第四話
「過去視抄録の真実」
某日、京蘭市にて――
京蘭図書館の静寂は、まるで世界から切り離されたかのように深く、重厚な空気を湛えていた。窓の外では初秋の冷たい風が街路樹を揺らし、黄昏時の橙色の光が整然と並ぶ書棚の隙間を長く引き延ばしている。
木製の大きな閲覧テーブルの席で、舞那は微動だにせず、目の前に置かれた一冊の古びた手帳を見つめていた。表紙は上質な黒革で作られているが、幾重もの年月と誰かの強い執着によって、あちこちがひび割れ、染み込んだ埃の匂いを放っている。それは蘭原家が管理する非公開の歴史資料――京蘭市の創世記に関わる、一般には決して出回ることのない禁忌の記録だった。
「……見つけた。」
舞那の唇がかすかに動き、静まり返ったフロアに冷ややかな声が落ちる。彼女の青い髪に混じる鮮やかなピンクのメッシュが、差し込む夕陽に微かに染まっていた。普段のマイペースでどこか掴みどころのない雰囲気は消え失せ、そのピンク色の瞳には、世界の裏側に刻まれた真理を捉えた者特有の鋭い光が宿っている。
彼女の脳内では、常時発動型である異能の基盤状態――全景網羅が限界まで研ぎ澄まされていた。だが、それだけではない。舞那は自らの意思で、その手帳の表紙に指先をそっと触れさせながら、固有技を発動させた。
――過去視抄録。
瞬間、彼女の意識は一気に過去の濁流へと引きずり込まれた。脳の処理領域が激しい悲鳴を上げる。コンマ数秒の間に、数十年前、あるいは百年以上前の膨大な記憶の断片が、容赦なく彼女の精神へと流れ込んでくる。明治から大正、そして昭和の初期にかけて、京蘭市という街がどのようにして形作られ、その地下に何を封印したのかという生々しい歴史の真実が。
「お姉ちゃん?」
少し離れた席、あるいは同じテーブルの向かい側で、手帳を覗き込むようにしていた妹の神奈が、不安そうに小首を傾げた。青いツインテールを揺らし、甘い香りのする携帯用のクッキーの包みを開けかけていた手が、ぴたりと止まる。神奈の持つ鋭い直感が、舞那のただならぬ気配を敏感に察知していた。舞那の額に冷たい汗が一筋、伝う。
「……すごい、ですね。これは」
舞那はゆっくりとまぶたを開け、震える指先を手帳から離した。その声は、かつてないほどに微かに震えていた。
「この街は……綺麗に作られすぎている。近代的なビル群も、整備された美術館も、美しい庭園も、すべてはある一つの未完の芸術品を隠すためのカモフラージュだったんです」
「未完の芸術品?」
低い、しかし凛とした声が図書館の静かな空気を切り裂いた。背後から音もなく歩み寄ってきたのは、赤い長髪を揺らす紅だった。彼女はいつものように一歩引いた距離を保ちつつ、しかしその赤目には鋭い理性が光っている。裁縫部のプライベートアトリエで磨き上げられた彼女の五感は、この図書館に漂う尋常ならざる魔力の澱みをいち早く感じ取っていた。
「虚飾の発生源……それが、その芸術品に関係しているというわけか」
「ええ。単なる人間のエゴや欲望の澱みなんかじゃないわ」
舞那は息を整えながら、手帳のページを一枚めくる。そこには、蝶の羽のような精緻な模様と共に、奇妙な花のスケッチが描かれていた。
「京蘭市全体が一つの巨大なキャンバスであり、蘭原家が築き上げた文化や歴史、そして私たち異能者が持つエネルギーそのものが、その未完の作品に色彩を補給し続けていたのよ。」
あの怪物たち、虚飾は、その作品が完成を拒絶され、永遠に満たされない絶望から生み出されたバグそのものなのだ。
「……面倒な話ね。」
