第三話 同じ汽車に乗る二人
それからも、アドリアンは何度か役所へ来た。
商会の支店や貸付に関する届け出で、持ってくる書類はそのたび違ったが、仕事はいつも丁寧だった。訂正を求めれば次に来る時には直っていて、わからないところを勝手に埋めることもなく、必要ならきちんと尋ねた。
夏になる頃には、リディアの机へ来れば、言われる前に書類を順番に並べるようになっていた。
ガストン・オルランド。
ミラが、今でも忘れられないと言っていた名前だった。
*
秋になる頃、アドリアンは新しい契約書式を持ってきた。
農村部に支店を一つ出し、そこで小さな額の貸付を増やす予定だという。
リディアは一通り目を通したあと、返済予定の欄で指を止めた。
「これは、少し難しいかもしれません」
「利率が高いですか」
「いいえ。そうではありません。時期です」
春から毎月、同じ額を返すことになっている。
「農家は、一年を通して同じようにお金が入るわけではありません。春に払えないからといって、返すつもりがないとは限らないんです」
アドリアンは契約書を見直した。
「では、収穫後の返済を多くして、その分、春は減らした方がよいということですね」
「その方が現実的だと思います」
アドリアンは紙に並んだ数字を見た。
「私は、現場のことをずいぶん知らないんですね」
リディアは顔を上げた。
「それなら、一度、現地へ行ってみませんか」
「現地へ?」
「はい。そこで暮らしている人たちを、実際に見てみるのはいかがでしょうか」
アドリアンは少し考えてから頷いた。
「そうしましょう」
*
冬の初め、二人は新しい支店を置く予定の村へ向かった。
王都から汽車で半日、そのあと馬車に乗り換えた。
翌朝、支店になる建物を確認したあと、商会から金を借りている家を何軒か訪ねた。
三軒目には幼い子どもが三人いた。
父親が夏に脚を怪我し、それ以来まともに働けていないという。
台所には小さな鍋が一つ掛かっていた。粉の袋は底が見え、乾燥豆が少し残っているだけで、薪も少なかった。
アドリアンが書類を机へ広げた。
「今借りている分を組み直せば、月にこのくらいで返していただけます」
女は紙を見たまま黙っていた。
「数字は読めますか」
リディアが尋ねた。
女は恥ずかしそうに首を振った。
「少しなら。でも、大きい数字は、よくわからなくて」
リディアは紙を女の方へ向け、一つずつ指で追った。
「ここまでが、もともと借りた金額です。こちらが利息で、この通りに返すと、最後までにはこの金額になります」
女は何度か頷いた。
リディアは台所を見た。
「来月、これだけ払ったら、何を食べますか」
女は答えなかった。
しばらくして、「春には、夫も少しは働けると思います」と言った。
アドリアンは三人の子どもと台所、それから机の上の数字を順番に見た。
「では、返済を始めるのは春からにしましょう。その時に、もう一度無理のない額を決めます」
女が顔を上げた。
「必ず返します」
「ええ。お願いします」
アドリアンは書類を引き寄せ、予定を書き直した。
*
帰りの馬車で、アドリアンは長く窓の外を見ていた。
「金がない、ということは知っていたんです。でも、粉があと何日分あるとか、薪が春まで持つかとか、そんなことまで考えたことはありませんでした」
「知らなくても、生きていける人はいますから」
「私は、そうでした」
馬車が石を踏み、車体が揺れた。
「私は、見てもいなかった」
*
春になる頃には、商会の契約はいくつか変わっていた。
農家の返済は収穫の時期に合わせ、仕事道具は簡単には取り上げない。最後までに支払う金額も、以前よりわかりやすく書くようになった。
古くからいる番頭たちは、いい顔をしなかったらしい。
「父なら、こんなやり方はしないと言われました」
ある日、アドリアンが言った。
「あなたは、お父様ではないのでしょう」
リディアは書類から顔を上げた。
「お父様ならどうしたかではなくて、あなたは何がしたいのですか」
アドリアンはしばらく考えた。
「貸した金は返してもらいたいです。商売ですから。でも、そのために相手が仕事を失ったり、その家族まで食べられなくなったりする必要はないと思っています」
「では、そのようになさったらいいのではありませんか」
もちろん、それで何もかもうまくいったわけではなかった。
返済を待ったまま一家で姿を消す者もいれば、何度組み直しても一度も払わない者もいた。最初から返すつもりがなかったのだと、あとになってわかることもある。
