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売られた花嫁が救った少女は、王都の駅に降り立ちました  作者: くるみ


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1/3

第一話 王都へ向かう少女

「売られた花嫁」シリーズ全3部作の第3作です。

本作単独でもお読みいただけますが、こちらの作品から続いています。

https://ncode.syosetu.com/n4007ml/

 リディアの義父は、村では評判のいい男だった。


 日曜になれば欠かさず教会へ行き、足の悪い老人を見かければ荷物を代わりに持った。収穫祭では酒樽を一つ寄付し、冬を越す薪に困った家があれば、自分のところからいくらか融通してやった。


 だから母が再婚した時には、近所の女たちまで「これで安心ね」と喜んだ。


 それまでの母娘の暮らしは貧しかった。

 実の父が家を出てから、母は人の家の洗濯や畑仕事をして暮らしをつないでいた。冬の上着は何度も繕って着たし、靴底に穴が開けば布を詰めて春まで持たせた。

 学校へ通う金などあるはずもなく、リディアは十五になっても、自分の名前のほかには店の看板に書かれたいくつかの文字を、なんとなく見分けられる程度だった。


 最初の数月は、母もよく笑っていた。

 家の戸が閉まったあと、その男がどんな顔をするのかを、村の誰も知らなかった。


     *


 義父は、母をよく殴った。

 酒を飲んだ夜に限ったことではない。夕食が遅い、肉が硬い、靴に泥が残っている。仕事先で誰かに腹を立てて帰ってきた日には、母が何もしていなくても理由になった。

 壁の向こうで椅子が倒れる音がすると、リディアは自分の部屋で息を殺した。やがて母のすすり泣きが聞こえ、それもしばらくすると止まった。


 翌朝、母の頬には青黒い痣があった。


「転んだの」


 母はいつもそう言った。

 リディアも無事だったわけではない。母の前へ出れば頬を打たれ、返事が気に入らなければ腕を強く掴まれた。ひどく機嫌の悪い夜には、家の奥にある窓のない物置へ押し込まれることもあった。


