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Facltas  作者: カズハ


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2/12

第二話

「高慢とステンドグラスの結界」

某日、京蘭市にて――


 京蘭公立高等学校の放課後。西日の光が窓ガラスを通り抜け、埃の舞う被服室――改め、刈葉紅のプライベートアトリエの床に長い影を落としていた。部屋の隅に置かれたマネキンには、深紅のベロア生地と黒いレースを巧みに組み合わせた、息をのむほど優美なゴシック調のドレスが飾られている。紅はその傍らに立ち、銀色の裁ち鋏でリボンの端を微塵の狂いもなく切り揃えていた。その赤い長髪が揺れ、冷徹なまでの美しさを湛えた赤目が布地を見据えている。

「相変わらず、見事な手仕事ですね。刈葉先輩」

 唐突に、静寂を切り裂くような澄んだ声が響いた。ガチャリ、と音を立てて開いた扉の向こうに立っていたのは、一人の少女だった。金糸を思わせる見事な金髪を縦ロール気味のツインテールに結い上げ、勝気な紫色の瞳をぎらつかせた1年生、蘭原綺羅である。彼女の纏う制服の着こなしは完璧で、微塵の乱れもない。紅は作業の手を止めず、冷ややかな視線を一瞥だけくれた。

「何の用?ここは部外者が勝手に入っていい場所じゃないんだけど」

「ふん、相変わらず愛想のないこと……ですが、口先だけの人間ではないことだけは認めてあげますわ。」

 綺羅はフンと鼻を鳴らし、マネキンに掛けられた深紅のドレスへと歩み寄ると、その裾を指先でツンと摘まんだ。

「……悔しいけれど、デザインも縫製も、文句のつけようがない完璧な出来栄えですわね。ですが、勘違いしないでくださいまし! 私だって、次のデザインコンペではあなたを超えるドレスを作ってみせますのよ!」

 綺羅の瞳には、一方的なライバル心と、隠しきれない本物のリスペクトが入り交じっていた。蘭原家の血を引く彼女にとって、美への執着は誇りそのものだ。紅が作る衣装のクオリティの高さは、彼女のプライドを心地よく、そして激しく刺激していた。紅は小さく息をつき、鋏をテーブルに置いた。

「勝手に競い合って勝手に納得してて。私は私好みの服を作ってるだけだから、あなたの相手をしている暇はないの」

「なっ……!なんですのその冷たい態度は!私を誰だと思っているのですか!蘭原家の次代を担う――」

 綺羅がさらに声を張り上げようとした瞬間、アトリエの空気が異様に重く澱んだ。ガタガタ、と窓ガラスが音を立てて揺らぐ。廊下の向こうから、まるで見えない泥を引きずったような、這いずる音が響いてきた。

「……っ何これ。」

 紅の表情がわずかに引き締まる。直後、被服室の壁を突き破るようにして、歪な影が侵入してきた。それは実体を持たない黒い泥の塊のような姿をしており、無数の腕をうねらせながら、異様な熱と冷気を同時に放っている。

 京蘭市に巣食う異形――虚飾(ファサード)。人間が抱いた過剰な執着や歪んだ自己顕示欲が、この街の霊的磁場によって具現化したバグの具現化だった。その虚飾は、室内に漂う美的な気配、そして綺羅の纏う強烈なプライドの輝きに惹きつけられたように、真っ直ぐに彼女へと触手を伸ばした。

「きゃっ……!?」

 綺羅は息を呑み、反射的に一歩退いた。しかし、恐怖よりも美意識が勝ったのか、彼女はすぐさま気丈に胸を張る。

「わ、私を誰だと思っているのです!あんな醜悪な泥人形、私の美意識の前では塵同然ですわ!」

 彼女が両手を掲げると、その周囲の空気が激しくきらめいた。

「絶対領域顕現(ステラ・プリズム)――!」

 綺羅のプライドと美への執着が物理的な絶対障壁へと変換され、ステンドグラスと黒曜石のような蘭の花弁が組み合わさった幾何学的な多面体結晶のドームが展開する。飛来した虚飾の触手は、その美しい結晶に触れた瞬間、鮮やかに屈折し粉々に砕け散った。