甘いことをするからだ、と番頭たちは言った。
アドリアン自身も、損失の出た帳簿を前に頭を抱えることがあった。それでも、病気になっただけの家と、初めから踏み倒すつもりの者を同じように扱うやり方には戻さなかった。
騙されたなら、次は同じ騙され方をしないようにする。
うまくいかなかった契約は直す。
損をすることもあった。
それでも商会は続いた。
以前より大きくなったのは、ずっとあとのことだった。
*
その年の冬、二人は仕事帰りに駅前の小さな店へ入った。
外では細かな雪が降り、窓は内側から白く曇っていた。
いつからか、役所の書類とは関係のない話をすることも増えていた。
「姉も、よく私の襟を直しました。六つ上で、母が亡くなってからは、ほとんど母代わりだったんです」
アドリアンは杯へ目を落とした。
「姉の結婚式の朝にも、いつものように直してくれました。自分はこれから、三十近く年上の男のところへ行くのに、『もう自分でできるようになりなさいね』と」
薪がはぜた。
「結婚の数日前、夜中に父の部屋で、姉が行きたくないと頼んでいるのを聞きました。それなのに私は、何も言いませんでした。妹の時も同じでした」
リディアはしばらく黙っていた。
「今なら何ができたかを考えても、あまり意味はないと思います」
アドリアンが顔を上げた。
「たとえ戻れたとしても、その時のあなたが今のあなたと同じように動けるとは限らないでしょう」
窓の外で雪が降り続けていた。
「後悔するな、とは言いません。でも、今のあなたまで、黙っている必要はないでしょう」
アドリアンは冷めかけた茶を一口飲んだ。
*
父の最期について話したのは、翌春だった。
雪解け水で増えた川が、石橋の下を速く流れていた。
「父は、最後に何度も手紙を寄越しました。会ってくれ、と」
アドリアンは川の方を見たまま言った。
「行きませんでした」
土手の草には、まだところどころ冬の色が残っていた。
「母が死にかけている時、父はもう次の妻を探していました。母は何日も父を待っていたんです」
アドリアンの歩みが少し遅くなった。
「だから、同じ目に遭えばいいと思ったんです。病気になって、誰かに来てほしいと思って、それでも誰も来ない。自分より大事なことがあると言われる側になればいい。少しくらい、自分がしてきたことを思い出して、後悔しながら死ねばいいと思っていました」
川の向こうで鐘が鳴った。
「食事は送りました。医者もつけた。使用人も残した。でも、寂しく、苦しんでほしかった」
少しして、アドリアンは言った。
「そうして、父は一人で死にました。私は、あれを自分の罪だと思っています」
リディアは何も言わなかった。
少し先へ行ったアドリアンが立ち止まった。
リディアは追いつき、また隣を歩いた。
それからも、二人は時々一緒に地方へ出た。
アドリアンは農地や工房へ足を運び、いくら返せるかだけではなく、返したあとに何が残るのかを見るようになった。
リディアは、文字を読めなかった頃のことを時々思い出した。
荷札についている文字も、駅の時刻表も、ただの黒い模様だった。
文字を覚え、地図を読み、町の外にも別の町があり、その先にも土地が続いていることを知った。
二人の関係も、いつの間にか仕事だけのものではなくなっていた。
*
それから一年ほど経った、冬の終わりだった。
地方から王都へ戻る途中、小さな駅で汽車を待っていた。
ホームの端には、薄汚れた雪が残っていた。
「アドリアン。私も、したいことがあるんです」
アドリアンが振り向いた。
「ミラさんには弟がいます。十二歳の時に、山向こうの鍛冶屋へ奉公に出された人です。私はその人を探すと約束しました」
「まだ見つかっていないのですね」
「はい」
リディアは手袋をした指を組んだ。
「それから、あなたのお父様が買おうとした十八歳の娘は、ミラさんです」
アドリアンの顔から、わずかに血の気が引いた。
ちょうど汽車が一本、隣のホームへ入ってきた。機関車が吐いた蒸気が二人の間まで流れ込み、しばらく向こう側の人影を白く隠した。
アドリアンは何も言わなかった。
ただ、手にしていた鞄の持ち手を強く握った。
「オルレア駅で逃げたあと、エリオさんと出会って、ネリアを産みました。そして、逃げてきた女を一晩泊めるための部屋を作りました」
白い蒸気が風に流れた。
「私も、そこへ逃げ込みました」
アドリアンは線路の向こうを見ていた。