 最初に怖くなったのは、義父の足音だった。

 玄関で靴を脱ぐ音がすると、その日の機嫌を考えた。廊下を歩く速さで、酒を飲んでいるかどうかまで、なんとなくわかるようになった。

 そのうち、義父ではない男の大きな声にも体が反応するようになった。

 道端で男同士が怒鳴り合っていると、足が止まった。井戸端で若い男たちが大声で笑っていれば、水汲みを後回しにして家へ戻ることもあった。

 義兄も義父によく似た、人当たりのいい青年だった。家の外ではよく笑い、老人の畑仕事を手伝うことさえあった。

 けれど廊下ですれ違う時、腰へ手を置かれたり、後ろから髪を触られたりすることがあった。


「妹なんだから、いいだろ」


 それから、義兄とは二人きりにならないようにした。

 それだけは、特に気を付けていたはずだった。


     *


 その夜、リディアは寝台が沈んだ感触で目を覚ました。


 窓の外には月が出ていて、薄い雲を透かした白い光が床板へ斜めに差していた。

 次の瞬間、口を塞がれた。


「……っ」


「静かにしろ」


 耳元で声がした。

 義兄だった。


 怖くて腕を振った。足をばたつかせ、掴まれた手から逃れようとした。

 左手を強く捻られ、指の奥で音が鳴った。

 寝台の脇にあった椅子を蹴ると、倒れた椅子が床へぶつかり、夜の家には不釣り合いなほど大きな音を立てた。


 廊下で足音が止まった。

 扉が開いた。

 母が立っていた。

 目が合った。

 助かった、そう思った。


「お母さ――」


 母の顔が強張った。

 その目が義兄へ移り、またリディアへ戻った。


 ほんの一瞬だった。

 次に、母は目を逸らした。


 扉が閉じた。

 母の足音が、廊下の向こうへ遠ざかっていった。

 隣の寝室の戸が開き、閉まった。


 それきりだった。


 リディアは、抵抗するのをやめた。


     *


 朝になると、雨は上がっていた。

 低い雲はまだ村の屋根の上に残り、軒からは雫が落ちていた。


 母は洗濯物を干していた。

 濡れた白いシーツを籠から引き上げ、両腕いっぱいに広げる。風を含んだ布が膨らみ、しばらく母の姿を隠した。


「お母さん」


 母が振り返った。


「昨日……」


 そこから先が出てこなかった。


 母には金がなかった。

 家もなかった。

 ここを出れば、また二人で冬の上着を繕い、靴底へ布を詰めて暮らさなければならない。そのくらいはリディアにもわかっていた。


 それでも、母に抱きしめてほしかった。

 怖かったね、と言ってほしかった。


 母はしばらくリディアを見ていた。

 それから、手にしていた白いシーツへ目を戻した。


「あなたが誘惑したのでしょう」


 風が吹いた。

 白いシーツが大きく膨らみ、母の姿を隠した。

 リディアは動かなかった。

 風が抜けて母の姿がもう一度見えた時、母は次の洗濯物を籠から取り出していた。


 リディアは家の中へ戻った。

 左の小指は紫色に腫れ、少しおかしな方向へ曲がっていた。

 着替えを古い布へ押し込み、机の奥に隠していた銀貨を三枚掴んだ。水筒を取り、台所からパンを二つと固いチーズの欠片を持ち出した。


「リディア?」


 庭から母の声がした。

 振り返らなかった。

 戸を開けた。


 そのまま、村の外まで走った。


     *


 家々が見えなくなり、畑が途切れ、道が林の中へ入ってから、ようやく足を止めた。

 戻ればいい、と一度だけ思った。

 何もなかったことにして。


 けれど、戻って誰に話すのだろう。

 義父は村では親切な男だった。義兄も、働き者で愛想のいい青年として知られていた。

 何より、母は見ていた。見たうえで、戸を閉めた。


 三日目に雨が降った。

 葉を落とし始めた森はほとんど雨を防いでくれず、灰色の空へ伸びた枝は、皮だけを残した細い骨のように見えた。


 途中で滑り、左手を地面についた。

 腫れた小指に鋭い痛みが走り、思わず声が出た。

 すぐに口を押さえた。

 誰もいない森だった。


 夕方になって雨が上がった。

 リディアはまた歩いた。


 行きたい場所はなかった。

 帰れない場所だけがあった。


     *


 小さな村へ着いたのは、その日の暮れ方だった。

 煙突から白い煙が立ち、どこかの家から玉葱を煮る匂いと、焼いたパンの匂いが漂ってきた。

 井戸で水を飲んでいると、桶を持った女が声をかけた。


「泊まるところは?」


 リディアは首を振った。


「あっちへ行ってみな。修理屋と洗濯屋を一緒にやってる家がある」


「宿ですか」


「宿じゃないよ。女なら、一晩だけ休ませてくれる」


「知らない人でも?」


「知らない人のためなんだってさ」


 女は少し声を落とした。