そこに、もう一つの足音が重なった。白髪の長髪、群青と銀のオッドアイを持つ葉が、両手をポケットに突っ込みながら気怠げに歩いてくる。彼女は周囲を一瞥すると、小さく息を吐いた。
「こんな公共の場で悠長に歴史の真実を語り合っている場合じゃないわね。魔力の波長が乱れている。このままじゃ、図書館の壁の向こう側から、面倒な虚飾が這い出してくるわよ」
「さすが葉。察しが良いね」
舞那はかすかに笑ってみせたが、その表情には深刻な影が残っていた。
「ここじゃ都合が悪いわね。私たちの拠点に戻りましょう……マイペースルームへ。」
数十分後。四人が集まったのは、彼女たちの共同生活の場であるMypaceroomのリビングだった。ソファや各々の趣味のグッズが置かれたいつもの温かい空間は、今や葉の異能によって完全に外の世界から遮断されていた。
――偽作世界。
葉がペン先をわずかに空中で走らせた瞬間、リビングの周囲の空間は、外の喧騒を完全にシャットアウトした静寂の白紙の世界へと上書きされた。視覚も聴覚も欺かれ、この部屋の内部は外部の干渉を一切受け付けない絶対的な密室となる。
「これでいいわ。どれだけ大きな声で喋っても、外には一歩も漏れないし、余計なノイズも入らない」
葉はソファの背もたれに寄りかかり、やれやれといった仕草でペンを回した。その銀と群青の瞳が、テーブルの中央に置かれた資料を見据える。
「で、舞那。さっきの続きをきかせてもらいましょうか。その未完の芸術品の正体と、私たちにどうしろっていうのかを」
「うんうん、お姉ちゃん、お菓子食べる?」
神奈はすかせず、甘い香りのするマドレーヌを舞那の口元に差し出した。その純粋な優しさが、ピリピリと張り詰めていた空気の緊張を少しだけ和らげる。舞那はふっと微かに笑い、妹からお菓子を受け取って一口かじった。優しい甘さが、フル稼働していた脳の疲労を癒していく。
「ありがとう、神奈。……それじゃ、本題に入るわね」
舞那は表情を引き締め、テーブルの上にスマートフォンを置いた。画面には、彼女が異能のデータベースから引き出した京蘭市の地下構造の3Dマップと、蘭原家が遺した古い設計図が映し出されている。
「虚飾の発生源――その核は、現在私たちがいるこの街の真下、かつて蘭原家の初代当主が個人用の巨大温室として造り、そして『封印』した地下最深部にあるわ。そこには、世界中の美を集めて作られたはずの、しかし決して完成することのなかった『究極の蘭の彫刻』が眠っているの」
「蘭の彫刻……?」
紅は腕を組み、赤目を細めた。彼女の異能が微かに反応し、指先の傷口からほんの微量の血の気配が巡る。
「それが、どうして街全体に影響を及ぼすんだ?」
「その彫刻はね、ただの石や金属で作られたものじゃないのよ」
舞那の声のトーンがわずかに落ちる。
「人の記憶、感情、そして異能者の持つ執着そのものを養分にして成長するように呪術的なプログラミングが施されていたの。」
蘭原家はかつて、この街を文化の都に仕立て上げることで、その彫刻に美しい人間の営みを吸い上げさせようとした。然し、あまりにも強大な美と執着を集めすぎた結果、彫刻は自我を持ってしまった。私は完成したくない。完成してしまえば、この美しい未完の夢が終わってしまうからだと。
「……なんだって?」
葉の眉がぴくりと動いた。彼女の異能の理屈からしても、自らの完成を拒絶し続ける存在というのは、あまりにも矛盾に満ちていて、そして悍ましい。