「一度したことや、できなかったことだけで、その後の人生が全部決まるわけではないのだと思います」
汽車の到着を知らせる鐘が鳴った。
「私はリクさんを探したい。あなたにも、これからしたいことがあるのでしょう」
「あります」
「では、一緒にやりませんか」
アドリアンがこちらを見た。
リディアは言った。
「結婚しませんか」
アドリアンが息を呑んだ。
駅は何事もなかったように動き続けていた。
やがて、アドリアンは一度だけ頷いた。
「はい」
ほどなく二人の乗る汽車がホームへ入ってきた。
二人は並んで乗り込んだ。
*
結婚してからも、暮らしは大きく変わらなかった。
夜は同じ机に向かい、片方は役所の書類を、片方は商会の帳簿を読んだ。古い名簿が手に入れば、その間にリクの名前を探した。
ある朝、出かけようとしているアドリアンの襟が曲がっていたので、リディアは手を伸ばした。
「襟、曲がっていますよ」
指先で直すと、アドリアンの動きが止まった。
「どうしました?」
「いえ」
リディアが手を離したあと、アドリアンは少しだけ自分の襟に触れた。
「ありがとうございます」
*
父の墓へ行きたいとアドリアンが言ったのは、結婚してしばらく経ってからだった。
「一度、父の墓へ行こうと思います」
「そうですか」
「行くべきではないと、ずっと思っていました。あの人のために祈ることなど、してはいけない気がしていた」
アドリアンは帳簿を閉じた。
「でも、もう一度だけ行きたい」
「では、私も行きます」
*
以前と同じ、小さな町だった。
リディアは、アドリアンから少し離れたところで待った。
アドリアンは墓石の前に立ち、長い間何も言わなかった。
「私は、あなたのことを憎んでいます」
風が墓地の草を撫でていった。
「母にしたことも、姉にしたことも、妹や妻たちにしたことも、妻の恩人と、その家族にしたことも、許せません」
アドリアンは墓石を見たままだった。
「あなたを父として懐かしく思うことさえ、その人たちに申し訳ないと思っていました」
一度、息を吸った。
「だから、あなたのことを、父ではなく、ひどいことをした一人の男としてだけ覚えようとしました」
風が止んだ。
「でも、できませんでした」
アドリアンは俯いた。
「あなたのことは、心から憎いです。それでも、あなたは私のたった一人の父でした」
長い沈黙のあと、手を合わせ、目を閉じた。
「だから、今だけは、あなたが安らかに眠れるよう祈らせてください」
春の風が、また草を揺らした。
「さようなら」
アドリアンは墓石を見つめた。
「もう二度と、ここには来ません」
*
子どもはできなかった。
何年か経って医者へ行き、何度か診てもらった末に、子どもを持つのは難しいだろうとリディアは告げられた。
帰り道は雨だった。
傘に落ちる雨音を聞きながら歩いていると、リディアが言った。
「すみません」
アドリアンが足を止めた。
「何がですか」
「子どもを――」
「私は、あなたと生きたいと思ったから結婚したんです」
リディアはアドリアンを見た。
「もともと、誰かと一緒になるつもりさえありませんでした」
雨が路面に細かな輪を作っていた。
「子どもがいる人生を選んだのではなく、あなたと生きることを選んだんです。だから、謝らないでください」
しばらくして、アドリアンは前を向いた。
「私はもう、余るほど幸せなんです」
家へ帰ると、リディアは湯を沸かし、アドリアンは二人分の濡れた外套を暖炉の近くへ掛けた。
夕食は前の日のスープだった。
*
それからも、リディアはリクを探し続けた。
いくつもの季節が過ぎ、何十年という月日が流れた。
リクの居場所につながる記録を見つけたのは、ある秋のことだった。
古い職人台帳の中に、ミラから聞いていた村の名と、十二歳で山向こうの鍛冶屋へ奉公に出た少年の記録が残っていた。
そこからいくつかの記録をたどり、今も生きていることと、暮らしている町がわかった。
その日のうちに、リディアはミラへ手紙を書いた。
家へ戻ってアドリアンへ話すと、「明日、行ってください」と言った。
「でも、役所が」
「数日くらいなら何とかなります。せっかく見つかったんですから」
翌朝、リディアは汽車に乗った。
リクは生きていた。
鍛冶屋になり、自分の店を持ち、妻も子もいて、今では孫までいる老人だった。
リクとともにミラの村へ向かった。
だが、間に合わなかった。
ミラは、その少し前に亡くなっていた。
ただ、手紙だけは間に合っていた。