「ふん、見ておなさい!私の結界を破れるなどと思わないことですわ!」

 勝ち誇ったような笑みを浮かべる綺羅。しかし、その油断が致命的な隙を生んだ。砕け散った虚飾の破片が床の埃を巻き上げ、黒い泥の飛沫となって綺羅の足元を直撃したのだ。ピシャリ、と嫌な音がして、彼女の磨き上げられた革靴と、純白のドレスの裾に、どす黒い泥のシミがべっとりと付着した。

「――っ!?」

 綺羅の瞳孔が恐怖で見開かれた。

「わ、私の……私のドレスが……汚れた……?こんな、こんな醜い泥が私に……!?」

 お嬢様としての完璧な美意識と、圧倒的なプライドが音を立てて崩れ去る。想定外の事態に、彼女の精神は一瞬でパニックへと陥った。

 絶対領域顕現(ステラ・プリズム)の強度は、術者の精神的余裕に完全に直結している。パニックを起こし、美の基準が揺らいだ瞬間、周囲を取り囲んでいたステンドグラスの結晶は曇り、ガラス細工のように脆くひび割れていしまった。

「あ……あぁ……!」

 結界が消え去り、むき出しになった綺羅めがけて、虚飾の巨大な触手が牙を剥いて襲いかかる。絶望に染まった綺羅の視界の端で、鮮烈な緋色の閃光が走った。

「――うるさい。気が散る」

冷徹な呟きと共に、紅の左手の甲に走った微小な傷口から、鮮やかな血が噴き出した。

「血刃・朱雀――」

 一瞬で高密度に凝固した血液が、鋭利な刀身を持つサーベルへと変化する。無駄のない最小限のモーションで踏み込んだ紅は、虚飾の触手を一閃のもとに両断した。

「紅先輩……!」

 遅れて被服室の扉を勢いよく開け飛び込んできたのは、青い長髪を揺らす十月神奈だった。彼女の右手には、ふんわりと甘い香りを放つ巨大な綿飴状の障壁が展開されている。

「綺羅ちゃん、危なかったね!綿飴の結界(コットン・ガード)!」

 神奈が展開した障壁が、虚飾が放った次なる衝撃を優しく包み込み、無害な糖の粒子へと分解して無効化する。戦場に不釣り合いな甘い香りが立ち込める中、紅は冷徹に敵の核を見据えていた。

「この怪物は、実体がないわけじゃない。私たちの現実を否定するバグの残滓……だから、ここで終わらせる」

 紅は自らの生命活動を前借りするように、体内の循環を加速させる。

「循環加速――!」

 目にも留まらぬ高速移動で虚飾の懐に潜り込み、紅は血の刀身をその核へと深く突き立てた。

「消えて」

 静かな一言と共に、虚飾の身体が内側から結晶化し、ガラスの砂塵となってパラパラと霧散していく。アトリエの静寂が戻り、甘い香りと鉄の匂いだけが微かに残された。

 数分後。すっかり綺麗に片付けられたアトリエのソファで、綺羅は膝を抱えるようにして座っていた。そのドレスの裾は綺麗に拭き取られているものの、彼女の顔にはまだ赤みが残り、気まずそうに視線を泳がせている。

「……ふん……たす、けてもらったなんて、思っていませんことよ。」

 震える声で精一杯の強がりを口にする綺羅に、紅は淹れたてのハーブティーのカップをコトリと置いた。

「別に、あなたのためじゃない。私の仕事場を汚されたから片付けただけ」

「そうですよ、綺羅ちゃん!はい、これ食べて落ち着いて!」

 神奈がニッコリと微笑みながら、甘い砂糖菓子を綺羅の口元に差し出す。

「むぐっ……!な、なんですか急に……!って、おいしい……じゃありませんこと……。」

 不意を突かれた綺羅は、甘さにわずかに表情を緩め、そして慌ててツインテールを揺らしながらそっぽを向いた。

「……っ。次、次こそは、私があのドレスを超える作品を作って見せますからね!覚悟なさいませ!」

 捨て台詞を残して勢いよく部屋を飛び出していく綺羅の背中を見送りながら、神奈はくすくす笑い、紅はれっきとした呆れ顔を浮かべるのだった。窓の外では、京蘭市の夕暮れが茜色の空を広げ、明日へと続く日常の平穏が静かに息づいていた。