「つまり、その彫刻が絶望を撒き散らし続けているから、この街のあちこちに虚飾が湧き出しているわけ?」
「ええ。このまま放置すれば、京蘭市のすべての空間がその彫刻の未完のキャンバスに塗りつぶされて、私たちも含めて、この街に生きる人間全員の記憶や感情がドロドロに溶かされてしまうわ……それが、この街の本当の結末になる」
リビングに重苦しい沈黙が落ちた。外の世界では、いつものように学生たちが笑い合い、ショッピングモールやカフェで平和な日常を過ごしている。そのすぐ足元で、街全体を飲み込むほどの巨大な呪縛が目を覚まそうとしているのだ。だが、誰一人として怯えてはいなかった。紅は小さく息を吐くと、腰元に手を当てた。その目には、いつもの冷徹な美しさと、揺るぎない意志が宿っている。
「……話は分かった。要するに、その地下の彫刻をどうにかすればいいんだな」
「そうよ。でも、ただ物理的に破壊するだけじゃダメ」
舞那は首を横に振った。
「あの彫刻は概念そのものとして存在している。だから、私たちの持つ異能をフル活用して、その存在の矛盾を突き、定義を上書きしなきゃいけないの……私一人の叡智じゃ、解析しきれない部分がある……みんなの力が必要なのよ」
「もちろん、手伝うよ!」
神奈はぱっと顔を輝かせ、明るく声を上げた。彼女の碧眼に、太陽のような強い光が宿る。
「みんなでお菓子を食べながら……じゃなくて、みんなで力を合わせれば、どんな怖い怪物だってもちもちの綿飴みたいにフニャフニャにしてあげられるよ!」
「……相変わらず呑気ね、神奈は。」
葉はやれやれと肩をすくめながらも、その口元にはかすかな笑みが浮かんでいた。彼女はペンをクルリと回し、立ち上がる。
「まあいいわ。私の異能なら、その彫刻の胡散臭い設定を論理的にボコボコにしてやれる自信はある。付き合ってあげる、特別にね」
「私もよ。」
紅もまた、スッと立ち上がり、自身の腕を軽く引き締めた。
「私の異能で、どんな硬質な概念だろうと両断してみせる……裁縫部としての最後の仕上げだと思えば、悪い気はしない。」
四人の視線が交差する。言葉がなくとも、お互いの背中を預けられるという絶対的な信頼が、このマイペース・ルームの空気を温かく満たしていた。年齢も性格も、生き方もバラバラな彼女たちが、それぞれの強いエゴと絆を武器に、今、一つの目的に向かって動き出す。
「ありがとう、みんな」
舞那は深く頷く。
「それじゃあ、作戦会議を始めるわ。地下へ通じる扉は、蘭原美術館の地下バックヤード――あの紫苑さんが管理している場所の奥にある。彼にも、あとで少し協力を仰がないといけないわね」
「あの怪しい館長ね」
葉が冷ややかに笑う。
「まあ、あそこの主人も美しさにしか興味がない男だもの。街が壊れるなんて言い出したら、喜んで手を貸すでしょうね」
決意は固まった。京蘭市の穏やかな日常を守るため、そして自分たちの居場所であるこの街の未来を仕立て直すために、彼女たちは夜の闇の中へと踏み出していく。
数時間後――京蘭美術館の地下深く。
重厚な石造りの扉の前に、紅、神奈、舞那、葉の四人が立っていた。その傍らには、スリーピーススーツを完璧に着こなし、優雅な笑みを浮かべる蘭原紫苑と、少し不機嫌そうに金髪のツインテールを揺らす妹の綺羅の姿もあった。
「ほう……我が一族が長年隠し続けてきた地下の聖域に、まさか君たちがおもむくことになるとはね」
紫苑は手元のカップから紅茶を一口啜り、ふっと優雅に微笑んだ。その紫色の瞳には、冷徹なまでの興味と、どこか期待の色が宿っている。
