第一話 王都へ向かう少女
「売られた花嫁」シリーズ全3部作の第3作です。
本作単独でもお読みいただけますが、こちらの作品から続いています。
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リディアの義父は、村では評判のいい男だった。
日曜になれば欠かさず教会へ行き、足の悪い老人を見かければ荷物を代わりに持った。収穫祭では酒樽を一つ寄付し、冬を越す薪に困った家があれば、自分のところからいくらか融通してやった。
だから母が再婚した時には、近所の女たちまで「これで安心ね」と喜んだ。
それまでの母娘の暮らしは貧しかった。
実の父が家を出てから、母は人の家の洗濯や畑仕事をして暮らしをつないでいた。冬の上着は何度も繕って着たし、靴底に穴が開けば布を詰めて春まで持たせた。
学校へ通う金などあるはずもなく、リディアは十五になっても、自分の名前のほかには店の看板に書かれたいくつかの文字を、なんとなく見分けられる程度だった。
最初の数月は、母もよく笑っていた。
家の戸が閉まったあと、その男がどんな顔をするのかを、村の誰も知らなかった。
*
義父は、母をよく殴った。
酒を飲んだ夜に限ったことではない。夕食が遅い、肉が硬い、靴に泥が残っている。仕事先で誰かに腹を立てて帰ってきた日には、母が何もしていなくても理由になった。
壁の向こうで椅子が倒れる音がすると、リディアは自分の部屋で息を殺した。やがて母のすすり泣きが聞こえ、それもしばらくすると止まった。
翌朝、母の頬には青黒い痣があった。
「転んだの」
母はいつもそう言った。
リディアも無事だったわけではない。母の前へ出れば頬を打たれ、返事が気に入らなければ腕を強く掴まれた。ひどく機嫌の悪い夜には、家の奥にある窓のない物置へ押し込まれることもあった。
最初に怖くなったのは、義父の足音だった。
玄関で靴を脱ぐ音がすると、その日の機嫌を考えた。廊下を歩く速さで、酒を飲んでいるかどうかまで、なんとなくわかるようになった。
そのうち、義父ではない男の大きな声にも体が反応するようになった。
道端で男同士が怒鳴り合っていると、足が止まった。井戸端で若い男たちが大声で笑っていれば、水汲みを後回しにして家へ戻ることもあった。
義兄も義父によく似た、人当たりのいい青年だった。家の外ではよく笑い、老人の畑仕事を手伝うことさえあった。
けれど廊下ですれ違う時、腰へ手を置かれたり、後ろから髪を触られたりすることがあった。
「妹なんだから、いいだろ」
それから、義兄とは二人きりにならないようにした。
それだけは、特に気を付けていたはずだった。
*
その夜、リディアは寝台が沈んだ感触で目を覚ました。
窓の外には月が出ていて、薄い雲を透かした白い光が床板へ斜めに差していた。
次の瞬間、口を塞がれた。
「……っ」
「静かにしろ」
耳元で声がした。
義兄だった。
怖くて腕を振った。足をばたつかせ、掴まれた手から逃れようとした。
左手を強く捻られ、指の奥で音が鳴った。
寝台の脇にあった椅子を蹴ると、倒れた椅子が床へぶつかり、夜の家には不釣り合いなほど大きな音を立てた。
廊下で足音が止まった。
扉が開いた。
母が立っていた。
目が合った。
助かった、そう思った。
「お母さ――」
母の顔が強張った。
その目が義兄へ移り、またリディアへ戻った。
ほんの一瞬だった。
次に、母は目を逸らした。
扉が閉じた。
母の足音が、廊下の向こうへ遠ざかっていった。
隣の寝室の戸が開き、閉まった。
それきりだった。
リディアは、抵抗するのをやめた。
*
朝になると、雨は上がっていた。
低い雲はまだ村の屋根の上に残り、軒からは雫が落ちていた。
母は洗濯物を干していた。
濡れた白いシーツを籠から引き上げ、両腕いっぱいに広げる。風を含んだ布が膨らみ、しばらく母の姿を隠した。