 事件から数日後。

 アパートのマイペース・ルームのリビングには、夕方特有の柔らかな西日が差し込んでいた。窓の外では京蘭市の街並みが少しずつ夜のネオンに色づき始め、穏やかな静けさがアパート全体を包み込んでいる。

 ソファに深く腰掛けた紅は、いつものように冷静な視線を手元のデザイン画に落としていた。赤毛の長髪が肩から滑り落ち、シャープな指先が鉛筆を走らせる。その隣では、神奈がテーブルいっぱいに広げた新作のスイーツの包み紙を眺めながら、満足げに鼻歌を歌っていた。

「ねえねえ、紅ちゃん!この間のお礼にって、綺羅ちゃんからまた新しいハーブティーの茶葉が届いたんだよー。」

神奈が嬉しそうにガラスのティーポットを掲げ、湯気を立てながらカップに注いでいく。

「……あの後輩、相変わらずマメね。」

 紅は手を止めることなく呟いたが、その口元はほんの僅かに、呆れたような、しかしどこか温かい曲線を描いていた。あの日の事件以来、綺羅は相変わらずツンとした態度でアトリエに顔を出すものの、以前のようなトゲトゲしさは薄れ、代わりにどこか気恥ずかしそうな、しかし熱意に満ちた眼差しを向けてくるようになっていた。

 コン、コンと、リビングのドアが軽くノックされる。返事を待たずにガチャリと開いた扉の向こうから、マイペースな足取りで入ってきたのは、ピンクのメッシュが揺れる舞那だった。その腕には古い美術資料の束が抱えられている。

「やっほー。いい匂いがすると思ったら、やっぱりお茶の時間だね。……あ、それ新作のタルト?」

 舞那はトコトコと歩み寄ると、自然な流れで神奈の隣に腰を下ろし、ちゃっかりフォークを伸ばした。

「お姉ちゃん、手洗ったのー?もう、勝手に食べちゃダメって言ってるでしょ!」

「大丈夫、叡智の検索エンジンで衛生面は完璧にスキャン済みだから問題なし」

 涼しい顔でそう言い放つ舞那に、神奈が頬を膨らませて抗議する。そんな姉妹のいつも通りのやり取りを、紅は静かな横顔で見守っていた。そこへ、もう一つの足音が近づいてくる。少し遅れて帰ってきた葉が、アンニュイな表情でリビングに足を踏み入れ、ふうっと小さく息をついた。

「……外、少し冷えるわね。相変わらずここは賑やかで、私の異能をすり抜けてくる騒音源が揃ってること」

 葉はそう言いながらも、紅の向かい側の特等席――お気に入りのソファに自然に身を沈め、神奈が差し出したハーブティーのカップを静かに受け取った。

「お疲れ、葉ちゃん。異能で原稿の締め切りと戦いすぎなのよ」

 舞那がクスリと笑うと、葉は小さく肩をすくめてカップに口をつけた。

「……悪かったわね。でも、静かなアトリエで一人で描くよりは、こういう雑音も……たまには悪くないわ」

 性格も、異能の性質も、生きる世界も少しずつ違う四人の少女たちが、同じ屋根の下でそれぞれのマイペースを保ちながら紡ぐ日常。京蘭市の空に夜のとばりが下りる頃、カップから立ち上る甘い香りと、仲間たちの心地よい話し声がリビングの空気に溶け込んでいく。誰一人無理をせず、ただありのままの自分でいられるこの場所で、彼女たちの愛おしい日々は、明日へと優しく続いていくのだった。






「館長の紅茶と冷徹な庭園」

某日、京蘭市にて――


 午後の陽光が京蘭市の石畳を淡く染め上げる頃、紅たちはその重厚な扉の前に立っていた。近代的なビル群と歴史的な建造物が緩やかに溶け合うこの街において、京蘭美術館はひときわ異質な、しかし息を呑むほど美しい佇まいを見せている。1980年代後半に実業家・蘭原家の私邸を改装して開館したというその建物は、幾重もの時代をくぐり抜けてきた気高さを纏っていた。

「わあ、相変わらず綺麗な建物だねえ。なんだか甘いお菓子の匂いがしそう……しないか、流石に」

 青い長髪を揺らしながら、神奈は隣でふんわりと笑う。彼女のマイペースな呟きに、紅はほんの少しだけ緩みかけた口元を引き締める。制服のブレザーの裾を整え、左手首の微かな痛みに意識を向けた。先日の戦闘で負った傷は、自らの血液を糸のように操る異能、血縫・朱雀によって応急処置済みだが、戦闘の余韻はまだ肌の奥にくすぶっている。

