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Facltas  作者: カズハ


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第三話

「マイペース・ルームの夜」

某日、京蘭市にて――


 京蘭市の空が深い群青色に染まり、ビル群や繁華街のネオンが夜の帳に鮮やかな光を投げかける頃。市街地の一角にある静かなアパートメント、マイペースルームのリビングには、外の喧騒が嘘のように穏やかで、しかしどこか個性的な気配が満ちていた。

 リビングの中央に置かれた大きなファブリックソファ。その背もたれには、白髪の長髪を揺らす葉がもたれかかり、膝の上に広げたスケッチブックへと黙々とペンを走らせている。群青と銀のオッドアイの瞳は、脳内で構築された理想のビジョンを紙の上へと定着させることに全霊を傾けていた。

 その向かい側の床に直に座り込み、両足を伸ばしてリラックスしているのは神奈だ。彼女の膝の上には、繁華街の有名店で買って帰った色とりどりのマカロンやタルトが並んだ箱が開かれている。碧眼をキラキラと輝かせながら、神奈はスプーンで一口大のケーキをすくい上げ、幸せそうに口へと運んでいた。

「ん〜、やっぱりこの甘さは正義ですね……!疲れた体に染み渡ります……!」

 頬を緩ませて蕩けるような笑みを浮かべる神奈の隣で、長身の紅はソファの端に腰掛け、細い指先でピンセットと布地を器用に動かしていた。手元にあるのは、次に製作予定の衣装の型紙だ。赤毛の長髪がサラリと揺れ、その赤目は冷徹なまでに正確に布の縫い目を捉えている。群れることを嫌う彼女が、なぜこの共同生活の場に身を置いているのか。それは、この空間が持つ絶妙なドライさと心地よい距離感が、彼女の研ぎ澄まれた神経を休ませるのに最適だったからに他ならない。

 そして、キッチンカウンターのあたりから、カップの触れ合う上品な音を立てて歩いてきたのは舞那だった。青い髪にピンクのメッシュが揺れる彼女は、手にしたハーブティーの入ったカップをそっとテーブルに置き、マイペースな足取りでソファの空いたスペースに腰を下ろす。

「ふう……美術館の資料整理で一日中古い書物と向き合っていたから、この静けさは格別ね。葉、相変わらずすごい集中力ね。そのスケッチ、何の生き物?」

 舞那が興味深そうに覗き込むと、葉はペンを止めることなく、冷淡ながらもどこか含みのある声で答えた。

「生き物じゃない、さっき地下のバックヤードで気配を感じた虚飾の残滓のデータ化よ。」

 曰く実体のないバグの様な存在でも、構造の矛盾をあぶり出してスケッチに描き起こせば、こんなもの実在しないと葉の異能で、綺麗にスッキリ消去できる。邪魔なノイズは早めに、片付けておくにかぎる。葉の言葉の端々に滲む徹底した合理主義に、舞那はクスクスと笑みをこぼす。

「相変わらず容赦がないわね。叡智でデータベースを覗く私も大概だけど」

 葉の創作による矛盾律破棄は、存在そのものを論理で殴り倒すようなものだから、虚飾たちもたまったものではない。論理が通じない相手に、こっちの理屈を無理矢理叩き込んでるだけだ。

「……それより舞那、あなたのその『因果演算領域』だって、未来の可能性を何通りもシミュレートして回避ルートを導き出すんでしょう? 脳の負荷にかけては、私の『多重筆圧の疲弊』といい勝負じゃない」

 葉がピタリとペンを置き、冷ややかな視線を舞那に向ける。二人の天才肌の女性が交わす会話は、一見するとトゲがあるように聞こえるが、互いの才能と領域を深く理解し合っているからこその、信頼の裏返しでもあった。そのやり取りを横目に、神奈はスプーンを置き、ふと真剣な表情を浮かべて紅の袖を軽く引っ張った。

「ねえ、紅ちゃん。さっきの虚飾との戦いのとき……血流過怠、使ってたでしょう?動きがすごかったけど、そのぶん息が上がってた気がするの……無理はしないでね?」

 神奈の碧眼には、純粋な心配の色が宿っていた。紅は手元の針と糸をピタリと止め、ゆっくりと顔を上げる。その赤目が神奈のまっすぐな瞳を捉えた。

「……心配いらない、神奈。あれは最小限の運用に留めている。」

 循環加速で、心拍数と神経伝達を一時的に引き上げた後も、紅の血縫で微小な傷を内側から塞ぎながらリカバリーしているからね。生命活動の前借りだなんて言われているけれど、紅の肉体の構造と裁縫の要領は同じ。正しくコントロールすれば、致命傷にはならない。淡々と、しかしどこか優しさを孕んだ声で紅は答える。神奈はふうっと息を吐き出し、安心したように笑った。

