ラニアと魔獣
「ありがとう。その言葉だけで……十分だよ」
ラニアはそう言って、腕で目元をごしごしと擦った。そして、ゆっくりと魔獣を見つめる。
「……何だって?」
低く問いかけるように、ラニアは魔獣に言った。
「でも、それは――」
何かを言いかけた、その瞬間。魔獣は静かに頭を振った。そしてラニアの前に進み出ると、臥せの姿勢になり、目を閉じた。
「……やれ、と言うんだね」
ラニアは、かすれた声で呟いた。魔獣は、ほんのわずかに頷いた。ラニアは、魔獣の額にそっと手をのせた。
その場所で、何かが始まり――
そして、確かに終わった。
リリアーナは、ずっとその光景を見ていた。
見ているはずなのに、何をしているのかは、最後までわからなかった。
やがて魔獣は、さらさらと細かな灰となり、風に溶けるようにして世界から消えた。
その場に残ったのは、座り込んだままのラニアだけだった。
リリアーナは、はっと我に返り、現実へと引き戻される。そして、ゆっくりとラニアのもとへ歩いた。
「……何をしたの?」
ラニアの背後に立ち、そう問いかける。けれど、ラニアは微動だにしなかった。リリアーナはさらに近づき、すぐ後ろで立ち止まる。そして、ラニアの肩に手を伸ばそうとしたその瞬間。何かが、リリアーナに飛びついた。
「……あーあ」
ラニアは、どこか納得したように、そう言った。リリアーナは混乱していた。目の前の出来事が、すぐには理解できない。小型犬ほどの大きさの犬、のような生き物が、突然リリアーナに飛びついてきたのだ。
勢いよく押し倒され、地面に背中を打つ。
次の瞬間、その犬は何事もなかったかのように離れ、素早くラニアの足元へと走っていった。
リリアーナは尻餅をついたまま、呆然とその姿を見つめる。やがて、震える手で指を伸ばした。
「……それは?」
声が、かすれていた。ラニアは足元の犬、いや、犬に似たそれを見下ろし、静かに言った。
「……狼の子、かな」
その言葉に、リリアーナの思考は、さらに追いつかなくなった。
「……どうして?」
リリアーナは、ようやくそれだけを口にした。ラニアは、足元に寄ってきた狼の子を抱き上げる。思ったより軽く、温かかった。
「……種を、植えたんだ」
淡々とした声だった。
「昔、リリアーナに僕が植えたのと、同じように」
ラニアはそう言って、狼の子を両手で高く持ち上げた。小さな体が、きょとんとした顔で宙を見ている。
「この子はね、自分の魔力で“赤子”になった狼だよ。小さければ、僕と一緒に紛れ込めるだろう、って」
……はい?リリアーナは、理解することを諦めた。頭が、ついていかない。
「これは、間違いなく――あの魔獣だよ」
ラニアは少しだけ笑って、言った。
「狼だってこともね」
リリアーナは、ごくりと喉を鳴らし、おそるおそる聞いた。
「……仲間たちの、ことは……?」
「弔いは、あれでいいって」
ラニアは、狼の子を胸に抱き寄せた。
「もう、何をしても、戻らないのだから、ってさ。でも、憎しみも、哀しみも、消えてはいない」
沈黙が落ちた。
しばらくして、リリアーナはまた、小さく口を開いた。
「……ラニアは、魔獣の思っていることが、わかるの?」
ラニアは、当たり前のことのように答えた。
「すごく年を取って、半分精霊に近い魂なら、わかるよ」
……謎、すぎる。リリアーナは、ただそう思いながら、腕の中の小さな狼と、ラニアの横顔を見つめていた。
「この子は、魂がそのままだから、わかるよ。リリアーナには、怪我を治してもらって感謝してる。鎮魂歌もね。」
ラニアは、静かにそう言った。
リリアーナは、その言葉を胸の中で反芻した。自分のしたことが、ちゃんと届いていたのだと知った瞬間、胸の奥がじんわりと熱を帯びる。
……怖かった。震える手で触れた、血まみれの体。それでも、見捨てられなかっただけの、ただそれだけ。
けれど、その選択は、無駄ではなかった。
リリアーナは、そっと狼の子を見た。小さな体が、安心したようにラニアの腕の中で身じろぎする。
「……よかった」
思わず、そう呟いていた。
理由なんて、うまく言えない。
ただ、救われた命があり、想いが残っていて、それが今ここにある。
胸に灯ったその温もりを、リリアーナは大切そうに噛みしめていた。