「理由も聞かれない。名前も、言いたくなきゃ言わなくていい」


 店の前まで来てから、戸を叩くまでには随分かかった。


 窓から黄色い灯りが漏れていた。

 中で子どもが笑っていた。


 帰ろうと思った。

 そして気づいた。

 私はいったいどこへ帰るのだろう。


 リディアは戸を叩いた。

 やがて、栗色の髪を後ろでまとめた女が出てきた。


 濡れた靴を見た。

 泥のついた裾を見た。

 腫れた左手を見た。

 それから、リディアの顔へ目を戻した。


「寒かったでしょう」


 そう言って、戸を大きく開けた。


     *


 女はミラと名乗った。


 温かいスープを出してくれた。

 白い豆と根菜の入った、少し塩気の強いスープだった。

 半分ほど食べたところで、突然喉が詰まった。

 俯くと、スープへ一滴落ちた。

 その時になって、自分が泣いていることに気づいた。


 ミラは何も言わなかった。

 新しい布巾を一枚、机の上へ置いただけだった。


 店の奥には、小さな部屋があった。

 戸には、内側から掛けられる鍵がついていた。

 リディアは、その鍵を長く見た。


「閉めていいのよ」


 ミラが言った。


「誰も入らないから」


 リディアは戸を閉め、鍵を掛けた。

 一度、戸を引いた。

 開かない。


 もう一度確かめた。


 夜中に何度も目を覚ました。

 そのたび戸を見た。


 朝まで、誰も開けなかった。


     *


 翌朝には出ていくつもりだった。

 けれど、店の外で男が大声で笑った途端、足が動かなくなった。


 洗濯籠を抱えたミラが、後ろから来た。


「今日はいいわよ」


「でも、一晩だけって」


「昨日ここへ来たの、日が暮れてからでしょう」


 ミラは外を見た。


「まだ一晩よ」


 その日は店の奥で洗濯物を畳んだ。


 次の日も、外へ出られなかった。

 ミラは何も言わず、昼になると皿を一枚余分に並べた。


 何日かしてから、リディアは言った。


「この部屋は、一晩だけ逃げてきた人のための部屋ですよね」


「そうね。この部屋だけは、空けておきたいの。今夜また、誰かが逃げてくるかもしれないから」


「わかりました」


 リディアは視線を落とし、膝の上で両手を強く組んだ。


「今までありがとうございました」


 ミラは、しばらくその手を見ていた。


「だから、別のところを探しましょう」


 顔を上げた。


「え?」


「屋根裏ならどうかしら」


 呼ばれて出てきたエリオが、天井を見上げた。


「窓、壊れてるぞ」


「そうだったわね。困ったわ」


「俺を誰だと思ってる?」


「エリオ?」


「修理屋だぞ」


 その日のうちに、屋根裏へ小さな部屋ができた。

 粗末な寝台と机。

 そして、直された窓。


     *


 屋根裏へ移ってから何日か経った夜、店を閉めたあとも、リディアはミラと二人で洗濯物を畳んでいた。


 エリオとネリアはもう二階へ上がっていた。

 暖炉の火が小さくなり、時々、薪の崩れる音がした。


「母が、見ていたんです」


 ミラの手が止まった。

 リディアは手元の布を見たまま続けた。


「義兄が私の部屋に入ってきて。母は途中で戸を開けました」


 指先が震えた。


「目が合いました。でも、母は戸を閉めました」


 ミラは何も言わなかった。


「次の日には、私が誘惑したんだって言われました」


 リディアは左手を握った。


「忘れたいです」


 風が吹いて、家の戸がかたかたと揺れた。

 ミラは立ち上がり、カーテンを少し開けて、窓の外を見た。

 そして、口を開いた。


「私もね、売られたの」


 リディアは顔を上げた。

 ミラの向こうには、月も星もない夜空が見えた。


「隣国の商人に。ガストン・オルランドっていう人だった」


 ミラは、少しだけ笑った。


「変でしょう。もうずいぶん前のことなのに、名前だけは今でもちゃんと覚えてるの」


「忘れたいですか」


 ミラはしばらく考えた。


「昔はね」


 ミラはゆっくりとカーテンを閉じた。


「でも、今は別にいいかな」


「どうしてですか」


「忘れなくても、ここで暮らせてるから」


 ミラはリディアの隣へ戻り、畳みかけだった布を広げて、端を合わせた。

 リディアも、手元の布をもう一度畳んだ。


 二人はそれ以上、その話をしなかった。


     *


 リディアは店を手伝うようになった。


 最初にできた仕事は、客の洗濯物を畳むことだった。

 しばらくして、外へ干す仕事も手伝うようになった。


 ある日、ミラが大きな白いシーツを広げた。

 風を含んで、布が大きく膨らんだ。

 リディアの手が止まった。


「リディア?」