「お母さん」
母が振り返った。
「昨日……」
そこから先が出てこなかった。
母には金がなかった。
家もなかった。
ここを出れば、また二人で冬の上着を繕い、靴底へ布を詰めて暮らさなければならない。そのくらいはリディアにもわかっていた。
それでも、母に抱きしめてほしかった。
怖かったね、と言ってほしかった。
母はしばらくリディアを見ていた。
それから、手にしていた白いシーツへ目を戻した。
「あなたが誘惑したのでしょう」
風が吹いた。
白いシーツが大きく膨らみ、母の姿を隠した。
リディアは動かなかった。
風が抜けて母の姿がもう一度見えた時、母は次の洗濯物を籠から取り出していた。
リディアは家の中へ戻った。
左の小指は紫色に腫れ、少しおかしな方向へ曲がっていた。
着替えを古い布へ押し込み、机の奥に隠していた銀貨を三枚掴んだ。水筒を取り、台所からパンを二つと固いチーズの欠片を持ち出した。
「リディア?」
庭から母の声がした。
振り返らなかった。
戸を開けた。
そのまま、村の外まで走った。
*
家々が見えなくなり、畑が途切れ、道が林の中へ入ってから、ようやく足を止めた。
戻ればいい、と一度だけ思った。
何もなかったことにして。
けれど、戻って誰に話すのだろう。
義父は村では親切な男だった。義兄も、働き者で愛想のいい青年として知られていた。
何より、母は見ていた。見たうえで、戸を閉めた。
三日目に雨が降った。
葉を落とし始めた森はほとんど雨を防いでくれず、灰色の空へ伸びた枝は、皮だけを残した細い骨のように見えた。
途中で滑り、左手を地面についた。
腫れた小指に鋭い痛みが走り、思わず声が出た。
すぐに口を押さえた。
誰もいない森だった。
夕方になって雨が上がった。
リディアはまた歩いた。
行きたい場所はなかった。
帰れない場所だけがあった。
*
小さな村へ着いたのは、その日の暮れ方だった。
煙突から白い煙が立ち、どこかの家から玉葱を煮る匂いと、焼いたパンの匂いが漂ってきた。
井戸で水を飲んでいると、桶を持った女が声をかけた。
「泊まるところは?」
リディアは首を振った。
「あっちへ行ってみな。修理屋と洗濯屋を一緒にやってる家がある」
「宿ですか」
「宿じゃないよ。女なら、一晩だけ休ませてくれる」
「知らない人でも?」
「知らない人のためなんだってさ」
女は少し声を落とした。
「理由も聞かれない。名前も、言いたくなきゃ言わなくていい」
店の前まで来てから、戸を叩くまでには随分かかった。
窓から黄色い灯りが漏れていた。
中で子どもが笑っていた。
帰ろうと思った。
そして気づいた。
私はいったいどこへ帰るのだろう。
リディアは戸を叩いた。
やがて、栗色の髪を後ろでまとめた女が出てきた。
濡れた靴を見た。
泥のついた裾を見た。
腫れた左手を見た。
それから、リディアの顔へ目を戻した。
「寒かったでしょう」
そう言って、戸を大きく開けた。
*
女はミラと名乗った。
温かいスープを出してくれた。
白い豆と根菜の入った、少し塩気の強いスープだった。
半分ほど食べたところで、突然喉が詰まった。
俯くと、スープへ一滴落ちた。
その時になって、自分が泣いていることに気づいた。
ミラは何も言わなかった。
新しい布巾を一枚、机の上へ置いただけだった。
店の奥には、小さな部屋があった。
戸には、内側から掛けられる鍵がついていた。
リディアは、その鍵を長く見た。
「閉めていいのよ」
ミラが言った。
「誰も入らないから」
リディアは戸を閉め、鍵を掛けた。
一度、戸を引いた。
開かない。
もう一度確かめた。
夜中に何度も目を覚ました。
そのたび戸を見た。
朝まで、誰も開けなかった。
*
翌朝には出ていくつもりだった。