「よかったぁ、紅ちゃんがボロボロになるのは、見ていて胸が痛いもの……そうだ、これ食べてください!疲労回復にぴったりの特製シュガータルトですから!」

 神奈が差し出した小さく切り分けられたタルトを、紅は少しだけ困ったような、しかし拒めないといった表情で見つめ、やがて小さくため息をついてから受け取った。

「……ありがとう。いただくわ」

 一口食べると、口の中に広がる上品な甘みとコクが、戦闘で張り詰めていた紅の神経を心地よく解きほぐしていく。甘味が苦手な紅や葉がいる一方で、神奈が作る、あるいは買ってくるスイーツは、このマイペース・ルームにおいて不思議と全員の緊張を和らげる共通言語のようになっていた。

 リビングの隅で、4人の異なる個性が、それぞれの距離感を保ちながらも一つの空間に溶け合っている。孤高を貫く紅の赤毛、天真爛漫な神奈の青いツインテール、マイペースな舞那のピンクのメッシュ、そしてクールな葉の白髪が、夜の照明の下で柔らかい影を落としていた。外では冷たい夜風が京蘭市の街並みを通り抜けていくが、この部屋の中だけは、異能の戦いや日々の疲労を忘れさせる温かな時間に包まれていた。

「……さて。」

 紅はタルトを平らげると、再び手元の衣装の型紙へと視線を戻し、ピンセットを手に取った。

「もう少しで、この新しい外套の縫製が完了する……次の休日は、美術館の展示に合わせて少し外出する予定だからね。」

「あら、それじゃあ私も手伝おうかしら。蘭原家の所蔵品に関する資料なら、いくらでも貸してあげる。あなたの作る衣装の美しさは、美術館のどの芸術品にも負けないくらいの価値があるものね」

 舞那が優雅にティーカップを置き、楽しげに微笑む。葉は再びスケッチブックに向き合いながら、ぼそっと呟いた。

「……邪魔にならないなら、私もその新しい衣装に合わせるアクセサリーの概念を一つくらい描いてあげてもいいわよ。どうせ暇だしね」

「わぁ、素敵ですね!みんなでお出かけするの、今から楽しみです!」

 神奈が無邪気に両手を叩き、リビングには穏やかな笑い声が満ちていった。他人に群れることを好まなかった少女が、いつしかこの温かな空間に居場所を見出し、それぞれの明日へ向けて歩み出していく。京蘭市の静かな夜の底で、彼女たちの絆は、誰にも破れない美しい結び目となって、しっかりと結ばれていたのだった。


 京蘭市の街並みが、穏やかな春の陽光と色とりどりの花々に包まれる季節。かつて虚飾との激闘を潜り抜け、世界の理の端っこで静かな日常を取り戻した彼女たちの物語には、その後も変わらず、それぞれのペースで紡がれる温かな時間が流れていた。

 マイペース・ルームのリビングルーム。午後の柔らかな日差しが大きな窓から差し込み、フローリングの床に心地よい影を落としている。

 ソファの上では相変わらず葉がペンタブレットを軽快に走らせ、頭に浮かんだ新しいデザインや概念を画面の中へと定着させていた。その傍らには、淹れたてのハーブティーの香りを漂わせるカップが置かれている。一匹狼を自負する彼女が、今ではこのリビングの指定席をすっかり自分の居場所として馴染ませていた。

「ねえ、葉さん。この間リクエストしていた新しいインクの色、やっぱり群青より少しシルバーを強めにした方が、概念武装の定着率が上がると思うんだけどどうかな?」

キッチンカウンターからひょっこりと顔を出したのは神奈だ。相変わらずお菓子作りが日課の彼女は、今日は新しく開発したという甘さ控えめのフィナンシェを皿に並べている。その青いツインテールが揺れるたび、部屋全体がパッと明るい雰囲気に包まれる。

「……そうね。あなたの言う通り、銀の配分を少し増やせば矛盾律破棄の際のロジックエラーも起きにくくなるわ。後でデータを見せてちょうだい」

葉はペンを止めることなく頷き、そのドライな口調の奥に確かな信頼の色を滲ませた。

そこへ、玄関のドアが静かに開く。

仕事帰りの舞那が、腕に美術品の資料集を抱えてリビングへと入ってきた。その後ろには、なぜか不機嫌そうに裾のドレスを整えながら歩く綺羅の姿がある。

「もう!京蘭美術館の裏手を通ったら、また変な野次馬が私のドレスの裾を踏みそうになって……!紫苑お兄様も、あんな古ぼけたバックヤードの管理をもう少し厳重にしてくださらないと困ります!」