 リディアは息を吸った。


「そちら、持ちます」


「お願い」


 二人でシーツの端を持った。

 白い布が風を受けて膨らんだ。


「次、これね」


「はい」


 リディアは、次の洗濯物へ手を伸ばした。


 店の仕事を覚えた頃から、ミラは週の終わりに給金を渡すようになった。


「いりません。食べさせてもらっていますし、部屋も」


「それとこれは別よ」


 ミラはリディアの掌へ銀貨を置いた。


「働いた人には、お金を払うの」


 それからは、少ないながらも毎週給金をもらった。

 必要なものを買うほかは使わなかったので、屋根裏の小箱には少しずつ銀貨が増えていった。


     *


 文字を教えてくれたのは、ミラの娘だった。

 ネリアという、八つになる子だった。


 ある日、ネリアが洗濯物についた札を見て、「これはエマさんの」と言った。


「どうしてわかるんですか」


「書いてあるから」


「教えてください」


 ネリアは少し驚いた顔をしたあと、「いいよ」と言った。


 文字を覚えるのは、面白かった。

 同じ形なら、同じ意味だった。

 二と三を足せば五になり、誰が計算しても答えは変わらない。昨日まで正しかったことが、誰かの機嫌で今日は間違いになることもない。


 一つ読めるようになると、それまで何もなかった場所に意味が現れた。


     *


 自由に外へ出られるようになるには、それより長くかかった。


 最初は庭。

 次は井戸。

 その次は、ミラと一緒に隣の家まで。


 初めて市場へ出た日には、近くで男が怒鳴っただけで体が動かなくなった。

 家へ戻ると、台所で吐いた。


「もう行かなくていい」


 ミラが背中を撫でた。

 リディアはしばらく俯いていた。


「次は行きます」


 半月後、ネリアと市場へ行った。

 菓子屋の軒先で、焼き型で抜いた菓子を見つけた。


「犬の形」


「狐じゃない?」


 店主の女が笑った。


「猫だよ」


 二人とも黙った。

 それから顔を見合わせて笑った。


 帰り道、ネリアは何度も、「あれ、狐に見えたのに」と言った。


 それから少しずつ、一人で歩ける距離も伸びた。

 大きな男の声は、その後も苦手なままだった。後ろから急に肩へ触れられれば、体が動かなくなることもあった。

 左の小指も、少し曲がったまま残った。

 それでも、井戸までだった道は市場まで伸び、やがて一人で村の端まで歩けるようになった。


     *


 文字を覚えてから、リディアは給金で古い教本を一冊買った。

 昼間は店の仕事があるので、本を開けるのは仕事が終わってからだった。

 けれど、日が落ちれば屋根裏では読めない。


 村外れに、遅くまで灯りの消えない学び舎があった。

 リディアは本を持ってそこへ行き、窓から漏れる光の中で頁を開いた。

 何日かそうしていたある晩、頭の上で窓が開いた。


「お前、そこで何をしている」


 白髪の老人がこちらを見下ろしていた。


「読んでいました」


「寒いだろう」


「平気です」


「私は寒い。窓を開けているとな」


 老人は窓を閉めた。

 しばらくして、建物の戸が開いた。

 老人は何も言わず、中へ戻った。

 戸は開いたままだった。


「入るなら閉めろ。寒い」


 リディアはしばらくその戸を見ていた。

 それから、自分で中へ入った。


     *


 老人は昔、役所で働いていた人だった。


 読み書きだけでなく、算術や地理、歴史も教えてくれた。

 リディアはよく覚えた。

 半年後には、店の勘定書や仕入れの書きつけを読むようになっていた。


 ある日、エリオが仕事を終えたあと、代金を書いた紙を見せてもらった。

 材料代と運搬費を引いてみると、ほとんど何も残らない。


「これ、直してもほとんどお金が残りません」


「そうなのか?」


「どうして店が続いているんですか」


「ミラが何とかしてるから」


 階下から、「聞こえてるわよ!」と声が飛んできた。

 エリオは肩をすくめた。


 文字を読めるようになると、それまで気づかなかったものが、あちこちにあった。


 荷札。

 新聞。

 薬瓶の注意書き。

 駅の時刻表。

 市場の値札。


 老人が見せてくれた地図には、村の外にも町があり、その向こうにも別の町があった。さらに遠くには国境があり、その先にも土地が続いていた。


     *


 ある夜、店を閉めたあとも、リディアとミラは二人で並んで食器を片付けていた。

 暖炉の火は小さくなり、時々、薪の崩れる音がした。


「ミラさんって、ご自分でつけた名前なんですよね」


「そうよ」


「前は、何という名前だったんですか」


 ミラは手を止めた。


「それは内緒」