「美術館の館長として、そして蘭原家の当主として、あの不気味な彫刻がこれ以上我が庭を荒らすのは許容できない。存分にやってくれたまえ。私の庭園の力も、必要ならば貸そう」
「兄様、そんな軽口叩いてる場合じゃないわよ!」
綺羅はフンスと鼻を鳴らし、自身のドレスの裾を整えながら紅を睨みつけた。
「万が一にも、私の大好きなこの街や、お気に入りのカフェの景色が壊れたりしたら許さないんだから!……刈葉先輩、せいぜい足を引っ張らないでくださいね!」
「……ふっ、それはこっちのセリフよ、お嬢様。」
紅は小さく口角を上げ、傷口から噴き出た血液を一瞬で高密度に凝固させ、鋭利な日本刀――血刃・朱雀へと変化させた。鮮烈な赤の輝きが、薄暗い地下通路を照らし出す。
「それじゃあ、行こっか!」
神奈が両手を広げると、彼女の周囲にふんわりとした甘い香りを放つ巨大な綿飴状の障壁――綿飴の結界が展開される。その甘美な輝きが、周囲の澱んだ魔力を優しく包み込み、無害化していく。葉はペンを構え、冷徹な眼差しで空間の歪みを見据えた。
「偽作世界、展開……ここから先は、私たちのルールに従ってもらうわ」
空間がぐにゃりと歪み、地下の最深部――未完の芸術品が眠る広大な空間へと、彼女たちは踏み込んだ。目の前に広がっていたのは、言葉を失うほどに異様で、そしてどこか切なさを帯びた光景だった。無数の結晶と生きた植物の蔦が絡み合い、巨大な人の形を模したそれが、冷たい闇の中で脈打っている。それが未完の芸術品――街の呪縛の根源。
「……見つけたわね」
舞那の異能が全開稼働し、脳内のデータベースがその彫刻の構造的弱点と、過去の記憶の残滓を瞬時に解析し尽くす。
「あれの核は、胸の心臓部にあるわ! 隙間だらけの、でも強固な未完の意志の塊よ!」
「任せて!」
神奈がふわりと飛び出し、敵の放つ絶望のエネルギーを甘い砂糖の結晶へと変換して無力化する。
「――砂糖漬けの弾丸!」
甘い香りを放つ無数の弾丸が、彫刻の動きを鋭く牽制し、その硬質な表面を糖化させてろくに対抗させない。
「今だ、紅!」
「分かっている」
紅は循環加速を発動させ、生命活動を限界まで引き上げた超高速の踏み込みを見せた。その姿はまるで一筋の赤い流星のようだった。
「――血刃・朱雀!」
鋼鉄を凌駕する硬度と柔軟性を併せ持った血の刀身が、一閃の光を描いて彫刻の核を正確に両断する。しかし、それだけでは終わらない。概念の存在である彫刻は、すぐにでも自己修復を始めようと魔力を再構築し始めた。
「甘いわね」
葉が冷ややかに言い放つ。彼女は空中に素早く文字を描き、最強の否定技を叩きつけた。
「――矛盾律破棄。あなたのその彫刻は、すでに歴史のデータベースから除外されている。酸素も、エネルギーも、そして完成を拒絶する理由すらも、この空間においては成立しない……消えなさい」
パリン、とガラスが割れるような清らかな音が響いた。葉の冷徹な正論と創作の改変能力が、彫刻の存在理屈そのものを根本から粉砕する。未完の芸術品が抱えていた無限の絶望と執着の澱みが、まるで霧のようにサラサラと空気に溶けていく。最後に、舞那が前へと進み出た。彼女の異能の全解放だ。
「失われた歴史の法則よ、正しく書き換わりなさい。この街は、誰かの絶望のキャンバスなんかじゃない――みんなが笑顔で、日常を紡ぎ出すための場所よ」
光が爆発した。地下の空間を満たしていた冷たい闇と呪縛の魔力は完全に消え去り、代わりに、まるで春の訪れのように温かく、心地よい光が地下から地上へと抜けていく。
数日後。