「甘い匂いを期待する場所じゃないわ、神奈。ここは美術品と、それに群がる人間の思惑が詰まった箱庭よ」

「もー、紅ちゃんは相変わらずクールなんだから。」

 紅がドライに言い放つと、神奈は楽しげに目を細めた。紅たちの後ろには、マイペースに文庫本をめくる舞那と、退屈そうに空を見上げる葉の姿があった。

「ふむ。京蘭美術館の建造年代は昭和初期。増改築を繰り返しながらも、基礎部分には明治期の西洋建築技法が用いられている……実に興味深い構造だわ……ねえ、葉」

「……私に話しかけないで、舞那。ただでさえ、この街の澱んだ魔力と人々の執着がうるさくて頭が痛いんだから」

 葉は細い指でペンタブレットの端を軽く叩きながら、冷ややかな視線を周囲に走らせる。彼女の周囲には、他者の干渉を拒絶する絶対領域が微かに展開されており、街の喧騒を綺麗に遮断していた。私たちがここに招かれたのは他でもない。街のあちこちに現れ始めた虚飾の発生源を探るため、そしてその鍵を握る京蘭美術館の現館長・蘭原紫苑からのお茶会の誘いを受けたからだった。

「おや、皆さま揃ってのご到着ですね。ようこそ、我が庭園へ」

 重厚なエントランスの扉が音もなく開き、そこに現れたのは完璧に仕立てられたスリーピーススーツを纏った青年だ。緩やかに波打つ黒髪、深い紫色の瞳。蘭原家の現当主であり美術館の館長――蘭原紫苑。その端正な顔立ちには、一切の隙もない優雅な笑みが張り付いている。

「お兄様!遅いわよ、私がどれだけお迎えの準備で気を揉んだことか!」

 紫苑の背後から、ひょっこりと顔を覗かせたのは綺羅だ。彼女は私を見るなり、ふんと誇らしげに鼻を鳴らす。

「ちょっと紅!相変わらずその赤毛、少しは私のドレスの美学を見習ったらどうなのよ!」

「……相変わらずね、綺羅。あなたのその縦ロール、風で崩れてなくて何よりだわ」

「なっ……!誰が縦ロールよ!これは気高さの象徴よ!」

「綺羅ちゃーん、お疲れ様。これ、さっき駅前で買ったマカロン食べる?」

 綺羅がぷりぷりと怒るのを、神奈がすかさず隙間なく懐に飛び込んでいく。

「ひゃっ……!?な、何よ急に!い、いらないわよ、そんな庶民の甘いお菓子……でも、ちょっと待ちなさい、そのパッケージは……!」

 相変わらずの慌ただしいやり取りを尻目に、紫苑は細い目をさらに細め、優雅に一礼した。

「さあ、冷めないうちにどうぞ。極上の紅茶をご用意しております。私の庭園の奥へ――ようこそ、迷い人たち」

 その声には、どこか底知れない冷徹さと、芸術に対する狂おしいまでの執着が混じっていた。私たちはそれぞれの思いを胸に、静寂に包まれた館内へと足を踏み入れたのだ。

 案内されたのは、一般客の立ち入らない最奥の特別サロンだった。壁一面に飾られた無数の絵画、そして窓の外に広がる手入れの行き届いた中庭。そこには、ガラス細工のように精緻な美しさが満ちていた。

「どうぞ、おかけください」

 紫苑が手ずから淹れてくれた紅茶は、カップから立ち上る湯気さえもが美しく見えるほどだった。私はカップを受け取り、その香りをそっと鼻腔に通す。ダージリンの芳醇な香りの奥に、微かな、しかし鋭利な魔力の気配が潜んでいるのが分かる。

「流石は紫苑館長。この紅茶の淹れ方、茶葉の産地ごとのタンニン抽出時間をミリ単位で計算しているわね」

「おや、舞那さん。流すように見えて、あなたの異能は相変わらず細部まで見逃さない。素晴らしい」

 紫苑は優雅に微笑みながら、自らのカップを口元へと運んだ。

「人間はね、美しくないものに耐えられないのです。歴史も、芸術も、そして人々の感情さえも。歪んだものはすべて庭園によって剪定されなければならない。そう思いませんか?」

