを聞いてほっとした。


 父が戻った翌日、マルタが商会へ来た。

 以前に見かけた時には、よく喋り、父を相手にしても物怖じしない女だった。


 その日は違った。

 片方の頬が腫れ、唇の端が切れていた。そして、その目はひどく怯えていた。

 父が何をしたのかは知らない。

 僕も聞かなかった。

 マルタは父の前で、ほとんど顔を上げなかった。


「先方に、それだけの財産はありません」


 番頭が言った。

 父は机に肘をついた。


「なら父親を売れ」


 父は、口元だけで嫌な笑い方をした。


「もともと娘を売ろうとしたんだろう。自分が売られても文句は言えまい」


 書類を番頭の方へ押しやった。


「採石場でも鉱山でもいい。働けるんだろう。娘の代わりに金にしろ」


 娘の父親は北の採石場へ送られた。

 数年後、商会に届いた記録の中で、その男の名前の横に死亡と記されているのを見た。


     *


 父が病に倒れたのは、それから何年も経ってからだった。

 以前なら父へ判断を仰いでいた番頭たちが、少しずつ僕のところへ書類を持ってくるようになった。


 父から手紙が来た。


 一通目は長かった。

 屋敷のこと、商会のこと、医者への不満まで細かな文字で書き連ねられ、最後に、顔を見せろ、とあった。


 二通目も何枚かあった。

 けれど文字はところどころ乱れ、同じことが何度も繰り返されていた。


 三通目は短かった。


 頼む。

 一度でいい。

 顔を見せてくれ。


 僕はその紙を机の上へ置いた。


 姉が父の部屋で、行きたくないと頼んでいたことを思い出した。

 閉じた戸の向こうで、妻が泣いていたことも。

 そして、母を思い出した。


 来てくれるって?


 母は何日も父を待った。

 初めのうちは僕が部屋へ入れば笑ってくれた。

 やがて、笑わなくなった。

 最後には僕の顔さえ見ず、ただ天井を見ていた。

 父は来なかった。

 母がどれほど苦しくても、父にはもっと大事なことがあった。


 ならば今度は、父が待てばいいと思った。

 病気になって、誰かに来てほしいと思って、それでも来てもらえない側にいればいい。

 自分より大事なことがあるのだと、背を向けられればいい。

 少しくらい、自分がしてきたことを思い出せばいい。


 後悔すればいい。

 待っても、待っても、誰も来なければいい。

 翌日も、その翌日も。


 食事は届けさせた。

 医者もつけた。

 使用人も残した。


 それから、手紙は来なかった。

 数日後、父が死んだと知らせが来た。


     *


 葬儀は、オルレアから遠く離れた小さな町で行った。

 父のことを知る者はほとんどいなかった。


 雪の残る墓地の上には、よく晴れた青い空が広がっていた。葉を失った木々の細い枝が、白い雪の向こうから空へ伸びていた。

 棺が土の中へ下ろされ、司祭が去ったあと、墓守がシャベルを取った。

 そばにいた葬儀屋が僕を見た。


「お父様ですか」


「はい」


「お顔、少し似ていらっしゃいましたね」


 墓守が土へシャベルを入れた。


 ざくっ。


 似ている。

 そんなはずはないと思った。


 母がまだ生きているうちに、次の妻を探せと言った。

 母が会いたがっていると伝えても、来なかった。


 ざくっ。


 姉を、三十近く年上の男へ嫁がせた。


 返済が遅れた農家から畑を取り上げ、金を返せなかった職人からは仕事道具を持っていった。

 細かな文字を読めない者にも、不利な条件の契約書へ平然と署名をさせた。


 妻が泣いても、戸を開けなかった。

 十八歳の娘を金で買おうとした。

 逃げられれば、その父親を売った。


 ざくっ。


 土が棺を覆っていく。


 そんな男を、ずっと憎んでいた。

 そのはずなのに。


 水を飲むか。


 八歳の冬。

 父の腕に背中を支えられた。


 治ったら栗を買ってやる。


 二袋。

 一袋だ。

 二袋。

 欲張りめ。


 ざくっ。


 熱が下がった日の夕方、紙袋は二つあった。

 初めて馬に乗った日。

 祭りの夜、父の肩の上から見た灯り。

 仕事机の隣に置かれた、小さな椅子。

 大きすぎるペンを一緒に握った手。


 そして、僕を見る時の、優しい目。


 ざくっ。


 今さら、思い出したくなかった。

 墓守が父を埋めていくたび、自分の中では、いらないはずの記憶ばかりが掘り返されていった。


 父を許したわけではなかった。

 これから許せるとも思わなかった。

 それでも、父を憎むより前に、僕は父を好きだった。


 視界が滲んだ。

 父を好きだった子どもの自分まで、父と一緒に埋めることはできなかった。


     *


 父の商会は、そのまま僕が継いだ。

 極端な違約金や、返済が一度遅れただけで仕事道具を奪うようなやり方だけはやめた。

 仕事をして、利益を出し、契約を守った。


 父の屋敷には住まなかった。

 仕事場から歩いて帰れるところに、小さな家を買った。

 寝室が二つに、居間と台所。それから、小さな庭が一つ。

 家具も必要なものだけを置いた。


 朝になれば商会へ行き、日が暮れれば家へ戻った。

 食事を取り、帳簿を読み、眠った。


 翌日も同じだった。


 そんなふうに、灰色の日々だけが続いた。

 季節だけが変わっていった。


     *


 何年かして、父から受け継いだ王都の古い倉庫を売ることになった。

 売却の手続きで、役所へ行った。


 担当したのは、若い女の文官だった。

 左の小指が少し曲がっていた。

 女は受け取った書類を一枚ずつ確認し、必要な場所へ印をつけていった。


「こちらにも署名をお願いします」


 僕はペンを取った。


 アドリアン・オルランド。


 署名を終えると、女は次の紙をめくった。

 その指が、ほんの一瞬だけ止まった。


 前所有者。

 ガストン・オルランド。


 女はその名前を見たまま、ほんのわずかに黙った。

 けれど、何も尋ねなかった。


 顔を上げると、先ほどまでと変わらない声で言った。


「こちらにも署名をお願いします」


 僕は、もう一度ペンを取った。

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