京蘭市は、いつもと変わらない穏やかな日常を取り戻していた。青空の下、京蘭公立高等学校の校庭には生徒たちの賑やかな声が響き渡り、ショッピングモールやカフェにはいつもの笑顔が戻っている。
マイペース・ルームのリビングでは、相変わらずの穏やかな空気が流れていた。ソファの上で、神奈は嬉しそうに新しいスイーツの包みを開けている。
「ねえねえ、みんな! 見てこれ、ガーデン・ケイラで新しく出たエディブルフラワーのタルトだよ! すごく可愛いー!」
「まったく、神奈はいつもおやつのことばかりね。」
綺羅はツインテールの縦ロールを揺らしながらも、ちゃっかりと紅の隣に座り、差し出されたハーブティーのカップを受け取っていた。
「べ、別に欲しかったわけじゃないんですからね!……でも、美味しい……かも。」
赤面しながら呟く綺羅の姿に、紅はふっと小さく微笑んだ。
「まあ、一件落着ってわけね」
葉は自分のアトリエの椅子に深く腰掛け、ペンを走らせながらも、どこか満足そうな表情を浮かべている。その傍らで、舞那は古い歴史資料を手帳に綺麗にまとめながら、穏やかに目を細めていた。
「ええ。過去の呪縛はすべて綺麗に仕立て直されたわ。この街の未来は、もう誰にも縛られない」
「……お疲れ様、みんな」
紅は静かにグラスを掲げた。その赤目には、孤高のクールビューティーとしての凛とした美しさだけでなく、大切な仲間たちと過ごすこの日常への深い愛おしさが、静かに、しかし鮮やかに宿っていた。
窓の外では、心地よい秋風が京蘭市の街並みを優しく撫でていく。誰もが笑顔で、それぞれの明日へ歩き出す。愛おしさが胸の奥で温かく満ちていくのだった。
「緋血とシュガー・バレット」
某日、京蘭市にて――
京蘭市の夕暮れは、いつもどこか現実離れした美しさを纏っている。近代的な高層ビル群のガラスファサードが茜色の空を反射し、古くからの歴史ある街並みと溶け合うその光景は、あたかも誰かがキャンバスに描き出した絵画のようだった。だが、その日常の美しさの裏側で、目に見えない「綻び」が確実に広がりつつあった。
京蘭市中央公園の片隅。木々のざわめきに紛れるように、微かなノイズが響いた。それは音というよりも、世界そのものの輪郭が歪むような、不快な耳鳴りに似た波動だった。
「……また、始まったみたいね」
コンクリートの塀に背を預け、冷ややかに呟いたのは刈葉紅だった。赤毛の長髪が夕風に揺れ、深紅の瞳が冷徹に前方を見据える。彼女の足元には、既に出現の兆候を示している黒い染みのようなものが広がっていた。実体を持たない異形――虚飾。人間が抱く歪んだ執着や自己顕示欲が、この街の霊的磁場と結びついて具現化したバグのような存在だ。
「紅ちゃん! 前方から、すごい数の反応が来てるよ!」
ポン、と軽く紅の肩を叩いて、駆け寄ってきたのは神奈だ。青いツインテールを弾ませ、碧眼を輝かせる彼女は、一見するとこれから修羅場に向かう少女とは思えないほどふんわりとした空気を纏っている。だが、その直感は誰よりも鋭い。神奈の言葉通り、夕暮れの街のあちこちから、ぞっとするような気配が這い出してきた。
「群れるのは趣味じゃないけれど……放置すれば、この街の日常がただじゃ済まないわね。」
紅は右手の掌をスッと見据えた。愛用の裁縫ばさみを取り出すまでもない。彼女は左手の指先で、自らの手のひらの皮膚をわずかに浅く、しかし鋭く切り裂いた。鮮烈な一筋の血が滲み出る。それを一瞬で高密度に凝固させ、彼女の意志によって変形させる。
――血刃・朱雀。