綺羅はフンと鼻を鳴らしつつも、ちゃっかりと神奈が差し出したフィナンシェの皿に手を伸ばし、一口食べてその美味しさにわずかに頬を緩ませている。

「あらあら、綺羅ちゃん。そんなに怒らないの。バックヤードの古い資料と虚飾の残り香を綺麗に整理していたのは、ほかならぬ私と……そしてあそこにいる職人肌の彼女のおかげよ」

舞那がクスクスと笑いながら指し示した先には、ミシンのリズミカルな音を響かせる紅の姿があった。

リビングの一角に置かれたアトリエスペース。

赤毛の長髪をすっきりとまとめた紅は、細い指先で針を操り、見事なまでのグラデーションを描く新しい衣装の仕上げに没頭していた。その手際よさは職人の領域を超え、もはや一つの芸術品を創り上げているかのようだった。

足音が近づくのを察知した紅は、手を止めることなく静かに顔を上げる。その赤目が、ソファに腰掛ける綺羅を捉えた。

「……綺羅。そのドレスのフリル、少し裾のバランスが崩れている。こちらへ来なさい。私が綺麗に仕立て直してあげる」

「っ……!わ、わたくしのドレスの縫製に文句をつける気ですか!?……でも、そこまで言うなら、直してくださってもよろしくてよ?」

 ツンとすました態度を取りながらも、綺羅は嬉しそうに紅の隣へと歩み寄り、差し出された椅子に腰掛けた。紅はその不器用なプライドを熟知しているかのように、一切の冷たさを交えず、手際よく布の歪みを整え、自らの血縫の要領を応用した完璧なステッチでドレスを美しく蘇らせていく。その光景を、ソファから眺めていた葉がふっと小さく笑い、舞那が優雅に紅茶を傾ける。最高のティータイムに、神奈が満面の笑みを浮かべていた。






「カフェ・テラスの邂逅」

某日、京蘭市にて――


 京蘭市の中心に位置しながら、喧騒を優しく遮る緑豊かな一角。ガラス張りの外壁と、季節ごとに色づく花々に囲まれたオープンカフェ、ガーデン・ケイラのテラス席には、心地よい初秋の風が吹き抜けていた。

「んー、美味しい!このエディブルフラワーのタルト、クリームの甘さがすっごく上品で、紅茶との相性もバツグンだよ、紅ちゃん!」

 向かいの席に座る神奈は、青いツインテールをふわりと揺らしながら、きらきらと目を輝かせてそう言った。目の前には色鮮やかなスイーツの盛り合わせ。お気に入りの甘味を口にした彼女の表情は、見ているこちらまで溶けてしまいそうなほど幸福感に満ちあふれている。対する紅は、紅茶のカップにそっと口をつけながら、絶妙にドライな視線を親友に向けた。

「……甘いものばかり食べて、よく胃もたれしないわね、神奈は。」

「えへへ、美味しいものは別腹なんだよ。あ、紅ちゃんも一口食べる? ほら、あーん」

「いらない。私は私のカップケーキがあるから」

 差し出されたフォークを涼やかにかわし、紅は手元の小さな焼き菓子に目を落とした。誰かと群れることを好まず、常に一歩引いたクールビューティーな彼女にとって、こうした休日のカフェテラスでのんびり過ごす時間は、神奈という特異な存在が引き起こす不可抗力の日常だった。

 だが、その冷徹な仮面の下にある本質は穏やかで理性的であり、何よりこの気ままなリズムが心地悪いわけではなかった。――彼女がそれを認めることは、絶対にないが。周囲の客が穏やかな午後のひとときを楽しむ中、その平穏は突如として、甲高いヒールの足音によって破られた。

「おや、こんなところで油を売っている暇人がいると思えば……。相変わらず、気楽なものね、刈葉先輩」

 澄んだ、しかしどこかツンと尖った誇り高い声。振り返るまでもない。結い上げられた金糸の縦ロール、勝気な紫色の瞳を輝かせて立っていたのは綺羅その人だ。背後には、完璧な身のこなしをした執事のようなメイドが一人、静かに控えている。綺羅はふんと鼻を鳴らし、紅を睥睨した。