 その言葉の裏にある冷徹な思想に、葉がふっと冷ややかな笑みをこぼした。ペン先を指先で弄びながら、彼女は紫苑を真っ直ぐに見据える。

「剪定、ねえ……あなたのその言い分は、要するに自分にとって都合の悪い不純物を排除したいだけの身勝手なロジックに聞こえるけど」

「ちょっと、あなた!お兄様に何て口を利くの!」

 葉の容赦ない正論に、綺羅が声を荒げるが、紫苑は微動だにせず、ただ静かに微笑むだけだった。

「流石はプロのイラストレーター、鋭いですね。ですが、葉さん……現実というキャンバスがあまりにも雑多なノイズに満ちているからこそ、私たちは美を求める……地下のバックヤードをご覧になれば、私の言っている意味がよく分かるはずです」

 紫苑がカップをソーサーに置く音と同時に、室内の空気がぴんと張り詰めた。空間そのものの分子結合が微かに震える。彼の異能――空間内の物質の結合や構造を分子レベルで観察し、自在に再構築・破壊する特異な力が、このサロンの気圧をわずかに歪めていた。

「地下……虚飾の核があるという場所ね。」

 私が血刃をいつでも抜けるよう、右手の指先を微かに遊ばせると、紫苑は優雅にうなずいたえみを見せた。

「ええ。この街の歴史、そして蘭原家が積み上げてきた因果の結晶が、今や歪み、異形を産み出している。それをどう扱うか――それが、今日あなた方をここに招いた真の理由です」

 美術館の地下深くへと続く階段は、まるで別の世界へ通じているかのように冷たかった。重い鉄扉を開けた先にあるバックヤードは、無機質で広大な空間であり、中央にはガラスケースに厳重に封印された一つの石碑のような遺物が鎮座していた。その周囲には、黒くドロドロとした歪な気配――形を持たないはずの虚飾の影が、まるで生き物のようにうごめいている。

「これだわ……!」

 舞那が眼鏡のブリッジを押し上げ、叡智の全景網羅を解放する。彼女の瞳が淡い光を帯び、空間全体の歴史的データと虚飾の構造を次々と脳内で解析していく。

「この遺物は、昭和初期の都市開発の際に蘭原家がこの地に埋め込んだ記憶の依り代……街の人々の芸術への執着や、満たされない承認欲求を吸収し続けることで、バグを引き起こしているわ!」

「その通りです。」

 紫苑が一歩前に進み出る。そのスリーピーススーツの裾が、冷たい風に揺れた。

「この歪んだ核を放置すれば、京蘭市のすべての物理法則が、美の基準という名の狂気によって書き換えられ、街全体が砂塵に還る。だからこそ……ここで、分子レベルから完全に消去する。」

 紫苑の手のひらから、微細なエネルギーの波紋が広がった。彼の異能の技――落花流水。触れたものの分子結合を強制的に引き離し、一瞬で砂塵へと還す圧倒的な破壊の力が、地下空間の空気を震わせる。

「待って、紫苑!」

 私が声を張り上げた瞬間、紫苑の手から放たれたエネルギーの刃が、地下の核へとまっすぐに突き進んだ。しかし、その軌道は途中でぴたりと止まった。

「――そこまでよ、館長さん。」

 冷徹な声とともに、空間の空気が一瞬で凍りついた。葉がペン先を虚空に向けて滑らせ、その軌跡に群銀色のインクを走らせていた。彼女の異能が、紫苑の放った破壊のプロセスのバグを正確に突き止めたのだ。

「あなたの落花流水の理屈は完璧よ……けれど、この核をただ分子レベルで破壊すれば、蓄積された膨大な因果のエネルギーが連鎖反応を起こして、この美術館どころか大学もショッピングモールも全部吹き飛ぶ。そんな論理の破綻した消去法、私が許さない」