けれど、店の外で男が大声で笑った途端、足が動かなくなった。
洗濯籠を抱えたミラが、後ろから来た。
「今日はいいわよ」
「でも、一晩だけって」
「昨日ここへ来たの、日が暮れてからでしょう」
ミラは外を見た。
「まだ一晩よ」
その日は店の奥で洗濯物を畳んだ。
次の日も、外へ出られなかった。
ミラは何も言わず、昼になると皿を一枚余分に並べた。
何日かしてから、リディアは言った。
「この部屋は、一晩だけ逃げてきた人のための部屋ですよね」
「そうね。この部屋だけは、空けておきたいの。今夜また、誰かが逃げてくるかもしれないから」
「わかりました」
リディアは視線を落とし、膝の上で両手を強く組んだ。
「今までありがとうございました」
ミラは、しばらくその手を見ていた。
「だから、別のところを探しましょう」
顔を上げた。
「え?」
「屋根裏ならどうかしら」
呼ばれて出てきたエリオが、天井を見上げた。
「窓、壊れてるぞ」
「そうだったわね。困ったわ」
「俺を誰だと思ってる?」
「エリオ?」
「修理屋だぞ」
その日のうちに、屋根裏へ小さな部屋ができた。
粗末な寝台と机。
そして、直された窓。
*
屋根裏へ移ってから何日か経った夜、店を閉めたあとも、リディアはミラと二人で洗濯物を畳んでいた。
エリオとネリアはもう二階へ上がっていた。
暖炉の火が小さくなり、時々、薪の崩れる音がした。
「母が、見ていたんです」
ミラの手が止まった。
リディアは手元の布を見たまま続けた。
「義兄が私の部屋に入ってきて。母は途中で戸を開けました」
指先が震えた。
「目が合いました。でも、母は戸を閉めました」
ミラは何も言わなかった。
「次の日には、私が誘惑したんだって言われました」
リディアは左手を握った。
「忘れたいです」
風が吹いて、家の戸がかたかたと揺れた。
ミラは立ち上がり、カーテンを少し開けて、窓の外を見た。
そして、口を開いた。
「私もね、売られたの」
リディアは顔を上げた。
ミラの向こうには、月も星もない夜空が見えた。
「隣国の商人に。ガストン・オルランドっていう人だった」
ミラは、少しだけ笑った。
「変でしょう。もうずいぶん前のことなのに、名前だけは今でもちゃんと覚えてるの」
「忘れたいですか」
ミラはしばらく考えた。
「昔はね」
ミラはゆっくりとカーテンを閉じた。
「でも、今は別にいいかな」
「どうしてですか」
「忘れなくても、ここで暮らせてるから」
ミラはリディアの隣へ戻り、畳みかけだった布を広げて、端を合わせた。
リディアも、手元の布をもう一度畳んだ。
二人はそれ以上、その話をしなかった。
*
リディアは店を手伝うようになった。
最初にできた仕事は、客の洗濯物を畳むことだった。
しばらくして、外へ干す仕事も手伝うようになった。
ある日、ミラが大きな白いシーツを広げた。
風を含んで、布が大きく膨らんだ。
リディアの手が止まった。
「リディア?」
リディアは息を吸った。
「そちら、持ちます」
「お願い」
二人でシーツの端を持った。
白い布が風を受けて膨らんだ。
「次、これね」
「はい」
リディアは、次の洗濯物へ手を伸ばした。
店の仕事を覚えた頃から、ミラは週の終わりに給金を渡すようになった。
「いりません。食べさせてもらっていますし、部屋も」
「それとこれは別よ」
ミラはリディアの掌へ銀貨を置いた。
「働いた人には、お金を払うの」
それからは、少ないながらも毎週給金をもらった。
必要なものを買うほかは使わなかったので、屋根裏の小箱には少しずつ銀貨が増えていった。
*
文字を教えてくれたのは、ミラの娘だった。
ネリアという、八つになる子だった。
ある日、ネリアが洗濯物についた札を見て、「これはエマさんの」と言った。
「どうしてわかるんですか」
「書いてあるから」
「教えてください」
