ロキという名前
狼の子の瞳と、ローデンの視線が、確かに重なった。
――その瞬間だった。
狼の子は、ぱっと弾かれたようにローデンへ向かって駆け出した。小さな体とは思えない速さで、セリウスとローデンの周りを、ぐるぐると走り回る。
「おっと」
セリウスは難なくその子を捕まえ、ひょいと持ち上げた。
「犬……じゃなくて、狼なのかな?」
――そんな簡単に触るな。危険だ。
ローデンは叫びたかった。喉が震えた。だが、声が出ない。そこへ、ラニアが駆け寄ってきた。
「もう。勝手に動かない」
そう言って、セリウスの手から狼の子を受け取る。そして、ラニアはローデンを見た。
まっすぐに。
「……ローデン、今度、時間もらえるかな?」
小首を傾げて、少し躊躇いがちに言った。
ローデンの思考が止まる。
――俺に? なんで?気配に気づいたからか?まさか。
「いいよ。いつも暇してるから」
ローデンが口を開くより先に、セリウスがにこやかに答えた。
――勝手に答えるな!
叫びたいのに、やはり声にならない。
「そっか。じゃあ、約束ね」
ラニアはそう言って、狼の子を抱いたまま、リリアーナたちの方へ駆けていった。
それを見送りながら、セリウスはにやにやと笑う。
「話、ってなんだろうね?」
「……知らん」
ローデンは低く答えた。
胸の奥にあるのは、好奇心ではない。
ただひとつ。はっきりとした、恐怖だけだった。
夕食後、団らん室には皆が集まっていた。
リリアーナの膝の上で、狼の子が丸くなっている。
「いつまでも『狼の子』では呼びづらいな」 オルフェウスが言った。
「確かにそうね」 マルグリットが笑う。
リリアーナは膝の上のふわふわを撫でながら言った。
「この子、名前をつけてあげたい」
ラニアは少しだけ視線を上げた。
「僕、決めてある」
その一言に、視線が集まる。
「ロキ」
短い名だった。
「……ロキ?」
リリアーナが繰り返す。
ラニアは頷いた。
「異国の、昔の神話からだよ」
ローデンの表情が固まる。
……嫌な予感しかしない。
リリアーナは狼の子を抱き上げた。
「ロキ」
狼の子の耳がぴくりと動いた。
「ロキ」
しっぽがぱたん、と揺れる。マルグリットが微笑んだ。
「気に入ってるみたいね」
オルフェウスは小さく息を吐いた。
「変わった名だが……まあ、良いのでは?」
ローデンは目を逸らした。 ……良い、どころじゃない。こいつら、おかしい。
ラニアは、ほんの少しだけ笑った。
「ぴったりでしょ」
リリアーナは優しく言った。
「今日からあなたは、ロキよ」
「あおん」
小さな声が、団らん室に響いた。
その日、狼の子は名を得た。
ロキという名を。
我は、名を呼ばれた。
ロキ、と。
それは音ではなく、絵だった。頭の奥に、静かに流れ込んでくる。遠い昔の物語。
金の瞳から届いた、と、わかった。
世界を揺らがせるほどの存在の名。狡猾で、強く、恐れられ、それでもどこか滑稽な、狼の話。
我は、そのどれでもない。小さな身体で、柔らかな毛を持ち、今はただ、人の足元に座っているだけだ。
けれど、その意味は、確かに我の中に落ちた。
金の瞳を見た。金の瞳は、何も言わない。ただ、静かにこちらを見ている。
だが、わかる。名と、その意味を、渡したのだと。
我はゆっくりと瞬きをした。この名を、持てということか。
ロキ。
小さな身体のまま、尻尾を一度振る。人への憎しみも、怒りも、消えることはない。
けれど、ここに居る者達は違う。
……自分でも呆れる。ここに居座る気になっている、我に。
そのとき、誰かが我を呼んだ。
ロキ、と。
呼ばれて、我は気がつく。
この場に、受け入れられたのだと。
……悪くない。