 葉の冷ややかな指摘に、紫苑の眉がわずかにぴくりと動いた。

「ほほう……私の庭園の構築を、論理の隙間で相殺するというのですね。」

「それだけじゃないよ!」

 神奈が前に躍り出て、両手をふんわりと広げた。彼女の周囲に展開されたのは、巨大な綿飴状の障壁、綿飴の結界(コットン・ガード)だ。

「どんなに冷たくて固い理屈でも、甘い優しさで包み込んでしまえば、ほら、こんな風に丸くなっちゃうんだから!」

神奈の異能が、紫苑の放つ殺伐としたエネルギーのトゲトゲしさを、ふんわりとした糖の粒子へと優しく変換していく。戦場に似合わない、甘い香りが地下室いっぱいに広がった。

「なっ……私の結晶結界が、甘い香りに……!?ふ、ふざけないでよ!」

 綺羅が慌てて自分の絶対領域顕現(ステラプリズム)を展開しようとするが、神奈の放つ夢見心地の怠惰の波動のせいで、周囲の緊張感が一気にゆるふわな空気に包まれていく。

「みんな……!」

 私はその隙を逃さなかった。傷口から噴き出した血液を一瞬で高密度に凝固させ、手元に血刃・朱雀を顕現させる。冷徹に、無駄のない最小限のモーション。私は紫苑の足元へと一気に踏み込み、その刃の平を彼の喉元ではなく、その背後にある虚飾の核のわずかな継ぎ目へと正確に叩きつけた。

「血縫・朱雀……そして、血流過怠!」

 生命活動を限界まで引き上げるバフ技を自己にかけ、私の体温と神経伝達速度が極限まで加速する。ただ壊すのではなく、ただ拒絶するのではなく――私たちの持つすべての異能の理を噛み合わせ、この歪んだ核の定義そのものを縫い直す。

 裁縫のように、細やかな血の糸を核の分子の隙間に這わせ、葉の論理で固定し、神奈の甘みでその狂気を優しく中和し、舞那の叡智で過去の記憶を正しい歴史へと書き換える。

「……見事ですね。」

 紫苑は、自身の技が阻まれたにもかかわらず、どこか嬉しそうな、心からの感嘆を含んだ笑みを浮かべていた。彼の足元で、暴走しかけていた虚飾の核が、まるでほどけた毛糸玉のように優しくほどけ、パステルカラーの光の粒子となって消えていく。地下室の重苦しい澱みは綺麗に消え去り、そこにはただ、静かで澄んだ空気が戻ってきた。

 数日後。事件の解決を祝して、私たちは街の片隅にあるお洒落なカフェレストラン、ガーデン・ケイラのテラス席に集まっていた。色とりどりの食用花があしらわれた特製のパンケーキと、香り高いハーブティーがテーブルの上を華やかに彩っている。

「いやあ、あの時はどうなることかと思ったけど、みんなで力を合わせたらすごく綺麗に片付いたねえ!」

 神奈がフォークでパンケーキを一口サイズに切り分け、幸せそうに頬張る。

「むぐっ……んー!美味しいっ!」

「ちょっと神奈、口にクリームがついているわよ。本当にお前は……」

 綺羅がやれやれといった表情でハンカチを差し出しながらも、その口元はどこか嬉しそうに緩んでいた。彼女は先日の一件以来、紅や神奈に対して敵意というよりも、どこか照れくさそうなライバル心を抱くようになっていた。隣の席では、舞那が歴史書を片手に紅茶を飲み、葉はその横でタブレットに新しいイラストのラフを描き進めている。

「ねえ、葉。この構図の線の入り方、先日の紫苑の庭園の分子構造に似ていないか?」

「……言わないで、舞那。あの男の美的センスは厄介だけど、絵のモチーフとしては確かに悪くなかったわよ……ほんの少しだけね」

 私はそんな穏やかな光景を、少し離れた席から静かに眺めていた。冷たい人と誤解されがちで、いつも一歩引いた距離感を保つのが私のスタイル――のはずだった。なのに、どうしてだろう。

「はい、紅ちゃん。あーんして!」

「……っ、神奈、いきなり何をするのよ。恥ずかしいからやめなさい」

「いいじゃない!美味しいものはみんなで分かち合わなくちゃ!」

 神奈が差し出してきたフォークの上のイチゴを、私は渋々といった顔をしながらも口に運んだ。甘酸っぱさが口いっぱいに広がり、胸の奥がふわりと温かくなる。

 ふと視線を上げると、カフェの入り口の向こう側で、仕立ての良いスーツを着た紫苑と、その妹の綺羅がこちらに軽く会釈をして通り過ぎていくのが見えた。紫苑の優雅な微笑みには、以前のような冷徹さだけでなく、どこか人間らしい温もりのようなものが宿っていた気がした。