一瞬にして血は鉄を凌駕する硬度を持つ片刃のサーベルへと姿を変え、夕闇の中で妖しくも美しい朱色の光を放った。無駄なモーションの一切ない、洗練された構え。紅のドライで揺るぎない覚悟が、その刀身に宿っている。
「神奈、後方は任せたわ。」
「うんっ! 任せて、紅ちゃん!」
神奈がふにゃりと柔らかく微笑み、両手をふわりと広げた。彼女の周囲に、甘い香りを帯びた微細な光の粒子が舞い始める。平和な日常のすぐ隣に潜む非日常へと、二人は踏み出した。
街の中心部、ネオンと看板が犇めく繁華街は、すでにパニックの一歩手前だった。突如として現れた数体の虚飾が、ビルの壁面を這い上がり、空間そのものを侵食しようと触手を伸ばしている。
「キャッ!なにあれ、気持ち悪――!」
「逃げろ!早く!」
逃げ惑う人々のざわめきを切り裂くように、紅の姿が疾走した。
「――邪魔よ」
冷徹な呟きと共に、紅は踏み込んだ足場から一気に跳躍する。血流過怠 / 循環加速――体内で循環する血液の組成と酸素運搬能力を強制的に引き上げ、限界を超えた身体能力を発揮するバフ技。生命活動を前借りする諸刃の剣ではあるが、今の紅には迷いがない。目にも留まらぬ高速移動で虚飾の懐へ潜り込み、一閃。
血刃・朱雀が描いた軌跡が、実体のないはずの異形を両断する。しかし、虚飾はただの物理攻撃では消滅しない。その本質にある、執着の矛盾を断ち切らなければ、何度でも再生する厄介な存在だった。
「ぐっ……!」
次から次へとわき出る群れ。物量で押し潰そうとする虚飾の触手が、四方八方から紅へと殺到する。血の消費が激しくなり、紅の額に薄っすらと汗が滲む。連続使用による疲労が、確実に彼女の肉体を蝕み始めていた。だが、紅の背中には、決して揺らぐことのない絶対的な安心感があった。
「紅ちゃん、そこ危ない!」
神奈の声が響いた瞬間、空気が一変した。甘い、お菓子の砂糖菓子を思わせる芳醇な香りが、殺伐とした戦場に不釣り合いなほど広がっていく。神奈の異能の真骨頂、彼女は両手を突き出し、敵から放たれた攻撃エネルギーや異能の衝撃をその場で捉えた。
――砂糖漬けの弾丸。
空間に放出された敵の攻撃エネルギーや衝撃波を、物理的な砂糖の結晶へと瞬時に固定化し、無力化する。それだけではない。無力化したエネルギーをそのまま倍加させ、甘い光を纏った無数の弾丸として敵の群れへと撃ち返す。
「甘いもの食べ過ぎたら、虫歯になっちゃうよ?」
ふんわりとした笑顔のまま、神奈が放った糖の弾丸が、虚飾の核を正確に穿つ。パキパキと音を立てて、強硬な結晶へと変質していく異形たち。分子結合そのものを甘さによって強制的に緩まされた虚飾は、もはや元の形状を保てず、サラサラとした糖の粒子となって空中に霧散していこうとしていた。
「すごい物量ね……でも、息がぴったりすぎてもはや気持ち悪いくらいよ」
「えー、ひどいなっ。最高のコンビネーションって言ってよ、紅ちゃん!」
敵の攻撃を血衣・緋緋色金の薄い盾で受け流しつつ、紅はふっとわずかに口元を緩ませた。そのドライな言葉の裏にある深い信頼を、神奈は痛いほど分かっていた。一匹狼の紅が唯一背中を預けられる存在。そして、誰よりも周囲を明るく照らす太陽のような神奈。
「――片付けるわよ、神奈」
「うんっ!一気にいこっか!」
二人の息が完全に重なり合う。紅の研ぎ澄まされた血刃が虚飾の急所を捉え、神奈の甘美な糖化の力がその動きを完全に縛り上げる。無敵のコンビネーションの前に、繁華街を覆っていた不穏な異形たちは、次々とその姿を消していった。