「お嫌いだったんですか」


「逆かな。幸せ、っていう意味の名前だったの」


「いい名前ですね」


「そうね」


 ミラは洗った食器を布で拭いた。


「でも、あの頃は、自分だけ幸せになってはいけないと思ってたから」


 リディアは何も言わなかった。

 暖炉の中で、薪が小さくはぜた。


「お父さんも、お母さんも、弟も置いて逃げたでしょう」


 ミラは次の食器を手に取った。


「だから、その名前を名乗る気になれなかったの。いつ追われるかわからなかったのもあるわね」


 少しして、リディアが尋ねた。


「今もそう思いますか」


「今は、ちょっと違うかな」


「名前は戻さないんですか」


「もうミラで長いもの」


 リディアはそれ以上聞かなかった。

 ミラは少し考えてから笑った。


「昔の名前なら、いつか弟に聞いてみて」


     *


 ある日、屋根裏の机に短い蝋燭が三本置かれていた。

 形の悪い、安い蝋燭だった。


「これ、どうしたんですか」


「蝋燭屋さんで安くしてもらったの」


「でも、お金が」


「蝋燭三本くらいなら買えるわよ」


 リディアはまだ何か言おうとした。

 ミラは一本を手に取った。


「あなた、勉強したいんでしょう?」


「はい」


「だったら、できるようにしたいの」


 その夜から、リディアは屋根裏でも本を開けるようになった。


     *


 ミラの家へ来て二年ほどが過ぎた頃、老人は机の上へ一冊の本を置いた。

 文官登用試験の過去問だった。


「文官の試験を受けてみろ」


 リディアは顔を上げた。


「私がですか」


「ほかに誰がいる」


 老人は本をリディアの方へ押した。


「まず解け。話はそれからだ」


 その夜、リディアは夕食のあと、三人へ話した。


「文官の試験を受けてみようと思います」


 ミラは驚かなかった。


「受ければいいじゃない」


     *


 それから一年ほど勉強し、試験を受ける春を迎えた。

 前の晩、ミラは汽車で食べるパンを包み、エリオはリディアの鞄の留め金を何度も確かめた。


 翌朝、三人とも駅まで来た。

 東の山の向こうだけが淡く明るくなり、ホームには朝の冷たい空気と、機関車の吐く白い蒸気が混じっていた。

 汽車が入ってくると、エリオが鞄を差し出した。

 ネリアがリディアの袖を掴んだ。


「早く帰ってきてね」


「帰ってきます」


 リディアは汽車へ乗った。


「行ってきます」


 ミラが笑った。


「行ってらっしゃい」


     *


 汽車は朝の野を走った。

 冬枯れの畑を抜け、小さな村々を通り過ぎ、川を渡った。

 森へ入ると、葉を失った木々が窓のすぐ外まで迫った。

 白い空へ伸びた細い枝の先には、目を凝らさなければ見落としてしまうほど小さな緑がついていた。


 昼を過ぎる頃、王都が見えた。

 やがて線路の数が増えた。

 家々が密集し、煙突が並び、人や荷車が絶え間なく行き交っていた。

 汽車が大きな屋根の下へ入った。


 金属の響き。

 白い蒸気。

 男たちの声。


 リディアは鞄の持ち手を強く握った。


 扉が開いた。

 人々が次々と立ち上がる。

 リディアだけが、しばらく座ったままだった。


 一度息を吐き、鞄を持って立ち上がった。


 汽車を降りた。

 王都の駅の石床に、両足をつけた。

 出口の上に、大きな文字があった。


 読めた。


 リディアは、その文字を確かめてから、人の流れへ入った。


     *


 試験には、一度で受かった。

 知らせを持って村へ戻ると、ミラは合格結果を何度も読み、ネリアは飛びついてきた。

 エリオは何も言わなかった。

 しばらく手紙を見ていたあと、顔を背けて泣いた。


 老人は合格通知を読み終えると、満足そうに頷いた。


「よくやった」


 それから、口元を少し緩めた。


「さすが私の秘蔵っ子だ」


     *


 王都へ移る日が近づいた夜、ミラは一枚の紙を持ってきた。


「お願いが一つあるの」


 紙には、一つの名前が書かれていた。


 リク。


「弟なの」


 十二歳の冬、山向こうの鍛冶屋へ奉公に出された。

 生まれた村。

 当時の年齢。

 わかっているのは、それだけだった。


「文官になれば、いろいろな記録を見ることがあるでしょう。もし同じ名前を見かけたら、少しだけ気にしてくれない?」


 リディアは紙に書かれた名前をもう一度読んだ。


「覚えておきます、必ず」


 ミラは目を潤ませ、何か言おうとして、やめた。

 代わりに、リディアを抱きしめた。

 リディアも、その背に腕を回した。

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