 事件から数ヶ月が過ぎ、京蘭市にはすっかり穏やかな季節が訪れていた。初夏の柔らかな日差しが街路樹の葉を揺らし、心地よい風が京蘭市中央公園の芝生を駆け抜けていく。いつものように近代的なビル群と歴史的な建造物が美しく調和するこの街で、私たちの日常は変わらず、そして以前よりも少しだけ温かく続いていた。

「ねえ、紅ちゃん!こっちこっち!すごく綺麗な花が咲いてるよ!」

 青い長髪を軽やかに揺らしながら、神奈が振り返って手招きをする。その手には、お気に入りのスイーツ店で買ったばかりの新作クレープが握られていた。私は少し歩幅を合わせながら、彼女の隣へと歩み寄る。

「あまり走り回らないの、神奈。服が汚れたら、また直すのが面倒くさいでしょう」

「もー、紅ちゃんは相変わらずお母さんみたいなこと言うんだから。ほら、あーんしてあげる!」

「っ……!いらないって言ってるでしょ、そんな子供扱い……。」

 抵抗する私をよそに、神奈は満面の笑みで甘いクレープの欠片を私の口元に押し付けてくる。仕方がなくそれを一口噛み締めると、口いっぱいに上品な甘さが広がり、抗議の言葉は自然と消えていった。

 遠くのベンチでは、舞那が分厚い古文書を広げて熱心にページをめくり、その隣で葉がペンタブレットを走らせながら「……うるさい、もう少し静かに歩きなさいよ、馬鹿者たちが」といつもの毒舌をこぼしている。でも、その口元に浮かぶ笑みはどこか楽しげだった。

 私たちがこうして平穏な休日を過ごしている背景には、あの美術館での一件以来、紫苑や綺羅たち蘭原家とも程よい距離感での交流が生まれたことも関係していた。あの日、虚飾の核を共に乗り越えたことで、私たちが背負う異能の重みや痛みは、決して一人だけの孤独なものではなくなったのだ。

「……ねえ、紅」

 ふと、少し離れた歩道の方から、気高くて聞き覚えのある声が聞こえてきた。振り返ると、そこに立っていたのは金髪のツインテールを誇らしげに揺らす蘭原綺羅だった。彼女は相変わらず仕立ての良いフリルたっぷりのドレスに身を包み、腕を組んでツンとした表情を浮かべている。

「なによ綺羅。また私の衣装のデザインに文句でもつけにきたの?」

「っ、失礼ね!今日は文句じゃないわよ!」

 綺羅はふんっと鼻を鳴らしつつ、手に持っていた上品な包みを私の差し出した。

「……こ、これは、お兄様が特製の紅茶を取り寄せたから、そのお裾分けよ。別に、あなたたちと仲良くしたいわけじゃないんだからね!たまたま、余ったから持ってきてあげただけよ!」

「わあ、綺羅ちゃんありがとう!一緒に食べよーよ!」

「ひゃっ!?だから急に抱きつかないでって言ってるでしょ! もう、服が崩れるじゃない!」

 ツンデレを絵に描いたようなセリフに、神奈がすかさず懐に飛び込む。綺羅は相変わらず大慌てで顔を真っ赤に染めていた。その様子を横目に、私はふっと小さく息をつく。孤高を好み、誰とも群れず、ただ自分のアトリエで一人針を動かしていればいいと思っていたあの頃の私。けれど、この冷たくて温かい京蘭市で、私の血よりも熱く、そして甘やかな絆が、いつの間にか私の世界をこんなにも鮮やかに染め上げていた。

「……悪くないわね。」

 私は小さく呟き、左手首の傷跡をそっと撫でた。そこにもう痛みはない。あるのは、仲間たちと紡ぎ上げた確かな温度だけだった。

「ほら、紅ちゃん!みんな待ってるよ!」

「……分かったわ。今行くから、そんなに急かさないの」

 私は赤色の長髪を靡かせ、かけがえのない笑顔を浮かべる仲間たちのほうへと歩き出す。愛しさが募るこの日常の中で、私たちの物語は、これからも優しく、鮮やかに仕立てられていく――。

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