静けさが戻りつつある繁華街に、遠くからサイレンの音が近づいてくる。戦いの終わりを感じ取り、紅はふぅっと小さく息を吐き出した。過剰な加速の反動による倦怠感がじわりと全身を這い上がってくるが、彼女はそれを持ち前の精神力で押し隠す。
「ふう……疲れたぁ。甘いもの食べたくなっちゃったな」
神奈は戦闘の余韻などどこ吹いた風といった様子で、ふにゃりと頭をポリポリとかいている。その制服の裾には少し埃がついているが、表情はどこまでも晴れやかだった。
「……まったく、あなたって子は」
紅は小さくため息をつきながらも、自分の傷口を塞ぐために異能で手際よく応急処置を済ませると、神奈の方を振り返った。
「帰りに、あのカフェでも寄っていく?」
「ほんと!?行く行く!ガーデン・ケイラの限定スイーツ、絶対食べるー!」
「ちょっと、ベタベタしないでよ」
パッと顔を輝かせた神奈が、嬉しそうに紅の腕にぎゅっとしがみつく。紅はその腕を振り払うことはしない。むしろ、その温もりが今の彼女の疲れた心身に心地よかった。日常のすぐ隣に潜む非日常。その脅威はこれからも消えることはないかもしれない。
それでもこの温かい絆と、心地よいリズムさえあれば、どんな困難も二人で乗り越えていける。夕闇が完全に夜へと変わりゆく中、肩を並べて歩いていく二人の影は、どこまでも自然で、そして愛おしい輝きを放っていた。京蘭市の静かな夜は、こうして穏やかな日常へと戻っていくのだった。
激しい防衛戦から数日後。京蘭市はいつもの穏やかな日常を取り戻していた。青空が広がる午後の光が、街の木々を優しく照らし出している。紅達が暮らすアパート、マイペース・ルームのリビングには、今日もそれぞれのマイペースな時間が流れていた。
「ねえ、紅ちゃん。ここの縫い目、もう少しこう……ふんわりしたリボンをあしらった方が可愛くない?」
「ダメよ、神奈。この衣装の本質はあくまで凛とした強さだもの。余計な装飾を足せば、全体のシルエットが台無しになるわ」
リビングの一角。そこはいつの間にか、紅のプライベートアトリエさながらの空間と化していた。赤い長髪を後ろで一つにまとめ、真剣なまなざしで布地と向き合っている紅。その傍らで、神奈は焼きたてのスコーンを片手につきっきりで意見を出している。
「でもさ、たまには甘いアクセントも大事だよ? ほら、一口食べてみて。頭の回転がすっごく良くなるから!」
「……仕事中に甘いものは結構よ。それに、あなた、さっきからつまみ食いしすぎじゃない?」
呆れたようにため息をつく紅だが、その表情にトゲはない。むしろ、神奈が無邪気に差し出すスイーツを仕切りの合間にちゃっかり口へ運ばされているあたり、二人の絶妙な距離感と心地よいリズムは相変わらずだった。
ふと、リビングの窓辺に目をやると、午後の柔らかな日差しの中で、舞那が静かに古美術の資料をめくっており、その向こうのソファでは葉が愛用のペンタブを走らせて静寂の結界を纏いながらも、どこか満足げにペンを滑らせている。
蘭原家が遺した美術館の気配も、街の裏側に潜む『虚飾』の影も、この部屋に満ちる穏やかな空気の前では、まるで遠い世界の出来事のようだった。
「さて……そろそろ仕上げに入ろうかしら」
「うわぁ……すごい! 綺麗……!」
紅がハサミを置き、完成間近のドレスをふわりと持ち上げる。その美しさに、神奈が目を輝かせて拍手した。唯一無二の絆で結ばれた二人の日常は、これからも変わることなく、温かく甘やかなメロディを奏で続けていく――。