ミラは亡くなる前に、リクが生きていることを知っていた。
それだけは、救いだった。
*
帰りの汽車が動き出す頃には、細かな雨が降っていた。
山あいへ入るにつれて、それは少しずつ白いものへ変わった。
ガタンゴトン。
ガタンゴトン。
リクはずっと窓の外を見ていた。
外は少しずつ暗くなり、窓硝子には流れていく雪景色と一緒に、向かいに座るリクの姿が薄く映っていた。
ガタンゴトン。
ガタンゴトン。
「リクさん。一つだけ、聞いてもいいですか」
リクは窓の方を向いたままだった。
「ミラさんの、昔のお名前です」
窓に映った老人の顔が、わずかに揺れた。
笑ったようにも、泣きそうになったようにも見えた。
長いこと、そのままだった。
やがて、雪の向こうを見つめたまま、静かに言った。
「姉ちゃんの名前は、フェリシアだ」
フェリシア。
幸福を意味する名。
ガタンゴトン。
ガタンゴトン。
汽車は、雪の中を走り続けた。
*
子どもを迎えることを考えたのは、それからだった。
二人で王都の孤児院を訪ねた。
古い石造りの建物の前には、春先の泥がまだ残っていた。
庭へ入ると、小さな女の子が駆けてきて、茎の途中で折れた黄色い花をリディアへ差し出した。
「あげる」
「ありがとう」
その後ろから別の子が来て、アドリアンの外套を見上げた。
「おじさん、どこから来たの?」
「王都からだよ」
「王都ってなに?」
アドリアンが少し困った顔をした。
小さな女の子が笑った。
少し離れたところでは、一人の男の子が二人をじっと見ていた。目が合うと、建物の陰へ隠れた。
年長の少女が泣いている小さな子を抱き上げ、その隣では、靴紐を結べずにいる子に別の子がしゃがんで手を貸していた。
帰る頃になると、さっき隠れた男の子がまた出てきた。
今度はリディアのすぐそばまで来た。
けれど、何も言わなかった。
*
帰りの汽車は空いていた。
リディアは、折れた黄色い花を膝の上へ置いていた。
「選べませんでした」
「私もです」
しばらく、二人とも何も言わなかった。
「私は十六になるまで、ほとんど字が読めませんでした」
リディアは窓の向こうを見た。
「文字を覚えて、初めて時刻表が読めた。地図も読めるようになりました」
鉄橋の下を、雪解け水を含んだ川が流れていく。
「自分で契約を読めれば、自分が何を約束しているのかわかる。計算ができれば、自分の給金が合っているかもわかる。時刻表を読めれば、自分で乗る汽車を選べます」
アドリアンは黙って聞いていた。
「そこで学んだ子が、いつか次の誰かへ教えられたらいいと思います」
汽車が鉄橋を渡り終えた。
「学べる孤児院が必要ですね」
「はい」
アドリアンはしばらく窓の外を見ていた。
「私も、同じことを考えていました」
*
アドリアンは商会も、父から受け継いだ屋敷も土地も、すべて手放した。
二人で王都の外れに土地を選び、そこに孤児院を建てた。
暖かな厨房があり、寝室の戸には内側から掛けられる鍵があった。
事情を話したくない子には無理に聞かず、十八になったからといってすぐに追い出すこともしなかった。
そして、大きな教室を作った。
読み書きと算術を教え、年長の子には帳簿や契約書の読み方も教えた。近くの村で学校へ通えない子どもも、昼間は学べるようにした。
そこで学んだ子が、やがて別の子へ教えるようになった。
名前は、フェリシア孤児院とした。
*
長い年月が過ぎた。
リディアは文官を辞め、アドリアンも仕事を離れた。二人とも白髪が増え、アドリアンは杖を使うようになっていた。
その年も、孤児院の林檎の木には白い花が咲いていた。
洗濯場には何枚もの白いシーツが干され、厨房からは焼きたてのパンの匂いが流れてくる。教室の開いた窓からは、子どもたちが文章を読む声が聞こえていた。
リディアは玄関先の椅子に座っていた。
やがて、門の向こうから子どもたちの声が聞こえてきた。
「ただいま!」
最初の一人が坂道を駆け上がってきた。
「おかえりなさい」
「ただいま!」
「おかえりなさい」
その後ろからも、鞄を揺らした子どもたちが次々と門をくぐり、玄関の中へ消えていった。
最後の一人が入るのを見て、リディアは戸に手をかけた。
その時、風が頬を撫で、リディアは誘われるように空を見上げた。
そこには、どこまでも広がる春の空があり、その下で、白いシーツが風に膨らんでいた。
リディアはしばらく、その白いシーツを見つめた。
そして、もう振り返らず、静かに戸を閉めた。