「裁縫部のアトリエに籠もって独りよがりな衣装ばかり作っているのかと思えば、お友達とお茶ですか。優雅なことね。けれど、来週の校内ファッションコンテストでは、そう余裕綽々ではいられないわよ。私があつらえた至高のドレスが、あなたの作った雑多な布切れを完膚なきまでに叩きのめしてあげるんだから」

 彼女の纏う空気には、生まれながらの高貴さと、妥協を許さない美意識が幾重にも張り詰めている。紅はカップをソーサーに置き、トパーズのような赤い目をゆっくりと綺羅に向けた。

「……勝負を挑まれる筋合いはないわ。それに、私の縫う衣装を雑多な布切れなどと言及するなら、あなたのその凝り固まった審美眼の歪みを先に直してきたらどうかしら、綺羅」

「なっ……!誰が歪んでいるですって!?私はいつだって完璧で、美しく、高潔よ!」

 紅の静かなトーンのカウンターに、綺羅のプライドが激しく逆撫でされる。彼女の周囲の空間が、わずかにピリついたステンドグラスの輝きを帯び始めた。無意識に発動しかける美意識の絶対障壁――その気配を察知し、周囲の空気が一瞬で緊張に包まれる。だが、ここで予想外の爆弾が投下された。

「あ、綺羅ちゃんだ!こんにちはー!」

 パッと明るい声を上げたのは、お構いなしにフォークを置いた神奈だった。彼女は席を立ち上がると、まるで公園の子犬のようにトコトコと綺羅の元へ歩み寄り、何の躊躇もなくその小さな手を両手でぎゅっと握りしめたのだ。

「ひゃっ……!?な、なんなの急に!触らないで、私はあなたと馴れ合うつもりは――」

「ねえねえ、さっき食べたこのタルト、すっごく美味しいんだよ! ほら、甘くて幸せな気持ちになるから、綺羅ちゃんも一口食べてみて!」

 神奈が笑顔のまま、お皿に乗った特製マカロンを綺羅の口元へとグイッと差し出す。

「まっ、ちょっ、ふざけないで!私がそんな庶民の甘味――んぐっ!?」

 拒絶しようとした綺羅の唇に、甘美な砂糖の香りを纏ったマカロンが強制的に押し付けられた。反射的に噛み締めてしまった彼女の口内に、芳醇なピスタチオとフランボワーズの甘みが広がる。それは彼女のプライドを粉々に砕くほど、あまりにも純粋で、暴力的なまでに美味しいスイーツだった。

「ひ、ひえっ……!?あ、甘っ……!?なにこれ、ふざけないで、私はこんなの……っ!」

 綺羅の美しい金髪が驚愕で逆立ちそうなほど、彼女の顔面は一瞬で真っ赤に染まった。自分の美意識とプライドが、目の前の天真爛漫な少女の圧倒的な、甘みのペースによって完全に侵食されていく。

「ど、どう? 美味しいでしょ?」

「ふ、ふざけないでっ!私を誰だと思っているのよ、こんな、こんなの……っ、覚えていなさいよね――っ!!」

 羞恥とパニックの極みに達した綺羅は、ドレスの裾を翻すと、メイドを引き連れて疾風のごとくカフェから走り去っていった。その後ろ姿を見送りながら、神奈は小首をかしげて、のほほんと微笑むのだった。

「うーん、今日も綺羅ちゃんは元気だなあ。」

 その様子を冷めた眼差しで見つめながら、紅は小さく息をつき、再び紅茶に口をつけた。――平和な、あまりにもいつも通りの休日。


 だが。


 その穏やかな日常の裏側で、世界の理の綻びが、音もなく静かに始まろうとしていた。京蘭市の中央にそびえ立つ近代的なビル群から、湾岸の工場区にかけての広大なエリア。そこを網羅する霊的磁場が、突如として不気味な波長を帯びて歪み始めたのは、まさにその時だった。

 京蘭大学のキャンパス、あるいは図書館の片隅。あるいは、京蘭美術館の冷たいバックヤード――。誰にも知られず、しかし確実に。人間が抱いた芸術への執着、異能の酷使による歪み、そして満たされないエゴの残滓が結びつき、実体を持たない異形の群れ――虚飾(ファサード)の兆候が、街の底深くで蠢き始めていた。

その微細なノイズを、大学の静寂な自習室で、一人の女性が鋭く捉えていた。

 開かれたノートパソコンの画面には映らない、脳内の広大なデータベース。全景網羅のスキルを常時展開する舞那の瞳が、ふと窓の外の青空を――その奥に広がる街の歪みを見据えて、静かに細められた。