ネリアは少し驚いた顔をしたあと、「いいよ」と言った。
文字を覚えるのは、面白かった。
同じ形なら、同じ意味だった。
二と三を足せば五になり、誰が計算しても答えは変わらない。昨日まで正しかったことが、誰かの機嫌で今日は間違いになることもない。
一つ読めるようになると、それまで何もなかった場所に意味が現れた。
*
自由に外へ出られるようになるには、それより長くかかった。
最初は庭。
次は井戸。
その次は、ミラと一緒に隣の家まで。
初めて市場へ出た日には、近くで男が怒鳴っただけで体が動かなくなった。
家へ戻ると、台所で吐いた。
「もう行かなくていい」
ミラが背中を撫でた。
リディアはしばらく俯いていた。
「次は行きます」
半月後、ネリアと市場へ行った。
菓子屋の軒先で、焼き型で抜いた菓子を見つけた。
「犬の形」
「狐じゃない?」
店主の女が笑った。
「猫だよ」
二人とも黙った。
それから顔を見合わせて笑った。
帰り道、ネリアは何度も、「あれ、狐に見えたのに」と言った。
それから少しずつ、一人で歩ける距離も伸びた。
大きな男の声は、その後も苦手なままだった。後ろから急に肩へ触れられれば、体が動かなくなることもあった。
左の小指も、少し曲がったまま残った。
それでも、井戸までだった道は市場まで伸び、やがて一人で村の端まで歩けるようになった。
*
文字を覚えてから、リディアは給金で古い教本を一冊買った。
昼間は店の仕事があるので、本を開けるのは仕事が終わってからだった。
けれど、日が落ちれば屋根裏では読めない。
村外れに、遅くまで灯りの消えない学び舎があった。
リディアは本を持ってそこへ行き、窓から漏れる光の中で頁を開いた。
何日かそうしていたある晩、頭の上で窓が開いた。
「お前、そこで何をしている」
白髪の老人がこちらを見下ろしていた。
「読んでいました」
「寒いだろう」
「平気です」
「私は寒い。窓を開けているとな」
老人は窓を閉めた。
しばらくして、建物の戸が開いた。
老人は何も言わず、中へ戻った。
戸は開いたままだった。
「入るなら閉めろ。寒い」
リディアはしばらくその戸を見ていた。
それから、自分で中へ入った。
*
老人は昔、役所で働いていた人だった。
読み書きだけでなく、算術や地理、歴史も教えてくれた。
リディアはよく覚えた。
半年後には、店の勘定書や仕入れの書きつけを読むようになっていた。
ある日、エリオが仕事を終えたあと、代金を書いた紙を見せてもらった。
材料代と運搬費を引いてみると、ほとんど何も残らない。
「これ、直してもほとんどお金が残りません」
「そうなのか?」
「どうして店が続いているんですか」
「ミラが何とかしてるから」
階下から、「聞こえてるわよ!」と声が飛んできた。
エリオは肩をすくめた。
文字を読めるようになると、それまで気づかなかったものが、あちこちにあった。
荷札。
新聞。
薬瓶の注意書き。
駅の時刻表。
市場の値札。
老人が見せてくれた地図には、村の外にも町があり、その向こうにも別の町があった。さらに遠くには国境があり、その先にも土地が続いていた。
*
ある夜、店を閉めたあとも、リディアとミラは二人で並んで食器を片付けていた。
暖炉の火は小さくなり、時々、薪の崩れる音がした。
「ミラさんって、ご自分でつけた名前なんですよね」
「そうよ」
「前は、何という名前だったんですか」
ミラは手を止めた。
「それは内緒」
「お嫌いだったんですか」
「逆かな。幸せ、っていう意味の名前だったの」
「いい名前ですね」
「そうね」
ミラは洗った食器を布で拭いた。
「でも、あの頃は、自分だけ幸せになってはいけないと思ってたから」
リディアは何も言わなかった。
暖炉の中で、薪が小さくはぜた。
「お父さんも、お母さんも、弟も置いて逃げたでしょう」