「……あら。少し、お掃除が必要な美術品が散らばり始めているみたいね」

 マイペースな呟きは、誰に届くこともなく、秋風にかき消されていく。平穏な京蘭市の裏側で、静かに、そして確実に、非日常の歯車が噛み合い動き出そうとしていた。

 事件が去り、京蘭市に再び平穏な日常が戻ってきてから、季節は少しだけ進んでいた。秋の気配が深まり、街路樹の葉が黄金色に色づき始める頃。夕暮れ時のマイペース・ルームのリビングルームには、いつもと変わらない、けれどどこか温かな空気が満ちていた。

 ソファに深く腰掛け、淹れ立てのハーブティーを啜る葉の横で、神奈はテーブルいっぱいに広げられた新作のスイーツカタログを広げてはしゃいでいる。

「ねえねえ、聞いて聞いて!今度、美術館の近くに新しいロールケーキ専門店ができるんだって!舞那お姉ちゃん、今度一緒に行こうよー」

「……んー、ロールケーキね。歴史的資料の修復が終わったら、検討しておきましょうか。甘いものは、叡智を活性化させる素晴らしい燃料だし」

 マイペースに本をめくりながら答える舞那の隣で、葉はペンタブの画面から視線を外し、やれやれといったふうにため息をついた。

「また甘味に頼るの、舞那。脳が糖分漬けになって、そのうち歴史の年号すら、すべて砂糖の数に換算しだすわよ」

「あら、それもまた一つの美しい真理の解釈かもしれないわよ、葉」

 他愛のない軽口を叩き合う二人のやり取りを、キッチンカウンターの端から、紅はトパーズ色の目で冷ややかに、しかしどこか満足げに見つめていた。手元では、来週のコンテストに向けて最終調整中の真紅のドレス生地が、完璧な縫い目によって形作られている。

異能を微かに纏わせた針は、機械を凌駕する精度で布を捉え、一切の妥協を許さない美しさを紡ぎ出していた。

「……静かにしてよね。針が狂うでしょう、神奈」

「あ、ごめんごめん!でも紅ちゃん、そのドレス、すっごく綺麗! 絶対コンテストで一番になるよ!」

「当たり前よ。私が作るのだから」

 紅の淡々とした言葉に、嘘偽りのない絶対的な自信が宿る。かつて街を揺るがした異形の影――虚飾(ファサード)の記憶はもう遠く、今はただ、それぞれの日常という名のキャンバスを彩るための穏やかな時間が流れていた。その平和な空間に、ふと、インターホンが控えめに、しかしどこか切羽詰まった音を鳴らした。

「……ん? この時間に誰かしら」

 神奈が首をかしげながら玄関の扉を開けると、そこに立っていたのは――予想外の人物だった。

「ちょっ……!」

「あ、綺羅ちゃんだ!いらっしゃい、ちょうどお茶にするとこだったんだよー」

「だ、誰がいらっしゃいですって!べ、別にあなたたちに用があるわけではないですからね!」

 顔を真っ赤に染め上げ、ツインテールの縦ロールをぷるぷると震わせながら立っていたのは綺羅だ。その後ろには、相変わらず無表情で完璧な執事風のメイドが控えている。綺羅は両腕を組み、ふんと盛大に顔を背けながら、持ってきた包みを強引に神奈の手に押し付けた。

「め、恵んでもらう筋合いはないわよ!ただ、先日の……その、お礼っていうか、何というか……!母が特製のクッキーを焼きすぎたから、お裾分けしてあげるって言っただけなんだからね!勘違いしないでちょうだい!」

 明らかに不器用な言い訳と、耳まで真っ赤になった彼女の様子に、リビングの空気が一瞬で和やかな笑いに包まれた。紅は手を止め、ゆっくりと椅子から立ち上がると、涼やかな笑みを浮かべて綺羅に歩み寄った。

「……ふん。素直じゃないこと。でも、そのクッキーの焼き加減、なかなかいい匂いがするじゃない。お茶の淹れ方くらいは教えてあげるから、上がっていけばいいわ」

「なっ……!誰が素直じゃないって言ってるのです、刈葉先輩……っ!」

 文句を言いながらも、綺羅は促されるままにリビングへと足を踏み入れ、神奈に引っ張られるようにソファの特等席へと座らされた。差し出された温かいハーブティーを一口含んだ彼女の表情が、わずかにほころぶ。京蘭市の夜は優しく、温かな光に包まれていくのだった。

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