ミラは次の食器を手に取った。
「だから、その名前を名乗る気になれなかったの。いつ追われるかわからなかったのもあるわね」
少しして、リディアが尋ねた。
「今もそう思いますか」
「今は、ちょっと違うかな」
「名前は戻さないんですか」
「もうミラで長いもの」
リディアはそれ以上聞かなかった。
ミラは少し考えてから笑った。
「昔の名前なら、いつか弟に聞いてみて」
*
ある日、屋根裏の机に短い蝋燭が三本置かれていた。
形の悪い、安い蝋燭だった。
「これ、どうしたんですか」
「蝋燭屋さんで安くしてもらったの」
「でも、お金が」
「蝋燭三本くらいなら買えるわよ」
リディアはまだ何か言おうとした。
ミラは一本を手に取った。
「あなた、勉強したいんでしょう?」
「はい」
「だったら、できるようにしたいの」
その夜から、リディアは屋根裏でも本を開けるようになった。
*
ミラの家へ来て二年ほどが過ぎた頃、老人は机の上へ一冊の本を置いた。
文官登用試験の過去問だった。
「文官の試験を受けてみろ」
リディアは顔を上げた。
「私がですか」
「ほかに誰がいる」
老人は本をリディアの方へ押した。
「まず解け。話はそれからだ」
その夜、リディアは夕食のあと、三人へ話した。
「文官の試験を受けてみようと思います」
ミラは驚かなかった。
「受ければいいじゃない」
*
それから一年ほど勉強し、試験を受ける春を迎えた。
前の晩、ミラは汽車で食べるパンを包み、エリオはリディアの鞄の留め金を何度も確かめた。
翌朝、三人とも駅まで来た。
東の山の向こうだけが淡く明るくなり、ホームには朝の冷たい空気と、機関車の吐く白い蒸気が混じっていた。
汽車が入ってくると、エリオが鞄を差し出した。
ネリアがリディアの袖を掴んだ。
「早く帰ってきてね」
「帰ってきます」
リディアは汽車へ乗った。
「行ってきます」
ミラが笑った。
「行ってらっしゃい」
*
汽車は朝の野を走った。
冬枯れの畑を抜け、小さな村々を通り過ぎ、川を渡った。
森へ入ると、葉を失った木々が窓のすぐ外まで迫った。
白い空へ伸びた細い枝の先には、目を凝らさなければ見落としてしまうほど小さな緑がついていた。
昼を過ぎる頃、王都が見えた。
やがて線路の数が増えた。
家々が密集し、煙突が並び、人や荷車が絶え間なく行き交っていた。
汽車が大きな屋根の下へ入った。
金属の響き。
白い蒸気。
男たちの声。
リディアは鞄の持ち手を強く握った。
扉が開いた。
人々が次々と立ち上がる。
リディアだけが、しばらく座ったままだった。
一度息を吐き、鞄を持って立ち上がった。
汽車を降りた。
王都の駅の石床に、両足をつけた。
出口の上に、大きな文字があった。
読めた。
リディアは、その文字を確かめてから、人の流れへ入った。
*
試験には、一度で受かった。
知らせを持って村へ戻ると、ミラは合格結果を何度も読み、ネリアは飛びついてきた。
エリオは何も言わなかった。
しばらく手紙を見ていたあと、顔を背けて泣いた。
老人は合格通知を読み終えると、満足そうに頷いた。
「よくやった」
それから、口元を少し緩めた。
「さすが私の秘蔵っ子だ」
*
王都へ移る日が近づいた夜、ミラは一枚の紙を持ってきた。
「お願いが一つあるの」
紙には、一つの名前が書かれていた。
リク。
「弟なの」
十二歳の冬、山向こうの鍛冶屋へ奉公に出された。
生まれた村。
当時の年齢。
わかっているのは、それだけだった。
「文官になれば、いろいろな記録を見ることがあるでしょう。もし同じ名前を見かけたら、少しだけ気にしてくれない?」
リディアは紙に書かれた名前をもう一度読んだ。
「覚えておきます、必ず」
ミラは目を潤ませ、何か言おうとして、やめた。
代わりに、リディアを抱きしめた。
リディアも、その背に腕を回した。




